• ベストアンサー

軍服姿の徳川慶喜の写真について質問

次の写真をご覧下さい。徳川第15代将軍慶喜の写真です。 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6b/TokugawaYoshinobu.jpg この写真は、いつ撮影されたものでしょうか。鳥羽・伏見の戦い当時の写真なのでしょうか。それとも・・ (1)禁裏御守衛総督時代よりも前 (2)禁裏御守衛総督時代 (3)将軍時代 (4)戊辰戦争当時(鳥羽・伏見の戦を含む) (5)戊辰戦争後 (6)その他(……) ご存知の方、教えて下さい。

  • 歴史
  • 回答数3
  • ありがとう数6

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.3

写真は、フランス皇帝ナポレオン三世から贈られた軍装姿なので、1867年(慶応3年)に撮影されたものではないでしょうか。 千葉県松戸市HPの戸定歴史館刊行図録より「将軍のフォトグラフィー」 http://www.city.matsudo.chiba.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020000&WIT_oid=icityv2::Contents::1655 真ん中ごろの「註」に詳しい説明があります。 一部引用します。 慶応3年3月27日に、仏国全権公使ロッシュというものが、同国提督とともに卿(筆者注・慶喜)の二条城に登城し、皇帝ナポレオン三世よりの委任状を捧呈したことがあった。(中略)慶喜卿は、このときナポレオンより貰った軍服を着て馬上に跨がり、開成所絵図方に勤めていた船橋鍬次郎を召して、それを写真に撮らせている。 徳川慶久家に秘蔵してある写真は、このときのもので、このほか、船橋鍬次郎は、卿がナポレオン三世寄贈の品々を身につけて、紅毛気取りに気取った姿を十数枚撮影した。これも徳川慶久家に、今、四枚ほど秘蔵してある。(引用終わり) 「ナポレオン三世寄贈の品々を身につけて、紅毛気取りに気取った姿を十数枚撮影した」中の一枚ではないでしょうか。 なお、写真は、茨城県立歴史館所蔵です。 http://www.rekishikan.museum.ibk.ed.jp/07_jiten/tokugawa/sonota.htm

hinode11
質問者

お礼

ありがとうございました。

その他の回答 (2)

  • cobamax
  • ベストアンサー率41% (157/381)
回答No.2

NO1です 年表ごらんください1866年の写真1をみてください http://www.asahi-net.or.jp/~CW3T-TYM/tokugawa/nenpyuo.htm

hinode11
質問者

お礼

ありがとうございました。

  • cobamax
  • ベストアンサー率41% (157/381)
回答No.1

この写真は1866年征夷大将軍に任命されたとき フランス風の軍服で撮ったものです http://www.asahi-net.or.jp/~CW3T-TYM/tokugawa/syougunn/furannsu.htm

hinode11
質問者

お礼

ありがとうございました。 将軍慶喜はチョンマゲをしてなかったのですね。

関連するQ&A

  • 徳川慶喜はなぜ?

    いろいろな考え方があるようですが、私は、幕末の将軍が徳川慶喜のような方(タイプ)で よかったと思っています。  引くことも大事だと思います。ただ、なぜ、鳥羽・伏見の戦いから逃げるときに、撤退命令を 出さなかったのでしょうか。 また、錦旗を見て、自分が賊軍なっていることを知って急いで退散。淀川を下ったのもわかり ますが、開陽丸と間違えてアメリカの軍艦で一夜過ごす?というのも、今一つわかりません。 宜しくお願いします。

  • 鳥羽伏見の戦に敗れた徳川(慶喜)は一時的に改名しましたか?

    鳥羽伏見の戦の後に出版されたと思われる瓦版に、戦に負けた幕府方(慶喜と推測されます)を、「長州薩摩の敵の中、御旗は錦でお定まり、お困りならば落ちさんせ、御城もどんどと焼けてある、名字もこのごろ書きかえて、味方も今ごろ泣いている、今度の戦を負けにして・・・」と揶揄しているのですが、謹慎の意味か何かで姓を一時的に変えたことがあったのでしょうか。

  • 徳川慶喜、子飼いって誰?

    戊辰戦争の番組を見ててふと疑問に思いました。 慶喜は子飼いの家臣というのはまったくいないのでしょうか? 幕末に重用された人物は小栗忠順にしろ永井尚志にしろ普通に旗本上がりばかりに思えますし、大坂城からの敵前逃亡にしろ普通側近に敗兵の処置を命じてから引くでしょう。 御三卿に藩組織が無いのは知ってますが、父親(隠居済みですが)の水戸藩から筋のよい家臣をもらってくるなり、かねてから交流を持ってて引き立てる旗本がいたりしなかったのでしょうか? どうにも官僚組織に一人で乗り込んで潰されたどっかの知事みたいに、いくら将軍といえど側近がいなければ何も出来ないだろうと感じました。

  • 慶喜の本当の気持ち

     「家康の再来」とまで評された慶喜ですが、鳥羽・伏見の戦いでは、総大将でありながら、幕府軍を裏切り、江戸に逃げ帰りました。又、その後も、ひたすら恭順謹慎の態度をとり続け、江戸城の無血開城までしてしまいました。  慶喜は、「あの時は、ああするより他なかった。やっぱり、あれが一番よかったんだ」と語り、そして、『慶喜の頭にあったのは、幕府がどうとか薩長がどうとかいう問題ではなく、「日本の存立」ただ一念だったのです。そして、日本人同士が争うという愚かな行為だけは何が何でも避けたかったのです。』      http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/yosinobu1.htm と紹介されていますが、 質問のひとつは、それならば、それ以降の会津藩をはじめとして、奥羽越の諸藩の尊い犠牲を食い止めることができなかったのだろうか?食い止める努力はしたのだろうか?という疑問が湧いてきます。どのように思いますか?もっとも、松平容保でさえも、生き延びて従一位に、嫡男は華族に叙せられているので、慶喜にとっては、その他は雑魚であり、どうでもよい存在だったのかも知れませんが。 慶喜も、明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員となり、大正2年まで人生を謳歌されたとか。  質問のふたつめは、鳥羽・伏見の戦いからの、彼をあのような行動にかりたてた本心というか、まさに、「心の中」はどうだったのでしょうか?ということです。歴史上の人物、ましてや他人の本心は分からないとは思いますが、想像でもかまいません。私には、政治的意図などはなく、単に「命が惜しかった。助かりたかった」ということではないか?彼は、そもそも将軍という器ではなかったのではないか?、と考えてしまうのですが。どうでしょうか?  慶喜の行動の結果に対する「政治的評価」はどうでも良いです。質問ではありません。

  • 鳥羽・伏見の戦い

    戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦いで、幕府軍はなぜ負けたのですか?グタイテキナ理由があるのですか?

  • 戊辰戦争と新撰組

    鳥羽伏見の戦いから、戊辰戦争締結までの新撰組内での動きを教えてください。

  • 戊辰戦争時の官軍の行進曲?について

    戊辰戦争時、薩長軍の鼓笛隊が横笛と腰にかけた小さめの和太鼓で曲を奏でながら行進するシーンをTVなどで見かけるのですが、あの曲なんていう曲名なのでしょうか? NHKの大河ドラマ(徳川慶喜等)や10年程前の日本テレビの年末時代劇スペシャル(白虎隊他)なので見かけました。 大抵、鳥羽伏見の戦い後、江戸に向かう官軍(薩長軍)のシーンで流れていたようです。

  • 幕末の戦いは「戦争」?

    幕末の動乱でいろいろな戦いが起こりますが 「戦争」と「~の戦い」「~の乱」「征伐」などは、どうやって区分けしてるのでしょうか? 戦争: 下関戦争、薩英戦争、長州戦争、戊辰戦争、箱館戦争、西南戦争 ~の戦い、~の乱: 鳥羽伏見の戦い、神風連の乱、萩の乱

  • 戊辰戦争で、なぜ東海道では戦闘がなかったのか?

    こんにちは。 戊辰戦争といえば、鳥羽伏見に始まり、東山道での甲州勝沼、北陸~東北での長岡や会津、それに函館の戦いが有名なところです。 一方、東海道では、戦いがなく、いきなり江戸城開城に至ったかのような印象があります。 尾張は徳川御三家のひとつであり、駿府は駿府城代が治める幕府直轄領なのに、なぜ戦闘がなかったのか、不思議で仕方ありません。 いろいろ調べるうち、第一次長州征伐の総大将(参謀は西郷)であり、藩内佐幕派を処罰(青松葉事件)したりした、尾張藩主の徳川慶勝という人物がキーパーソンのように思えました。次の将軍を誰にするかのゴタゴタで幕府中央に嫌悪感があったのか、鳥羽伏見の直後に逃げた慶喜への怒りなのか・・・? それとも、東海道軍にいた西郷の外交手腕で戦闘が回避されたのか・・・? ・・・わかりません。 なぜ東海道では戦闘がなかったのか、ご存知の方おられましたら、ぜひご教示下さい。 また、参考になる書籍やウェブサイトを教えてくだされば幸いです。 どうぞよろしくお願いします。 *wikipedia 戊辰戦争 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89 *wikipedia 徳川慶勝 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%8B%9D

  • 戊辰戦争

    今度、会津に行くので戊辰戦争について学んでいます。 鳥羽伏見の戦いで幕府が勝てた可能性はあったのでしょうか? 長岡藩(会津より石高が半分以下?)がなぜあんなに抵抗できたのでしょう。河合なんとかという人のおかげですか? 会津の武器は旧式だったのですか? 庄内藩は勝っていたということを聞いたことがありますが本当ですか? たくさん質問があってすいません…