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明智光秀について

明智光秀の本能寺の変について過去ログなど拝見しましたが一つ分からない点があって質問させていただきます。 光秀が5月半ばに信長の命によって徳川家康の饗応役をしていたときに、信長から秀吉を助けるために光秀も毛利家攻撃への出るようにと命令が来てその時かその直後かの信長の下知で光秀の自分の領地である丹波と坂本の城などは召し上げられ、毛利攻略の後、毛利家領のうち石見(と出雲?)を宛うといういわゆる「切り取り」の指令が下ったという話を聞いたことがあるのですがこれは史料として今でも残るものがあるのでしょうか? 本能寺の変の一因として光秀がこの件でかなりショックを受け信長に対しての恨みを募らせたという説を目にしてちょっと気になっています。切り取りという行為は光秀以外の織田家家臣の武将にも行われていたようなのですが。。。 このとき毛利家で山陰方面の主力だった吉川も光秀も個人的に好きなのでもし本能寺が起きなかったら。。。と思うといろいろ考えてしまいました。

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  • shoyosi
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回答No.5

切り取りの件は「明智軍記」に記載があります。原文では「然る処に、青山与三を上使として、惟任日向守に、出雲、石見を賜うとの儀なり。さりながら、丹波、近江は召し上げられるる由を申し捨て、帰りける。」とあり、その後、家臣が佐久間、林、荒木などと同じように当家も滅ぼす様なので、謀反を是非にご決心くださいと眼に涙をためて申したので、光秀はこれに従がったとあります。  史家の徳富蘇峰は「これは立派な小説である。いかに猛断、威決が信長の本色なればとて、光秀の既得権を没収して、これに代えるに未得権を以ってすべきや。いわんや、その臣下どもが、光秀に向かって、謀反を勧告したなどとは思い掛けもなきことじゃ」と否定しています。

guwappa
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 「明智軍記」にあったんですか・・・・・。そのものの史料価値について考えないといけないのでその下知についてもかなりの検討が必要なようですね、 家臣の気持ちとしては複雑ですよね。ただ光秀ほどの武将が勢いで行動を起こしても・・・とそれだけならば思いとどまるような感じもします。あのような行動に出た理由は本当本人しかわからないのかもしれませんね。

その他の回答 (4)

  • gokuh_
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回答No.4

個人的な解釈ですが。 ・「切り取り次第」の信憑性に付いては判断は下しきれませんが、あっても不思議は無いと思っております。 ただ「それが原因」で謀反を起こしたとするには疑問を隠しきれません。 もし、本当に「それが原因」であれば光秀は極端なマイナス思考の持ち主か、既にノイローゼなど精神的に窮地に立っていたと見るべきで、光秀が計算ずくで謀反を起こしたのならば理由にとするには無理があると思うのです。 「切り取り次第」は「領地を召し上げる」点で処罰ともとれますが、一方、其れに見合う領地を条件付ながら渡すとお墨付きを貰っているのです。 例えば秀吉が中国地方の領地をどれだけ奪っても、武将をどれだけ攻略してもそれが秀吉のものになる補償は微塵もありません。 他の大名ならイザ知らず、信長ならば中国地方平定の後は複数の武将に分け与えられ秀吉が独占できるなどとは考えられません。 それを信長は「山陰地方」に好き放題に切り取れ!秀吉が山陽を荒し毛利が弱体化し山陰が労せず手に入ったとしても「好き放題切り取れ」と言ってくれているのですから、こんな好条件はありません。 これは今日でも用いられている経営戦略では無いでしょうか? 例えば会社の関西進出の為、東京本社から役員を派遣する。 この時、本社が事細かに人事・経費など徹底管理して拡大を図るか? 本社役員の任を解き関西小会社社長として出向。 この時、本社からの給料を一切なくし、関西小会社の経営の中で関西小会社としての報酬を思う存分取れ。 そんな荒っぽい人事も珍しいことでは無いでしょう。 この時、関西に左遷だ・・・とマイナス思考になるか? 関西を東京本社に並ぶ二大拠点にまで伸し上げ会社の要と出世しようとプラス思考になるか? ワンマン社長ならやりそうな手ですが、信長にも似た傾向があるのでは無いかと思っています。 実際、信長の家臣の中で出奔・追放は珍しくありません。 前田利家も信長の寵臣を切り浪人となりながらも自らの意思で信長の戦に馳せ参じ、家臣団に組みいりました。 彼の弟や他の複数の小姓たちも同様、一旦出奔した後、自らの意志で三方ヶ原の戦に加わりました。(この時は空しく討ち果てましたが、生きていれば二度三度と繰り返し信長家臣に返り咲きを果たせたかもしれません) 佐久間父子追放も一般には家臣を使い捨てにした様にも言われますが「地位に胡坐をかかず、必死に働け!」といった様な事を書き並べた様な折檻状を作り、そのシメに「こうなればどこかの敵をたいらげ、汚名を濯いだ上帰参するか、どこかで討死するしかない。」と述べています。 一旦、領地も財も召し上げ追放するから「汚名を濯いだ上帰参」してみろ! と叱咤激励とも取れる様に思えるのです。 光秀に対しても「背水の陣を取れ」「もう後戻りは出来ない、必死に働け」「帰り道、逃げ道があると気を緩めるな。前を見て一心に突き進め」とメッセージを送っている様に思えて仕方が無いのです。 ですから、光秀程の武将が「切り取り次第」と言われて恨みに思うのだろうか?と疑問が湧きあがってしまうのです。 もし本当に、その程度の男であったら悲しい事ですが。 私は何か他に彼を追い詰めたモノ、主を打ってまで掴みたかったものがあると思うのです。 と、ある戦国ファンの一考察でした・・・。

guwappa
質問者

お礼

非常に面白い考察をありがとうございます。 切り取りの件は確かに秀吉が毛利を屈服させた後でそこを完全に秀吉だけが独占させるつもりはなさそうですよね。信長という人間の性格を光秀も良く知っているからそういう下知を下した主君が意図するものを理解できていたハズですし。 ただ光秀がいわゆる「天下取り」を考えていたかどうか・・・もしそうであるなら本能寺後の処置についてあちこちに書状は送っていても、もっとより具体的な方法を考えていそうなんですけど。。。。光秀という人間が大好きなのでいろいろな可能性を考えてしまいます。

noname#20310
noname#20310
回答No.3

 昨年NHKの「その時歴史が動いた」では違った見方の本能寺の変をやっていました。その内容は光秀は領地を取られたから信長に謀反を起こしたという恨み説ではありませんでした。  私は光秀は恨みだけで謀反を起こすような人物ではないと思っているので、このNHKの説にけっこう興味を持っています。  織田信長の築こうとしている世の中があまりにも室町幕府のやり方と違うので、足利氏が光秀に密かに命令して信長を暗殺したという内容でした。そもそも信長が光秀を家臣にしたのは、秀吉や利家のように戦で功績を挙げたわけではなく、政治に精通し、公家と近い関係にあったからだと言います。  信長のやり方は表向きは室町幕府とうまくやるという振る舞いでしたが、実は室町幕府を倒し自分が主君になろうとするものでした。足利氏としてはそんな信長を許せず、光秀に暗殺指令を出します。光秀も信長が築こうとする世の中よりも、室町幕府中心の世の中を望んでいました。誰よりも幕府に対する忠義心が強い光秀はついに決断するという時がその時歴史が動いたというのです。  ちなみに天王山の決戦の時、秀吉側についた池田や堀などの武将は、光秀につくか秀吉につくかで、光秀につくと過去の室町の世の中に戻るけど、秀吉(信長)についたら働きによって領土がもらえるという希望があったからとのことです。  はっきりと覚えていませんが、参考までにURLをご覧下さい。

参考URL:
http://cgi2.nhk.or.jp/sonotoki/syoukai/p0207.html
guwappa
質問者

お礼

NHKのその番組は私も見ました。 光秀が上杉に宛てた手紙には非常に驚かされました。確かにもともと光秀は義昭についていたし京都の旧幕府派や公家などとの関わりもあったことを考えると彼らとのつながりは大きいでしょうが、本能寺後その勢力と共に天下を目指すというのはかなり無謀であるともわかっていた気もします。。。。 感情だけで動くような武将ではないので、何かそれ以上に彼を突き動かしたモノ(人やモノ)があったのでしょうが一体何だったのでしょう。。。。。 回答ありがとうございました。

  • snowbees
  • ベストアンサー率22% (173/760)
回答No.2

「真説・本能寺の変」小学館、2002年が、諸説と史料を列挙しています。結論は、四国の長宗我部氏の領地取上げに伴う「怨恨説」で、これはNHKの「その時、歴史は動いた」でも採用しています。下記の「本を探すウエブ」に、「本能寺の変」を入れると種々ヒットします。空想と自説を展開するのは楽しいですね。

参考URL:
http://webcatplus.nii.ac.jp/assoc.cgi
guwappa
質問者

お礼

この本の存在を知りませんでした。情報ありがとうございました。 四国責めの件は怨恨がその原因の全てとは思えないまでも光秀や斉藤などのプライドを傷つけたのはあると思います。自分が四国の処理を任せられると思っていたでしょうし。 回答ありがとうございました。

  • nozomi500
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回答No.1

以前、「大胆仮説・じつは、信長は本能寺で討たれていない」を書いたことがあります。 現実的には「命令」はあったにしても、「執行」するには、光秀が毛利戦から帰還してからでないと無理だと思う。 光秀自身は織田家からいえば「よそ者」なので、諸国平定が一段落した段階で、有能なよそ者を排除しようという発想は、家臣にも信長本人にもあったと思います。 (頼朝が弟義経の討伐をしたように)

参考URL:
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=309524
guwappa
質問者

お礼

確かに光秀は信長に重んじられてはいても秀吉や利家のような叩き上げではないですし、そういう意味では京に人脈をもっていて知将である彼を信長はある意味で警戒していた可能性はあるかもしれませんね。 確か一説で蘭丸が光秀が反旗を翻すかもと信長に言ったことがあるという話も聞いたことがあるのであの信長ですから用心に用心を重ねていたかもしれません。 回答ありがとうございました。

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