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本当の愛ってなんなんでしょうか?

本当の愛ってなんなんでしょうか? 私は以前から自己犠牲の上に愛がある。 そう考えていました。 けれども、その考えに矛盾を抱くようになりました。 犠牲と考えているうちは愛ではないという矛盾です。 うまく伝わるでしょうか。 自己犠牲の上になりたっていた愛だから、とても苦しいものでした。 病気になるほど苦しいものでした。 それでは、本当の愛とはいったいなんなんでしょうか? 自分を捨てずに愛が語れるものなのでしょうか? 哲学という意味もよく解っていないのですが(一応ウィキペディアは確認しました)、こちらのカテゴリーで質問させていただきます。 今は、純粋に愛の意味が知りたいのです。

noname#128382
noname#128382

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noname#80116
noname#80116
回答No.34

 No.33です。  つづけて 引用から入ることをおゆるしください。  《思っていない》からと言って そのことを《知らない》わけではないという議論から始まっています。《知っている》としても 《思っていない》なら まだ 実践ではないという意味にも進みます。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  例えば 私たちは多くの学問に通暁している人について かれが今 医学について思惟していて 文法学について思惟していないからとて 文法学を知らないとは言わない。つまり 自己を知らないことと自己を思惟しないこととは別なことである。  したがって 愛の力は非常に大きく 愛によって長らく思惟しており 気遣いの膠(にかわ)によって固着していたものを 自己を思惟するため或る仕方で〔自己に〕還帰するときでも一緒に連れ込むほどである。  それは 精神が肉の感覚をとおして外側で愛好した物体である。精神はそれとの長くつづいた或る種の親密な交渉によってそれと縺れている。  だがいわば非物体的な本性の領域である内面へ 物体そのものを一緒に引き入れることは出来ないから 物体の似像(にすがた)を思い廻らし 自分でつくり上げたものを自己自身の中へ引き入れるのである。  その似像をつくり上げるとき 自分自身の実体の或るものをそれに与える。しかし精神は自分のうちに このような似像のかたちについて自由に判断する能力を保持している。これは適切な意味で精神( mens )であり 判断するため保持されている理性的な知解力( intelligentia )である。  物体の類似によってかたちづくられるあの魂の部分を私たちは動物と共有していることを知っている。 (アウグスティヌス:三位一体論10・5) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである》というとき その《試練》をめぐって 思索するわけです。  相手との関係において 《愛の力は非常に大きく 愛によって長らく思惟しており 気遣いの膠(にかわ)によって固着していたもの》があると 知ります。精神すらも それら固着物と もつれています。  大きくは 偉大なこととしての試練を進むで いいわけですが この言わば外側で《固着していたもの》については 必ずしも 讃えられるべき愛ではないと知ります。それでも 必要に応じて わたしたちの《魂は 善き意志によって 私的なものとしてではなく 公共的なものとしてこのようなものを〔も〕愛する》と思いますが 要するに このように広い意味を持ったいろんな情感としてのような《愛》を 仕分けしてゆくこと これが ふつうの愛なのではないでしょうか。  仕分けが出来れば それに応じて どんな《小さなこと》・たわいないことをも ないがしろにせず 人と ふつうに――つまり 自然本性にのっとって―― つきあっていけるのではないでしょうか。  これは 概念や理念としてであるよりは 実践としての愛の問題ではあるのですが。  理念としてなら 人間存在・その生命から始まって 自然本性 つまり 特には自由意志 これを 互いに とうとぶということ それを 互いに 踏みにじらないで守るということが ほんとうの愛なのではないでしょうか。

noname#128382
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 仕分けというからには、どこかに人間の計算染みた考えがあるようにも捉えてしまいましたが、 人の愛はやはり人でしかないから、小さなことは仕分けするよりほかないのでしょうね。 >《思っていない》からと言って そのことを《知らない》わけではないという議論から始まっています。《知っている》としても 《思っていない》なら まだ 実践ではないという意味にも進みます。 まさに、愛を仕分けするということについても、今このような状態です。 説明しづらいのですが、自分の中で 愛は心で実感するものであって、頭で考えるべきものではないという拒絶感があることに、まず気づきました。 けれどもここは哲学カテです。 ここで得たものは、従来の自分では持ち得なかった知識ばかりでした。 回答いただいた皆様に大変感謝いたします。 たぶんどの回答も愛なのだと思いました。 皆様にポイントを差し上げられず、大変申し訳ないのですが、 自分とは別の角度から、愛を考えていただき衝撃を受けた回答にポイントを付けさせていただきます。

noname#128382
質問者

補足

締め切る前に補足です。 書いてみて気づいたのですが、 >愛は心で実感するものであって、頭で考えるべきものではないという拒絶感があることに、まず気づきました。 この言葉は次の意味に置き換えることが出来ました。 自分は感情で実感するものであって、頭で考えるべきものではないという拒絶感があった。(もう過去形でいいと思います) 自分の周りにある愛を少し観察してみようと思います。

その他の回答 (33)

  • noname002
  • ベストアンサー率36% (97/264)
回答No.23

>本当の愛 普遍的な、とかいう意味でしょうか? こういうことって、いろんな面から考えられるし定義も難しいですよね。長い投稿になりそうですので、そのおつもりで覚悟してください(笑) >犠牲と考えているうちは愛ではないという矛盾です。うまく伝わるでしょうか。 ええ、分かりますよ。 これまでに寄せられた各御回答いずれも良いことを仰っていると思います。失礼ですが、それぞれから引用させていただきますね。 >本当なら、愛している相手に尽くすほど、自分も嬉しくなるはずです。(No.1さま) そういうことですよね~。尽くしたい相手がいて尽くせる自分が嬉しいのです。 >情けないことに、夫や子供や家族に恵まれていても、こうです。 御質問者さまが仰る「恵まれていても」というのは、単に配偶者や子どもがいる、という意味なのでしょうか? >昔は一人でいることが当たり前でした。だから、なんとも思ったことなんてなかった。 ええ、一人でいることも悪い事ばかりではありませんよね。むしろ他者との接触が少い分、心煩わせたり傷つくことも減らせるかもしれない。当たり前だと思っていることで傷つくなんてことはありませんから。当たり前じゃないはず!と思うから傷つきます。 >>余談ですが「優しさ」は傷つくことから生まれます...(No.2さま) もっと言えば、その傷を乗り越えることができた者、もはや傷を怖れなくなった者が真に優しくなれるのだと思います。傷にまみれるばかりのさなかにいる者には無理なことなのでしょう。 >自分の心に人を寄せ付けなかっただけなのだという気が よくお気づきになったのではありませんか。ここに気づけないでいる人、なかなか多いように見受けます。 >例えば親が子供の髪を撫でたり抱きしめたりするのに、何か子供から返して欲しいと意識してやるでしょうか?彼女が本当に愛する彼氏の誕生日プレゼントに、自分の誕生日にはもっと高価なものやこれ以上の何かを、と計算しながら誕生日プレゼントを選ぶでしょうか?(No.5さま) >>例えば親が子供の髪を撫でたり抱きしめたりするのに、何か子供から返して欲しいと意識してやるでしょうか? 抱きしめた段階で子供から暖かさをいつももらっています。 >私が愛を与えるのではなく、子供からもらっているのです。 よく気づいていらっしゃいます。 これも、もっと言えば、なぜ撫でたり抱きしめたくなりますか?それをして、何かもらうのでしょうか?すでに、もらっているからではありませんか? 欲しい何かをもらうため計算して何かをするのであれば、その欲しいものをもらってないということなのです。 私は他者にプレゼントするのが好きなほうです。それ自体が楽しいことなので、それだけで、じゅうぶんに満足できます。そのうえ相手が喜んでくれたら、もっと楽しいです。 自分から何か与えたつもりもないのに、何かのひょうしに相手が喜んでくれたりしたら、逆に自分がプレゼントをもらったような心地になります。こういうことありませんでしょうか? 「親は自分が産んだ幼い子どもにニッコリ微笑んでもらっただけで、じゅうぶん恩返ししてもらっていると思うんです。」むかし、落語家の桂三枝さんが、このように仰ってたと記憶してます。 >夫の足や肩腰を揉むときに、今やったから自分も揉んでもらおうと思うのですが結局揉んでもらわずじまいで、また揉んでしまう自分がいるので。 いい奥さんです(笑)そうですね私だったら最初から「あとで私も揉んでくれるなら揉んであげる」って言うでしょうね。交換条件(笑) むかしのことですけど私なんか指圧やマッサージが得意な彼に、いらない、って言ってるのに無理やりみたいに揉まれたあげく「さあー今度はオレを揉んで!」と強迫的に請求されてました(笑)でも、だからといって彼が憎くなったりはしませんでした。 私も指圧とか、わりにうまいらしいのですが、亡くなった母に、よく指圧して、と頼まれたので、それで鍛えられたのかもしれません。母は高血圧で、危険性の高い病気をいくつか背負っていたので、私は母が少しでもラクになってほしい一心で指圧をしてあげました。母は「テキメンやわ。目の前にかかってたモヤみたいなもんがスーッと晴れていくわ」と喜びました。 実は私自身も母ゆずりの撫で肩で非常に肩が凝り易いのですが、耐えきれずに、たまに母に指圧してもらったりすると、その間じゅう、かえって母の負担が増すのではと心配になり、早々きりあげたものでした。だからといって母に恩着せがましい気分になったことはありません。 母は、その死後に私に対する残酷な仕打ちが発覚した人ですが、もしも時間が戻り、母の最期を、骨身を削る渾身の力を振り絞っての努力で看取らなければならない状況に再びなったとしたら、それでも私は同じことをしたでしょう。何もかも分かっていても! >例えば、行為としては尽くしていても、相手を甘やかしてダメにしたり、なんらかの反応が自分へ返ってくることを期待したりしたら、それは結果として相手から何かを奪おうとする行為になりますので、上記の愛とはベクトルが逆です。相手の関心をひいたり、クモのように糸でがんじがらめにするような気持ちも、同様に苦しみの原因となると思います。(No.6さま) >私の自己犠牲はどちらかというとこれに近いですね。前者の甘やかすということ、これには当てはまりませんが、後者の期待すること、これは、そのものズバリそうです。 >相手に期待しなければよいのでしょうが 「惜しみなく愛は奪ふ」って文芸作品がありましたね(笑) 甘やかしてダメにしてしまった相手に報酬を期待するなんてことは、それこそ厚かましく理不尽なことで、問題外だとしても、期待して、つまり報酬を見込んで犠牲をはらうというのは、それは、いわゆる「条件付の愛」とでも言うんでしょうか正確には「取引」ですよね。 >限定的な愛においてはどうしても愛情の強さに優劣がつきます。区分、区別なしに考えますと、愛する対象が固定されずすべてが一体の愛に包まれます。(No.7さま) 自分の欲や損得という限定条件がからむと、優劣や順序がつくのは当然ですよね。ビジネスになっちゃいますか。 >存在そのものが愛だということなのでしょうか。 >やはり、人にとって欲望を越えた愛というのは、難しいのでしょうか。 おそらく、まだ頭のなかだけコトバのうえでだけ仰っているに過ぎないのでしょうが、多分イイ線を突いていらっしゃると思います。 素朴な言いかたをすれば「いてくれて良かったな。そこにいてくれるだけで良かった」こういうことだと思います。 >そのほか何でも無視や否定や逃避などをしないで容認することではないでしょうか。そのためには簡単には崩壊しない自分を持っている必要があると思います。(No.8さま) >>そのためには簡単には崩壊しない自分を持っている必要があると思います。 私にはこれがありません。だから悩むということ、それがはっきり理解できました。 容認するというのは、適切な距離感をつかむことから始まります。密着して自分のなかに取り込むこととは違います。それは支配欲と繋がっています。 「簡単には崩壊しない自分」を持つのは誰しも厳しいことでしょうが、「自分を崩壊」させないことは、自分のためだけではないのです。 あれやこれやと要求事項が多い(つまり欲が多い)ほどに、崩壊に至る条件をも多く抱え込んでしまうことになります。 >なにも言えずに我慢していた頃というのがあり、それを今も引きずっている。この気持ちが自己犠牲という発想につながっているのではないかと思い始めました。 生育環境の問題もおありだったようですので、そういうかたちでしかやってこれなかったのでしょう。それが貴方の精一杯だったのでしょう!でも、もうそろそろ、そこから一段上がるべきときではないかと御考えなのですよね? >>この生命にとって基本的に備わる希求を素直に認める事無く、自己犠牲的に誰かのためになるようにと考えても結局は自己を苦しめ悪感情を募らせて、結果てきに他者の希求も読み取れずに共倒れになる危険性を持ってしまいます。(No.10さま) そのとおりだと思います。もっと言えば、その「自己犠牲」は本当に「誰かのため」だけなのか考えてみればいいと思います。もし、その「自己犠牲」なるものを貫いた結果、他者へ向ける悪感情と変容し他者を傷つけ、共倒れになってしまうなら、そんなもの、なんの価値があるのでしょうか。 >人間同士では金銭、損得が介入しやすいので、動物にたいする感情を思い出してください。(No.11さま) 私自身は、あまり損得勘定が影響しないというか、そういうスタンスで考えること自体が、どちらかと言えばメンドウな性分で(マメじゃないんです)そのうえ、ヒトというものが、あまり良いものと思えないのも正直なところで、私個人的には、温かいもの良きものは、むしろ人よりも身近の動物たちから、いろんなことを多く教わったという実感があります。 むかし、実家の庭に居ついた猫たちにオヤツを分け与えながら、「アンタら、たまには菓子折りの一つも持ってこんか~い!」などと言ったことがあります(笑)なぜか猫たちは一斉に、それっとばかり足もとの小石を使って、お手玉のごとき芸を披露して見せてくれました。それだけでしたが(笑) 猫好きの人たちが言ってたのですが、猫が、おなかいっぱいになって満ち足りて、ひなたぼっこしながら皆で寛いでいる姿を見てると自分もまた満ち足りた気持ちになると。 もちろん、私は人からも温かい良きものを教わっております。しかし、それ以上に、見苦しい醜いもののほうを多く学んだようにも実感しています。ヒトの知能が(中途半端に)発達しているせいもあるのでしょうね。 自分の生き残り策を練ることもできない赤ちゃんは自分の世話をしてもらうことを何らの気の咎めなくアッケラカンと要求し、世話をしてくれた者に礼一つ述べるでなく、ただ機嫌良く微笑みます。その微笑には何の媚びへつらいもありません。掛け値のないものです。ですが私たちは赤子そのままのような状態ではいられませんね。 >>大きな存在になって、相手を包み込む。ことこそが本当の愛です。(No.12さま) >ただ、これに関しては一歩間違えると支配に繋がりそうな気がしました。いえ、自分の中で包み込むこと(包み込まれること)=支配すること(支配されること)になっているからだと思います。 相手よりも「大きな存在に」なることや「包み込む」「包み込まれる」ことを「支配」ということに繋げて考えるうちは、そういうふうに捉えてしまうだろうと思います。 「支配」するためでもなんでもありません、自然に湧き上がり、むしろ自分自身が、その湧き上がったものに包み込まれてしまうような感覚になると思います。「真か偽か」など気にする必要すらありません、そうなってしまったら。 >「自分にとっての愛」と「絶対的な愛」という二つの方向で求めており、それが自分の中でうまく消化できず 「自分にとっての愛」が分かったら「絶対的な愛」についても、だんだん実感で分かってくると思います。 >神の愛、アガペー(No.16さま) のことも挙がっていますが、私は、このアガペー、通常は別ものとされますが実際の感覚としてはエロスの感覚と密接に繋がっているもののように思えます。(プラトンとも関係あるのでしたっけ)損得勘定の付け入る隙もありません。満ち足りているのです。ですから自分にとっても愉悦、よろこびなのです。 愛は存在を愛しむ(かなしむ)のです。 >「自分が耐え忍び相手を満足させる存在」 「自分が耐え忍び」自分を満足させることができないなら不要です。それを強迫がましく要求する者に従うことも不要です。それは即ち、相手のためなどには断じてならないからです。 とは言っても現実生活のなかで、ことに御家庭をお持ちのかたでしたら難しいものがありますでしょうね。 >例えば、家が火事になり子供が取り残されたとします。私はその子供を命がけで助けに行く自信がありません。例えば、悪者が自分の子に刃を向けたとします。私は盾になる自信がないのです。 私の中にある絶対的な愛の中では、私は身を挺して子供を助けなければならないのです。けれど現実にそのような状態になったら、私は身動き一つとれないでしょう。その矛盾によって苦しめられていたのだと思います。 この補足を拝見したところで、ああ、そうか、とハッとしました。 お苦しいですか! でもね、近頃は、我が子が愛せないとか「条件付の愛」しか持てない親だとか話題になるようで、決して御質問者さまだけの問題ではないと思います。むしろ気がつくことすらないままに過ごしている人だって多いんじゃないでしょうか。命の危険に曝されたとき反射的に我が身をかばってしまうのは本能的なことでもあります。 私が中学生の頃、酔った父が母に暴力を振るうのを割って入り今度は私が、したたか殴られ蹴られという事態になったのですが(毎度のことでした)割れたガラス戸の破片の上を髪をつかんで引きずり回されている私を救い出してくれと、母が、お隣のかたにすがったものの、いつも父を一捻りで押さえ込んでくださる逞しい警察官のおじさんが不在だったため、仕方なく様子を見に来たおばさんも「私だって怖いわよ~」と言って怖気づいたそうです。 そういえば石川五右衛門の伝説でしたか、釜茹での刑にされたとき、しばらくは頭上に差し上げて湯のなかに漬けまいと支えていた幼児を、いよいよ湯が熱湯になってきたとき、思わず、その幼児を尻の下に敷いてしまったとか。五右衛門の実子であったとか。 何の先入観も計算も持たないような幼子だって、ふだん自分の世話をしてくれる者、可愛がってくれる者という、言わば「条件」から懐くものですよね。この幼子の「条件」は、切実なものですね。 では御質問者さまの、御家族に対するお気持ちには切実さがないのでしょうか。 御家族は、貴方にとって、いてもいなくても大したことではないですか?もしも、いなくなっても大して痛痒は感じないでしょうか? でもね、もしも、そうであったとしても、そのこと自体で御自分を責めないでくださいね。いまは慌てないでください。御自分でも認めてらっしゃるようですが、慌てても、どうなるものでないです。いつか成長したお子さまたちに、こうしたことを御自身より先に気づかれ指摘されたとき貴方が、それを認めることもできなければ、お子さまもまた、苦しまれることでしょう。 まずは自分で気づけたということが重要です。 >ここで書いた「絶対的な愛」これも自分の理想という、自分自身でしかないのです。故に純粋な愛とは違っている気がします。 >愛が絶対的なものだと考えている(理想)が、自分にはその感覚(現実)がないのです。理想と現実の矛盾です。その矛盾が私を苦しめるのです。 「理想と現実」の乖離、矛盾、よくあることです。ただのニンゲンですもの。まして理想が、いや増しに高ければ高いほどに!そして、その高い理想はまた、これまでの人生の長らくのあいだ、ごく素朴な実感、「感覚(現実)」を得ることが難しかったからこそ、かもしれませんね。 理念とか理想論とかは、実感に乏しいからこそ、こねくりまわしたくなるものではないでしょうか(笑) >自分なりの美しく感じる愛 即ち、何ら自らを恥じることのない愛ということでもありましょうか。 私たち、自分の身に刃を突き立てられる痛み苦しみを他者のうえにも同様に実感することができるでしょうか。実際は、自分の身のうえから想像して他者のうえに敷衍し慮るのですよね。そうすることによって人の世をまわしています。つまり自分のことのように感じるからというよりは、飽くまで自分なら…という視点によって、おそらく、こうであろうからと判断しています。そしてそれで、なんとか通常うまくやっています。また、ときに他者の深い苦しみに思い馳せ「いまの自分には思い及ばないことであろう」と、謙虚を忘れまいともします。 貴方が御家族に対して、理念や理想からしか動けないとしたら、それは御自分を責める材料になるのではなく、むしろ気の毒なことのように思います。そしてまた、いかにも人間ならではの態度とも思います。 >自分より強い信念で持って克服していくほかはないと思いました。 どうか強迫的になることのないように。本来、克服ではなく湧き上がるものです。ですから湧き上がらないからといって強迫的に克服しようとしても苦しさが募るだけじゃないかと思います。 いまは、自覚されたことに則るならば、相手に「取引」を強要しないこと、いえ、むしろ「取引」を必要以上に罪悪視しないことです。御自分が自然に欲していることは隠さずに伝えること、伝えてみてダメなら何故なのか相手に尋ね、考えもします。言わなくても察して報いてくれるべきと思うのならば、まず自分自身が相手にそうしなければならないわけで、それが、はたして全うできているか自分で分かるものでしょうか?そこから相手に対する不寛容を戒めていきます。 「あんたのため」と押し付ける人は、やがて苦にされます。だからというので「あんたのため」を口に出せず呑み込む人は、いつか、おなかが膨れて爆発するかもしれません。まわりをメチャメチャに破壊しなくて済むように「ガス抜き」も大事です。「ガス抜き」程度を重大に構えてしまう人は、なぜなのか考えてみたほうがいいでしょうね。多分そこには自己無力感とか自己卑小感とか、その反面の他者への期待感、依存心といった心理的なものが絡んでいると思います。それは、かつて周囲の他者から影響されたものかもしれませんし自分自身でも作りあげてきたものかもしれません。 まずは貴方の仰る「自己犠牲」は、貴方を生かすものですか、殺すものですか。これを何のために存在させているのかを考えてみてください。それが貴方にとって有用なものなら、貴方が一方的な「自己犠牲感」で苦しむことはないはずなのであり実のところ無価値で有害なばかりのものとしか思えないなら、手離すことを心がけてください。 お子さまたちに対して、心からの切実さでもって、その緊急の危機から救うことが貴方に不可能なら、人として、人の子の親としての理念、理性のみからでも果たすべきことは果たしてください。心からの切実な欲求がないからといって、いまさら、お子さまたちの養育を放棄できませんよね?人間ですから、一応まともな大人として生きる以上、責任は果たさなければなりませんものね。これは自分のためとは本当に無関係なことでしょうか?(もちろん気がつかなかったフリはできるかもしれません。そのかわりに自分で背負い込むことになるかもしれない重たいものに耐えられるなら!) No.19さまが、とても良い引用をしてくださってますが「自己愛の重要性」「他人と同じように自分を愛すること」「また、自分と同じように他人を愛すること」これらは矛盾などすることではないのです。 実際には、なかなか、「同じように」とまではいかないと思いますが、自分を愛することは他者を愛することに繋がり、自分を愛せないなら他者も愛せない、自分に不寛容なら他者にも不寛容、本当のことだと思います。 今さっき拝見したのですがNo.22さまの >自己犠牲してやってる、という人の気持ちは、どうしても外に漏れますし、とくに自分が守ってもらう弱い立場の場合は敏感になってるので、そういう犠牲になってやってる、なる気持ちはびしびし感じることになります。本人は表に出してるつもりはなくても。接していれば分かります。無意識は、常に表に表現されるものですから。 ここ、鋭いですよ。特に、お子さんをお持ちのかたは心すべきことではないでしょうか。 私の学校時分の恩師が贈ってくれたコトバに「誠実一途に生きよ」というものがありました。人間は誰しも何かしら欠けているもの足りないものを抱えながら生きているようなものですから、せめて「誠実一途に」生きることを努力してみて初めて自分を許せるようになるのかもしれません。自分を許したくない人なら「誠実」なんてチャンチャラおかしいでしょうし他者に対しても堂々、不寛容であり続けられるでしょう。ただ何をもってして「誠実」であるのかということも、なかなか一筋縄ではないかもしれませんが。 Jレノンの「Love」って曲、御存じですか? Love is real, real is love, Love is feeling, feeling love, Love is wanting to be loved. Love is touch, touch is love, Love is reaching, reaching love, Love is asking to be loved. Love is you, you and me, Love is knowing we can be. Love is free, free is love, Love is living, living love, Love is needing to be loved. 愛は真実(現実) 真実(現実)が愛 愛は感じること 愛を感じること 愛は愛されたいと思うこと 愛は触れること 触れることが愛 愛は手を伸ばすこと 愛に手を伸ばすこと 愛は愛してくださいと頼むこと 愛は君 君と僕 愛は知ること 僕達が愛になれることを 愛は自由 自由が愛 愛は生きること 愛を生きること 愛は愛される必要があるということ ということで、とっても自然なもの、って感じですね。 「愛は愛してくださいと頼むこと」これ、人によっては、なかなか難しいみたいですね。それもまた自己保身の計算が働いているからでしょう。かつての私も思い当たることですが、後悔してる人も多いんじゃないでしょうか(笑) >自己犠牲の上になりたっていた愛だから、とても苦しいものでした。病気になるほど苦しいものでした。 それでは、本当の愛とはいったいなんなんでしょうか?自分を捨てずに愛が語れるものなのでしょうか? 逆なのでしょう。「自己犠牲のうえに」愛が成り立つじゃなくて、愛のうえにこそ自己犠牲が、でしょうね。だから「病気になるほど苦しい」はずがない。もしそうなら、それはどこかが不自然だからでしょう。 貴方は「自己犠牲」と名づけた貢ぎ物と引き換えでなければ愛を要求する資格はないと心の底で思っていないでしょうか? 貴方は「愛」というものを欲していますか?それがどんなものか知っていますか?そもそも知らないとしたら欲するはずもないですよね。 語るだけなら何だって語れるんでしょうけど。。。「自分を捨て」るなんて、それこそ不自然じゃないかと思います。。。あり得ない!というか。。。捨てるべきものはなぁに?                      

noname#128382
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 引用ばかりになってしまいましたが、補足欄にてお礼を述べさせていただきます。

noname#128382
質問者

補足

>御質問者さまが仰る「恵まれていても」というのは、単に配偶者や子どもがいる、という意味なのでしょうか? いえ、精神的に支えてくれる家族がいるということです。私はこちらで家族の問題なども質問させていただきますが、どんなに困った状況になっても、最後の支えは家族なのです。 >「親は自分が産んだ幼い子どもにニッコリ微笑んでもらっただけで、じゅうぶん恩返ししてもらっていると思うんです。」 これに関しては、自分もそう思います。 恩返しどころか、一生分の親孝行を自分の子供はしてくれたのだと思っています。 ニッコリ微笑まなくても、産まれてきてくれただけで、子供は十分親孝行だと思います。 >「簡単には崩壊しない自分」を持つのは誰しも厳しいことでしょうが、「自分を崩壊」させないことは、自分のためだけではないのです。 これぞ、言葉では理解していても、現実に行うことは難しいことなのだと感じました。 >そういえば石川五右衛門の伝説でしたか、 この話とよく似た話を子どもの頃ドラマで見ました。 その話と全く逆の話で、人の犠牲になって死んでいく子の話を壺井栄の本で読みました。 風の谷のナウシカで、周りの犠牲になって向かうものに深く感銘しました。 子供の頃に見たいろいろなものが、良くも悪くも影響を及ぼしているのだと思います。 >御家族は、貴方にとって、いてもいなくても大したことではないですか?もしも、いなくなっても大して痛痒は感じないでしょうか? これは、どうでしょうか。仮に距離が離れたとしても、どこかで生きて存在してくれていれば、あまり痛みは感じないですね。生きていてくれるということに感謝します。 >つまり自分のことのように感じるからというよりは、飽くまで自分なら…という視点 によって、おそらく、こうであろうからと判断しています。そしてそれで、なんとか通常うまくやっています。また、ときに他者の深い苦しみに思い馳せ「いま の自分には思い及ばないことであろう」と、謙虚を忘れまいともします。 「飽くまで自分なら」まさにそのとおりです。 自分からしてみると、相手の身になって考えたつもりなのです。 けれどもそれは「自分だったらこうする」「自分だったらこう思う」ということであって、 「彼女だったらこうだろう」「彼だったらこう思うだろう」ではないのです。 >自分という主張をあえてしてみるということですね。 これは、最近始めました。言わなければわからないものです。言わなきゃわからん。と言われます。 けれども、家族は言わなくてもわかるだろうという態度が出ていますので、ちょっとつらくなるときがありますね。 やはり、言わなければ理解してもらうのは難しいようです。 >まずは貴方の仰る「自己犠牲」は、貴方を生かすものですか、殺すものですか。これを何のために存在させているのかを考えてみてください。 自分にとって「自己犠牲感」はある種のトラウマなのだと思います。一度手離してみなければ、次の段階にいけない気がしています。 >心からの切実な欲求がないからといって、いまさら、お子さまたちの養育を放棄できませんよね?人間ですから、一応まともな大人として生きる以上、責任は果たさなければなりませんものね。これは自分のためとは本当に無関係なことでしょうか?(もちろん気がつかなかったフリは できるかもしれません。そのかわりに自分で背負い込むことになるかもしれない重たいものに耐えられるなら!) すみません、ここが少し理解できませんでした。 一般常識的なことで仰られているのでしたらわかります。 家族を放り出すつもりはありませんし、むしろ家族には感謝しています。 >実際には、なかなか、「同じように」とまではいかないと思いますが、自分を愛することは他者を愛することに繋がり、自分を愛せないなら他者も愛せない、自分に不寛容なら他者にも不寛容、本当のことだと思います。 「自分も愛せないなら他者も愛せない」その理屈も感覚で捉えることもできます。 けれど心が空しさを訴えてくるのです。これは「自己犠牲感」のトラウマなのでしょうか。 >「愛は愛してくださいと頼むこと」これ、人によっては、なかなか難しいみたいですね。 まさにそうですね。「愛してください」言葉でいうのは簡単ですが、心の底から思い素直に伝えることは、とても難しいことだと思いました。 >貴方は「自己犠牲」と名づけた貢ぎ物と引き換えでなければ愛を要求する資格はないと心の底で思っていないでしょうか? そうですね。尊いことをしっているから「自己犠牲」と引き換えでなければ「愛」を得る資格はないと感じているのでしょうね。 >捨てるべきものはなぁに とりあえずの課題は「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」です。

  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.22

なんども済みません(まとめて書け、という話ですが) より実感するために、以下のような例はどうでしょうか? 自己犠牲に対して言えば、 例えば、地震で被害にあってテント暮らししてるとします。 ボランティアの人が来ました。でも彼は、「自分は自己犠牲してるんだ」、と感じてます。 その彼の世話になりたいでしょうか? 僕ならそれは感じ悪いです。 困ってたらもちろんありがたく受けるけど、 でも自分を犠牲にしてる、と自分で思ってる人のボランティアは受けるのはちょっと抵抗があります。もちろん受けますが。 そもそも、俺は自己犠牲してやってる、という人の気持ちは、どうしても外に漏れますし、とくに自分が守ってもらう弱い立場の場合は、敏感になってるので、そういう犠牲になってやってる、なる気持ちはびしびし感じることになります。本人は表に出してるつもりはなくても。接していれば分かります。無意識は、常に表に表現されるものですから。 そんなことは思って無くて結果的に自己犠牲になってる人のボランティアは受けたいです。それは本当に善意だ、と感じられますから。 違いわかってもらえますか? 自分で俺はあんたのために頑張ってやってるぞ、という人の恩を受けるのはヤナ感じなのです。 ーーーーーーーーーーーーー 愛について追加ですが、 愛は実感する人にとっては有の極限すべてのいいものを含むものであり、外から観察するときには、無として理解されるということは、 愛は、視点の位置の違いにより、別のものとして受け取られる、といえます。 人生に集中してる人=愛ある人は、人生に集中しているのは、他に余計なものを持つことがありません。幸せなので、うれしい悲しい、という感情が入り込む余地がありません。そんなことを感じる余裕がないくらい、好きなことに、無意識で没頭してます。 その人の中にあるのは、無意識の強い強い集中力なのですが、それは、気持ちを感じる方法によっては捉えられません。集中力は心の目でも見えません。なので愛も見えません。 自分に愛があれば、ああ、私と同じだ、と感じられますが、純粋に観察把握能力で捉えると、なにも見えないことになります。 そういう人の愛は、観察するときには無でなにもないように見えるし、でもその中身は、強い集中の下で、幸福と充実で満ち足りてます。 逆に、中身が空しい人は、外から観察すると、強かったり、立派に見えたりします。中身が虚無的だと、どうしても外を飾って安心したい心理が働きます。 以上、おまけでした。 話がばらばらで申し訳ないーー。もっと推敲しないとー。

noname#128382
質問者

お礼

再度回答いただきありがとうございました。 #20~#22までのお礼をまとめてさせていただきます。 >愛は「無」として観察されます。 結局のところ、私もこの結論に達しようとしています。 ただ、あくまで現時点の結論です。 >自己犠牲とは、相手に嫌われてもいいから相手のためにやる、という意味ではありません。 結果的にそうなることもありますが、もっと大切なことは、本当の事を知る、事実と向き合う、現実を知る、ということです。 これは、仰るとおり勘違いをずっとしておりました。 まして主観の入らない、事実と向き合うということは、勇気も必要ですが、相手を受け入れて初めて成しえることだと思います。 >このことから、自分がない=相手に感謝、となります。 自分を愛する、とは、自己肯定ということです。 なるほど、人に感謝をしなさい。心から感謝をしなさい。と言われる理由がわかりました。 >その、人生相談的な意味の質問か、哲学的な論理の質問か、ちょっと解釈に迷うところがあります これは、自分としてもどちらも知りたいので、解釈に迷われて当然だと思います。 こちらの質問側に問題があるのです。けれども質問をさせていただき、回答者の皆様からとても満足のいく回答を得られたことに感謝いたします。 >噛み砕ける愛、というのは、つまり、理解できちゃう愛、わかってしまう愛、把握できる概念、ということになります。 つまり、「無」ではありません。 「無」というのは難しいですね。無意識がさせるものそれが「愛」なのでしょうか。 そのまま、ありのままを受け入れることも難しいことがあります。それが無意識にできるようになれば、「愛」を満たすことができる気がしました。 >噛み砕く~って言葉を使うってことは、もともと噛み砕けるような~対象化できる愛は本質ではない、と感じてるからこういう言葉を使ったんじゃないかな~と想像するんですが。 これは、自分の中で回答を理解できたかできないかという意味で、噛み砕くという表現を使いました。 >愛は実感する人にとっては有の極限すべてのいいものを含むものであり、外から観察するときには、無として理解されるということは、 愛は、視点の位置の違いにより、別のものとして受け取られる、といえます。 愛とは本質を理解することに近いのかもしれませんね。

  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.21

すみません、大事なのを忘れてて。 噛み砕ける愛、というのは、つまり、理解できちゃう愛、わかってしまう愛、把握できる概念、ということになります。 つまり、「無」ではありません。 人生を楽しむ赤ちゃんや小さな子どものように、大人でも愛のある人は、人生、という名の、とあるものに、とても強く集中しています。無心で遊ぶ子どもみたいです。 そういう強い集中状態の人を外から観察すると、僕らは何も見て取ることができません。 その人の中に、悩み苦しみ、喜びすぎなどの、心に何か引っかかるものが存在しないからです。つまり、喜怒哀楽が観察できないので、愛ある人には何も見えません。言い方を変えると、愛は、感情ではありません。それは、状態なので、対象化できないので、把握は無理です。 あらゆる愛にかんするいい言葉は、謙虚も勇気も、何もかも、愛の一段面の説明です。直接愛はこうです! といえないからこそ、手を変え品を変えいろいろ言わざるを得ません。 ただ、完全な愛、なんて、いわゆる神様仏様のレベルのことですし、話を論理的にわかりやすくするために、極限の話を持ち出しただけです。 だから、本当に愛のある人には感情はない、といっています。感情と愛は相容れない、ともいえると思います。(これも一つの極限での話ですー) そもそもいろいろ理屈を振り回す人に~僕も含めて~愛があるとあまり僕は感じませんし、そういう実感にも、愛は無である、というのは理屈としてよくあいます。 もちろん、愛を持つ本人にとっては、愛はすべてのあらゆるいいものを生み出す、本、土台、ということなので、愛はすべてのすべて、などという表現がされます。愛は全部であり、同時に、観察する対象として見られるときは、愛は無である、となります。中と内とでは大違いです。 えーとつまり、噛み砕ける愛が底が浅い、と感じられるのは、本当にそう思いますし、ある意味薄っぺらいのは、それが断面にすぎないから、と思います。 噛み砕く~って言葉を使うってことは、もともと噛み砕けるような~対象化できる愛は本質ではない、と感じてるからこういう言葉を使ったんじゃないかな~と想像するんですが。そういう意味なら、僕の言ったことは余計なお世話かもしれません。 把握の対象になる薄っぺらい愛= その把握をする自分がいる、ということです。もし薄っぺらいと感じるなら、それは自分の薄っぺらさの投影になります。 自己犠牲も、犠牲の対象となる「自分」が存在します。自分が「ない」のではなく、自分があって、そのある自分を犠牲にする、という方針です。あるいは、本当にまだ自己犠牲に集中してない、とも言えます。集中の強さではなく、集中の質が悪い、といえます。 そういう意味で、私が被災者を助けてやる、という、初めてやったボランティアの人みたいな精神状態と同じかも、と思います。ちょっと勘違いがあるかな~と思います。善意には変わりないのですが。 それにしても、NO11のような方の回答というかああいう文をかけるようになりたいですー。僕はまだまだ理屈くさくて。 では。

  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.20

こんばんは。 補足があったのでまた書きます。 僕がえらそうなことをいえた義理ではないのですが、あくまで理屈の上で、という話で。 自己犠牲は愛だと思います。 それは立派な愛だと思いますし、気持ちがうまく伝わっているなら相手は感謝してくれると思います。 ただ、愛を、完全な愛と不完全な愛があるならば、 自己犠牲は不完全な愛です。それは立派な愛情だと思いますが、不完全な愛情です。 なので問題点は真の愛情を追求するには、となります。 その、真の愛を追求したいのか、もっと楽になりたいのかで方針は変わりますが。 こんな例えでいいのかどうかとは思いますが、 武士道の主君に対する自己犠牲は、主君への愛だといえますが、 主君への忠誠を極限まで極める必要があるのは、その忠誠は不完全だからです。 この武士が、主君のためをおもって、主君をその地位から追いやり失脚させる、あるいは主君の命を奪うこともいとわないなら、それは武士道を極めたと思います。(たとえば、主君が、ほとんど犯罪者のような極悪非道なことをやりだしたときに、とか) そのときその武士は、もはや相手を主君とは思わず、主君以上の,家族、親子、それ以上の極限まで大切な存在だと感じられるからこそ、一見主君の不利益になることでもやれるからです。これは自己犠牲の極限だと思います。わが身かわいさがあって、自分の不利になることはできない、というのなら、その自己犠牲はまだ、エゴがあります。 自己犠牲を極限まで追及するのはそういうことだと思います。自分のわが身かわいさのカラを破って、真によくなるためにはどうしたらいいか、という視点を持つことが、真の自己犠牲かなと思います。 厳しく言うと、自己犠牲によって、幸せや満足、といった快感を得るのが目的ではなく、ということです。 そういう、幸せ、とか、自己犠牲になって満足だ、など、そもそも感情がわいてる間は、そういうのを思ってる間は、本当の自己犠牲でもなんでもない、ということになります。 つまり、愛とは、主観的には、「何にもない」という状態だといえます。 ただ一生懸命に何かを好きでやってる、子どもが無心で無我夢中で遊んでる状態と同じで、そのとき何かに集中してるので、その人の中には、何もない、感情も自分も忘れて没頭している、といえます。 だから愛を持つ人の心の中を観察したら、そこには「何もありません」。 何もないから、愛です。何かあったら、それはとても作為的なもので、自分を欺きながら無理に努力してることになります。 言い換えると、愛とは何か、とこちらが把握し捉えにいく場合、愛は「無」として観察されます。 メーテルリンクの青い鳥は有名なのでご存知と思いますが、愛は外側のどこか、つまり他人の中には監察できない、それは自分の中にある、という主張をしていますが、 それは、理屈で、愛という精神状態を捉えに行くと、それは心のメカニズムの中では、ある種のデフォルトであり、基礎であり、土台であり、無であり、数学の公理のようなものなので、論理的に把握不可能な性質である、ということを、青い鳥の話は示していると思います。 ないものは捉えられない、ということです。 勘違いを招きそうなので書きますと、自己犠牲とは、相手に嫌われてもいいから相手のためにやる、という意味ではありません。 結果的にそうなることもありますが、もっと大切なことは、本当の事を知る、事実と向き合う、現実を知る、ということです。 事実と向き合う、とは、相手の気持ち、自分の気持ちと向き合う、相手と自分の気持ちの事実を知る、ということです。 これはあらゆる事の中で、もっとも勇気が要ります。だからこそやりがいがあります。 この事実がわかって、本当の今おかれた状況がわかった上で、結果的に相手の嫌がることもするときもあります。 これは僕だけが言うのではなく、仏教でも同じ主張をしていますし、カウンセリングの認知療法も、全く同じ理屈と方針です。 別の例えだと、ボランティアの人たちも、基本的に自己犠牲です。被災者のために役に立ちたい、と思って現地に入ります。 でも、よく聞く話ですが、ボランティアをしてて、助けてもらってるのは結局自分のほうだった、とはよく聞く話です。僕があなたを助けてやる、という気持ちで言っても、最終的にそういう自分はなくなる、という話です。 こういう、エゴを追及してなくす方法=真の愛を感じる方法にはいくつも手段があります。 武士道の話は、自己犠牲を追求することで、エゴを消滅させる方法です。でもこれは今の時代非現実的なので、カウンセリングなどでは、他の方が回答されてるように、全く別の方法を取ります。でも手段は違っても、エゴと自己中心を無くし、自分とと他人を愛する、という目的は同じなのです。 心のメカニズムの話ばかりしてますが大丈夫でしょうか? こういう話を求められてるのであればいいんですが。 自分がないこと、自分を愛すること、自分が自己犠牲をしていた相手に感謝する気持ちがわくこと、などが、みな同じだ、ということはわかってもらえるでしょうか? 無理やり言葉で言うと、自分が自己犠牲できる相手がいてくれてありがたい、問題を起こしてくれる相手に感謝する、ということです。極限の話ですが。自己中心的でないボランティアの方は、みんなこういう気持ちで作業されてると思います。そういう風に気持ちを持っていく、のではなく、自然にそう言う気持ちになる、ということです。 この3つが同じことであるのを説明すると、 相手に感謝するとき、気持ちとしては、相手に感謝する気持ちでいっぱいですし、そのときは相手のことを考えているので、=自分のことは考えていません。つまり自分がありません。 このことから、自分がない=相手に感謝、となります。 自分を愛する、とは、自己肯定ということです。 自己中な自分が「存在しない」(自分を捨てる) = 自分を愛する(肯定する)自分が「存在する」  ということです。 (このような一見論理的に矛盾する構造は、愛が「無である」という前提によって発生しています、なぜなら、愛は、論理的に把握する限りにおいては、愛は「無である」と観察されるし、つまり、愛が無である、ということは、愛という存在は、存在しないことだ、という一見おかしい主張であり事実になっているからです) 肯定、という言葉で愛のことをいうという前提に立てば、自己犠牲、という言葉には、自分を犠牲にする==自分を切り捨てる、自分を否定する、という意味合いがどうしても含まれることになります。自己犠牲という言葉には、自己否定の感情はきっても切り離せません。 だから自己犠牲という追求手段が間違いだ、というのではなく、自己犠牲の精神「状態」は、完全な愛から見ると間違いだ、といえます。その間違いを正すために、さらに自己犠牲に徹するのも、その正反対に自分を愛する努力をするのも、ともに同じ自己他者肯定=本当の愛、への道につながる、と思います。 武士道は、自己否定を極限まで追及することで、逆に自己肯定する、という方針。 心理学では、自己否定を取り去るために、自分を愛する、という逆の方針を持ち出す、 という違いがあります。どちらがいいかはその人の性格次第、と思います。正しいやりかたはたくさんあっても、その人の性格に向いたやりかた、というのはその人にしかわからないので。 武士道やボランティアに見られる、ゴール地点と、その途中の道のりの2つが、全く逆で正反対になる、というのは心のメカニズムではよくあります。 大事なのは、「気づく」ということですし、「気づく」とは、上に書いたように、ただ単純に「現実を知る」ということです。 武士道やボランティアでは、今まで自分が自己犠牲だと思い込んでいた自己犠牲は、本当の自己犠牲ではなかった、と気づくことですし、 心理学的なやりかたの上では、自分を愛する、という意識的な努力の延長線上に、意識してやってるわけではないのに、いつのまにか自然に本気で自分を愛してる自分がいる、ということに気づくことです。 気づく=自覚する=現実を知る。  3つは、この場合、同じ意味の言葉です。 愛は、直接把握すれば、それは「無」なので、何もないこと、が愛です。 上に愛の説明をいろいろしたのは、全部、愛のたとえ話であり、比ゆですし、そもそもダイレクトな説明ができないので、いくらわかりやすくといって手を変え品を変えいろいろ説明しても、それは2次的な説明に終始せざるを得ません、それは愛が、何もないこと、そのものからです。 あるいは、愛に至る方法ならば、やはり上のようにいろいろ言うこともできますが、愛そのものを直接説明できません。 だって、それは本当に、「何もない」と観察されるので。 以上のような話はいかがでしょうか? 書きたい放題書いたんですが、 もしかしてこういう心の理屈を求められてるわけではなにのかもしれませんが、それならすみません。 その、人生相談的な意味の質問か、哲学的な論理の質問か、ちょっと解釈に迷うところがあります いずれにしても,書いていて、ちょっと説明が細かすぎたかもしれない、と読み返して思うんですが。

  • ao-golden
  • ベストアンサー率38% (12/31)
回答No.19

「愛は自己犠牲」 私も全く同じように思っていて、1年くらい前まで、苦しんでいました。でも、それでは本当に幸せになれないなぁと気付き、哲学と実生活の中で追求してきました。そして、最近は自分を愛することを大切にしています。自分を愛して、同時に他者を愛する。自分と同じように他者を愛する。これがポイントだと思います。 聖書には愛について、(要約すると)「愛は寛容であり、情け深い。妬まない。高ぶらない。誇らない。いらだたない。恨みを抱かない。」とあります。これは、このまま私の愛の定義です。そして、私の理想の人格です。 この上で、いくつか本を読みました。 『愛するということ』(E・フロム)では、自己愛の重要性を説いています。他人と同じように、自分を愛することです。また、自分と同じように他人を愛することです。 ―引用開始―  他人(子ども)に対する貪欲な関心を抱いている「非利己的な」人は「自分のためには何もほしがらず」、「他人のためだけに生き」、自分自身を重要視していないことを誇りにしている。ところが、非利己的であることにもかかわらず幸福になれず、また、ごく親しい人々の関係にも満足できないので、当惑している。結局のところ、「非利己的な」人(母親)の影響は利己的な人(母親)の影響とたいして変わらない。いやそれどころか、ときにはもっとタチが悪い。 ―引用終了― とあります。ここから、「自己犠牲」を誇りにしている人の限界がわかります。また、臨床哲学者、教育哲学者である田中先生は、次のように記しています。 よく言われる『兄弟愛』にかんして。。。ここを勘違いすると幸せから遠のくと思います。「自己犠牲」では、以下の『冗長性』は生まれません。 ―引用開始―  友情の本態は、「ホモソーシャルな欲望」(性愛なしの擬似兄弟的・姉妹的連帯)にあるというよりも、「冗長性」にある。それは、親しい間柄である私とあなたとのあいだで、微妙で精妙な意味了解の同調によって可能になる相互承認である。もっと簡単に言うなら、それは、私とあなたとのあいだで冗談が通じるようになり、二人の遊び心が同調(シンクロ)していることである。それは、かなりの時間をかけて相手に慣れ親しみ、相手の言外のニュアンスがくみとれるようになることによって、相手を他者として受容することである。  冗長性のもっとも重要な機能は、それが相手の思わぬ失敗を吸収し「なかったこと」にすることである。その意味で冗長性はコミュニケーションの緩衝装置である。 ―引用終了(田中智志『教育学がわかる事典』p44より)― 私たちが求めている愛は、自己犠牲のような重いものではないと思います。愛は、確かに寛容で情け深く平和な心なのですが、自分にも他者にも寛容で優しく、もっともっと気軽で笑いあえる、冗談の通じ合う友愛であり、さりげないもの、何気ないもの、いつも、「今・ここ」にありうるものだと思います。 自己犠牲によって、「他者に影響を与えよう」、「より大きな愛をあたえよう。」、「より他者を心配しよう」という態度は、それ自体が(目をつぶった時にわかるのですが、)完全に自分の外に存在する操作不可能な「他者」を自分がコントロールしよう、操作しようという傲慢な態度に過ぎないように思うのです。

noname#128382
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 非常に参考になり、また理解のできる回答でした。 今・ここにあるものの延長線上に、無償の愛が存在するのかどうかは、また違う話になるのかもしれませんが。 >自己犠牲によって、「他者に影響を与えよう」、「より大きな愛をあたえよう。」、「より他者を心配しよう」という態度は、それ自体が(目をつぶった時にわかるのですが、)完全に自分の外に存在する操作不可能な「他者」を自分がコントロールしよう、操作しようという傲慢な態度に過ぎないように思うのです。 私も自己犠牲が傲慢だと思っていました。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.18

「私の愛」というものがあるんでしょうか。 私が無いところに愛があるというのが回答になるんだと思います。 自己犠牲が愛でないのは、犠牲にしている自分が行為の中心にいるからじゃないでしょうか。 それゆえつらく苦しいのではないですか。 もし、中心となる自分つまり『私』がいなければ何の苦痛もないでしょう。 故にそこには何の犠牲もないのですから、その行為はとどまることがなかったのでではないでしょうか。 愛が『私』の所有物ではないというのはかなり明白な事実だと思うんです。

noname#128382
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 全く虚をつかれる思いです。 そうですね。愛の中心に、自分がいるから自己犠牲と思ってしまっていたのです。 愛の中心に自分以外を持ってくる方法を私は知りません。 けれども他の回答者の方々の言うことが参考にはなりそうです。 自分より強い信念で持って克服していくほかはないと思いました。

  • nisekant
  • ベストアンサー率11% (13/112)
回答No.17

可笑しな話ですね? 愛が絶対的なものであるならば、何故、質問しているのでしょうか? 答えに至ってから絶対的といえるに、質問しているということは答えに至っていない……矛盾でしょうか? 「愛」と「愛の感覚」とを同一視しているように感じがしますが…… 失礼しました。

noname#128382
質問者

お礼

ありがとうございます。 >「愛」と「愛の感覚」とを同一視しているように感じがしますが…… そうです。仰るとおり、同一視しているのです。 愛が絶対的なものだと考えている(理想)が、自分にはその感覚(現実)がないのです。 理想と現実の矛盾です。 その矛盾が私を苦しめるのです。

noname#128382
質問者

補足

補足をさせていただきます。 例えば、家が火事になり子供が取り残されたとします。 私はその子供を命がけで助けに行く自信がありません。 例えば、悪者が自分の子に刃を向けたとします。 私は盾になる自信がないのです。 私の中にある絶対的な愛の中では、私は身を挺して子供を助けなければならないのです。 けれど現実にそのような状態になったら、私は身動き一つとれないでしょう。 その矛盾によって苦しめられていたのだと思います。 しかし、ここで書いた「絶対的な愛」これも自分の理想という、自分自身でしかないのです。 故に純粋な愛とは違っている気がします。

  • dogendd
  • ベストアンサー率15% (2/13)
回答No.16

神の愛、アガペーだそうです。 キリストの愛といってもいいと思います。 神は見返りを期待せず人を愛するように 人間も人を愛しなさいだとか。 自己犠牲もアガペーぬきには語れないのではないかと 思います。 キリスト教の神学とかにくわしく書いてあるそうです。 なんだかキリストがただ磔になって死んだとか それが自己犠牲だとか、かなりまちがって受け取られているようです。

noname#128382
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 アガペー、無償の愛という観念を通してみると、やはり自分の中にはないのかも知れません。 マザーテレサのような人になりたいと思いますが、 それは自分の中で歪んだ理想として、 「自分が耐え忍び相手を満足させる存在」になっています。 これはマザーテレサの本を読んでも全く理解することができませんでした。 ただ、#10の方の言われる、仏教徒でいう慈悲というものに関してはやはり仏教徒だからでしょうか。 ずいぶんと理解できるのです。 ただ、学問としての哲学という意味ではやはりアガペーなのでしょうね。 今の自分が学問としての愛より、心としての愛という回答を望んでいるのかもしれません。 カテゴリー違いでしたら、大変申し訳なかったと思っております。

  • nisekant
  • ベストアンサー率11% (13/112)
回答No.15

相対的なもの(愛、正義、道徳)に、絶対的なもの(真、本当)を求めても、答えは出ません。 愛に意味はありません。

noname#128382
質問者

お礼

補足要求がありましたので、先に補足をさせていただきます。 愛とは私が意識する絶対的なものでした。 おそらく私は回答者様とは逆の考えを持っているようで、 私は、愛とは全てを包む絶対的なもの、 真とは人(見る角度)によって変わってくるもの。 上記のような考えを持っておりました。 また、その考えは人全般に対する愛という観念です。 ここでの質問で自分が求める答えは、 「自分にとっての愛」と「絶対的な愛」という二つの方向で求めており、 それが自分の中でうまく消化できず、お礼がその時々で変わっていることにより、 お礼で表現する気持ちをよりわかりにくくしているのかもしれません。 そうでしたら、ご了承ください。 ありがとうございました。

回答No.14

愛とは、極端な言い方をすれば、人間の欲望の形の一つにしかすぎません。 どう言うことかと言えば、人間の行動は基本的に自己を満たす為に起こしています。その形が人格であり、人間性な訳です。なので、自己犠牲をする愛だろうと、つかみ取ろうとする愛だろうと、形が違うだけで、本当とか偽だとかと言う問題では無いのですね。(これ感覚で、もの考えている人には、理解されないですが。) したがって、本当の愛とは何かと考えるより、どう言う愛の形が美しか考える方が、より悩むことも無いとおもいますが? 自分的には、相手をより理解する愛が美しく感じますね。

noname#128382
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 やはり、人にとって欲望を越えた愛というのは、難しいのでしょうか。 美しい愛の形を考えてみたら、やはりまだ自分が歪んでいるのでしょう、 自分が耐え忍び相手を満足させる存在。 そのような考えしか浮かびませんでした。 自分の発想自体がまだ乏しいようです。 いつか、自分にとっての信念を持ち、自分なりの美しく感じる愛を持ちたいと思っています。

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