信じるという行為について

このQ&Aのポイント
  • 「信じる」という行為の意味とは何かについて考えてみました。証明よりも感覚的なものであり、論理的思考とは異なる面があります。
  • 「信じる」という言葉の背後にある思考パターンや信念について疑問を感じました。人間の信じることへの傾向や、宗教との関連性についても考えました。
  • 論理的思考を大切にする人たちが「信じる」という行為に対してどのようなアドバイスをするのかについて知りたいです。
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「信じる」という行為について

昨日質問させていただいた者です。 皆さんご回答ありがとうございます。 哲学ギャグと真の思考停止(秦の始皇帝)には笑わさせていただきました。 質問がおかしかったですね。 確かに証明されているものなんてないかもしれません。 質問し直させていただきます。 よく考えてみたら、証明がされている・いないなど関係無しに、 「信じる」という行為自体が無意味で愚かに思えてきました。(信じる・信じないは自由で勝手ですけど) 「信じる」という言葉は感覚的で論理的に物事を考えることができない 思い込みの激しい単純のような人を対象に作られた言葉なのでしょうか? 振り返ってみると私は、何事もそうではないかなと「思った」ことはありますが「信じた」ことはないのかもしれません。 -信じる:それを本当だと思い込む。正しいとして疑わない。- 先日の質問でNo.8さんが、著名な物理学者、科学者はみな「存在の証明がされていないものを信じる人」 「全てが信仰の世界」などとおっしゃっておりましたがこれは 「信じている」のではなくて「そうではないかと思っている」の勘違いではないでしょうか? 多くの人が「信じる」という言葉をよく使い、まるで信じることに意味があり善いことかのように思っているみたいですが 疑問に思えてきました。 「人間不信」という言葉がありますが人間である以上私たちは信用できない生き物ですし これは世間知らずで論理的に物事を考えない人の言葉でしょうか? 宗教というのはこのような人たちの集まりですか? (特にカルト宗教など) 信用金庫なんてのも妙な名前です。 武田鉄矢の<贈る言葉>に ~信じられぬと 嘆くよりも 人を信じて 傷つくほうがいい 求めないで 優しさなんか 臆病者の 言いわけだから~ という件がありますがこれも意味不明ですね…。 論理的に物事を考える方、色々とアドバイス頂けたらとおもいます。 私も深く考えるのは苦手なものでまたおかしな点がありましたら突っ込みを入れてください。

noname#67059
noname#67059

質問者が選んだベストアンサー

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  • bjazz
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回答No.10

 一般的に「信じる」と云っている観念に対して明確に答えたら、 これは、単純な「観念の固定」だと思います。  つまり、我執・妄信・自分の考えに対する自信です。  仏教的に云えばこれらは皆、煩悩だと思います。 原始仏教で釈迦が最初の段階で衆生に説いたのは、 「信仰を捨てよ!」です。 ・宗教の本質も、自分の考えに対する過信、頑固観念である場合が多いです。    もう一つ別の意味で、「帰依する」と云うニュアンスがあります。 これは、三法印等の法印を自身の拠り所とし、 「信じず、疑わず」の無我・空・中道の立場から法を道標に生きる生き方に帰依すると云う意味で、  サンスクリット語等に忠実に考えたら、 単純に答えて、「体を折り曲げる」上禮の姿勢の意味で、  正真に生きられていた、釈迦如来の説法を聞き歓喜して足をなめるようなスタイルで礼拝し敬意をはらうの意味です。  何かを信じる観念は恐ろしいので、よくよく自分の考えに対する過信でないか、  再三に渡って吟味する必要があると思います。 無我(諸法無我)・無常(諸行無常)の立場で、信じると云う観念は発生する筈も無いのです。    京都の生臭坊主です。

noname#67059
質問者

お礼

釈迦さんはそのようなことを説いていたのですか! 私の思っていることと同じかもしれません。 ありがとうございます。とても参考になりました!

その他の回答 (14)

回答No.15

 ANo.14で書き忘れていたことを、補足します。  京都の清僧さまの仰せのことです。  このご質問で、京都の峻厳なる清僧さまがご回答(ANo.13)下さっていることに敷衍して、http://kikitai.teacup.com/qa4314153.htmlのANo.7におきまして、人の認識について書き込みがあります。    今更いうまでもなく、未熟で、純化されていない、我執妄執の私の世界から抜けて、偉大な大先輩が眺めている窓外の景色を見たことがあります。ご存命ではありますが、距離もはなれたところであります。人と世界信じていられる、美しいやさしい世界でした。  そしてまた私に戻って、同じ窓から外を見ると、私の世界でした。  警戒をし、用心しなければならない、ぎすぎすした同じ世界でした。  あるもの、見えるものは同じなのに、そうです。同じ人間服ですから。景色が違うのです。和やかな雰囲気が、凄みを帯びた世界になっているのです。  という夢から醒めたとき、単なる夢には思えませんでした。  今も覚えている夢での経験話を申し上げました。

回答No.14

 ANo.13様 「信じる」と云う作用を更に細かく究明して行くと、意識と無意識の世界に分類される部分があると思います。無意識的に信じていると云う、実態は脳で起こる「パターン認識」等に関連すると思われます。  ど素人の馬鹿⇒ その「パターン認識」などをご自覚為されることが大事だと存じましたよ。   ANo.13様 「これらの認識も「信じる」に近い観念構造になっていると思います。  ど素人の馬鹿⇒ 用語と言葉は別にしてそういうふうに私たちはつくられているようですね。  ANo.13様 私は仏教の修行を20数年間通して、縁起や無我性が少しずつ実感される様にこの頃感じます。  ど素人の馬鹿⇒ 私もカントやラートブルフ、孔孟、老荘(ろっそう)、中学のロマン・ロランから、競べっこするつもりはまったくないが40年、私も今の勉強と精進に曙を見出しております。老いの云々と孔子がいう年齢を過ぎ71を過ぎました。その道の縁起と無我は私には用語理解ができはしませんが、20年とはずいぶん早いと存じます。尊敬申し上げます。尊敬と感謝そして信頼と愛を唯一の道しるべにしております。しがない私の道祖神です  ANo.13様 目の前に現に有るとしている、空間や事物は私が脳で認識した脳内現象に過ぎません。唯識学として、既に紀元前からその事は究明されています。  ど素人の馬鹿⇒ よくみなさん唯識学というます。私たちのことばではなんというのでしょうか。でもこのパラグラフの全半で仰せの通りと、いうことは教えられ、且つ、技法の勤行で経験することが祝福されております。全くその通りですね。  ANo.13様 養老猛さんや茂木健一郎さん等も似た事を言っていると思います。  ど素人の馬鹿⇒ 私の偏見で、この方々をどうも本屋さんか何かに思えてきてちかよっていないのですが、中学から高校では大拙や咄堂、文雄(ぶんゆう)などに傾倒していたとき、知り合いの住職に鼻でにっこりされてしまいました。  ANo.13様 見たモノを事実とはしない修行訓練を日常している言っても過言ではありません。「私がそう思っているんだなぁ」「私の認識だなぁ」と柔らかく受けとめる日常の訓練です。  ど素人の馬鹿⇒ いいですね。私もそういう訓練を、自分へのいい聞かせを、これからやらせていただきます。  ANo.13様 そう云う実践が正に、信じず・疑わず、中道・縁起を観る と云う普通の日常生活です。  ど素人の馬鹿⇒ これはいいことを伺いました。近所のご住職のお話より数倍すごい。こういう日常はどんなに自分の努力でない努力がひつようでしょうね。デヴァナガリがでないのですた、私たちではたぶんこの仰せの事をタパスとよんでいるのにあたるのかと存じます。でもご実践されているかたの生のおことばは、どんなにこころ強いことか。すばらしい。  ANo.13様 「腹が立つ」「人を批難する」と云う事が稀にはあっても日常には起こらないです。  ど素人の馬鹿⇒ 私はいつも激情にほんろうされていまして。勤行のときはさすがに、なにか恵みがありまして。でも普段はついつい怒るのですよ、家内やもう30をだいぶ過ぎている息子や娘を。よくなってほしいということもありまして。(私が本当に本人のことを思っているのかどうかね?)  ANo.13様 凡て縁起で起こっている現象で、「私がそう思ってるんだなぁ」と止観すれば、業が消えて往くと思います。 社会がそう云う世界ではないから、苦しみが凡て無くなると云うことも無いでしょうが、少なくとも、魂がゆらゆら、心がコロコロ変幻自在に変化してそれに合わせて生きています。  ど素人の馬鹿⇒ ここで縁起ということばと、止観ということばの意味を、本当に理解できたことは、どんなに感謝申し上げていいのか。とても嬉しい。私も何か報いることはできなければ。  ANo.13様 「信じる」云々を研究するより、自身の心を観る、反射的認識を止める、観察する。 未熟ながら私はそう思います。  ど素人の馬鹿⇒ 最後の止めを頂きました。『自身の心を観る、反射的認識を止める、観察する。』ができないのですよ。いざとなると。もうとてもだめです。何にもならない嘆きを申し上げました、すみません。

  • bjazz
  • ベストアンサー率33% (12/36)
回答No.13

「信じる」と云う作用を更に細かく究明して行くと、 意識と無意識の世界に分類される部分があると思います。 無意識的に信じていると云う、実態は脳で起こる「パターン認識」等に関連すると思われます。 階段を降りたり登ったりする行為の中に、空間が連続してあると認識している事や、 例えば、目の前にパソコンが有ると認識している時点の無意識に近い判断もあると思われます。 これらの認識も「信じる」に近い観念構造になっていると思います。 視界等を病気で一時的に失ったら、階段の連続性も判らないのが実感されます。 私は仏教の修行を20数年間通して、縁起や無我性が少しずつ実感される様にこの頃感じます。 目の前に現に有るとしている、空間や事物は私が脳で認識した脳内現象に過ぎません。 唯識学として、既に紀元前からその事は究明されています。 最近、養老猛さんや茂木健一郎さん等も似た事を言っていると思います。 私は、見たモノを事実とはしない修行訓練を日常している言っても過言ではありません。 「私がそう思っているんだなぁ」「私の認識だなぁ」と柔らかく受けとめる日常の訓練です。 そう云う実践が正に、信じず・疑わず、中道・縁起を観る と云う普通の日常生活です。 それ故に、「腹が立つ」「人を批難する」と云う事が稀にはあっても日常には起こらないです。 凡て縁起で起こっている現象で、「私がそう思ってるんだなぁ」と止観すれば、 業が消えて往くと思います。 社会がそう云う世界ではないから、苦しみが凡て無くなると云うことも無いでしょうが、 少なくとも、魂がゆらゆら、心がコロコロ変幻自在に変化してそれに合わせて生きています。 「信じる」云々を研究するより、自身の心を観る、反射的認識を止める、観察する こういった事が肝要かと思います。 未熟ながら私はそう思います。

noname#67059
質問者

お礼

ははぁ…大変勉強させられます。 私も、信じず・疑わず、中道・縁起を観るを心がけ 生活していきたいと思います。 あなた様にお会いできてよかったです。 どうもありがとうございました。

回答No.12

 ANo.9です。京都の生暖かい清僧さまのご忠告が、的確であったとはならないように、そのことをどれほども恐れているのが、諸科学と西洋的合理性の洗礼をさせられてきている、現今の私たちですね。  それでも何かと妄信、盲信を要求する(受け取ろうとする)のが宗教と信仰の世界ですね。  日常の物象を越え、物証性がないようなものをどう信じろというのか。そうだというのか。仏教様ではこの世という表現の地上界の取り留めなき、fractalを越えるには、理性と知性、経験と知覚に目をつぶらせなければできないのか。  ご質問はそのことも問題なのでしょうね。  この世という地上現実をどれだけ、誠実に対し、とことん対し、どう超える。  他面において、『我執・妄信・自分の考えに対する自信となっている、煩悩、原始仏教の、「信仰を捨てよ!」』というお教えを、具体的にどう行えるか。  それができないで、腐った水の酒と、うましき天来の水たる醍醐、或いは腐った煮豆と納豆の区別がつかずに一把一絡げにしている、お話とは、京都の生暖かい清僧さまのご忠告は全く異なっていると理解できました。  ありがとう御座いました。私は拙くもヒンドゥの学徒・精進におります。

noname#67059
質問者

お礼

ありがとうございます。 京都の清僧さまのご忠告は本当に勉強になりましたね。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.11

全ての生き物には、区分されるべき特徴があります。これは本能の違いによるものですが、つまり犬は犬の本能、猫は猫たらしめている本能があるわけです。馬は馬、鹿は鹿たらしめる本能があるわけですね。馬が鹿になれないし猫が犬にもなれないということですね。見かけの姿を言ってるわけではありません。観察すれば種によってその行動特徴が明らかに違うということですね。動物の中で一番人間に近いのは犬や猫ですね。人間と一緒に暮らせるのですから当然ですね。猿は姿が似ているが人間には程遠い動物ですね。見かけの姿だけで進化を追求している生物学者はおおいですが、本能はくらませないですね。 では人間とこれらの動物とを区分する本能の違いは何かといえば、「信仰の本能」ですね。犬が人に近いというのは人を信じれるというからですね。でもこれは見えるものを信じるという初歩的なものですから犬でしかないですね。人間は目に見えないもの」を信じれるから人間なのですね。ということで何を答えてるかといえば、「「信じる」という行為」論は人間に当てはめる言葉ではなく動物に当てはめるものですね。、「信じる」というのは人間にとって人間を人間たらしめる「本能」ということなんですね。これを「行為」とすれば人間もどきの猿になってしまいますね。現代の梟の答えですね。

回答No.9

 認識にもいろいろな手法があるのでしょうね。  物象に関する知覚や経験の分野についての、そのための心身の用具を 使っての、それなりの内容の認識。  論理や思考、思弁などの演算などによる方法とそれなりの基礎的情報とそこからの認識内容。  そのものになるという認識。これが直感認識の一つ。  理屈と心身の認識経験の媒体がなく、直接的な認識。その一例を、以下の*に書きました。  *人間になってきていて、人間というものを認識する方法。(でも、人間になってきているのに、人間を未だ認識しようとしていない人がどんなに多いか。それは人間になってきているのに、にんげんでしかなくなってしまっているから。)    信ずるというのを、全てが盲目的信仰、信じたいとかの心理的何かを動機や原因にしている、わからないから信ずる、というものばかりしかないと思うのは世界と人、そして創造界に関する思想の貧しさですね。  それと、人という存在の一側面であるに過ぎない創造物的側面認識する中心や世界の中心にしている結果からの、理性と心身的知覚用具を万能と考えている結果からの、誤り、誤解であるのでしょう。    宗教も信仰も、どの理性認識の根底にはあり、宗教と信仰は認識の一形態であります。  万物や森羅万象、そして世界をどうみるか、存在をどう見るか。  当為と存在が異なるものとしてのみ方はあまりに未熟で幼稚でしょう。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.8

>「信じる」という言葉は感覚的で論理的に物事を考えることができない 思い込みの激しい単純のような人を対象に作られた言葉なのでしょうか? 多分そうかもしれません。ですが、 「信じるものをもつことができない」 という言葉もやはり感覚的な言葉で、AがBを導き、BがCを導き、、、という、コンピューターにでも出来るような時系列言語的な論理でしか物事を考えることができず、したがって、経験と深い洞察に基づいて全体を一気に眺めてその本質を把握することが出来る世界があることを知らない、そして、自分自身で無から有を造り出す創造的営みを経験したことのない、未熟で思い込みの激しい単純な人を対象に作られた言葉だと思います。

  • big-rex
  • ベストアンサー率8% (6/67)
回答No.7

>「信じる」という行為自体が無意味 ↑ という貴方の信仰 神はいない 霊は存在しない UFOはありえない と断定するならば それは貴方の信仰ですよ。 だって証明されていませんから 神はいない事実だ!というのなら 存在しない証明義務が発生します

noname#67059
質問者

お礼

ありがとうございます。 言い方が悪かったかもしれませんが 無意味なのではないか?ということでまだ思い込んではいません。 神などがいないとも断定はしてません。

noname#117439
noname#117439
回答No.6

前回のご質問で哲学ギャグを披露したprimeapeことポケモンのオコリザルです。 今回もブイブイいわせます。 「信じぬことはイイコトだ」 もしかすると何も信じないはずのご質問者様にもご両親がいるかもしれない? 多分居ないのではないかと思いますが、私は世間の常識を信じていますのでご質問者様にもご両親が居るものとしてお話させてください。 ご両親が居るはずと妄言を言っているに過ぎないことをご了承ください。 ご質問者様にご両親の役目をこなす奴隷が居るならその奴隷は疑ってみる必要がある。 なぜ自然に疑いが生じるかと言うと、今まで実の親と信じていたからです。 証拠品があるはずです。 自分自身?の過去の記憶。 記憶は頼りない。 なぜなら記憶が確かならテストで毎回百点だったし勘違いなんて一度もない、信じるものを打ち消すために都合のいい嘘をつくこともない。 そもそも不確かなことを憶えているのは所詮過去の記憶だ。 まったく証拠にならない。 家族アルバムの写真がある。 その写真に写っているのは本当に自分自身か? 記憶は当てにならないが今までそんな風に思い込んでいたもんな~ 両親と言い張る奴隷たちが思い込ませるために作った証拠に決まってる。 疑ってしまうなら所詮今までだまされてきた証拠品だ。 自分自身も知らない自分がある。 なぜなら今まで何も信じて来なかったはずだ。 聞いてみるのは奴隷どもがうってつけだ。 きっと愛情たっぷりに赤ちゃんを育てるのがいかに大変だってか話すに違いない。 愛情ってのは居心地いいもんな。 でも愛情なんてどこにあるのか証拠を見せろ。 そんなものはない。 ほらな、奴隷どもは何とか思い込ませようと必死だ。 最後の手段だ遺伝子の検査に持ち込もう。 遺伝子的に血がつながっていることが判れば両親だ。 失敗した~。 そんなことは法律の決めた判定法に過ぎない。 ただ奴隷どもに合法的に両親の振りをする口実に過ぎない。 大体遺伝子による判定法を考案した科学者は何者だ。 そいつらはそれで正しいと信じているに過ぎない。 とりあえずは以上です。 それでも両親が居ることを、信じたり疑ったりする場合は補足要求でご返事ください。 信じる理由にならないことを説明するのはものすごく簡単です。 さて、実を言うとね何もかも信じきるのが現実的であることなんです。 「思い込んだだけだった」そんな間違いを見つけてください。 「偽物を信じる。」この言葉の本当の意味は、偽物であることを見極めたうえで、それが偽物であることを確信するか、偽物であることを認めるか、そんな方便です。

noname#155689
noname#155689
回答No.5

それでは、お言葉に甘えて突っ込ませて頂きます。 > 人間である以上私たちは信用できない生き物ですし 証明できますか? もし証明できないとしたら 私は「ご質問者さまは人間は信用できない生き物だと信じているに過ぎない」 と受け止めますが、おかしいですか? なんてことを書くと「人間は嘘をつくではないか」などと言われてしまいそうですが 大事なのは「人間は嘘もつく」という経験知を含めて 人間をどう捉えるか?だと思います。 ご質問者さまは、私から見ると人間のネガティブ面だけを例にあげて 信用できないと主張しているように思えます。 ●人間の信用性を肯定して疑わない人、と ●人間の信用性を否定して疑わない人、に 一体どんな違いがあるというのでしょう。 信じない、と仰りたいなら 肯定の断定も否定の断定も出来ずに どこまでも疑い続け、問い続けるべきです。 それしか出来ない筈です。 それから、やや話がズレますが > 信じることに意味があり善いことかのように思っているみたいですが それは信じるという「言葉」の意味が善いからです。 ここでは詳しく書きませんが 「猫」とか「机」といった言葉と違い 「信頼」とか「愛」といった言葉は目に見えない、何だかよく分からないモノを表現します。 こういう言葉には気をつけて下さい。 「悪」が悪いのではなく、悪いものを「悪」という記号で表現することにしたのです。 まだいろいろ突っ込みたいこともあるのですが 混乱しちゃいますよね。 今日はこれで失礼します。 前のご質問の回答にも返事を頂けると嬉しいです。 (書きっぱなしは寂しいです。) 信じて待ってますから。

noname#67059
質問者

お礼

ありがとうございます。 >「ご質問者さまは人間は信用できない生き物だと信じているに過ぎない」 完全に思い込んではいません。 >肯定の断定も否定の断定も出来ずに どこまでも疑い続け、問い続けるべきです。 それしか出来ない筈です。 完全に証明できるものなんてないと思いますしキリがないので 黒でも白でもなく灰色のままで、まぁいいかという状態での行動です。 なので何も信じておりません。

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