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国語の音読

小学校2年の音読の宿題に谷川俊太郎の「いるか」という詩が課題としてでました。 親がこどもの音読を聞いて採点をするのですが、 その採点基準もわからないし、 どういうふうに音読させるべきか、というのもとても難しいと思います。 悲しい文章なら、その主人公の気持ちになって読めとか、 自然を表現している文章なら、その場所にいる感じで読めとか言えるのですが、 「いるかいないかいないかいるか」と言う時に、いるかを探している気持ちになれ というのは違うような気がします…。 また、 この詩がいわゆる言葉遊びだということは理解していますが、小学校低学年という時期に、言葉を愛でるのではなく、遊戯にしている歌を教えるのはどうかと頭をかしげてしまいます。 国語はまず、花鳥風月や、人間の感情を扱った作品を専らにすべきであって、 言葉遊びのような、言語に対する不信が表面化した記号論が一世を風靡した時代の思潮を受けた作品をこどもたちに紹介するというのは、どういう意図なのでしょうか。 親としては、教師がその作品に惚れこんでいるのならば、そういう教育もありだとは思うのですが、担当教師も、谷川俊太郎は有名な詩人であり、すばらしい作品だと言われているということしか、説明できませんでした。 「ずいずいずっころばしごまみそずい」と 「いるかいないかいないかいるか」は 語呂的にはとても似ているが、思想的には決定的に違うと思うのです。 こうした国語教育をしている背景を知っている方、もしくは合理的説明ができるかたはお教えいただきたく…。

  • sponta
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noname#3131
noname#3131
回答No.1

こんにちは。 私にはspontaさんのように難しいことは分かりませんが、一言書かせていただきます。 我が家にも2年生の息子がおり、昨日も宿題で「いるか」の音読が出ました。 それも5回、覚えてくる・・・という内容でした。 主人と「詩」って強制的に覚えることに意味があるのかね?と笑っていました。 本当に良い詩なら、自然な形で覚えてしまうものじゃないでしょうか? クラス30人の子供が強制的に取り立てて感動もしていない詩を覚えて学校で一人ずつ読み上げている姿を想像すると、「ちょっと違うんじゃないかな?」と疑問を抱きます。 ここで「いるか」の詩を知らない方のために書いておきたいと思います。    いるかいるか      いるかいないか  いないかいるか     いないかいるか  いないいないいるか   いるいるいるか  いつならいるか     いっぱいいるか  よるならいるか     ねているいるか  またきてみるか     ゆめみているか とういうものです。 初めてこの詩を音読する時の息子はとても楽しそうでした。 「面白いで!聞いててな!」と上手く読めるか緊張している様子でした。 横から5年生の兄が入ってきて、「僕のときこんなんあったかなぁ~?」と興味深かそうに眺めていました。 一瞬子供の興味を引く事は間違いないのですが、確かに情緒的な感動ではありません。ですので聞く側にとって5回も繰り返されるうちに「いい加減にして欲しいな」とさえ思えてしまいます。 採点の方法、確かに悩んでいます。 「気持ちを込めて読んでいるか」とういう項目には「・・・?」ですよね。 ある意味2年生にとっては難しいのかもしれません。 言葉遊びを客観的に捉えることなど出来るはずもありません。 ただひたすら九九のように「詩」を唱え続ける我が子の姿を、同じ保護者の皆さんは一体どのように思われているのかが知りたいと感じていた矢先のこの質問でした。

sponta
質問者

お礼

早速の書きこみ、ありがとうございます。 わたしは理屈っぽいところがあり、?となってしまったのですが、当の2年生の男の子が楽しんで読んでいるということは、まんざら悪いことでもなさそう。 という感じですね。 でも、暗記するというのはすこしやりすぎのような感じがします。 暗記したあとの達成感はあるのだとは思いますが…。 学校というところは、物事を正しく伝えることを第一に考えるべきではないのかと思うのです。 自分の気持ちや状況をお友達に伝えることができない。そういう言語能力の低下が引いてはひきこもり若者を増産している気がしてなりません。 その意味で、学校の国語では、世の中の諸相や自分の気持ちを切実に言葉につむいだような作品を暗記させるべきではないでしょうか。 ☆ 私のほうの親の記入欄には気持ちを込めて読んでいるかというチェック項目はありませんが、そういう項目がある回答者の場合は、誠実に親の責任をまっとうしようとすると、もっと切実な問題ですよね。 はたして、作者はいるかのいるところに行って歌ったのか、わたしには、そうではなく、いるかという語感であそんでいる感じ。 勿論、谷川氏の作品で、「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」などという詩に感銘することはありましたので、谷川氏を全否定するわけではありません。 しいていえば、教科書という文脈の中で、いるかの詩が登場することに違和感をおぼえたまでです。 ☆ ところで、 九九のように詩を唱えることの是非については、わたしはありだと思っています。 私は43歳ですが、いまでも、小学校のときにおぼえた 「柿食えば、鐘が鳴るなり法隆寺」や 「古池やかわずとびこむ水の音」 などを思い出したり、口にだしているのですから、意味はあると思うのです。 教育とは、日本人が日本としての共通の文化と歴史を共有することだと思うので、とても重要と思えるのです。

その他の回答 (13)

noname#50891
noname#50891
回答No.14

早速の補足、ありがとうございます。 spontaさんは、No.10さんの回答を読まれましたよね? それでも、答えられませんか? お手数ですが…。 No.10さん回答を読んで、もう一度、 補足にトライしていただけますでしょうか…。 でも、面倒でしたら、無視で結構です。 なお、私がまずひっかかっていることは、質問中の以下の記述です。 そしてこれは、この質問における、最もポイントになる部分かと思います。 >国語はまず、花鳥風月や、人間の感情を扱った作品を専らにすべきであって、言葉遊びのような、言語に対する不信が表面化した記号論が一世を風靡した時代の思潮を受けた作品をこどもたちに紹介するというのは、どういう意図なのでしょうか。 合理的説明など私には出来ませんが、もし補足いただけましたら、 答えられる範囲で、いくつかの疑問に答えるつもりでいます。

sponta
質問者

お礼

たびたびの書きこみありがとうございました。 みなさんの意見をお伺いでき、心の中のわだかまりを抑えることができましたし、みなさんそれぞれに国語のことを真剣に考えているという姿勢をかんじました。 わたしなりに回答は出尽くしたと感じますので、この質問は綴じさせていただきます。 ありがとうございました。

noname#3131
noname#3131
回答No.13

>「いるかいるか」の1行についてだけでも、 答えは4種類あり、そのどれも正解なのでは 「正解が無い」が正解なのではないですか? 世の中には正解の無い事は山のようにあります。 正解の無いものが存在する事、それを子供たちに伝える事が無意味だとは思いません。

sponta
質問者

お礼

たびたびありがとうございます。 同感です。 同様に、人間関係にも正解はない。 いわんや、メイルにおいてもおや。 です。 ご気分を害される人がいたら、それは私のせいです。 失礼しました。

noname#50891
noname#50891
回答No.12

音読の採点についてですが、 なんの基準もなく採点を行うことは、無理のような気がします。ですので、 課題を出された先生に、基準を確認されるのが良いと思いました。 それにより、課題を出された先生の「ねらい」が分かるかもしれませんね。 一連のやり取りを読んでいて、 個人的に、少しひっかかることがあったので、 補足要求させていただきます。 強制ではありませんので、無視でも構いません(^^) この詩を読むと、以下のお答えが出る前に、 >いるかが何頭いるかとのご指摘。 >これこそ、記号論的な手法だと思います。 >(作品の中につかわれている単語の数で、作者の作風を論じるやり方) >また、「いるか」と「いるか?」とかけているので、数えることも虚しい作業ではないかと。 「いるか いるか?」の答えが、あると思うのです…。 そこで補足要求です。以下2つお願いします。 1.いるかは何頭いますか? 2.spontaさんは「夜の海」を、見たことありますか? ありませんか?

sponta
質問者

補足

作者にとって、究極をいえば、 イルカがいるのかいないのか、が問題ではないということ。 逆に目の前のイルカをイメージしないほうが、 イメージは、宇宙空間までにもひろがっていくのではないか。 もし作者が、イルカを写生しているとしたら、 目の前のイルカを前にして、言葉で遊ぶのだろうか。 目の前にイルカが沢山いるのをみたとき、 言葉で遊びながら、その状況を他人に伝えようとするだろうか。 この詩は、海岸でつくられたのではなく、きっと机の上でつくられたのだろう。 そして、机の上だからこそ、無限のイメージが広がっていく。と。 したがって、 補足要求1については、 イルカ、居るか? 居るか?、イルカ イルカ、イルカ 居るか?、居るか? 「いるかいるか」の1行についてだけでも、 答えは4種類あり、そのどれも正解なのでは。 そういう設問が、作品のイメージを限定する。 したがって、いるかが何頭いるかという設問自体が無意味では…? 補足2については、 夜の海のイルカを写生した作品とは感じないから、そういう質問には答える術を持たない。 ということです。 いろいろな方のご意見を聞くことができてありがたく思っています。 とはいえ、補足要求には、説明したとおり、こたえることができませんでした。 ありがとうございました。

  • chitakun
  • ベストアンサー率14% (11/75)
回答No.11

こんにちは!! 皆様のご意見拝見させていただきました。 いろいろな考えがお有りでしょうが、また、違った視点で。 私は、四月に小学校にあがる子供の母親です。 教科書の内容が変わる事がなければ、うちの子も【いるか】触れる事になると思います。 その時のことを考えると、私は楽しみ。 どんな風に子供が読み、どんな内容に受け取るのか。 そして、自分も大げさに演じて読んであげたい。 そう思わせてくれる内容でした。 もちろん、きちんと内容を理解して読む事は難しいでしょう。教室で読んだくらいでは難しいでしょう。 そこで、宿題に出して、家族で 「こんな風にも読めるよ」 「こうやって読んだら面白いよ」 先ほどの方のように、 「この中にいるか何匹いると思う?」 もちろん、家族で読むということをしない方もいらっしゃるでしょう。でも、こんな愉快な音読が聞こえてきたら、耳を傾けるのではないでしょうか。 そんな風に思っています。 音読の宿題を楽しくやらせてあげたいです。

sponta
質問者

お礼

母親の立場で作品を楽しみ、こどもの反応に一喜一憂する。 素晴らしいことです。 大げさに読む母親の姿に、こどもも、驚いたり、笑ったり、容易に想像できます。 そこには、きっと言葉に対する不信はない。 音韻やリズムに対する親しみがある。 親と子の作品を介在にしたコミュニケーションもある。 どんな教材でもすばらしい授業はできる。 そういうことだと思います。 ありがとうございました。

noname#3131
noname#3131
回答No.10

スミマセン、またまた・・・。 今一度教科書(光村)を見返したのですが、教科書としては、なかなか面白い仕上りじゃないかと思いますよ。 言葉に興味を持たせ、後の単元で文章の書き上げに至らせる意図を感じます。 さて、難しいことは今はちょっとだけそっちに置いておいて(笑)・・・皆さんはこの詩の中に一体何頭の「いるか」を見つける事が出来ましたか? 私はハッキリ言って自信がありません。 もう一度書きますよ。 いるかいるか       いないかいるか      いないいないいるか    いつならいるか      よるならいるか      またきてみるか      いるかいないか いないかいるか いるいるいるか いっぱいいるか ねているいるか ゆめみているか 難しいことを論ずる前に、皆さんはこの中に本当の「いるか」が何頭いるか、 「本当に」お分かりなんですか? 日本語の面白さが凝縮されていると思いませんか? 私なんぞは1行目からして怪しいです(笑)。

sponta
質問者

お礼

たびたびの回答ありがとうございます。 いるかが何頭いるかとのご指摘。 これこそ、記号論的な手法だと思います。 (作品の中につかわれている単語の数で、作者の作風を論じるやり方) また、「いるか」と「いるか?」とかけているので、数えることも虚しい作業ではないかと。 人が人と話をするということは、もっと切実なことだとおもうのです。 本当に伝えたいことがあるのに、ダジャレでごまかしているような人。 世の中にはよくいます。 同時通訳で作家の米原万理さんは、翻訳不能なダジャレを言って、一人ごちているお偉いさんが多いのに、嘆かれている。とか。 ほんとうに伝えたいことを伝える。 言葉に親しみを感じるだけでなく、言葉のありがたさを感じる。 そういう国語の授業であって欲しいものです。 わたしは40歳代ですが、わたしが習った国語の最初の文章は、 かわいいな かわいいね みんな にこにこ …でした。 みつめあう子供同士の顔と顔。 そこから、言葉がはじまる。 とても示唆的な文でした。 コミュニケーションツールとしての国語を大事にしたいものです。 いろいろな意見を伺い、ほんとうにありがとうございました。

noname#21343
noname#21343
回答No.9

 No2です。現役の教師の方から回答があったあとにシロウトがコメントするのはなかなか勇気がいることですが(^^ゞ。  「言葉(あるいは「コミュニケーション」と言っても良いかもしれません)に対する質問者さんの思い」はよく分かります。私自身、質問者さんのスタンスに同意できる点が多いです。ただ、私や他の回答者さんへのお礼/補足を読んで、思ったんですよ。  やっぱり「大人の感覚」で捉えすぎなんじゃないでしょうか。 #相変わらず失礼な物言いで恐縮です。  今回の対象は「小学校低学年の児童」ですよね。ウチのボウズを見ていても思うんですが、小学校低学年であれば、自分の想いを他者にうまく伝えることができなくても、それは当然だと思うんですよ。  で、その「想い」をうまく伝える、つまり「コミュニケーション」のための一つの手段として「言葉」がある。そして、その「言葉」を「うまく使いこなすことができる」ようになるための方法の一つとして「音読」というものがある。こう考えることはできませんか?  「文章をすらすら読むことができる」ってのは、言い換えれば「言葉(文章/単語)が持つ意味を(必要最低限のレベルかも知れませんが)理解している」ということでしょう。で、この段階をクリアしていればこそ、「言葉を愛でる=言葉が持つ意味を、より深いレベルで理解する」ことができるようになるのではないでしょうか。 #コトの真偽はともかく(^^ゞ、国語教育の専門家でもなんでもないワタシが、↑のような内容のことを書くことができるのも「大人の視点」に立っているからだと思うんですけどね。

sponta
質問者

お礼

ありがとうございます。 回答者の意見、同感です。 ただ、あまのじゃく的に言えば、大人の感覚、子供の感覚と分け隔てて考えることに対して肯定的ではありません。 他者に対して自分の思いを上手くつたえることができないのは、大人も一緒。 嫁と姑の関係など、その典型です。 わたしにしたって、いまメイルで書いていますが、自分の思いがなかなかつたわらなくて、もどかしい気持ちにあります。 でも、言葉でのコミュニケーションをあきらめない。 でも、答えてくださる方がいて、コミュニケーションが成立している。 ほんとうにありがたい気持ちでいっぱいになる。 そういうことなんです。 谷川氏の作品に、 うわきはみがき…。 などというのもあったと思いますが、これなどは、コミュニケーションに絶望して、言葉遊びに走った作品だと思われ…。 言葉に出す能力はないけれど、こどもって心の底でそういう絶望の芽を感じていると思う。 というか、わたしはこどもたちにそういうするどい感受性があるのだと信じています。 胎児の研究がすすんでいる昨今、わたしの思いもけっして空想ではないかと…。

  • songbook
  • ベストアンサー率36% (334/910)
回答No.8

すみません、誤解があっては、と思い、再びしゃしゃり出てきました。 先ほどは、丁寧なお礼、ありがとうございます。 先にお断りしておきますが、私の専攻教科は国語ではありません。ですからこのように、好き勝手に述べているのですが、あながち間違ったことは言っていないと自負しております。 お礼欄でのご指摘は最もです。私どもが子どもに発している言葉は、少なからず子どもたちの話し方、話し言葉に影響します。特に教師が気をつけなければならないのは「語尾上げ」。念を押して子どもに伝えようとすると、どうしても語尾が上がってしまう。でも、それを子どもが真似するんですね。 若者言葉の語尾上げを思い出してください。私どもの影響、ありますよ。気をつけねば。 音読でもそういう読み方をしている教室が実に多く、私は怒ったこともあります。 No.7のkazu-chiさんの「すらすら読める、で十分です」というのは、あくまでも基礎の力のことを述べてみえるので、同業者としても誤解なきようよろしくお願いします。 音読、朗読がなぜ大切とされるかについては、参考URLの私の回答をご覧下さい。

参考URL:
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=209438
sponta
質問者

お礼

書きこみありがとうございます。 回答者の意見にはげしく同意いたします。 そして、あえて私の言葉で言うなれば、 何故、語尾上げをするか? です。 たしか、鎌倉時代に、動詞の終止形が連用形と同じになったのは、 言いきりたくないから、終止形を連用形で代用したからでしたよね。 同じように、肯定文でありながら、疑問形のように語尾上げをすることで、言いきりを避ける。 また、最近では、「わたし的なことなんですけど…」という言い方も流行っているが、そういうのも、言いきりをさけたい気持ちの現れですよね。 それいえば、「わたしの独断と偏見で」という自分の意見をちゃかして、言いきりを弱めるいいかたもあったっけ。 ☆ つまり、国語というか、日常会話・文章のなかに、民主主義の根幹である、自分を主張することに対する弱腰を感じてしまうのです。 誰も自分の意見を堂々といわない社会。そういうのが、組織の腐敗を促して、社会を堕落・停滞させている。 日本は民主主義です。でも、個人が自分の意見を言わなければ成立しません。 また、公的教育というものは、つきつめればあるべき民主主義の実現のためのものでしょう。 自分という自己の確立。 そのことに国語(言葉)が大きな役割を果たしていると思うのです。 潔い生き方は、潔い言動からはじまるのでは。 そう思うのです。 ありがとうございました。

  • kazu-chi
  • ベストアンサー率0% (0/1)
回答No.7

小学校教師です。 まず,宿題に音読を出すのがいただけませんね。 音読は授業で指導し,授業で力を付ける。 もちろん,ほかのこともです。 音読,漢字,計算など,基礎的な学力をつけるところが学校ですが,その責任を果たしていないところに今の学校の問題があります。 どういうふうに音読をさせるべきかという点に関しては,「すらすら読める」で十分です。 抑揚をつけるなどすれば,それは音読ではなく朗読になってしまいます。 小学校低学年(というより小学校)では,まず,音読の力を付ける必要があります。 私は高学年の担任が多いですが,高学年でも,指導しないと,すらすらと音読のできない子供たちが結構いますよ。

参考URL:
http://www.try-net.or.jp/~katazuka/ondoku04.htm
sponta
質問者

お礼

ご返答ありがとうございます。 音読と朗読の違いにつき、目からうろこでした。 「すらすら読める」で十分というのは、きっとさまざまなレベルのこどもが勉強する教室の現状では仕方のないということなのでしょうね。 とはいえ、 すらすらと文章が読めるだけのこどもなんて…。 わたしは、そういううわべだけの勉強など、社会に出で役に立つと思いませんし、 すくなくとも私は、自分の娘に、そういうこどもにはなってほしいと思いません。 これが新聞の記事を読むというようなことだったら、音読=すらすら読めるでいいんでしょうが…。 ☆ なかなか理屈ッぽいお礼ですいません。 でも、すらすら読むことが目標なのだ。 という現場の意見に納得しました。 ありがとうございました。

  • songbook
  • ベストアンサー率36% (334/910)
回答No.6

小学校で、教師をやっています。 昨日までインフルエンザ。今日は早退して帰ってきました。子どもにうつさないように、こそこそしています。 私はspontaさんの考えについては、半分は支持、半分は異を唱えます。 特に支持したいところは、この詩の音読は、小学2年生には極めて難しいということです。特にこれを教室で全員が音読している場面を想像して御覧なさい。浪花節を40人がうなっているような、おぞましい世界になるか、味も素っ気もなく機械のような音の羅列になるか、どちらにせよ、百害あって一利なしです。 ありえるとすれば、グループ学習などで、楽しく「韻を踏んだ」読み方をしている子を見つけて、グループ単位ぐらいで、その子の読み方を真似する程度。 大人でも、これを楽しく音読できる人は、あまりいますまい。(私も苦しむだろう) ただ、異を唱えるところとして、国語科教育では、きっと今、「声に出して読む楽しさ」「リズムに乗って読む楽しさ」を追究しているのだと思うのです。古くは落語の「寿限無」しかり、「かえるぴょこぴょこ3ぴょこぴょこ」などの早口言葉然り。 そういう遊び言葉に子供が親しむことも大事だと思うのです。 さりとて。 再びspontaさんに合意するのが、「それならばなぜここが谷川作品なのか」なのです。「声に出して読みたい日本語」などを見ればわかりますが、日本語には昔から、日本語らしいリズムに乗った、韻を踏んだ言葉、リズミカルな遊び言葉が多数存在します。それを教えずして、何をいきなり谷川作品か。 日本語は、英語やドイツ語とは違うのです。日本人の語学者の多くはきっと、日本人が母国語による朗読を、西洋人みたいに、歌うように、朗々と読んでくれないことにコンプレックスを感じているのではないかと感じてしまいます。 「いるか」確かに面白い。子どもの受けもよいでしょう。でも表現者となったとたんに、超絶技巧が要求されます。なぜなら、日本語だからです。 さらに私の持論として、「国語は意味」だけから始めると、母国語は衰退します。私に言わせれば、「国語は感性と、意味である」です。役に立つか立たないか、意味があるかないか、だけではなく、聞き心地はどうか、視覚的にどうか。声に出してどうか。それらすべて含めたものです。無駄もあれば遊びもある。 で、きっとその中から、良質のものが残っていくのでしょう。 話は大きくなりすぎましたが、やはり私も、こういう詩を音読させるところまではよしとしても、それを評価するのはナンセンスに近いと言う結論にたどり着きました。「こんなの覚えたよ。楽しいよ。」で終わりにすべき教材です。

sponta
質問者

お礼

専門家の回答ありがとうございます。 > 「こんなの覚えたよ。楽しいよ。」で終わりにすべき教材です。 という結論、同感です。 でも、授業時間が足りないこのご時世に…。 ☆ ところで、国語に関してですが、というよりも、話すこと・書くことについてですが、言葉にするということは、自分の意志表示でもあるわけです。 そこで、わたしが常々思うのは、 「…と思います」 という文章の終わり方。 ことしの正月の宿題も「…したいと思います」という書写でした。 「私は作文を一生懸命がんばります」 というのと、 「私は作文を一生懸命がんばりたいと思います」 の違い。 「がんばります」と 決意し、行動を予感させる言いかたと、 「がんばりたい・と思います」 と願望する、だったらいいな、というような、 どこか「思っただけ」と、言い訳を感じさせるような言い方が、学校生活の中にあふれている。学校で氾濫した言い方は社会にも横溢している。 そういう言葉の氾濫が、こどもたちのいくじのなさ、ユウジュウフダンな行動を助長している気がします。 そういう語感って、みなさんないのでしょうか…。 ☆ 質問という形でありながら、自分の意見を主張するなどして失礼しました。 専門家の意見、感謝します。

  • adjective
  • ベストアンサー率17% (241/1356)
回答No.5

質問者さんは国文学に精通されているんようですね? 私は難しいことは全然わかりませんが・・・。 私が思うには、学校教育の教科の国語と国語学は違うと思います。 学校教育の国語は一般教養的なモノだと思います。 とくに、よく国語の問題である「下線部の筆者の意図は?」なんかはナンセンス だと思います。 なので詩についても、この意味はなんてらかんてらって教えること自体あんまり 好きではないです。個人の解釈をもっと尊重しても良いのに学校教育では解答がきまってますもんね。 で私が思うに、この作品はいいですね。明快で読むのが楽しそう。 言葉遊びも日本語を操る上での素養として必要だと思うから。 小学校低学年でも十分面白く役立つモノいんだと思いますが。 それに黙読と音読ではやっぱりちがう、声を出して読まないと意味がないと思います。 暗記はさせる必要はないですが、声を出して読むことは重要だと思います。 言葉遊びなので。(といっても作者の深い意図があるかもしれませんが) で一人で読むのはつまらないので、人に聞かせる方がいいですよね。 まあ親なら聞いてくれるでしょと言うことではないですか? 平家物語朗読との教育としての意図は違うような気がします。 親のレベルによって読解できないでしょうし。 それに、現代はメールの世の中でしょ。声を出して読むんだり、声で伝えることは重要なことだと思います。まあ昔も、文(ふみ)だったわけなので昔にもどったともいえるかも?

sponta
質問者

お礼

ありがとうございます。 みなさんの意見を呼んでいて、私の中のわだかまりもじょじょに消えつつあります。 一人で読むのはつまらないから親に聴いてもらう。 その行為の中で、こどもそれぞれが価値を見つけていくんでしょうね。 大人の私は、谷川氏の詩に、実世界と言葉世界の断絶を感じ、嫌気がさしたのですが、それにしても、子供が感じればいいこと。 もっとも、大人たちに半人前扱いされ、絶望の日々を暮らしているこどもたちのほうが言葉世界と実世界の断絶を痛切に感じているかもしれませんしね。

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