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ブッダは 神ですか

maggaの回答

  • magga
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回答No.13

<<★ 仏陀(ゴータマさん)は一人の人間として「物事の本質を知ることをして、悩み苦しみの原因を見つけ、その原因を滅する方法を・物事の本質を知る方法を教えてくれた」そのような人と判断しております。☆ これなら 経験科学であり経験思想です。何の問題も あいまいさも ありません。言いかえると いわゆる修身の理論であり実践であるということでしょう。道徳でもいいでしょうし 自然科学を含んだ倫理の哲学であるということのようです。>> ですね。ここまで理性的で論理的で脅さず強制せず、個人の自由を尊重し具体的に語られたものを他に知りません。よくもここまで、知りえることを知りえるように矛盾なく道筋を解りやすく語られたものだと、関心するとともに感謝の念が沸きます。 具体的に現実的に悩み苦しみが減るのを自ら検証すればするほどに。  <<問題は そのあとです。★ <<無神論として 《無神という神》を立てている>>のではなく、事実の確認・検証進める「理性」と言うものに信仰(理性にこの言葉は当てはまらないと思いますが)するようなものと考えています。☆ とおっしゃるとおり 理性や経験現実を超えたところの領域 これについては 特に 何も想定しないということだと理解します。主に理性に信頼を置いているということは 非経験もしくは超経験の領域は 触れないという姿勢だと理解します。>> ですね。我々の思考は汚れています。ただ論理的に理性的に考えたくとも妄想や感情によって非論理的・非理性的な思考になってしまい、更なる妄想や感情に悩み・苦しむ羽目になっていますね。 しかも今この瞬間にまったくデータの無い根拠の無いものに対する思考をするならばさらに曲がった捏造となって、更なる妄想や感情に呑まれ悩み苦しみを得ることになる危険性が出てきますね。 検証が不能ならば。 <<☆ ただ 《絶対》は この非経験の領域のことです。無根拠であり 完全な無根拠であることが 絶対ということであり この絶対に対する関係ないし態度が 人間の持ちうるところの心の志向性のような動態として 信仰です。>> 「非経験の領域」つまり、人間を構成するシステムである六根・五蘊以外のもので「知る」ことが出来ず、もちろん知ることが出来ないのだから、その意義も意味も思考することすら叶わない。 そのものに対する「態度」自体が成り立たない気がしてしまいます。 結局はその「絶対」なるもの(?)自体でなく、各々六根・五蘊で捏造した概念に対しての態度にしかならず、その「信仰」は自己の経験的領域の中の「意」で作り出した=妄想であり、「概念」になるので、結局は自己の概念に対する態度になるのではないかと。 そんな概念が思い浮かびました。 <<その信仰の内容を 人間の能力で表象しようとすれば それは 概して 《妄想》のたぐいですが>> ですね。 <<そして 表象した結果としては そこに何らかの言葉や視像があれば《概念》にもなって表われていますが それらには かかわりなく その信仰の対象(または 非対象)が 概念であるのではありません。概念を超えた領域であったからです。だから 表象しようとすれば それは 妄想になります。それに対する態度は 考えるのではなく 信じるというかたちになります。>> 「対象は概念ではないと言う自己の概念」を信じる。と言うことですね。 「信じる」自体が考えることだと私は思うのです。 対象が無ければ「信じる」が当てはまらないと思うのです。 <<(1) はじめの《修身なり道徳なり倫理なりの哲学と実践》 これは 経験的な科学であり思想である限りで 根拠は 経験合理性に置かれております。言いかえると つねに 新しい真実によって取って代わられる知識と経験の蓄積であるということになります。>> 「ありのまま」を知るまではそうなりますね。 <<さらに言いかえると 仮りに絶対の見地から見れば 無根拠です。実際 科学の成果が 不変のかたちにおいて普遍的であるとは 人は思っていません。そういう意味で 根拠無しです。>> データはあるのです。それをどのように観たら正しく見れるか実践する。これが理性だと考えます。 観ているデータを自分の最大限の理性観て、役立てる。そしてちゃんと観る方法を探ってよりちゃんとしたデータを得られるようにする。その積み重ねです。 最終的には100%純粋なデータを見れるようにと思っています。 「絶対の見地」とは何でしょう。 あなたは「知って」いるんですか。 「知った」ら非経験の領域でなくなりますね。 つまり貴方の考えた概念である「絶対の見地」と言う立場から見るとそのようになるのですね。 <<(2) 絶対が 無根拠だというときには 違ってきます。それを想定するのに 根拠は要らないという意味です。相対の世界を超えたところと言えば それで 想定が完了です。>> 貴方の見解を僕なりに考えると。 根拠は発見できない性質。「知る」ことの出来る性質も無い。想定すら出来ないでしょう。しかもその想定の先に意味などを加えることが出来るはずもありませんね。それに対する態度も信仰も成り立たないように感じます。 と感じるのです。 <<(3) そして 絶対との関係は 信仰です。これは 一般的に もし想定をした時には つねに 成り立つ認識です。>> それが想定を可能と考え、自己の何の根拠も論拠も無い思考によって、今あるデータとは関係の無いところで、自己によって作り出された・妄想概念に対しては、信じたり・信仰したり・否定したりすることは成り立つでしょうね。 <<(4) 従いまして 絶対の領域に対しては 《触れない》という立ち場は>> 絶対に触れられる(知ることが出来る)という立場なのですね? <<絶対を想定しないのではなく そうではなく 絶対を 無なら無として(あるいは 無神なら無神として) 一度は 想定しておいたという意味になります。>> 貴方の言う「絶対」が私にはそもそも「想定」出来ないものと思えてなりませんが…。 <<絶対を信じない ということは 絶対を無神として信じる という大きくはやはり信仰という態度を採っているという意味です。>> 信じないも信じるも、思考すること自体成り立たないものに対して思考することも、その思考することが成り立たないもに対して思考した概念想定に対してどのような態度を取るも… 理性を重要視する仏教とは「そもそもなに言ってるか解らないよ」でストップすると思います。 無神論も何もそもそも「貴方の言う神って何ですか?」と質問しますが、それが、根拠は発見できない性質で「知る」ことの出来る性質も無い想定すら出来ないものだと言われても。 「じゃあ何で貴方は思考し想定し語っているのですか?」で終わると思います。 そのような考えによって貴方の言う「有神論」「無神論」の性質は理性を重要視する仏教徒の中には無いと思います。 <<★ 論理的に科学的に検証を重ねる科学者は無神論者でしょうか。☆ ですから 科学者は 無神論者でもあり得るし 有神論者でもあり得るという見方になります。科学者が 経験科学のほかの生活態度として 絶対の領域を 神として想定するのも 無神として想定するのも どちらにしても もちろん その一人ひとりの自由意志に任せられています。>> 「妄想せず、論理的に科学的に検証を重ねる科学者」と限定したはずですw   <<大人の人間で こういう回避の立ち場は 実際には 考えられません。思考は続いているのでしょうが 判断停止という状態のようにお見受けします。つまり 意志がないという状態ではないでしょうか。それとも 確信犯でいらっしゃるでしょうか。>> 貴方の概念の中で作り出された題に対して、貴方の概念の中で判断内の許容である選択肢の中においてそれに当てはまらない大人の人間は考えられないのですねw ~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~  

noname#80116
質問者

補足

 maggaさん ご回答をありがとうございます。  今回は 次の一点を確認していただけるなら 解決すると思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「非経験の領域」つまり、人間を構成するシステムである六根・五蘊以外のもので「知る」ことが出来ず、もちろん知ることが出来ないのだから、その意義も意味も思考することすら叶わない。  そのものに対する「態度」自体が成り立たない気がしてしまいます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから《非経験の領域》に対しては 《考える》では らちが開きません。じっさい  ★ そのものに対する「態度」自体が成り立たない気がしてしまいます。  ☆ とおっしゃるとおりです。ただ しかも ただ ほんの一つの思いとして その《どのような態度を採ればよいかと考えても 考えられ得ず 態度じたいが成り立たない》領域に対して ひょっとすると そこへの道がひらいているかも知れないとは 思うことができます。少なくとも その道が閉じられていない ということ そういう態度は 採れるようです。  そうしますと――この想定までは いいとしますと―― 閉じないという態度 《開け》としての心の傾き によれば そして その向こう側を《絶対》の領域として想定するならば 虚構として あくまで虚構として 《〈絶対〉との関係》が 《わたし》に成り立ちます。  それは どういう現実かと言いますと――つまり《態度・姿勢・心の傾き》と言うからには 経験現実でありますから それは どんな現実かと言いますと―― 《あらゆる資料を集めて あらゆる可能性を考え尽して 最良の判断をするというその経験合理性》をも超えているかも知れないという心の志向性であると言えるのではないでしょうか?  妄想であるかも知れません。ですが この妄想は 《経験合理性》が あくまで相対的な判断力であるということを知っています。言いかえると この能力を超えた絶対に立つ判断があるかも知れないというところまでは その《開け》の姿勢において 現実なのです。ないかも知れないというところまでは 現実です。  そうしますと ここからは 具体的な態度が 二つに分かれます。  《開け》の姿勢から さらにもう一歩その絶対の領域へと踏み込むか それとも こちらの経験世界に戻って来るかです。どちらも そのときには 《妄想》です。どちらを選んでも 空想であり夢想です。後者の戻ってくる場合が 無神論です。《もうその絶対の領域は 何もないだろうと判断して すべては 理性が対応する経験世界なのであるとして 取り扱おう》という選択です。つまり じつは 一度は 絶対の世界に接したということです。  つまり もちろん 前者の一歩踏み込むという態度は 有神論になります。絶対の世界が 有りだと空想して(あるいは そこに 賭けて――と言っても 何も無しだと空想し決めるのも 賭けです――) 虚構の物語を描くということになります。言いかえると 虚構の表現を通じて この経験現実のことが よりよく分かれば それに越したことはないという意味です。生きる現実のために 虚構を持つわけですから。  重ねて述べますが 無神論が 虚構を持たないというのも そういう負の虚構であると言っていいでしょうし そう言わなければならないのではないでしょうか。  わかっていただけたでしょうか。  * ですから 何の限定も無しに 科学者と言った場合にも その科学者は 自由に 信仰としては 有神論を選んで持ちうるし 負の信仰としての無神論をも持ちうると言ったのです。  * ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ <<(4) 従いまして 絶対の領域に対しては 《触れない》という立ち場は>> 絶対に触れられる(知ることが出来る)という立場なのですね? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 《触れる》というのは 《扱う》という意味で用いている場合です。想定したことがらを 仮設の理論として扱う・扱わないという場合のことです。

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     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • 《神》は 補助線である。

     1. 時空間ないし世界という存在に――時間的にも考え方の上でも――先行するもの は あるか?  2. ない。つまり あるかどうか 人間には分からない。分かるか分からないかが分か らない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと――これを〈非知〉とよぶ――》は カミ という言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としての あり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。  5-1. 山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身である。分身も神ので あると言っても それぞれ《神の依り代》と呼ばれる補助線である。  6. 世界をつくったチカラが別にあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその 中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無 神論である。  8. このような《自然神 / 創造主神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分か らないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによ って(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉 で――けっきょく人間が――引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの神を意識するときにはおのれの内面に おいて この神と(つまりは 神という補助線についての己れの意識と)しばしば向き合 うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動 態としてあり得て―― 信仰とよばれる。  11-1. 信仰は 神を意識している限りで 人間のただの思念である。と同時に そ の神は もともと《非知なるナゾ》であるなら 人間のコギトを超えている。《非思考の庭》 として ひとの自然本性の内にあると想定される。  11-2. ゆえにしばしば人びとは このナゾのことを《霊》とも呼び 《アートマン(霊 我)》や《ブッダター(仏性)》や《アニマ・ムンディ(世界霊魂)》などとして呼びならわして いる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界のあり方を見ればそれはむしろ 神と して立てているナゾの内容とは――人間の持つ《のぞみ》という考え方において――対 立していることが少なくない。よってこの種の神を否定しようとする場合がある。むろん  無神論となる。  12-1. これは・これも 《無い神〔としての非知なるナゾ〕とわれとの関係》を内容と する信仰である。無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》 と証明しなければならない。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ 理由も必然性もどこにもない。非知なのであるから。風車に向かって突撃するようなも のである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・また人びとそれぞれわが心な る《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち 足りている。(と推測される)。  ご教授ください。

  • それでは ブッダのさとりとは何だったのか

     以前に次の質問を立てたとき おそわったことがあります。それについて問います。    【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】     http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html  わたしがおそわった内容の出だしは こうなると述べました。  ☆☆ (ブッディスム=常識論)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゴータマ・シッダルタなる人が 真理についての見方として 空観=縁起説に到達し 目覚めた(ブッダとなった)。  空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と名づけて捉え 関係性(相依相即性)のもとに見る。この空の覚りは世界をつらぬいており ブッダはそのことを見通している。  みづからの存在が社会的に孤独であってその意味で独立していると捉えているが それでいて他者の存在と孤独関係をもかたちづくりその社会的な関係性としても存在するわれわれ人間――このような人は 空の覚りとともに 大悲の実践を はからずしておこなう。  慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので その空観のもとに 人は互いにみな対等であると見えているからには 人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほんの少し他人に対しても 声をかけたりするのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ブッディスムとは 常識のことであり その判断力を言うと知りました。  そのようにおしえてくれた人は ただしそのほかに輪廻転生説もしくは不死永生説に立つというようでした。こちらの問題(課題)などがあるので ふたたび問います。  【Q1:《ブッディスム=常識論》にご見解をしめしてください。  ここで 無我とは この空観=縁起説に立つことだというものです。これを焦点にするかたちでおしえを乞います。】  【Q2: 次の議論においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】  次です。この議論についても 最初にかかげた質問でおそわったものです。   ○ 宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか   http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html  ☆ さとりを得ようとするはからいから自由になれば 常識なる判断力としてのさとりに到る――こういうことなのでしょうか?