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黄金比って結局、五芒星信仰でしょ?
美の究極だのなんだの、美しい無限連続関数を生成するだの、ごたくは数あれど、 結局、「黄金比」って「五芒星信仰」っていう思想的なものだけですよね? それとも、本当に何かそれ以外の「美」である理由とかあるんですか? 因みに、どのカテゴリーに入れればいいか判断付きませんでした
- kid1412
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先ありきが五芒星か黄金比かって話になりますよね? そうなると五芒星のほうが古いという事になりますが、なぜ美しいかとなると、そこに五芒が先にあったからです。 3次元の物理安定性から天然で同一形状が生成されやすく、同じ規格のものが複数存在する事が、ダイヤモンドや金と同じ普遍性のため珍重されるのだと思います。 >巻貝の巻き具合の比率などは実は、黄金比になっているというのは嘘に過ぎず、実際はフィボナッチ数列も何も形成していないという情報もありますよ これも全ての巻き貝が黄金比なのではなく、美しい貝の種類が黄金比を形成する事が多く、その種には黄金比の近似値を示す貝の出現率が高い為に珍重される。 これは巻きが成長するのに年輪のように等幅で加齢するためで、フラクタル理論から成長の容積比がフィボナッチ数列をなさないと成長が阻害されていびつな形に育ってしまいます。 この意味は、美しい貝が育つ環境は海水温も海流も穏やかであり、人間にとっても過ごしやすい環境で、その貝の取れる環境は理想郷であることにも繋がります。 思想的な事は否定しませんが、美の究極は不老不死の普遍性であり、五芒星や黄金比と人間の思想とどっちが先かといえば、限りなく球体の地球があって、究極の安定性である正四面体の中に五芒星も黄金比も最初から存在するのです。
その他の回答 (2)
↓こういう考え方のことを指しているわけですか? http://blog.livedoor.jp/enjoy_math/archives/50502543.html 五芒星信仰というものが陰謀論のように黄金比を支えていたわけではないというか因果関係が逆(五芒星形に黄金比が含まれているのは事実)ではないでしょうか。 それは別としてたしかに黄金比その物に美しさがあるという発想はこじつけ的な物が多いように思いますし絵画や彫刻の中に黄金比をみつけたとして美の秘密を読み解いたなどとする言説はこじつけで根拠がありません。たまたまそういう風に見える部分だけを拾い出しているだけで「ピラミッドの配列がオリオン座と同じだ云々」というのと同じようにしか思えません。 しかし黄金比というかフィボナッチ数の配列とそれにもとづく幾何形態は数学的なエレガントさを持っているのは事実で、黄金比やフィボナッチ数そのものの面白さを造形にしようとしている人も居ます。 フィボナッチ数に限らず数学的な法則性を後付けの理屈ではなくて法則性そのものの持つ美しさとして形態にあらわせないかという追及方法ですね。 ジャンルでは応用数学とか美術のカテゴリーに属します。 http://www.uminekoya.co.jp/bookshizume.html 自然物の中のフィボナッチ数 http://mshi.no.coocan.jp/pukiwiki/?%B8%A6%B5%E6%BC%BC%2F%A5%D5%A5%A3%A5%DC%A5%CA%A5%C3%A5%C1%BF%F4%A4%C8%BF%A2%CA%AA 植物の中によくフィボナッチ配列がありますが、左右対称であるとかカオスというのも強烈にあって当然ながらなにもかもがフィボナッチ数に支配されているなどという事実は無いようですし美しい物が全て黄金比に支配されるなどという事実もありません。 カオスに見える物が実は何かの法則性に支配されていると考えるのはひじょうに安心感を得られる思想のようでこれが黄金比で何もかもを読み解く、読み解けると考える動機になっているようですが、これは宗教心よりも一種の精神衛生、不安症との関連と考えた方がより実際に近いのではないでしょうか。
お礼
ありがとうございます 陰謀とは思っていませんが、確かに、なんでそれが美しいになるのかに疑問がありました 絵画では・・・意図的に付けている場合も多いですよね 、ああ、精神衛生と考えるとそうなのかもしれません 参考になりました
- Us-Timoo
- ベストアンサー率25% (914/3620)
なににかぶれたか、変に思い違いをされているのか知りませんが 黄金比と六芒星や五芒星信仰とはまったく関係ありません。 どちらでネット検索をかけても、どちらの言葉も文字も 出てきませんし、これまで私が見てきた文献や 資料などにもそのような記述、あるいはそれを匂わせるような 記述はみたことはありませんでしたけど? >本当に何かそれ以外の「美」である理由とかあるんですか? 自然から生成されているものは、人間の体も含めて すべてこの構成比率(黄金比)で成り立っています。 お断りしておきますが、これは思想がどうのとか 信仰がどうのこうのとか関係ありません。 純粋に地球上で生まれてきたものすべてが本来持っている 比率であるため、そこに美しさを感じるのです。 繰り返しになりますが、黄金比と六芒星や五芒星信仰とは まったく関係ありません。 六芒星や五芒星信仰のほうが、黄金比をその思想に当てはめて 考えることはありえるかもしれませんが、「黄金比』自体は それらとまったく何の関わりもありません。
補足
まず、六芒星については全く言及していません 黄金比と正五角形とその中に納まる五芒星とは少なくとも密接な関係にありますよね? フィボナッチ数列以外では、幾何学的に黄金比を出すものは正五角形と五芒星との線分比ですし 逆に、巻貝の巻き具合の比率などは実は、黄金比になっているというのは嘘に過ぎず、実際はフィボナッチ数列も何も形成していないという情報もありますよ これらから、黄金比は五角形(五芒星)から人工的にはじき出されたものとも考えられますよね? 誰でもいいので誰かここら辺を説明してはもらえませんか?
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1. ひとの生活を微分したらどうなるか? それが 非思考の庭――信仰なる動態――のイメージとなるのではないか? 2. 《わたし》の生活を・思想を・存在を・人格を・人生をあたかも微分したら 信仰についてのイメージが得られるのではないか? 3. 次の図式における《自然本性プラスα》が その信仰としての傾きであると。 ○ 《わたし》なる存在 [自然本性+α]:霊我: 信じる:非思考の庭(ヒラメキ) --------------------------- [自然本性]:精神(心): 考える:思考の緑野(コギト) [同 上]:身体(身): 感じる:感性の原野(直感) 4. すなわち 無神論なる信仰のばあい――《神を信じない すなわち 無い神を信じる》場合――は 身と心から成る自然本性のほかには何も無いと信じる(無条件にそう受け容れる)。 5. こう捉えるならその限りで――その無神論者の生活をあたかも微分すると――非思考の庭は フラットな横の一線になる。あるいはつまり おのれから等間隔に引いた線として 円になる。いや 球となる。球面になる。 6. その円周 いや球面というのは 理念としての思想である。自分のえらんだ言わば《義》としての信念である。その義を 存在意義としての義としている。 7. つまり 無神論者の理念は 互いに対等なる等距離外交である。 8. それに対して 有神論の信仰のばあいは――きよらかなおそれを抱くこととしてもイメージされると思うが それを措くとして―― けっきょくその生活や人格を微分しても結果は出て来ない。微分しがたい。カタムキが無い。頻繁にエポケーしている。その意味で不連続である。飛び飛びである。 9. 先ほどの言い方に倣うならば 《義無きをもって義としている》。 10. だから 円も球もない。もしそれでもイメージを呼び起こそうと思えば この微分の結果というのは――変な恰好であるが―― 自然本性 + α としての霊つまりエーテルのようなものである。無神論者にとっての球面の代わりに エーテルのようなものとなる。 11. 先ほどの等距離外交なる方針に照らし合わせるなら 《大道は無門である》である。神を受け容れているひとには 無神論者の抱いていると思われるところの《信念》が無い。(固まった信念はないのである)。《義》が無い。心に囲いが無い(心の明け)。無門。もっと言えば 能天気である。 12. なお いわゆる宗教のオシヘを《信じている》場合というのは――けっきょくオシへは言葉で表現されているからには《考える》ものであり 《非思考》にはならないので―― 思想としての信念たる義を抱いている。つまり 無神論者のタイプになる。 13. 無神論者と宗教者およびその信者は その《わたし》が一個のボールのようなものである。 14. 神をいだく人は 心に囲いが無いから それらの《ボール》を目の前にしたら――野球のボールかバスケットボールかラグビーボールかは知らないけれど――それぞれそのままを受け留め 往々にして受け容れてしまう。 15. そのボールの――精神の遍歴としての歴史の――積分たる心に寄り添ってやりその中の交通渋滞をも受け容れあたかも引き受けてやってしまう。こうして 現代の病いが起きる場合もある。起きなくても 受け身でありアース役に成っている。 16. たぶん現代ではない過去の時代と社会にあっては 互いにみんながみんなで人びとそれぞれの心の交通渋滞を受け留めあっており 相身互い身 引き受けてやっていたのかも知れない。心のモヤモヤは 分散し稀薄となっていたかも。 17. 現代ではそのような人びとの互いのきづなが ほどけて来たのか。あるいは 朽ちて来てしまったのだろうか。分散・稀薄化がとどこおった。か。 18. ここでは 有神論および無神論としての信仰の視点を推し出しまた切り口としていますが 現代の人間と社会についてさらにみなさんからご見識をたまわりたいと存じま す。 19. ただし質問者として納得の行くまで問い返しつつ問い求めをすすめてまいります。 20. 取りあえずは ご自身の生活を微分してみてはいかが? といったおすすめになっていますが その点についてはどうでしょうか?
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