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ハイデッガーが考えた歴史的運命を担うということ
『存在と時間』の概説本を何冊か読みましたが、理解できない部分があります。例えば、それらの概説本の中には、「歴史的運命を自己のものとして担うことによって存在それみずからに立ち返る」という説明や、おそらく、それと同様のことを言っているのでしょうけれど、「自己が帰属する真の伝統、自己に固有の世界、自己を含めての共同体の運命―これを引き受け、受け取り直す」という説明がありました。存在と時間において、民族や伝統といったものが強調される理由がわかりません。概説本程度の知識を持ち合わせる人にも理解できるような説明をよろしくお願いします。
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