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平城京の太極殿・朝堂院
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中央の大極殿は、外国からの使節を迎えたり、即位の儀式や朝賀といった公のイベントスペースです。 その東側にある大極殿は、遷都の詔からわずか1年半ほどで、実際のお引越しが始まってしまったため、上記の中央の大極殿の建設が間に合わず、まずは、先に内裏の南側に実務をこなすための仮の施設として建設したのが、この東側の大極殿であろうと言われています。 朝堂院は、いわゆる役人の仕事場で、その南にあった朝集殿院は、出勤してきた役人が着替えたり、仕事の準備をしたりするロッカールームだったと言われています。 ただ、朝堂院や内裏の周囲を取り囲むように建ってた二官八省と呼ばれた役所の建物は、どれも、少なくとも3回以上建てなおされた形跡があるところから、当時は頻繁に組織改革が行われていたと見られ、大極殿や朝堂院も、その都度、少しは違う用途に使用されていたかも知れません。 東の朝堂院は、唐招提寺へと移築され、現在も講堂として現役活躍中なので、「唐招提寺・講堂」という方面から調べてみても、何か新しい発見があるかもです。
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