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(仏教) 経典と教団の権威の裏付け法は?

medetashiの回答

回答No.11

公同(カトリック)とは、全時代の全人類が生きるべき規範とされ、正当性の根拠は「主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし」(出エジプト記20.5)という排他的な神の命令に求められるように見えます。この考え方がワーバートン司教の「正統は私の意見であり、異端は他人の意見だ」に繋がるのでしょう。 公同は近代でも普遍妥当性やコミンテルンなどという名前の基に思想を再現しているように見えます。質問もです。 一方、仏教の考え方は縁起という一語に集約できるように思えます。これは「〈依存性〉は, 実体と実体とのあいだでは決して成立せず, 実体のないもののあいだにのみ成立する原理として捉えられる。これこそが, 道徳や宗教を成り立たせる真理でもある」( 生井智紹『輪廻の論証』)ということです。 全ては〈依存性〉によって知覚・認識されるだけであるから、釈尊はご自身が体得したことを求めに応じて教えるのであって、命令するのではありません。教えも相手に依存し、相手の理解に応じて様々な段階・様々な説き方をされます。相手が理解しなければ沈黙します。 これは釈尊を慕って修行しているが目の前の釈尊を釈尊と知らずに対等な態度で臨む修行者に自分こそが釈尊と明かさずに教えを説いたこと(MN140)や僧団に分裂騒動が起きた時もどういう罪なのかと説いて諫め自覚を促すだけだったこと(律『大品』コーサンビー事)釈尊の部族が滅ぼされる時や、子供を失うなどして狂乱して救いを求める者にも、教えによって自覚を促したことにも繋がります。このことは釈尊の教えが命令でなく忠告であることを示しているように思われます。 以上は前提となるキリスト教と仏教の性格の違いです。 もちろん、仏教にも普遍妥当性に相当する縁起の理法や空・無我・無常などがあることはいうまでもありません。 以上の基本的相違点を前提として以下の問いにお答えしたいと思います。 >>・「如是我聞」などという言わば伝聞だが噂話だかを集めた経典の記述内容を信じてよいのか、 自分次第です。信じられればやってみればいいし、信じられなければやらなければいいだけです。 これも縁起です。各自の様々な過去の経験や習慣、縁によってどう縁起するかは、それぞれです。 ただし、仏法は本来、教えを実践して悟った聖者によって伝えられてきたものです。 つまり、教えを自分で修行することによって検証し悟りなどという結果を出すことで実証してきたものです。 聖者によって伝承されてきた教えなら信用できると私は考えます。 逆に聖者でないものが形だけ伝承してきた教えは、もはや仏教として信用できないものと考えます。 これとは別にインド仏教では正当性の基準や釈尊が一切智である論証がたくさん作られました。 URL始めを読めばその一端が分かると思います。 >>・ 僧侶は人間にしか過ぎない。教団や上位の僧侶の判断には誤謬も多いのではないか、 経典では僧団(サンガ)を次のように言っています。 仏の弟子サンガは、妙行をそなえ、質実行をそなえ、如理行をそなえ、正行をそなえている。 すなわちそれは四双八輩である。 四双八輩というのは悟った聖者で、解脱者やそれに準ずる方をいいます。 つまり、僧団は聖者のみを指す言葉なのです。もちろん、釈尊の時代から非聖者も僧団に多かったのです。 上に述べたように聖者によって伝えられてきたものです。 これが聖者でないものが伝承して来たらどうなるでしょう。教えは異なるものに解釈されます。 悟ってない、体験してないからです。酷い場合は、自分の都合に合わせて解釈します。 これでは教えは伝わらず、言葉だけが残ります。 この本物と偽物をどう見分けるかも縁起にかかっているように思います。 普遍妥当性を持った判断基準はないように思います。 以上、不十分ですが、『箭毛経』やURL二番目の『梵網経』などで補ってくださると理解が深まると思います。

参考URL:
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006996863, http://www.kokon.asia/religions/buddism/62ken_01.html
sono-higurashi
質問者

お礼

補足欄に続いて以下を追加します。補足欄に記した何日か後に書き足しています。 その後、さらに次の資料に出合いました。経典絶対化の第2の考え方です。 筑摩書房 世界古典文学全集 月報 (6) 昭和56年9月第6巻附録所収 高橋直道著 「如是我聞」 ~、お経は「如是我聞」――このように私はきいておりますーーではじまり、「歓喜奉行」――きくものみな、この教えを喜んでうけ入れ、その旨を実践しましたーーで終わることになっている。お経は「仏説」で著作者はブッダであるが、それは口述筆記で文責は記者(聞者)にあるというのが、「如是我聞」の意味するところ。だから、たとえ多少矛盾があっても、おしゃかさまはご存じないこと、とはいっても、聞者の名は書いてないから、結局、責任の所在は不明ということになるであろうか。しかし、おしゃかさまがうそをおっしゃるはずはないから、くいちがいは対機説法の結果であるということに落ちついてしまったようである。とにかく、昔から仏教徒はすべてこれ仏説と信じ、疑うことなく奉行してきたわけである。 ~ この高橋説により「如是我聞」とは言っても単なる「伝聞や噂話ではなく、釈尊からの直々の聞き書き」と解釈し、これが経典絶対視の一つの理論であることが判りました。 このご回答はNo.2と並んで経典を絶対視している点では渡辺説、高橋説と同方向にあります。しかし、その理論的裏付けとしての根拠は説得力に欠けるというのが素直な感想です(ましてやmedetashiさんは専門家を自認して居られることでもありますし)。ポイントは律『大品』、『箭毛経』、『梵網経』が私にとって初耳で、新しい知識を授けてくださったことに対するものです。 お世話になりました。

sono-higurashi
質問者

補足

返信の要求はありません。字数制限によりお礼欄には記せないので、こちらを拝借します。 初めに、ご回答の一部と、その後に私が出合った資料の組み合わせによって、只今現在の私流の納得の仕方を記してお礼とします。  1 その後、次の資料に出合いました。 河出書房 世界の大思想 II・2 の巻末の解説記事 渡辺照宏記 ~。 経典はむろん誰かが作製したに違いないが、その作者は決して姿を現さない。どんな経典でも必ず仏陀の真説を忠実に記述することを標榜する。どのように超自然な場面を描写するときでも、創作とは決して言わない。 “律”にしても同じであって、仏陀以外の作者はいないことになっている。 それに対して”論”には作者の名が記してある。~ 此処には「どんな経典でも必ず仏陀の真説を忠実に記述することを標榜する。」とあります。渡辺説からは「仏教を信仰する時点で仏陀が絶対の存在となり、よってまた経典が絶対となる」ことが窺えます。経典は絶対であって、これへの疑いは封じるのが当然なのだと思います。多分、これは全ての宗教に共通しているのだと推測します。 渡辺説には「経典が何故に仏陀の真説であるといえるのか」の記載がありません。何故かが証明それているが氏が記さなかっただけなのか、証明されていないから記さなかっただけなのかは判りません。仮に証明されていないのだとすると、聖霊と三位一体説によって聖書を絶対視化できるキリスト教の方が論理の緻密さに於いて優れていることになりそうです。しかし、矢鱈なことは言えませんが、過去に頂いた回答へのお礼を記す必要から維摩経だの法華経だのを拾い読みした印象から言うと、どうも「仏」は何処へでも何度でも現れ得るようです。だとすれば「実は仏陀が現れて経典を記した」、こういう見解で統一したらどうでしょう。これだと仏陀を信ずる者は自動的に経典も信ぜざるを得なくなり、経典への疑問を完璧に封じられます。「仏」が何時でも何処へでも現れ得るとすれば、これがキリスト教でいう聖霊の機能に該当しているのだと思います。作者が知られていないが権威をもたせたい経典は仏陀が現れて記したことにしておいても矛盾がないのだと思います。 三位一体が非キリスト教徒に通用しないのと同様に、上述の論理が非仏教徒に通用しないのは当たり前で已むを得ません。余談ですが私自身は昭和の子、科学の子ですから神仏の存在は信じていません。人間に軽い関心があるだけです。 2 >>経典では僧団(サンガ)を次のように言っています。 仏の弟子サンガは、妙行をそなえ、質実行をそなえ、如理行をそなえ、正行をそなえている。 すなわちそれは四双八輩である。<< こういう事実があるのであれば、経典を1によって絶対化した後は教団への疑問は自動的に封じられます。何故なら「経典は仏陀が記し、その経典に僧団は四双八輩である」とあるのですから。 1によって経典への疑問も教団への疑問も封じられます。但し、これは本日現在の私流の理論です。 以下、ご回答への直接のお礼または関連した話題です。 3 ワーバートン司教は今のところ、書籍類に名前を発見できていません。三位一体説登場以前であれば出エジプト記20.5も根拠となるのかもしれません。しかし、三位一体の威力には到底及ばないと思います。 4 MNとは中部経典のことかと思いますが、私の生活環境では経文を手にすることができないかもしれません。今のところの見通しでは中部経典の一部の解説記事を目にするのが精一杯かもしれません。 5 律蔵「大品」、箭毛経、梵網経なども私の生活環境では経文を手にすることができないかもしれません。昨日の調べでは律蔵「大品」の一部の解説記事を目にするのが精一杯かもしれません。しかし、重要な手がかりを与えて頂いたという意味でとても有り難いです。これらの経典は頭の隅に置いておきます。 6 岩田 孝氏の「世尊は如何にして公準となったのか」は、ざっと読んでおきました。読み間違いがなければ今回の主要な質問である「経典の権威付け」にまでは話が及んでいるようには思えませんでした。非仏教徒を意識した「世尊絶対化の理論」らしいと読みました。 信徒から出る経典への疑問、教団への疑問を封じる理論があるのであれば「畜生っ!」、「餓鬼っ!」、「外道っ!」、「亡者っ!」、「地獄へ堕ちろっ!」、こういうエゲツナイ言葉を吐く必要はなく、何々を学びなさいと静に諭せる理屈です。こういうエゲツナイ言葉を吐くのは、つまりは理論をもっていない証左なのだと思いました。 有り難うございました。

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