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母親の死

先日、母がガンで他界しました。 膵臓癌でした。母のもとに駆けつけたとき医師から言われた言葉は「余命1ヵ月」でした。テレビをつけると「像の背中」だかなんかの映画の広告で余命6ヶ月といわれたらどうする?など繰り返しながれていました。自分は6ヶ月なんて母の6倍もあるし、いろいろできるじゃんとかおもってしまいました。ガンとわかったのは9月のはじめで、8月のはじめには元気に自分の住んでるところに旅行にもきていて、しんじられないきもちです。母は病院へはいれず、父と兄と3人で最期まで看たのですが、地獄のような毎日でした。衰弱していく母を見ていたので、心のどこかで覚悟はできてたはずでした。自分は医療を学んでるので、母の心臓を聴診している最中に目の前で心臓が止まりました。最期の鼓動が耳からはなれないで発狂するかとおもいました。 実際、いなくなっても、ふと台所から現れるようで、家に電話すれば声が聞こえるような気がして、、、 母親をなくされたかたはどうやってこの苦しみをのりこえているのでしょう?経験などおありのかたは教えてください。

みんなの回答

回答No.3

私は二十歳のときに、長期入院していた母を亡くしました。 何年も入院していたのですが、入院当初は自分が幼かったので、父から病名は聞かされておらず、自分から聞きもしませんでした。 でも何年も、回復もせずに入院していたので、治らない病気、と気づけば良かったのに、そう認めたくないので、いつもただ付き添っていました。のんきに。 母が意識を失い危篤になったとき、私は病室の母の横で、テレビを見て笑っていて、母の急変に気づかなかったことを、20年経った今も、悔やんでいます。母の顔をちゃんと見ていれば、と。 危篤から約1週間後に亡くなりました。 何をしていても母を思い出して悲しくボーっと過ごすのが半年くらい続きました。 でも、人間いつまでも同じ感情ではいないんです。 やっぱり時間が、少しずつ悲しみを癒してくれるというか、大丈夫にしていってくれます。 心配してくれる友人に、作り笑いさえも返せなかった何ヶ月を過ぎ、笑えるようになりました。 そしてきっと、笑っているほうが母も安心できるんだろうな、と思えるようになれました。 質問者さんな、お母様の最後の鼓動を感じられたのですね。 お母様は、最後の瞬間に質問者さんと触れ合いながら、逝かれたのですね。孤独ではなかったのですね。 お母様のご冥福を心からお祈りします。

sitsuren
質問者

お礼

少しずつでも回復していければいいのですが、、 失恋とかとちがって、もうこの世にいない、2度と姿も声も聞こえない、喋れないとおもうと、息がくるしくなります。 心優しいお言葉ありがとうございました。

  • izanai
  • ベストアンサー率25% (236/937)
回答No.2

私も母ではなく、学生時代に父を亡くしました。 朝の通勤途中に交通事故に合い、ほぼ即死だったので、それきり話をしていません。 そして20年以上が過ぎた今年の初め、母の調子が悪く救急車を呼びました。 救急隊員の方は「意識レベル通常」と言ってましたが、病院での結果を聞くと脳出血を起こしてました。 肺炎も併発し、数日間意識が無かったので、今度は母ともう話すことなくお別れをしてしまうのかな…と、とても胸が苦しかったです。 その後お陰さまで、母は意識を取り戻し、時間は掛かりましたが、家族のことも思いだす事が出来ました。 病気になる前のようには回復していませんが、今は会話が出来る事が嬉しいです。 嘘のような話ですが、事故にあった父が運ばれた病院に、母は今回運ばれました。 実は、自宅から近い脳外科のある救急病院に1度運ばれたのですが、ベッドの空きが無く、受け入れ可能な病院が見つかるまで1時間程掛かってしまった後、やっとOKが出た病院がそこだったのです。 最期のお別れさえも言えなかった父は、ずっとずっと私達を見守ってくれていたんだ…と思っています。 あなたのお母さまも同様ではないでしょうか?? ご家族が最期まで一緒にすごしてくれたこと、身体は辛くても、心は嬉しかったと思います。 きっと今は、あなたやご家族が悲しみに暮れているのを心配そうに見守っていると思います。 お母さまを心配させないように、みなさんの心が早く落ち着くように・・・と私からも願います。 そんなことから、既に私自身がいい歳のおばさんですが、もし可能なら、自分の死期を知りたいです。 たとえ数日でも、やっておきたいこと、伝えたいこと、可能な限りの後始末をして、家族に挨拶をしてお別れしたいです。 私の父のように、ある日突然いなくなってしまうと、残された人の時計を止めてしまいますから。。。。 それは今のあなたも同じかも知れませんが・・・ 私からすると、お母さまの最期を看取る事が出来たあなたが、ちょっとだけ羨ましいです。 なので、母にはそう出来たら良いな~と思ってます。 何度が読み直しているのですが、上手く文章がまとまらないままで失礼します。

sitsuren
質問者

お礼

izanaiさんは心の準備もまったくできないでお父様とお別れになったのですね、たぶん自分なんかの何倍もショックだっただろうとおもいます。それなのに、優しい言葉ありがとうございます。 感謝します。

  • kanora
  • ベストアンサー率26% (383/1444)
回答No.1

お母様のご冥福をお祈り申し上げます。 母ではなく、父を亡くしました。 もう随分昔ですけれど。 苦しみを乗り越えるのではないような気がします。 ふと声が聞こえるような気がするのは普通です。 四十九日の間はまだ魂が、家族、近しい人、友達、昔の知り合い 幼い頃の思い出の場所に、「いる」そうです。 いつもいつも見守っています。 すぐ近くにいます。 ためらわずに、「いる」と思ったら話しかけましょう。 声にださなくても良いのです。 心の中でお母様と会話するのです。 こうして勉強してるよ。 こうしてちゃんとご飯を食べているよ。 こうして、お父さんともお兄さんとも電話しているよ。 こうしてちゃんと眠っているよ。 それと泣きたい時は泣いた方が良いのです。 我慢するのは良くありません。 「日にち薬」という言葉があります。 薄紙をはがすように、お母様を忘れるのではないけれど 段々と普通の生活が普通に過ごせるようになります。 だから友達の前で無理に明るく、元気なふりを しない方が良いのです。 まだ、元気がなくて普通です。 お母様が質問者様が聴診中に息を引き取ったのは お母様にしたら幸せなことでした。 悲しいのは、誰もそばにいない時に息を引き取ることです。 お母様は医療を学ばれている息子さんに 見取られて幸せだったと思います。 参考になればと思います。

sitsuren
質問者

お礼

ありがとうございます。 ちょっと鬱ぎみで、朝布団からでられません でも、学校いかないといけないし、母の看病して手遅れ照るので取り戻さないといけないので、、、 でもつらいです、見ず知らずの俺にこんなにいろいろ書いてくださってありがとうございました。

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