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神にかんする勘違いが 多いのは なぜでしょう?

qsxdrfvgyhの回答

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回答No.10

なかなか、いい展開ですね。 >★ 〔肝心要は〕 実体探しの愚かしさこそが、神に関する勘違いの主原因であるという点です。 ☆ ううーん。そうですね。これは 初めから 定義のやり直し コメントの書きなおしになりますかね。そこまでは行かなくていいかも知れないでしょうか。 [再回答]勘違い・思い違いが多発する理由が判明すれば、この質問の目的は達せられると思いますので、ここに集中しましょうという提案です。他の回答者とのやり取りを一切否定いたしません。 >なぜ この肝心なところを取り上げていないか。それは  ★☆ 偶像崇拝型とその禁止型 ☆ とに分け 後者には ★☆ 実体否定という性格 ☆ を与えていたからだと思います。 [再回答]「ですから、ザックリ大雑把に言えば」と書いたとおり、全く精度の低い背景・脈絡ではありましたが、あえて読み手にイメージを抱きやすくするために簡素化して表現した部分ですから、批判は当然と私も思います。 >つまり ★★ 神を「実体的に表現する仕方」と「実体のないものとして表現する仕方」があると思います。(ANo.8) ☆ とも表現するとき 前者の《「実体的に表現する仕方」》というその《実体的》のそのまた《的》が 問題だったのですね。 《神の仮りの表象として あたかも実体であるかのごとく 〈真理〉なら〈真理〉として思い描き これを偶像としてなりとも 表現の一形式とする》 ここまでなら かまわない。 [再回答]「実体的に表現する仕方」とは、神が光に包まれて現れ、人類に話しかけたとか言うような物語を想定しています。《神の仮りの表象として・・・〈真理〉なら〈真理〉として思い描き・・・表現の一形式とする》のではなく、「物語」や「神話」での表現の仕方が、「仮の姿」ではなく、実体的に描かれているという意味です。視覚対象的な描き方が、物質を連想させるという点です。そういう意味で、実体的と書いています。 >けれども ★ 〔真理なら真理という〕「言葉に対応した実体が常にあると思うこと」 ☆ にまで至れば 偶像が 本体として見なされその実体がつねにあると思い込んでしまう。《これが真理だ》という何かものが(あるいは 何かひとつの言葉が) 或る晴れた日に 突如 人類に与えられるといった錯覚に陥るおそれがあります。 [再回答]ですから、「言葉に対応した実体が常にあると思うこと」を私は批判しているのです。「言葉に対応した実体が常にあると思うこと」が「明らかな勘違い・思い違い」の原因なのです。また、「偶像が 本体として見なされ」るとは言っていません。偶像と神本体とを区別しています。 >ですが そうしますと ちょっと 待ってくださいよ。ここで 同時に qsxdrfvgyh さんは   ★ 換言すると、言葉に対応した実体が常にあるとは限らないということです。  ☆ と言い換えておられるところは どう解釈することになりますか。  ○ 神をめぐる仮りの象徴つまり偶像 としての言葉に 実体がある場合もある。  ☆ となるのでしょうか? これは どうなりますかねぇ。  ○ 神を代理する表現としての言葉に 実体が 呼応する場合がある。  ☆ ということでしょうか。 [再回答]神をペガサスに置き換えますね。ペガサスの絵は見たことがあるでしょう。この絵(偶像)は、遺伝子操作で実現できたとします。この場合、ペガサスには実体がありますね。しかし、まだ、現時点ではペガサスという言葉には実体がないわけです。実体のない空想の産物にも名前が与えられるのが、言葉の特性であるという点を言いたいわけです。実在の有無を問わずに、命名は可能であるということです。 >それでは ○ 実体とは 何ぞや? ☆ 《絶対》のことですよね? 経験的な相対世界を超えたところに想定するもの。これが 虚構であって 虚構として 現実であるかのように 人間にかかわっている。 [再回答]実体が、「絶対」とか「虚構」でないことは先の例で分かると思います。「現実であるかのように」ではなく、現実そのものでなければならないのです。  >ということは けっきょく ★ 実体探しの愚かしさ ☆ というときの実体とは  ○ 経験的な内実を伴なったもの ☆ 言いかえると  ○ 絶対としての実体ではなく そうではなく 相対的な経験事実ないし実物 ☆ というようなことなのでしょうか。それは いけません。それなら 明らかに間違っています。 [再回答]ですから、「絶対としての実体ではなく」という表現は違っています。絶対でも虚構でもない現実としての実体を探す愚行が、神に関する勘違いの主因だと私は一貫して言っています。また、「相対的な経験事実ないし実物」としての実体を信じる愚行が、神に関する勘違いの主因だと私は一貫して言っています。 >要するに  ○ 神は 物である。 ☆ と言っているのですから。 [再回答]落ち着いてよく読んで下さい。言っていません。「(神という)言葉に対応した実体が常にあるとは限らないということです。」とは、私が意図した脈絡としては、実体がないことに気付いてくださいという意味で書いています。「神は 物である」という愚かしさに気付いてほしいと言いたいのです。質問者様は、私の意図した内容をことごとく逆転させて、議論を鮮明にしたいのだと推察しました。大変優れた手法で感服します。できるだけ正確に補足できたと思います。言葉足らずの回答だったことをお許しください。

noname#80116
質問者

補足

 qsxdrfvgyhさん 分かりました。ご説明 ありがとうございます。  わたしの誤解の原因は 《実体》について 神の実体ということを 今村仁司が言っていたので そちらのほうに持って行ったところにあるようです。  関係主義の批判の的として 実体主義が挙げられます。網の目状のネットにかんして その一つひとつの結節点を 何かに依存して存在するものではなく 実体として捉える見方が 実体主義で 関係主義は その結節点を結ぶ線の錯綜を捉え これがあるだけで 結節点に実体などないという説だったと思います。  ということで     ○ 実体は 何かに依存してあるものではなく また二次的に派生しているものでもない。それ自体で存在するものである。  ☆ と言うと思いますが ここでは 単純に    ○ 実体とは 経験的な事物 あるいは 精神の産物としてでも 経験的であるゆえ その想像物などを言う。  ☆ とすると理解しました。    ○ 神は その意味で 実体ではない。  ☆ したがって  ★ 絶対でも虚構でもない現実としての実体を探す愚行が、神に関する勘違いの主因だと私は一貫して言っています  ★ また、「相対的な経験事実ないし実物」としての実体を信じる愚行が、神に関する勘違いの主因だと私は一貫して言っています。  ☆ すみません。これで めでたし めでたし でしょうか。再度いえば    ○ 神について その実体は何かというように 実体探しをするところに 勘違いの原因がある。    ★ 質問者様は、私の意図した内容をことごとく逆転させて、議論を鮮明にしたいのだと推察しました。  ☆ これは とても とてもです。結果的にそうなったかも知れませんが そうではないです。《神の実体》という場合もあったかと思ったところが 錯綜の原因でした。  あと やはり 重ねて 偶像つまりそれとしての実体を   A. 神は 精神であるという勘違い。 という如く 精神や精神の産物(つまりたとえば 愛とか慈悲とかの理念です)に求める場合に留意したいと思っています。  ものや現象である実体に探し求める場合のほかに このように   ☆☆ 偶像が 本体としての神と同一視される  ☆ 場合も あるように思いました。類型は 同じようですよね。つまり 《実体探し》というときの《実体》に このような《精神の崇高な理想》といった理念のことも 入っているということですよね。特に アガぺーであったり あるいは 悟りですとか 涅槃ですとか そのような概念に 神を見出すかに見える思想内容に出会ったりすると思うのです。  これで ひととおり 整理できたでしょうか。

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     人はなぜ 神を勘違いしつづけるのか?  A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜその《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?  D-2 特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。ただの心の表層の心理でありその共同化であるに過ぎない。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象してつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神とは何か?) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • なぜ神を勘違いしたままでいるのか?

     A なぜ非経験なる神を 経験存在に求めるのか?  A-1 なぜ人間である教祖を 神とするのか?  B なぜ非思考なる神を 経験思考やその思考力としての精神に求めるのか?  B-1 なぜ思考や想像の産物である教義を 神とするのか?  B-2 なぜ《宗教を信じる》という表現を使いつづけるのか?  B-3 なぜ自分の観念の内に 神を想い描くのか?  C なぜ表象しえぬ神を 表象しようとするのか?    C-1 なぜ教団が 神はこれこれだと決めるのか?  D あるいは逆に 《観念の神》はその観念化をおこなった時点で死んでいる(つまり ただの思考の産物である)というのに わざわざ《神は死んだ》と言い この文句をなぜ人びとは繰り返すのか?  D-1 それを顕揚するためにせよ批判するためにせよ 神を表象し得た(あるいは認識し得た)と言わんばかりに なぜ神を論じるのか?   特に批判する側に対して言えば 表象し得たのなら その神は人間がつくったものであるのだから わざわざ排除するまでもなく死んでいる。  E なぜ神は――非経験にして非思考であるというのに―― 人間が表象しつくったニセの神しかないと断定するのか?     *    ○ (神を哲学する) ~~~~~    §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと  世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。    Y=考えれば分かること。      (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行      為によって分かるようになると考えられること)。         (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する      場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明      しうることがら。)      X=考えても分からないこと。     (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。     (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ     のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。       (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ     とがら。 )  ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。X は 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。  経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて    超経験の領域= X       超自然・非経験・絶対・無限・永遠・       〔そしてこのような意味での〕神・       〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空  人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)  さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。    §2 《考える》と《信じる》  考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。    人間存在 = Z   とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える( Y-Z )》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。  《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。  これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。  したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤハヱー》 X-Zd とも 《アッラーフ》 X-Ze 等々とも 言い得る。  逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。  人間 Z が信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-i という発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。   §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の    歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。  これに対する答えは むしろ簡単である。  絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。  介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。  しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。  議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても・変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認し得ていることではないだろうか。  信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi ) か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は変更しうるけれど その時々の現在において明確に保持していることが 重要ではないだろうか。  いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。  信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。  もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという見解の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の《神( X )体験》ないし神学ないしいわば《 神 X 史観》については 自由に話し合えばよいと言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの大前提としての信仰の基本形態に合致しているかどうかによって判断されるものと思われる。  もし問題があるとすれば その大前提についてあらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。  以上の定義だけの理論は 次が その心である。    吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ   ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。   ~~~~~~~~~~~~

  • 神って。

    宗教を信じてる人には悪いですけどいないですよね? 人間が寄辺が欲しくて作った偶像じゃないですか。 実際、もしも神がいたとしたならテロや殺人も防げるわけですし。 それどころか神を信じすぎて頭がおかしい人たちが暴動を起こします。 しかも「神からのお告げにより・・・」って言ってる人は会った物的証拠でもあるんですか?