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本能寺の変について。

織田信長を殺した黒幕は、豊臣秀吉であった・・・という説は本当でしょうか? ご存知の方教えてください。

  • 歴史
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みんなの回答

  • kimari14
  • ベストアンサー率17% (50/288)
回答No.9

再度です 本城さんが後に調書を取られたんですが 亀岡を出るときまず家康さんを遣るってから備中へゆくといわれましたと述べています 信長さんがおるとは夢にも思わなかったそうです  秀満や利三といった明智の幹部たちといっしに 京にはいっています 夜といっても別にそれほどバタバタしていないみたいです 今と違って京都は密集しておりませんし新撰組の頃とはちがいますわね 本能寺の前には京都所司代の村井さんがおりますしね 別に襲われたわけではなく 村井さんが気がついて 本能寺には入れそうもなく (つまり村井さんもなぜ明智の軍がいるのかわからないし 信長からなにも聞いていない) 二条城へと明智の軍とごっちゃになりながら向かっていったようです 本能寺を囲んでから すぐに討ち入ったわけではなく 取り囲んでからですので わりあいのんびりしていますね 急遽 信長は観兵式かなんか朝やるつもり(朝廷への恫喝 天皇の退位) で呼んでいたのではないでしょうかね 秀満も本能寺にいってみたら ぜんぜんがらがら直属の兵 親衛隊もいない 不意に なんかチャンスを覚えたのではないか  ところがなぜか光秀の所在がわからない 状況報告とチャンスじゃないかという確認をとるため その決済のための時間がかかったのではとおもいます 計画もなにもないでしょ 後日の光秀の対応みていたらね 家康は光秀朝廷の間にそれぞれその関係がわからない力を介在させ 仕組んだという方がまだね 伊賀超えは後日の作り物 秀吉さんね もう小説や歴史読み物の世界で説とかなんとかじゃなくてね すごい文献がでてこないがぎり ごった煮の独占場  

noname#115647
noname#115647
回答No.8

No.6ですが、その前にまず訂正を。 ×松永秀久。 ○松永久秀。 後世の人は、やれ黒幕だの陰謀だの面白がるが、実際にはそういう事は必ずと言っていいほど漏洩しやすいものなのです。 信長とて馬鹿ではないのだから、間諜など張り巡らし、公家あたりの情報はほぼつかんでいます。 公卿どもを相手に密謀したところで、今日中か明日には信長の耳に入ってしまいます。 バレたら一巻の終わりですね。織田家中でも1、2を争う実力者であった秀吉がそういう馬鹿な陰謀をするわけがありません。 前述した計画も陰謀には違いありませんが、彼は一人それを胸の裡に秘めています。いざという時に初めて家臣に明かすでしょう。 彼は実力でもって政権を奪い取るでしょうね。ある意味では正攻法です。 頭の良い光秀は強力なライバルですから、共謀することも、そそのかしたりする事もありえないでしょう。そういう事をすればたちまち見抜かれ、足元をすくわれてしまいます。 秀吉は最後に安土城に赴き、信長の出馬を要請します。 これは自分で事を成し遂げてしまうと、あまりにも功が大き過ぎ後難を心配したものだと言われますが、そうではありません。 秀吉は自分のピークは中国攻めあたりで、それが済むと落ち目になり遅からず追放等、排斥されてしまう事がわかっていました。(光秀も同様です。) 人のミスなどは、後からどうにでもあげつらう事はできます。 その後の戦は圧倒的な兵力差で、凡庸な者が指揮を執ってもどうにでもなるでしょう。 信長への出馬要請は、巧妙なおびき出し計画だったのです。 信長に安土城に居ずわられて戦うよりは、備前あたりまでおびき出しておいて、東からは姫路城残存部隊、北あたりからは宇喜多部隊、西からは秀吉軍と包囲殲滅した方がより確実に討ち取れます。(南は海。) まあ謂わば、だまし討ちですね。しかしこれも戦国の世の中では、正攻法と言えるでしょう。 もし本能寺の変がなければ、信長の生涯は岡山市郊外あたりで終わったかもしれませんね。 むろん秀吉はその後も、敵対する織田家中とは戦う必要があります。 かなり腹黒い秀吉になりましたが、そうでもなければ欲望渦巻く天下など取れなかったでしょう。 安易に太閤記や伝記など信じるべきではありませんね。

  • kimari14
  • ベストアンサー率17% (50/288)
回答No.7

そうですとも いいえともいえませんね そのことはおわかりのことだとおもいます 戦国の風情は365日24時間なんでもありでしたでしょうから やられた方もやった方も同一条件同一状況 検証のすべさえ わずかの手がかりしかありません 各回答者さんの回答もそうかもしれませんしそうでないかもしれませんいかにムリのない筋立てをかんがえても そのつじつまは静かに笑っているでしょう " 説 "という代物は説ではなく フィクションですかね 時の天皇に退位を迫り 親王をたて自分の子供を嫁に。。。 そして子を産ませ 傀儡とする そういった治政プランは 信長以前の歴史上にもあったことです はじめてのことではありません 天皇という権威を皇帝という代物に変化しようとしていたのかどうかは信長に聞くしかなく 傀儡とすることには 朝廷の者にも理解の範囲でしたでしょうし 子が生まれてもちゃんと育つかどうかもわかりませんから いろいろ挽回の対処も考えられるわけで 辛抱は朝廷の処世術のひとつ想定していたと考えるべきかなあとおもいます ですから 今の人がおもうほど 誰かをそそのかしたり、直接信長を遣るほど深刻だったとはわたしはおもえませんがね    誰が首謀しようと 信長の行動ひとつひとつ緻密に調べ上げ 信長配下(親衛隊の存在)の運動を測り、いつでもどんなときでも間違いなく確実にやれるという確認がないかぎり  できる相手ではないですからね  ただ単に わずかの人数で本能寺にいるという情報だけでは やれないものですよね 情報はできるだけ近くでないととれませんよね  さきほどいいましたように365日24時間謀反は常識という世情では 情報の取得や操作そのものの動きで察知されるものです  今と違って 本願寺との戦いのなか 毛利に従属する各水軍らは 信長の 鉄軍船にどぎもをぬかれ 敗戦し 生き残りのために 秀吉の軍門に下ってその配下になり  そして毛利と敵対する動きの倍加は 毛利側の腰砕けを呼んで 毛利本国さえ海からの反撃のため一日も早く有利に和議を結び 撤退するべしだったと考えられる状況がある そんな向こう側の手の内を秀吉には完全に見切って余裕があった  それが  中国オオ返しに結びついく ことにおいてすべての判断が速く正確におこなわれたということでしょう  光秀が知らないうちに光秀配下の亀岡の軍団をそそのかして ことにおよんだといっても その軍団の直接指揮は弟秀満であり 家老の斉藤であれば この二人と秀吉ができていなければならない     ただ秀吉がその事の始末のをしらせる手紙を前に 反転してすぐさま弔い合戦するべしと行動したその決断の速さは 常人にはできないでしょうね ふつう事前に知っていたとしても できませんもの この戦国の風情にもっとも似合う3人が信長であり秀吉、家康だったんでしょうか      

noname#115647
noname#115647
回答No.6

黒幕が秀吉という事はないが、秀吉が信長殺しを計画していたのは事実である。 直接的な原因は、信長による佐久間信盛とその子の追放である。 折檻状によれば役立たずということになろうが、信盛は古くからの重臣でありまた功臣でもあった。この事は諸将に衝撃を与えた。 追放といえば領地や土地家屋財産一切を没収され、文字どうり着の身着のまま放り出されることで、なんとも惨めではある。 特に外様である秀吉と光秀には深刻な問題であった。「佐久間殿のような方でも追放に合うとは、ましてや吹けば飛ぶような我が身なれば・・」、そういう思いであったろう。 跡継ぎのことも考えねばならぬが、しかし我が子どもがそろいもそろって凡庸か馬鹿息子である。そのことが有能な家臣にとって代わられることは、戦国時代に生きた信長にはよくわかっていた。 役に立ちすぎても罪、役立たずでも罪、頭の良い秀吉や光秀には百も承知ではあったし、最大の悩み事でもあったろう。しょせん使い捨てである。 最近の信長は自分の分身に巨石などを拝ませる、唯我独尊で人を人とも思わず、自分が万能の神のごとき振舞う、家臣が自分の功を吹聴するような事が少しでもあれば、たちまち激怒である。 もはやついてはいけぬ、なにも謀反は光秀が最初ではない、松永秀久や別所長冶や荒木村重も謀反すれば自分のみならず、家族一族ことごとく抹殺されるのはわかっていたのに立ち上がった。 当初秀吉はこう考えた。 「自分は中国方面軍司令官である。織田家にとって毛利は今最大の敵である。 十分な勝算なしと報告してどんどん援軍を頼もう。援軍が自分の傘下に入りさえすれば、もう自分の軍隊である。 数のメドが立ったところで毛利とは勝手に外交交渉しよう。自分には自信がある。あわよくば毛利からも加勢してくれるやもしれぬ。自分の軍隊は数万にはなるだろう。これで居城姫路城を拠点として西から迅速に攻め上ろう。柴田も滝川も易々とは動けぬはずだ。 大義名分が必要だが、毛利の庇護で備後の鞆にいる将軍義昭を使おう。あれを御輿に担いで、将軍追放の罪により、とかすれば名分はたつ。 幸い俺は公卿どもには評判が良い。禁裏へのとりなしも上手くやってくれるだろう。しょせん金と力には弱い連中よ。」 同じく頭の良い光秀には秀吉の考えていることなど分かっていた。 光秀にもそういう考えはあったのである。保身と自身の栄誉のために。 ただ自分には十分なチャンスが得られる立場になかった。 とどのつまりは、信長による秀吉軍への援軍命令である。 これでプライドの高い光秀はキレた。 「おのれ、秀吉ごときの風下に立たされるぐらいならば、ワシがやってやるわい。 ワシとて公家には評判は高い。織田家でワシほどの立ち振る舞いができる者は他にはおるまい。いざとなれば細川や筒井もワシに味方してくれるに違いない、そうすれば十分戦える。幸い主力軍は全て出払っておる、すぐには動けまい、これは一生に一度のチャンスだ。」 しかし大義名分もなく、ただ単に「主殺し」の短慮であった。 本能寺の変を聞いた秀吉は。 「光秀め早まりおったか、馬鹿なやつよの。しかしこれで主人の仇討ちという立派な大義名分ができたわい、計画変更じゃ。」 後は歴史の示す通り。

hh0703
質問者

お礼

沢山の方々より、色んな説を頂き有難うございました。 お一人お一人のご意見や、それぞれの説にのめり込み拝見させていただきました。 どなたの説が正しいのかの判断はし兼ねますが、大変勉強になり有難うございました。

  • w-icp
  • ベストアンサー率39% (203/516)
回答No.5

織田信長を殺した黒幕は、織田信長であったと言う究極の説もありますね。 正確に言うと織田信長本人が本能寺にいる織田信長影武者を一番信頼できる部下の光秀、秀吉を使って殺害するシナリオを計画、それを光秀、秀吉が忠実に実行したという訳ですね。 ですのでもちろん織田信長の死体は出ません。影武者は信長役をやめてとっくに脱出したでしょう。光秀は本能寺後の山崎で手はずどおり秀吉に破れたふりをして、密かに寺へ入山そこで先に入山していた信長と合流したとか。 その寺とは尾張と三河の境にある古い山寺で、手配と厳重な保護をしたのが家康、その寺で信長は亡くなり光秀はその後に天海僧正になったという。

  • tra55
  • ベストアンサー率10% (5/48)
回答No.4

織田信長は、家臣がヘマをしたか自分の機嫌を 損ねさせた家来を オシオキするさい、じかに 仕置きをするのではなく、部署変えをして 敵がワンサカいるヤバイ陣へ陣変えすることが よくあり、これによって自分が手を汚さず 敵がヘマした家来を処分するカッコウのことが よくあった、有名なのは樫田という琵琶湖の 要衝が一向一揆と浅井の手に落ちたとき 誰かをそこへやって奪回せねばならなかったが 兵力がない、そこを少数で奪回できても、すぐに 敵の重包囲にあって全滅必至の自殺行為作戦だが これをやることで織田の戦意が格段に上がるので 誰かがカミカゼをしなければならず、その特攻は 当時、信長の興を損じて左遷の山口という侍が やって玉砕したそうです。 また、本願寺包囲戦のとき織田の家中の 大和を信長から賜るほど優遇されていた原田直政が 突然、部署変えを言い渡され敵が充満している 先陣に回され原田の隊は本願寺の逆襲にあって 全滅、原田直政も討たれました。 突然、信長から配置変えを命じられた 侍は、たいていヤラれているので光秀は 羽柴の支援を命じられたが、毛利攻めでは ヤバイところを受け持たされて自滅させられるだろうと 思ってヤラれる前にヤッテやれという気が起きたのかも

noname#87391
noname#87391
回答No.3

何かの雑誌 小説 推理物なんかには この本能寺の変についてはいろいろ書かれていますよね あとから見れば 光秀さんはなんで地位も名誉もかなぐり捨てて 火中に栗を拾ったの   ということになりますもので   やっぱりなんか変ということで 後世をにぎ沸かすんですね  1, 光秀単独説  2, 光秀と共謀 朝廷黒幕説  (桐野氏は始めこの説でしたが 光秀単独説に変えられたようです)  3, 黒幕説のひとつに 秀吉関与か 直接黒幕説  4, その他 家康黒幕説  5, 宣教師説  とか ご存知でしょ 時代はまあ戦国の真ん中 下克上ですので 長い期間では 怠惰や 短い時間では 隙を 見せれば危険ですよね 時代が織田の力に集約されていくという感覚は織田軍団の武将はみんな抱いていたでしょうが それでも光秀の謀反ということだけじゃなく なんでもあるという戦国の風情はまだその先を鮮明にしていなかったのでしょう だいたい若いころから信長は こういうパワーの薄い状態の中によくいましたから 浅井朝倉本願寺武田を屈服させて安心していたわけではないとおもいます 昔 信長の弟の中に喜六郎という者がおりましたが 守山の守将だった者に近くの川で矢で射殺されましたが 殺したほうを責めず 殺された弟を非難しています 理由は わしの弟たるものが友も付けずウロウロするからということです 自分も散々家来の心配を無視して 遠駆けなんどもしています また 西三河国境紛争戦(桶狭間合戦)のときも 熱田まで数騎で駆けています時速8Kmぐらいのスピードで(当時の馬はこんなもの) いくら自国とはいえですよ 戦争状態なのにね 夜半に (まあこれは 直属の馬廻り兵が先に熱田へ行くように指示されていたようで) といったように確かに京は力の空白状態で 討ち取るならジャストチャンスでしょうね  討ち取りたいが その後どうする という一点で ほとんどみな目が覚める(笑) よほどの恨み そしてその恨みが長く持続しつつ何乗にも倍加するほどの恨み もちろん大いなる利の不具合 を蒙る団体さんたちは 死んでくれとおもうでしょう いろいろの説をここでは書けませんので 秀吉だけにしておきます ご存知とおり備中におりまして 毛利と対峙しておりました 秀吉が信長殺しを疑われたのは ひとつは あまりに早く帰ってきたからですね お前段取り良すぎるやん 知ってたんと違う 普通毛利怒って缶詰やで ということですね  当時瀬戸内海 日本海の制海権は 秀吉の側に優勢でした 毛利に従属する水軍が秀吉に寝返えっておりまして 海より毛利の後方または本地を攻撃されるおそれがありまして 毛利方としては 早く 信長が来る前に和議しておきたいという 状況でした (信長が来てしまってからでは 和議は許されないので一方的に押されて家は消滅するしかない) 備中から畿内までは織田の制圧管内ですし 何度も安土まで行き来しておりますし 秀吉という人は 「いざ鎌倉」という 準備にソツのない人ですので 道々ちゃんといろいろの物の備蓄は完備してあります おお返しの道中備蓄準備の良さもさることながら 事において優先順位のつけかたがすばらしい人だったとゆうことではないでしょうか それがまた 事においてクズだった柴田さんらからみれば 疑惑をもたれるところなんでしょう 殺ったはいいが後はどうする その一点で目が覚めるといいましたが 当時秀吉も日本というものをマクロで考えるなんてことありえず 毎年前年対比30%の成績を上げろというワンマン社長にたいして 腹は立つでしょうが ぶんなぐろうとおもう人なら とうの昔に あの世行きでしたでしょう ですからわたしはこのはなし ないとおもいます さて亀岡の地侍 本城惣ェ衛門の覚書には 家康を誅するから本能寺にいくといわれたとあります 明智秀光 斉藤利三という重臣の指揮の下で討ち入って 何人かの首を取ってその場で褒美をもらいましたと書いています ただ本体との連絡がなかなか取れず 光秀がどこにいるのかさえ わからなかったともいっています 光秀も討ち入ったと聞いて 腰を抜かして動転したのではないかと わたしはね なんかの大いなる間違いだとおもっていますけどね 桶狭間もなんかの間違いで 負けるはずない義元が負けている 義元は完璧でしたからね 信長がやってくるとおもわれるところは すべてといっていいほど 対処してますから はじめから決戦する戦略ではなかったようですし 信長もまさか突撃した先で義元を捕捉できるなんておもいもしなかったことだとおもいます つれづれにかきましたすいません      

回答No.2

本能寺の変で誰が一番得をしたかという論理でいけば、何も秀吉だけが得するとは限らないです。 一般的に何も知らずに堺見物していたという家康にも疑いはあります。 「家康は伊賀越えしたぐらいだから関係ない」と思われがちですが、あれは家康一流の詐術だったとしたら? 大体伊賀の郷士達くらいならまだしも甲賀までも味方に付くとは常識的にありえないでしょう。伊賀甲賀の相克は激しいものがあったのですから。 それに豪商とはいえ一介の商人の茶屋四郎次郎に手懐けられるものではないでしょう。 「家康が苦労からがら逃げたした」という芝居を打った可能性は大いに在ります。 もう一つは朝廷が動いたという可能性。 当時、信長は比叡山焼き討ちをしたので比叡山残党はおろか五山や高野山など処々より怨まれていたことは想像に難くないでしょう。それらが朝廷を動かしたということも有得た話だと思います。 以上、確実な資料がないのでは上記のように妄想すればいくらでも話を創れるということですよ。

  • aburakuni
  • ベストアンサー率30% (470/1562)
回答No.1

ご存知の方はいらっしゃらないと思います。 最近そういった小説が流行りですが、推理小説の「一番得したものが犯人」と言う論理で、本当を証明する資料もありません。

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