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死なないでいる理由がない。欲望と禁欲
とても暗い内容になるのでご了承ください。 私には死なないでいる明確な理由が現時点で見当たりません。 ここ何年かは死ぬときの物理的な痛み、または自殺ミスのリスクを考慮し、その理由を探してきたのですが、難しいです。 幼少期からキリスト教原理主義の教義を教えられてきたので、いつの間にか私は根っからの禁欲主義者になってしまったらしく、社会を肯定的にとらえることは難しく、色々な面で絶望的な気持ちになります。禁欲主義はそもそも現在を否定し、天国や楽園にいくというような未来を肯定的にとらえる考え方だと思うのですが、天国や楽園を信用していない私にとって、現在も未来も肯定できない状態です。 生を肯定できない原因は、幼い頃からの原理思想教育と人間社会のシステムに対する自分自身の関わり方にあったと自己分析しています。後者は最近になってある映画を見て感じたのですが、人間は人間社会のルールや秩序を破ったり羽目をはずした時に、自分の生を実感でき、特に多感な時期に感じた生の実感と他人からの無条件の愛情を心の支えにすることで後に秩序に縛られても不条理な世の中でも生きていけるようになるのではないかと。私には両方とも得ることができませんでした。 私が一番無邪気だった小学生のころ。他人に感じていることを自然に話し、毎日のように野球を見て松井秀喜を見て感動し、松井のグッズを付け夢中になって野球をし、好きな女の子と自然に関わり心躍らせ、お笑い芸人の藤井隆さんのマネをフォーフォーと全快にやり、時には先生に怒られるようなこともしたころ・・・。一番充実した日々でした。 それから、数年後には、宗教宣教活動に影響があるとのプレッシャーから規律を乱す行為はしなくなり、思っていることも口に出さず、宣教活動に支障をきたすことや過度のスポーツは戦いに入るとの解釈から野球を断念させられ、異教徒や無宗教の友達との交友は制限され、異性との付き合いはさらに制限され、好きな女の子を思う気持ちが鬱屈した感情になり・・・。 宗教教義はもちろんですが、世間の道徳論にも親にも支配されていたのだと思います。 小学校高学年時代に野球の問題で母ともめた時、泣きつかれたこともあって宗教をやめたいと切り出せず、高校1年まで続けてしまいました。 この中学時代、自分の意思を伝え、秩序との格闘をある程度できていたなら、今いる自分はいなかったかもしれないと思い、後悔でいっぱいです。 高校に入ってその歯車を中学以前に戻したかったのですが、うまくいきませんでした。 どれだけはしゃいでクラスのムードメーカーになったとしても、その行動は虚像であり道化。周りからはうまくいっているように見える関係でも、自分自身の中ではうまく距離がとれないことで心の交友は男女ともにできず、無邪気なありのままの欲望を復活することはできませんでした。 高校時代は社会とのつながりをより考え、進路を計画したり、この時期までの欲望をどう社会の規律と歩調を合わせるかを模索する時期だと思うのですが、私には欲望が何一つありませんでした。 世の中には不条理や欺瞞や矛盾に溢れていると感じています。経済の市場原理主義、生命を維持するために必要な死、性欲、功利主義など。 現代社会ではあまり問題ではないことも気になってしまいます。 その中でも人々は生の実感や自分の無邪気な欲を大切にし、それを糧に生きているのだと勝手に思っているのですが、今の私は社会と関わる気力や免疫がありません。 どうしたらいいのかまったくわかりません。 何かアドバイスがあればよろしくお願いします。(22歳・男) うまく言葉を整理できず、下手な文章で読みにくかったと思いますが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
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お礼
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