近代城郭建築について知りたい

このQ&Aのポイント
  • 近世の城郭建築について調べていますが、理解できません。
  • 構造や天守の類型など、中世後期から近世の城郭建築の変遷過程を調べています。
  • 資料やインターネットでは理解できず、建築の視点から質問させていただきました。
回答を見る
  • ベストアンサー

近代城郭建築

中世後期~近世の城郭建築について調べているんですが、どうしても理解できません。 調べていた内容は、「構成・構造・天守の類型・縄張りなどの変遷過程から見る中世後期~近世城郭建築」についてです。 私の調べたところによりますと、 構造…様々な階での二階分の通し柱と地下から天守までの通し柱などで構造を一体としている。 天守の類型…連立天守などの形がある。 ほどしかわかりませんでした。 上記の内容は間違いがあるかもしれません。 調べが至らずそれほど多量な時間を掛けてもいませんが、このような場で質問させていただくことを許してください。 なるべく建築という視点からお願いいたします。 手元の資料やinternetでは十分に理解できず質問させていただきました。 かなり身勝手な質問かとは思いますがどうかよろしくお願いいたします。

  • 歴史
  • 回答数1
  • ありがとう数8

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 城の研究もしていますが、「建築」という観点から、と言われると、多少の記憶違い等もあるかもしれませんが、分かる範囲で・・・。 ~序章~ (1)戦国時代は、まず、山城(やまじろ)形式が圧倒的に多く、これは、支配地域をある程度見渡せる小高い丘陵地を自然の要塞として城に見立てたもので、坂を登るごとに、三ノ丸、二ノ丸、本丸、そして、その中間に奥方屋敷や武器庫、米蔵などを配しています。城へ通じる大手坂とか搦手(からめて)坂などに重臣たちの屋敷を構えさせて城の守りとしました。 (2)やがて、戦国時代も激戦化するようになると、山城は、確かに守りには強いが、討って出るには、いちいち山を昇り降りしなければならず、即応体制に不向きと考えられるようになり、また、それまでは、米を中心とした農作物が主な年貢でしたが、海産物などにも目がいくようになると、必ずしも、四方を見渡せる丘陵地のないところも出てきて、平地へ城を造るようになりました。これが平城(ひらじろ)形式の始まりです。平地に堀を二重、三重に巡らせて、正門から入ると三ノ丸、二ノ丸、本丸などと平屋か、せいぜい、2階建ぐらいでした。 (3)その後、平城でも豪や堀だけでは、守りが不十分であるので、石垣や土塁、柵などを造り、守備体制を強化していきました。 (4)当時は、「天守閣」とは呼ばず「櫓(やぐら、または、ろう=望櫓ぼうろう)」と呼ばれ、城の正面付近に石垣をひときわ高く積み上げ、1階建または、せいぜい2階建ぐらいでした。「物見櫓」の役目でした。 (5)天守閣が、私も含め、多くの方々が想像するような、五層、七層の城の一番上に出来たのは、織田信長の安土城が最初と言われています。 (6)しかし、「天守閣」と言う言葉自体は、「細川両家記」の摂津伊丹城の建築で「天守閣」という「文字」が出てきます。安土城建築の70~80年位前だと言われています。この頃、多くの城で使われ始めたのが、石垣の上に1階または2階建の「櫓」という呼び名から「天守台」と呼び始めました。全国的に「天守閣」と呼ぶようになったのは、秀吉の大阪城築城以後と言われています。 (7)また、「天守閣」は「天主閣」または「殿主閣」などとも、史料にはでてきます。 (8)ちなみに、安土城の建設は天正4年(1576)1月~天正7年(1579)5月までで、焼失したのは、天正10年(1582)6月2日に起きた「本能寺の変」で信長が倒された後、次男の信雄が自ら火をかけたと言われています。なお、この安土城では「天主閣」となっています。 (9)また、城の最上部にはなく、依然として石垣の上などに造られた小さめの「多重櫓」を「小天守(しょうてんしゅ)」または「副天守」などと呼び、その中間の大きさのものは「中天守(ちゅうてんしゅ)」などとも呼んでいました。 (10)江戸時代に入ると、天下泰平で軍事上の必要性はなくなり、単なる、城主の権威誇示のシンボルの意味でしかなくなりました。 ~構造~ 形式。 (1)望楼型・・・入母屋造りの櫓の上に小型の「望楼」を乗せたような形式。2階建程度なので、構造は、極端に言えば、現代の2階建を造るのとおなじようで、1階の柱や構造が多少「ズレたり」「歪んだり」しても持ちこたえることができた。特徴としては「破風型」が多く、堂々とした構えに見える。 (2)層塔型・・・上に行くにつれて平面面積が逓減していき、最上階の屋根のみを「入母屋」としている。「千鳥破風」や「唐破風」は付けられるが、直接の基部となるような「大入母屋」は造れない。また、全く「破風」のないものもあり、初期の頃は、初重が平面逓減に関わらず大きく造られたこともあった。 ~柱~ (1)通し柱は「栗」「松」「檜」などですが、「栗の木」は、昨今では、栽培用のため、7~8m位にしかならないのですが、自然木は20m位にもなると言われ、現代のビルの6~7階位にまで成長したため、通し柱としては、下から上まで同じ太さで切り取ることができた、とも、言われています。 (2)五重塔は景観だけで、実際に人が上部へ昇ることはないので、塔の中心に1本だけですが、城の場合は、多くの人が天守閣に登るため、その重量計算から、例えば、姫路城の設計図を見ると、直径2mの柱2本が6階の床下まで伸び、その上に「天守閣」を乗せています。 (3)亀山城(現:愛知県)の外観図を基に復元模型によると、天守閣を入れて5階建ですが、通し柱は1本もなく、1階の柱数65本、2階55本、3階45本、4階32本、5階12本で構成されている、との報告がされています。 ~数え方~ (1)天守閣は廊下で二ノ丸、三ノ丸等の居室、執務室、奥などとつながってはいますが、通常、城の最上部に天守閣を置いた基礎部分から「天守」と呼び、櫓と同じく「基」または「棟(とう、または、むね)」と数えるのが一般的のようです。 (2)そして、私の文中では1階、2階・・・と書きましたが、「層階(そうかい)」または「重階(じゅうかい)」、あるいは単に「層」「重」と数えるのが正しい?のかもしれません。しかし、これについては研究者の間でも今なお意見が分かれており、岡山城の解説書などでは「天守閣1階」「天守閣2階」などと数えていますし、史料でも、一般的に「1階」「2階」などとも数えるものも見られます。 >>天守の類型…連立天守などの形がある。 これについては、私は史料を持っていませんので申し訳ありませんが分かりません。 ただ、推測としては、初期の「櫓(やぐら)」は、必ずしも1箇所だけではなく、城を囲む城壁の左右に造ったものもあります。 あるいは、「張り出し(はりだし)」のことかもしれませんね。 「張り出し」とは、建物の初重を天守や櫓台から張り出させた造りで、張り出した部分の床に石落としがつくられている。その何階か上に天守閣があるので、その建物自体を「天守」と呼びましたから・・・かな? はたまた、確かに、私も以前「大天守」と「小天守」と言う言葉は聞いたことがあります。しかし、軍事的などの意味はなく、単なる、見栄えと権威の象徴でしかない、と、考えられます。 また、江戸時代に入ってからの城郭建築では、当然、幕府の許可がなくては建てられなかったし、痛んだ箇所の修理でさえ、幕府の許可を必要としました。そして、5重以上の天守は国持ち有力大名に限る。と、「武家諸法度」に規定がされました。そこで、小倉城(現:福岡県)では、本来は5重の建て方なのですが、4重目の屋根を取り払い、見た目には4階建のようにして回避している大名もいました。 また、松山城のように5階だったものを3階にまで落とした例もありますし、3階位の天守を意識して造っても「天守」という名称をはばかって「御三階櫓(おさんがいろう)」と呼んだりしました。 あなたの「お役」にたてたでしょうか・・・。

sibukuro
質問者

お礼

大変参考になりました。 ありがとうございます。

関連するQ&A

  • 城造りに関して

     よろしくお願いします。  日本の城郭建築についての質問です。ほとんど城郭については素人ですが、一般的な知識程度として、私たちが今日知っているお堀や天守閣のある城は、戦国時代を中心に出来た物で、その前にはもっと原初的な山城や櫓、さらに前には館に近い城などがあり、日本で独自に発展してきたものだと理解しています。  そこでちょっと疑問に思ったのですが、中国の城塞建築の影響は受けなかったのでしょうか?  もちろん、中国とは、城の概念が違うことは知っております。またそれとともに町の構造も違います。地形的にも、町全体を城塞化してしまうことは日本では難しいでしょう。  しかし、それでもあの高い壁やさまざまな城の守備道具、城の構造などは、参考になると思うのですが、どうなのでしょうか? また反対に城攻めの道具も、古代中国から様々にあると思うのですが、これらは日本の戦で応用使用されたのでしょうか? 単なる書物にある知識として利用されることはなかったのでしょうか?

  • ヨーロッパの城郭都市と日本の城郭都市、奴隷

    ネットをググってみると、次のような内容が記された記事がいくつかあります。 a,ヨーロッパでは戦争に負けると人民は奴隷になった。 市街地にまで城壁がめぐらされているのはそのためである。 b.日本の戦国時代は戦争に負けると城主は殺されても、下級の兵士や百姓が奴隷にされることはなかった。 そのため日本は城壁が市街地にまでめぐらされていない。 しかし、ウィキペディアにはこう書いてあります。 (1)城郭都市(じょうかくとし)とは、城壁で周囲を囲み堅固に防御した都市を指す 。土塁、堀なども防御施設として用いられる。 (2)戦国時代になり、城が戦国大名の領国経営における支配中枢拠点としての重要性を増してくると、小田原城などに見られるように城下町の周囲に自然の河川や堀、土塁を配した「総構え」という外郭構造が取られる城郭が現れた。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E9%83%AD%E9%83%BD%E5%B8%82 より引用 (3)戦国時代後期の都市の多くには惣構と呼ばれる都市全体を囲む防壁があった。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%9C%9F%E5%B1%85 より引用 (4)総構え(そうがまえ)は、城や砦の外郭(がいかく)、またはその囲まれた内部のこと。特に、城のほか城下町一帯も含めて外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだ、日本の城郭構造をいう。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%9C%9F%E5%B1%85 より引用 これらを読むと、bの 「日本の城の城壁が市街地にめぐらされていない」という部分は間違いではないかと思えます。城壁がない場合でも堀があり、堀は城壁同様の防御機能を持っていたのではないでしょうか。 すると「日本の戦国時代は戦争に負けると城主は殺されても、下級の兵士や百姓が奴隷にされることはなかった。」という部分も疑わしく思えてきます。 質問 (い)日本の城の城壁は市街地にまでめぐらされていなかったといえるでしょうか。 (ろ)日本では敗戦した側の兵士や百姓が奴隷にされたケースは皆無だったのでしょうか。 (は)中世ヨーロッパで戦争に敗れた側の兵士や百姓、市民が奴隷にされたケースはあったのでしょうか。 (に)ヨーロッパの城郭都市が攻撃を受けて破壊されたケースはありますか。 具体的な地名や戦の名前、文献名をあげて教えていただきたく思います。

  • 建築構造について

    建築の構造についての質問です。テナント内に電気ボイラー(満水時635kg)2台を設置したく思っているのですが、実際、設置して建築に問題が生じないかどうか知りたく思っています。 建築物は鉄筋コンクリート5階建 1991年建築  3階部ワンフロアー(120~140m2) 平面的には4角形で奥の1角の柱を跨いで左右1台づつ設置予定です(角なので位置は90度になります) どなたか構造に詳しい方どうぞよろしくお願いいたします。

  • 建築中の柱修正材について

    現在家を建築中です。構造材がほぼ桧と米松のkd材なのですが通し柱3本と一階一部梁がスプルースの国産製造の修正材です。野路板を貼る前に一晩中雨に打たれ野路板貼った今でも横殴りの豪雨にさらされています。このような事でこの修正材は強度や腐朽に弱くならないでしょうか?心配で夜も眠れません。在来工法の剛床仕様です。合板上にシートが貼ってあるくらいの養生です。ちなみに使用環境はcとなっています

  • 木造柱について

    建築基準法施行令43条5項に2階建て以上の出隅の柱は、通し柱にするか上下の管柱を水平力が作用したときの上下階の柱間に生じる生じる引っ張り力に充分抵抗できる接合耐力を有するよう補強するとありますが部分2階建ての場合1階に柱がなくて2階の梁の上に管柱を建てる構造は建築しては、いけないと解釈しなければいけないのですか。2階梁と2階柱を補強して造る方法は、無いですか。教えてください。

  • 建築学科卒業後の進路は?

    今、ある工業大学の建築学科の三年生です。 三年生の後期にはゼミも始まり、自分がどんな建築の仕事に就くか、どんな仕事が向いているのか悩んでいます。 大学に入って、昔から数学や理科が好きなこともあってか、構造力学が面白くてゼミも構力の先生のゼミに行こうと思っています。そこでいろいろと質問したいことがあります。 (1)施工管理技士や公務員の建築技術者とかがいいなと思っていますが、構造のゼミを出て他にどのような仕事先があるのか。 (2)施工管理技士のおもしろいところ、やりがいのあるところ、大変なところなど。 (3)公務員の建築技術者のおもしろいところ、やりがいのあるところ、大変なこところなど。 実際に仕事を経験した方のアドバイスがほしいです。経験者ではなくても知り合いから聞いた話でもいいので教えてほしいです。 上の質問以外でも建築に関するアドバイスや、いろいろな経験談を聞きたいので是非お願いします。

  • 建築における耐震設計について

     お世話になります。 最近、建築の耐震設計における構造計算書の偽造が 問題になっていますが、建築においてはどのような 手法で耐震設計が行われているのでしょう?  建築構造は部材が複雑なラーメン構造をなしており 3次元的な高次の不静定構造物ですが、いったい どのように解析し、どのように安全性を判定している のでしょう?  構造物の規模にもよると思いますので、10~20階程度の RC建築でお聞きします。 ・解析手法   立体骨組解析を行っているのでしょうか?   部材は非線形要素でしょうか?   鉄筋の考慮はどのように?   ファイバーモデルなどを用いているのでしょうか?   また、地震力については時刻歴応答解析が基本ですか?   応答スペクトルで行うのでしょうか?   それとも、等価な水平力を簡易的に載荷するのでしょうか? ・照査手法   曲げ破壊・せん断破壊などはわかりますが、   変形性能、塑性ヒンジの照査なども行うのですか?   何をもって安全性を照査するのですか? 細かな質問で申し訳ありません。 なにか一つでもご存知でしたら、ご教授願えれば幸いです。 なんせ、建築は素人なもんですから^^;

  • 耐火・準耐火建築物

    仕事の都合上、広~く浅~く建築物に関わっています。法令上耐火・準耐火の定義は理解できたのですが、図面を見た時一目で判断できるポイントはないでしょうか?基本的な質問ですみません。 あと、建築構造を分かりやすく説明している本などありましたら、紹介してください。

  • 建築基準法令112条10項について

    誰にも相談できないので教えてください。 建築基準法令第112条第10項の内容というのは、 ほとんどの建物の外壁、それから90センチのところは準耐火構造としなければならない・・・ と解釈してよいのでしょうか? 難しく書いてあるので理解できずに困っています。 詳しい方!お願いします。

  • 7階建ての耐火建築物にぴったりな構造方法

    7階建ての耐火建築物にぴったりな構造方法を検討しております。 間口が4mほどで建築面積が40平米ほどです。 まずは耐火建築物であることの問題で 当初は鉄骨造で検討しておりましたが 最上階から5層より下は壁などが2時間耐火が必要となり 鉄骨造で2時間耐火をとる方法がよくわからず 鉄骨ではできないのではということになっております。 しかし、ヨコミゾマコトさんのHAB http://www.aatplus.com/mya/index.html などは防火地域の5階建てで耐火建築となり 1階部分の壁等は2時間耐火が必要となるはずです。 もう一つに、耐火建築物という条件だけでなく 7階建てであることから やはりRC造のラーメンとするのがベストでしょうか。 初歩的な質問かもしれませんがよろしくお願いいたします。