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三身常住は 三位一体とどう違うでしょう

絶対(絶対者)と人間とのかかわりとして 神の受肉とどう違うのでしょうか。おしえてください。 じつは 一度質問しています。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3130694.html 法身は 絶対と捉えていいのでしょうか。生身の人間(つまりゴータマ・シッダルタ)が出現したというからには さらにつまりは応身としてのブッダが歴史的事実だというからには 超経験の絶対者が この経験世界に姿を現わしたということでいいのでしょうか。 あるいは あくまで 時間過程を伴なった悟りの結果 絶対者としての実現が成ったというのでしょうか。 それでも――つまり この応身としては 無常の存在であるが それでも―― 報身としては この地上の経験世界(つまりわれわれ人間)と現実においてかかわりを持つ永遠の絶対者であるという説明になるのでしょうか。 三位一体については 神の受肉という点で 対照させていただけばよいかと思うのですが。 

noname#80116
noname#80116

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回答No.31

こんばんは、brageloneさん。 ANo.30への補足に挙げておられたURLに目を通してきました。 興味深いですね。特に目を惹いたのは"1995年(平成07年)"という年。年を見てビックリ。阪神淡路大震災が起きた同じ年に、月こそ違うものの、かの"サリン事件"も起きていたのですね。当時、新聞.TV.ラジオ等々で連日騒がれていた"サリン事件"を目にし耳にしていた筈なのに…。人の記憶は曖昧というのか"サリン事件"という名は記憶に残っはいるものの、いざ"何時の出来事?"と、問われたならば、なかなか思い出せないのが正直なところ。何故なんだろう?と、考えてみました。"サリン事件"は確かに大きな出来事に間違いないのだけれど、こと、わたし個人の中の出来事としては"阪神淡路大震災"の方が"サリン事件"にもまして強烈なインパクトを受けた出来事だったところに起因しているからかもしれない、神戸の地にて被災という体験が。そのせいか"1995年(平成07年)"を上の句とすると、わたしの場合、下の句は"阪神淡路大震災が起きた年"と、自動的に言葉が口をついて出てくる。不思議だ。試験前のように繰り返し、繰り返し、読んで暗唱し、書いて暗記をした覚えもないのに自動的に言葉が口をついて出る。「1995年(平成07年)ー阪神淡路大震災ー震災が起きた年」と。で、思うんだ。"サリン事件"が何故この年に起きたのか?偶然?不可解な思いが沸く。邪推かもしれないが、"1995年(平成07)"という年にサリン事件が埋め込まれたとは考えられないだろうか。もっと言えば、大震災が起きなければ"サリン事件"が『この年』に起きなかったのではないか。"寄らば大樹の蔭"力のあるもの(=大きな出来事)として"阪神淡路大震災"が選ばれたのではないか?現に大震災は1月 ー その2ヶ月後の3月に"サリン事件"が起きている。一つの事象が全く別のところ(場所)へも影響をおよぼすことって往々にしてある。大きな出来事が浮上すると、時間の遅れはあるけれどもその出来事に付随し後から浮かび上がるその他の出来事。"サリン事件"というワードがここに浮かび上がってきたように。それ、ゆえに、1995年(平成07年)という年に"サリン事件"が埋め込まれたのではないかと推察。 『仏教が好き!』と『数学が嫌いな人のための数学』の本を眺め発行日に目をやると、二○○三年八月三○日 第一刷発行/ 2001年10月25日 第一刷発行と記されています。発行時期でいえば『数学嫌いの人のための数学』が『仏教が好き!』よりも先き発行。ここから先は、私的な読みになりますが "嫌い" "好き"の文言から察するにこれ"ラブレター(恋文 )じゃないのか?と、思ったわけです。ただ単にその点が"おもろいやん~♪"と、率直な感想です。それだけのことです。で、著者の経歴をみて作品の内容そのものを読まずして本自体の善し悪しを取捨する場合もありましょうが(手にとる、手にとらない)、時にそうした中に今まで捨て置き未読のままの本の中の場面に"おや?"っと、新たな興味.関心が芽吹くこともあります。しかしながら、悲しきかな本は書き物、読まれるもの。手にとって見てもらわなければ、本そのものは動き出さない。そう、本の中の時間は止まっている。その一方、著者(or 読者)は本を書く前(or 読む前)と、本を書いたとき(or 読んだとき)と、本を書いた後(or 読んだ後)とでは、何かしら変わっているものです。この"時間"の"ズレ"の認識なしに、また、"視点"の"ズレ"の認識なしに本を読み進めれば、読者はエアーポケットにハマり込み、そこから抜け出せなくなる。そして、固まる。固定観念が形成される。すると「これこれは、こういうもの(こと)」と、いう具合に自動的に言葉が口をついて出てくる。張り付いた意識が、他をシャットアウトし寄せ付けない。これしかないと言わんばかりに。ある意味における" 保護エラー "。自己防衛機能が即座に作動するかのように警告文のような言葉が立ち現れる"人殺しを擁護する人間のどこがおもろいねん?"と、 吾輩は人間と同居して彼等を観察すればする程、彼等は我儘なものだと断言せざるを得ない様になつた。殊に吾輩が時々同きんする子供の如きに至つては言語道断である。自分勝手な時は人を逆さにしたり、頭へ袋をかぶせたり、ほうり出したり、へつついの中へ押し込んだりする。而も吾輩の方で少しでも手出しをしようものなら家内総がかりで追ひ廻しして迫害を加へる。此間も一寸畳で爪を磨いだら、細君が非常に怒つてそれから容易に座敷へ入れない。台所の板の間で他がふるへて居ても一向平気なものである。吾輩の尊敬する筋向こうの白君杯は逢ふ度毎に人間程不人情なものはないと言つて居らるる。白君は先日玉の様な子猫を四匹産まれたのである。所がそこの家の書生が三日目にそいつを裏の池へ持つて行つて四匹ながら棄てて来たさうだ。白君は涙を流して其一部始終を話した上、どうしても我等猫族が親子の愛を完くして美しい家庭的生活をする人間と戦つて之をさう滅せねばならぬといはれた。一々尤もの議論と思ふ。又隣の三毛君杯は人間が所有権といふ事を解して居ないといつて大いに憤慨して居る。元来我々同族間では目刺の頭でもぼらの臍でも一番先に見附けたものが之を食ふ権利があるものとなつて居る。もし相手が此規約を守らなければ腕力に訴へてよい位のものだ。然るに彼等人間はこうも此観念がないと見えて、我等が見附けた御馳走は必ず彼等の為に掠奪せらるるのである。彼等は其強力を頼んで正当に吾人が食ひ得べきものを奪つて澄まして入る。 夏目漱石 ー 『吾輩は猫である』より ー http://news.livedoor.com/article/detail/2939479/ http://www.kek.jp/kids/class/particle/index.html http://wwwsoc.nii.ac.jp/dickens/archive/ttc/ttc-matsuoka-2.html

noname#80116
質問者

補足

littlekissさん 熟慮を経ての真面目なご回答をいただいたと感謝申し上げますが 問題点は 残念ながら すり抜けておられる。というのが 全般的な印象であったし 考慮のあとの結論になります。 問題は はっきりしています。  (1) 神に性はなく 女神も男神もない。女神などがあるとすれば それは 絶対者なる神ではなく ただ 神話伝説や文学表現の中に出てくるに過ぎないという命題。  (2) 誕生や死は 神秘であり その誕生の前や死の後を想うときにも この経験世界を超えた領域について想像力を掻き立てるものがある あるのだが いかんせん このような生命体の時系列の経過は なお 実は 経験世界に属していると言うべきであるという命題。生と死(死後)との対比をもって 絶対者の問題を考えるには まだ 次元はちがうのではないか。 現在のところ この二つの論点をめぐってご質問をしています。誰が言っているか 誰がどう答えているかに左右されるのではなく あなた自身の見解を明らかにしてほしいというこちらからの補足要求です。 《おもろい》のが 本の表題の中の用語の問題にすぎないのであれば 以上のように整理することができます。  名前が上がっていたので 誰々のどこがおもろいねん? となります。 ですから そのような言い回しが きついことをなじるのでしたら 特定の人をあげて おもろいと言う発言を取り消して 単に本の表題がおもろいだけだと確認しておいてくださいますか。 ですから 裁判の仕組みや実際の裁判のゆくえは いま 問題になっていません。 ですから 《読者に対する説得的コミュニケーションの戦略的な言語行為として、沈黙を利用したのではないかということである。沈黙を念頭において読めば判然とすることだが》うんぬんと言うとき この一般論が いまの場合に どのようにあてはまるかが 問題です。判じよというのは 一つの回答のあり方ですが 親切ではないと考えます。 上の二つの論点について どう判じればよいでしょうか。保留ならそうおっしゃってもらえば よいわけですし。つまり 保留と受け取っていましたが 今回 その問題点にまさにかかわっているのに ほかの言い回しなどの点について 議論が 起こされているのは よくわからないところです。 サリン事件は 忘れてください。この質問としては 別の問題としてください。裁判経過をほとんど追って来ていませんし 誰がその事件について どう発言したか わたし自身は―― Wikiの記事を信用しましたが――読んでおりませんので いま直ちに 議論することができません。 余計なことを言えば その事件についての記憶が浅いか深いかには 関係していなかったはづですよ。つまりそれは 今回のこのわたしの補足欄での発言の前の段階においてはの話しです。 漱石の文章からは わたしが 弱い者いじめをしているといった物言いになるでしょうか。いくら差異の認容・異者の受容と言っても これだけは 社会における共同生活の上で 認めてはならないというぎりぎりのところで踏みとどまっているだけです。その言葉に反応されているのでしょうか。 それとも 異者を 無条件に認めよというご主張なのでしょうか。(無条件とは 生命・存在を 無条件に認め合うという意味です。この大前提が破られている場合は 待ったをかけます。そんな事情だとお思いになりませんか)。

回答No.30

こんばんは、bragelonさん。 ANo.29への補足を読みました。 本に目を通していただいたようですね。 重ね重ねm(_ _)m ども。 『仏教が好き!』 P111の10,11行目 【中沢】 自然のままの女性というものを否定しているんじゃないかしら。 自然の女性を否定して、それを形而上学化した女性性を取り入れ、 自分のなかの原理としているような気がします。 ↑ ここ "自然の女性を否定して、 それを形而上学化した女性性を取り入れ、 自分のなかの原理としているような気がします。" ↑ この文と、にらめっこ。 しつつ、本棚へ手をのばしヒョイ~と本を一冊。 『数学嫌いな人のための数学(数学原論)』 小室直樹(著)/ 東洋経済新報社(総ページ数P328)P41ーP43 【数と方程式の歴史】 「複素数の範囲において」とは実に驚くべき大発見であるということには、数学に馴染まない人は気づかないかもしれない。ちょっと、説明を追加しておきたい。それまでずっと、方程式を解くたびに数の範囲は広がってきた。人が自然に知る数は自然数(natural number)である。だが、一次方程式を解くためには、分数、マイナスの数が必要となってくる。一般の二次方程式を解くためには、無理数、虚数(二乗して-1になる数)が必要となってくる。無理数とは、分数で表されない数である。有理数(分数で表される数)と無理数と併せて、実数(real number)という。二次方程式の解(根)は、「実数と虚数との和」、すなわち、複素数(complex number)で表されるのである。一次方程式、二次方程式を解くために、こんなに数の範囲が広がってきた。では、三次方程式を解くときならばどうか(カルダノが解いた)。三次方程式を解くとなると、数の範囲は複素数よりさらに広がるのではないか。そうも懸念されたが、幸いにもそうはならなかった。解(根)は複素数の範囲に収まったのであった。では、四次元方程式の解(根)ならばどうか。これもやはり複素数の範囲内に収まった。すべてに述べたように、三次元方程式はカルダノが解き、四次元方程式はフェラーリが解いた。しかし、五次方程式は、その後三○○年にもわたって誰にも解けなかった。のちに、一八二五年、ノルウェーの偉大な数学者アーベル(Niels Henrik Abel 一八○二~一八二九年)によって五次方程式は代数的に(係数に四則演算と根号を施して)解けないことが証明された(アーベルの定理)。ガウスの時代には、人々は五次方程式の解法が分からなかった。解けないことも知らなかった。こんな時代に、ガウスは何と、五次方程式も六次以上の方程式もちゃんと解(根)を持つことを証明したのであった!このことによって、方程式研究は確実な基礎の上に置かれることになった。しかも、方程式の次数がどんなに高くなっても、数の範囲は複素数(実数と虚数)より拡大する必要がないというのでるから、虚数は、ずっしりと存在感を高めた。それまでずっと、人々は、数学者を含めて、虚数は実在しない想像上の(imaginary)数であるという迷信にとりつかれていた。そのために、虚数を含む複素数を使うには、何かとためらいを拭いきれないのであった。ガウス、コーシー(Augustin Cauchy フランスの数学者、一七八九~一八五七年)などを経て、人々は複素数を自由自在に駆使するようになる。それも、ガウスが方程式の解の存在定理において突破口を開いたからであろう。 中沢の新ちゃん、なかなかおもろいやん~♪。と、わたしなぞは思うのだが。如何?お気に召しませんこと?"嫌い嫌いも好きのうち"、好きも嫌いも十人十色。そうかと思えば"饅頭コワイ"と、コワイコワイと言いつつバクバク。「どんだけ食べんねん!!!」と。『嘘の効用』 ●(意志の誤用とは 存在〔=善〕の否定.抹殺する。悪用とは =重意志として 表では 善に見せかける場合です)。(それでも われわれは 欺かれます。至るところで 欺かれます。しかし 欺かれるなら 我れ有りです。善=存在に戻るからです)。 ↑ 「仏などいない。いるのは狸と狐ばかりなり」。 "きつねとたぬきのばかしあい ~ おもろい夫婦より ~" http://panasonic.jp/dc/l10/product/af_ae.html http://www.sharp.co.jp/aquos/meiga/hokusai/index.html http://techon.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20070830/138500/?ref=BPN

noname#80116
質問者

補足

littlekissさん こんにちは。お答えをありがとうございます。 ですが わたしの考えを正直に申し述べます。 複素数までは わかります。苦手と言っても 文科系の数学としては 成績が悪いわけではなかったですから。 食わず嫌いということばが 確かにありますが わたしが 処女作の時点ではっきりと 中沢新一を相手にしないと決め付けたのは かれには自分が無いと判断したからです。答責性を持ち合わせていないのではないかという意味です。 わたしは 詳しいいきさつを知らないのですが Wikiによれば 次のような評価を 中沢は もらっているようです。私情をおさえた妥当だと言っていい判断であるとわたしは 受け取ります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・〔中沢は〕坂本弁護士事件発生直後には、雑誌『SPA!』の企画で麻原彰晃と対談し、その時点で麻原を賞賛していた。 ・1995年の地下鉄サリン事件勃発時にもオウム真理教を擁護した。 上記のことなどにより事件後、マスコミや学者、事件の被害者から批判の声があがった。親交の深かった浅田彰は、サリン事件後に『諸君!』誌上で中沢を擁護する対談を行ったが、その後『噂の真相』で中森明夫らと座談会を行った際、中沢を評価してしまったことを過ちだったと認めている。 なお、島田裕巳は、中沢が『虹の階梯』においてグルイズム(グルへの盲信・盲従)を肯定・強調し、それがオウムの一連の事件の要因のひとつともなったにもかかわらず、2007年現在にいたるまでその言明を撤回しないまま誤魔化しつづけている、と指摘し、中沢の態度を批判している。=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B2%A2%E6%96%B0%E4%B8%80 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これに拠るかぎり わたしには 先見の明があったことになります。自分が無い=文章責任を持とうとしないということです。《あやまつなら 我れ有り》なのに。 もし反省しないのなら 自分は間違っていなかったと言い続けていることになりますし そのかれのファンというのならば その昔の態度は正しかったと言っていることになります。 《原理》ということばは その対談の文脈では 絶対者の次元のこととして 触れているものです。 たとえば 〔わたし自身は属しておらず それに反対するところの〕いわゆるキリスト教が 聖母マリアを崇めるといった習慣を取りいれているので 母性原理を持ち合わせていると言っても それは ただ 信仰の周辺の事態として 母性や女性性に親しむ側面もあるのだなという意味です。 形而上学化した女性性を 仏教が みづからの原理の中に取り入れるというのは そうではなく 絶対者の次元に この概念か理念を含むという意味です。それは 絶対者という概念に矛盾する話になります。いくら形而上学化したところで 想像力の産物は 経験世界のものです。精神は 神ではないのです。いわしの頭を形而上学化して 神の属性として 付け加えるなら ゆるされるというわけには行きません。神に性はなく かたちも色も臭いもなく また概念や精神から成り立っているのものでもありません。精神を超えているので 絶対者と呼ぶという想定です。 この想定とは別個に お遊びで 女神を立てるとか 女性原理の神話伝説を作るとかであれば ご自由になさってください。無意味だと思いますが。 これを無意味だと思わない人びとのあいだでは 古今東西 きつねとたぬきのばかしあいが 通用してきました。それだけのことです。 人殺しを擁護する人間のどこがおもろいねん? きついですか。

回答No.29

こんばんは、brageloneさん。 あのー、のっけからなんなんですが… ハンドルネームに"sama"と、ふられると鼻がむずむずしますぅー。 お鼻 ピクピクッ゛゛゛ お口 クチュクチュ))) モンダミン~♪ ほぐしていただいて、ども m(_ _)m。 目を通していただいたようで、お手元にユリイカ8月号がおありと想定してもう少し。ANo.28への補足にあげていただいた箇所 ●それは 神の世界との断れた絆を回復する企てにほかならず この神はキリスト教以外にはありえない。そこでは 西洋が(東洋)を発明して それを(認識)することはあっても(東洋)が西洋を認識することは絶対にありえない。… ↑ この箇所を頭に留置つつ P175ーP177 『スペシャル.ジャポン』バンジャマン.バルー/訳=にむらじゅんこ P176ーP177 【潜在的な破裂感情】 日本文化が内包するメッセージは、全て、フランスの教育の原則とは反対のベクトルを向いている。教育とはいうまでもなく、学校のみならず、社会に於いてのものを指している。念入りなアナライズをしてニケ国の文化を比較するようなことはしないが、核心だけに触れてみたい。フランス式教育はモニュメント(古い建造物等)を重んじるが、日本人にとって大切なのは所作(ジェスト)なのだ。ジェスト程に不安定で刹那的、軽いものはない。一方、積み重なっていく石ほど重苦しく、かさばるものはない。ジェストがジェネレーションを通じて再発見され得るのに対して、石は崩れてしまったらそれだけ。僕たちはロワール地方のすばらしいルネッサンスの城があるが、花見のような美に対する集団意識や皆が一体となりえる祭のようなジェストの術は、刹那的で不安定な日本文化だが、日本のアイデンティティとしてしっかりと根を降ろしている。日本文化の何が僕らを動揺させるかといえば、実生活の祖先との繋がりの連続性ではないかと思う。それは、日本独特の美学なのだろうが、不確定で、奔放な、しかし、断固とした実践だ。… 頭に留置いた箇所と次にあげた箇所をあわせ読みしてみると、東洋が西洋を認識することは絶対ありえなくもないのではないかと。次にあげた箇所の中で、"日本独特の、不確定で、奔放な、しかし断固とした実践"ということは、一見、不確定で奔放でつかみどころがなさそうなものに見られもしようが、断固とした実践を行う限りにおいては不確定で奔放というところをひとつの様態とながめればそのように規則だっているとみることもできるのではないでしょうか。ならば所作(ジェスト)もまたモニュメントと同質の性質を持つといえるのではないか。同質の性質を有するとするならば、東洋が西洋を認識することは絶対ありえないとはならず、認識することも可能という可能性が見いだせるのではないでしょうか。【歴史は未来においてはじめて現れる】 ANo.28への補足欄とお礼欄からの一部抜粋 補足欄より ●(陶酔)あるいは(陶酔状態のようでいて みずからの 立ち場に立ちつつ 相手との差異を容認するという全体観)これは ブッディスムの素地だと思います。あるいは ブッディスムが 培ったものなのか どうでしょうか。 お礼欄より ●生命の尊厳.死をいたわる心は 大事だが 医者の受容.差異の容認.その包容力と言えば 一般に(神)の問題なのである。ブッディスムは そのブッダの教え以外を 外道と言っているだけでは済まない。 『宋ジョウの仁』 【意味】 無益な同情、的はずれの思いやり。 【解説】 宋のジョウ公が楚と戦争をしたとき、目夷が、楚の軍隊が陣立てを完了しないうちに攻撃するように進言したが、ジョウ公は、君子は人の難儀につけこむようなことをせぬものだと言って好機を逸し、遂に楚に破れてしまった。世人がこれを嘲笑して、『宋のジョウ公の仁』だといったという。 【出典】 公曰(こういわ)ク、君子(くんし)ハ人(ひと)ヲやくニ困(くる)シメズ」ト。遂(つい)ニ楚(そ)ノ敗(やぶ)ル所(ところ)ト為(な)ル。世(よ)、笑(わら)イテ以(もつ)テ宋じょう(そうじょう)ノ仁(じん)ト為(な)ス。(『 十八史略 』一 春秋戦国.宋) 『ソク隠のこころ』 【意味】 気の毒なようすを見て、いたわしく思う心。 【出典】 そく隠(そくいん)ノ心(こころ)ハ仁(じん)ノ端(たん)ナリ。羞悪(しゅうお)ノ心(こころ)ハ義(ぎ)ノ端(タン)ナリ。(『 孟子 』 公孫丑.上 ) 『小を貪りて大を失う』【意味】 わずかな利益に目がくらんで大損をこうむること。 【出典】 北斎(ほくせい)劉昼(りゅうちゅう)『 新論 』 貪愛(たんあい) 昔(むかし)、しょつ侯(しょつこう)、性(せい)、貪(たん)ナリ。秦(しん)ノ恵王(けいおう)聞(き)キテ之(これ)ヲ伐(う)タント欲(ほっ)ス。山澗峻険(さんかんしゅんけん)、兵路(へいろ)通(つう)ゼズ。乃(すなわ)チ石(いし)ヲ琢(みが)キテ牛(うし)ト為シ、多(おお)ク金ぱく(きんぱく)ヲ与(あた)エテ牛後(ぎゅうご)ニ置(お)キ、牛糞之金(ぎゅうふんのきん)ト号(ごう)シ、以(もっ)テしょつ侯(しょつこう)ニ遺(おく)ル。しょつ侯(しょつこう)コレヲ貪(むさぼ)リ、乃(すなわ)チ山(やま)ヲほ(ほ)リ谷(たに)ヲうず(うず)ム…。国(くに)ヲ滅(ほろ)ボシ身(み)ヲ亡(うしな)ウ…。以(もっ)テ小利(しょうり)ヲ貪(むさぼ)リテ大利(だいり)ヲ失(うしな)エルナリ。 ド.モルガンの法則

noname#80116
質問者

お礼

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この陶酔状態の中での《洞察》の力を備えた者こそが 没主体的に自らを喰い尽くすこともなく 対象を見通すのである。 《絶対者》の保証なしで 主体と対象との差異を認め 互いの相互作用の中で生き抜くこと〔ができる〕。 (セガレン) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この主体的な境地を 言葉にして表現すること この仕事をして来なかったという意味です。  そして 不立文字というように言葉にしては表現しない・出来ないという立ち場もあります。   わたしは 《ブッディスムは そのブッダの教え以外を 外道と言っているだけでは済まない》という見方をしています。 ド・モルガンの法則とのかんれんでは 人はその立ち場として 否定する前か後かの命題のどちらかに属していなければならないとも思えないのですが。  否定は 補集合というように 互いに補い合うものでは? 仏教も キリスト教も どちらも 自身としての集合とその補集合との境界を はっきりさせようとして来ましたね。  これらの間の風通しをもくろんでいますので 《大を貪りて大も小も失う》とでも。

noname#80116
質問者

補足

littlekissさん こんにちは。補足です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★中沢:一神教というので イスラム ユダヤ教 キリスト教と三つあって 仏教は 多神教というか 無神論とかそういうところへ位置づけられることが多いのですけれども 仏教を生み出していった力というのは 一連の一神教的宗教成立を生み出していった人類の意識変化と連動していると僕は見てます。要するに《自然教》から飛躍して・・・。 ▼河合:そう そう 飛躍しているんです。 ★中沢:ある意味では そこにも女性の否定が組みこまれています。仏教の場合は 一神教と違って 女性を否定しつつ自分のなかに取りこむということをしていますね。 ・・・ 自然のままの女性というものを否定しているんじゃないかしら。自然の女性を否定して それを形而上学化した女性性を取り入れ 自分のなかの原理としているような気がします。 (河合隼雄・中沢新一『仏教が好き!』2003p.111) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 次は ひとりの天女が 釈迦(世尊)の弟子である長老シャーリプトラに説教しているところです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ――大徳(シャーリプトラ)が〔神通力で変身して いま〕女とし   てあらわれているように あらゆる女も女の姿であらわれているの   であって 本来女でない者が 女の姿であらわれているのです。そ   の意味で世尊は あらゆる存在は女でもなく男でもない とお説き   になりました。 そのとき 天女が神通力をやめると 長老シャーリプトラは再びもとの姿にかえった。そこで天女が言う。   ――大徳よ あなたがなっていた女の姿は どこへいったのですか。 答える。   ――私は〔女にも〕ならず また変わったわけでもありません。 天女が言う。   ――それと同じく あらゆる存在も つくられることもなく かえ   られることもありません。つくられることもなく かわることもな   い というのが仏陀のおことばです。 (『維摩経』第六章――梶山雄一『般若経』(1976)より引用。 pp.148f) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 梶山解説には こうもあります。 _____________________________ しかし シャーリプトラは固執する。       愛着と怒りと愚かさという煩悩 それを離れてこそ菩提(さと   り)はあるのではないか。そうであれば煩悩と菩提は本体として異   なった二つの世界であるはずだ。   と。天女は叱る。    それこそが声門(しょうもん)の慢心であり 誤った認識であり   執着である。はからいの心さえなくせば 煩悩はそのまま菩提なの   だ。煩悩に煩悩の実体はなく 菩提に菩提の実体はないのである と。(梶山 同上 p.151) _____________________________ 神に女も男もありません。悪は存在しません。わづかに 善(=存在)の損傷として――すなわち 人間が自由意志によってその意志を誤用・悪用するとき もたらされた損傷として―― 悪が生じています。つまりはそのような善の欠如状態を 悪とよぶのであって 悪という実体があるのではありません。  神としての悪魔が存在していたり この悪魔によって 人間が 悪を行なっているわけではありません。この神ないし原理が 女性だから 善につながったり 男性だから 悪に結びつくというものではありません。  女性原理・母性原理などと言えば わかったような気になるのですかねぇ。 (意志の誤用とは 存在〔=善〕の否定・抹殺です。悪用とは 二重意志として 表では 善に見せかける場合です)。  (それでも われわれは 欺かれます。至るところで欺かれます。しかも 欺かれるなら 我れ有りです。善=存在に戻るからです)。 宗教学者・中沢新一くんについては その学識の不十分を笑ってあげればよいでしょう。奮起するでしょう。しなきゃ おしまいです。  (先見の明があったわたしですから 言えるでしょう。そう言わないでおくと ひそかに ほくそえんで 自己を誇っているということになってしまいます)。(あなたたちの輝くスターを批判して ごめんなさい)。

回答No.28

こんにちは、brageloneさん。 うーん、混線してますね。こっちは、混線とは別に携帯のバッテリーのもちがへたって、持続して使い難くなってます。すぐに゛ピピッピピッ゛と、警告音が鳴る。コンセントから線繋いでどうにか起動。携帯からPCビューアーを開いてみてるせいか電力消費量も大きくなる分バッテリーの消耗が早い。回帰なきサイクルとはこのことか? トホホ…。それなのにバッテリーの本体には゛使用後にはリサイクル゛と、「使用後かよー!」と遠吠えひとつ。使った電力を使用中に回帰してくれよと。゛ピピッピピッピピッピー゛と、警告音の最後の゛ピー゛とともに電源が落ちる。あぁ…。ピクりともしない? 「もばいるのつくりかた」 第12回 電波がいっぱいにになる? http://plusd.itmedia.co.jp/mobile/rensai/howtomake/12/ 心室中隔欠損 http://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/surg1/www/isrp/congenital_home/Disease_HTML/VSD1.html http://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/surg1/www/isrp/congenital_home/Disease_HTML/ASD1.html http://mmh.banyu.co.jp/mmhe2j/sec23/ch265/ch265b.html ●ユリイカの特集 エキゾティシズム 8 が 書店でも図書館でも見つからなかった。 最新号?バックナンバー? ↑ |(><)| わっちゃ-☆見つからなかった? m(_ _)m お時間をとらせて スマン ことです。 ちと、見てみました。確かに 見あたりませんね。 先にご紹介した本は、最新号ではなく、1997年(平成9年)8月号です。 ちなみに臨時増刊号です。 『苦労してパン屋になる方法』は、 『オーヴェンからの手紙 パンの博物誌』 もしくは 『オーヴンからの手紙』の本の中に収められています。 セガレンの方は、 セガレン著作集 第一巻 記憶なき民/訳 木下誠/水声社 個別に読まれるのも一考ですが、できることならこのユリイカの8月号(臨時増刊号)まるごと目を通してもらえると、なおいい。゛日系人になりたい!゛のお題で、細野さん、中沢さん、蓮実さんがなんだかんだおしゃべりしてたり、図版に『三才図会』『南方異物志』にチラリと触れた絵があったりと。この図版構成が南伸坊さんだったりと見所満載なんだけどなぁ。 そう、そう、ところで『パルムの僧院』はもう読みましたか?

noname#80116
質問者

お礼

Bonjour! littlekiss-sama ! ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 中沢新一:最大のエクソティシズムは 《死》です。ところが 本当は 死にはそういう線引きができない。なぜなら 《死》こそが 絶対的エクソティシズムだからです。  子供がどこから生まれてくるかという謎と 死はどこにあるのかという謎は 同じもので これが エクソティシズムの根源ですよ。 〔細野・蓮実との座談会:《日系人》になりたい!『ユリイカ』1997・8〕 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 生命体の誕生とそれ以前 あるいは死とそれ以後 これらは 謎である。しかも 経験世界の出来事だと言おう。相対性の次元を超えていない。  DNAは受け継がれており からだを作る素材(質料)は 解放されつつ これも 続いている。自分の誕生や死の瞬間を見る事は出来ないが 他人のそれについては 経験的な出来事である。  もし生命ということにかんして謎があるとすれば それは おそらく このような経験世界とだけではなく これを超えた世界とも かかわっているのかも知れないからだ。その超経験の領域へと われわれの精神=身体が開かれているからではないだろうか。それは 死を超えていると言わなければなるまい。  陶酔のうちに絶対者の境地になるという謎は 死と生と誕生以前といった時系列の問題と向かい合った時ではなく これを超えた世界に 接するときなのである。むしろ向こうから 指先で触れるようにして あたかも接してきたと感じたときなのである。  生命の尊厳・死者をいたわる心は 大事だが 異者の受容・差異の認容・その包容力はと言えば 一般に 《神》の問題なのである。ブッディスムは そのブッダの教え以外を 外道と言っているだけでは済まない。 ・南伸坊の図版 意外に少ない。 ・明坂英二:西欧のパン職人の話―― 一昔前に阿部謹也の中世ものがよく読まれた。その一環として受け取った。 ・『ユリイカ』は全部は読んでいない。 ・《 パルム 》は まだ。自由奔放な色男? 年上の女と関係を続けていた?

noname#80116
質問者

補足

_____________________________ ・・・クローデルの提唱する《認識 connaissance 》は 《共生 co-naissance 》でもあるが この《認識=共生》は 《二つの世界(自然世界と超自然世界)をひとつにまとめ この世界をもう一つの世界に合致させる企て》のために詩人が取るべき態度であり 近代の主客の二律背反を超克した認識方法とされるが その根底には絶対者である神が前提とされている。  それは 神の世界との断たれた絆を回復する企てにほかならず この神はキリスト教の神以外にはありえない。そこでは 西洋が《東洋》を発明して それを《認識》することはあっても 《東洋》が西洋を認識することは絶対にありえない。・・・ 〔木下誠:「回帰なきサイクル―― ヴィクトル・セガレンの<エキゾティスム> ――」 『ユリイカ―詩と批評―』 1997・8月(特集エキゾティシズム)〕 __________________________ 挑発的な言辞で書かれているが 問題点の指摘ということでは 真実であ〔ったのであ〕り いわばわれわれの問い求めは ここから出発するものと思われる。  《二つの世界(自然世界と超自然世界)をひとつにまとめ この世界をもう一つの世界に合致させる》という表現は 少し意味を取りにくいが セガレンの次のような文章が この《認識=共生》あるいは《差異の認容》 さらにあるいは 《異者の受容》(今村仁司)について明かしていることを 木下も引いている。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ところで 世界には 生まれながらの旅人 エグゾットたちがいる。これらの者は 文や語の冷たくあるいは乾いた裏切りの下に 私が語ったようなさまざまな瞬間 すなわち《エグゾティスム》の瞬間が与えてくれるあの忘れ難い感情の爆発を認めることだろう。  彼らが明かしてくれることは 人々が認めてきたこの瞬間が これまでに言われてきたような普遍的存在を取り囲むあのおぞましい二つの法則に逆らうことなく それらの法則の戯れの味わいそのものを浮き彫りにするのだということである。  その味わいとは 主体が自分自身の客体を把握する際に感じる陶酔感 主体が自分自身を主体とは違うものと認め 《多様なるもの》を感じる際に感じる陶酔感である。 ・・・  差異を感じることができるのは ただ強烈な《個性》の持ち主だけである。・・・自分とは何であり何でないのかを感じる者だけが 素晴らしい感覚を十分に味わうことができるだろう。 (V.セガレン:『《エグゾティスム》にかんする試論』木下誠訳1995 pp.137-138) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ここでも 中ほどで 《二つの法則》がわかりにくいが 自然と超自然のことだろうか。《主体客体の二項図式 》には抵抗が残るし 《爆発 / 陶酔感》という表現にも 浮かれすぎの感じを持つが 異者の受容を基礎として 他者とその差異を認識し 互いに共生するという宣言は うべなわれるようである。  われわれの基本的な出発点のことであろう。 セガレンの次のような言い回しは 《東洋》風なので 引用しておこう。 _______________________ セガレンは・・・《宋の時代の絵師》の独特の観察の視線 陶酔の中で対象を見る態度について語る香具師の口を借りてこう表現している――   しかし 酔っ払いながら見られたその光景 貫くその眼差し その  洞察ときたら 見る人によっては――皆さんもそうでしょうか――こ  の世の理( la raison du monde ) 神様の理すべての代わりになろ  うというものなのです。  この陶酔状態の中での《洞察》の力を備えた者こそが 没主体的に自らを喰い尽くすこともなく 対象を見通すのである。《絶対者》の保証なしで 主体と対象との差異を認め 互いの相互作用の中で生き抜くこと 《洞察》だけを頼りにして行動すること・・・ (木下誠:前掲稿 pp.131-132) _________________________ 《陶酔》 あるいは 《陶酔状態のようでいて みづからの立ち場に立ちつつ 相手との差異を認容するという全体観》 これは ブッディスムの素地だと思います。あるいは ブッディスムが培ったものなのか どうでしょうか。 Brava!! & grazie !! littlekiss-sama.

回答No.27

こんばんは、brageloneさん。 No.26のお礼文の中に載せていただ英語の歌詞と、 またまたにらめっこ(格闘中!)。ひとまず、あげます。 親愛なる君へ 1:迷った時は ただ羊の群についていけばよい。 2:それから 羊飼いのテント近くにいる ヤギに食べ物を与えればよい。 3:君は優雅に歩く 王の馬車を引くポニーのように。 4:イヤリングは君の美しさをさらに際立たせる。 それに君は珍しい石のネックレスを身に着けている。 5:さあ 君に金と銀のアクセサリーを作ろう。 ………φ(.. ) ちんぷんかんぷん 1は、寝なさいって? (ヒツジが一匹、ヒツジが二匹、ヒツジが三匹……(-.-)zzZ) 2は、ご用はなあに? (歌:『やぎさんゆうびん』) 3は、『人生は、重い荷を持ってながい坂を歩くにたり』 (老化現象) 4は、磁気ネックレス (健康用品) 5は、二見ケ浦へ出かけお散歩、夫婦岩をながむる (『月の砂漠』) 怪電波が…0011(//▽//) 『月の砂漠』 月の砂漠をはるばると 旅のらくだが行きました 金と銀とのくら置いて 二つならんで行きました 金のくらには銀のかめ 銀のくらには金のかめ 二つのかめにはそれぞれに ひもで結んでありました 先のくらには王子さま 後のくらにはお姫さま 乗った二人はおそろいの 白い上着をきてました ひろい砂漠をひとすじに 二人はどこへ行くのでしょう おぼろにけぶる月の夜を 対のらくだでとぼとぼと 砂丘を越えて行きました だまって越えて行きました 『たなばたさま』 ささの葉さらさら のきばにゆれる お星さまきらきら きんぎん砂子 五しきのたんざく わたしがかいた お星さまきらきら 空からみてる 『チベットのモーッアルト』がどうとか言ってたよね?チベット仏教のとこじゃ お坊さん(僧)のことをラマって呼ぶんだってね? ラマ…ラマ…ラマ…で、ちょっと見ていくと お坊さんのことをラマというのとは別に ウシ目ラクダ科ラマ属にラマがいる。 このラマは一見ヤギみたいだけれどラクダ科。 同じくヒツジとヤギを追ってみていくと、こりゃまた興味深い。 …おっと、ありゃ? 前にもこれと似たのがあったぞ。 『いずれがアヤメかカキツバタ』というのが。 参照:『ほにゃらか形而左右学 影』ANo.9 ↓ http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2797136.html 頂いた英語の歌詞にヒツジとヤギがいっぱい。おまけにヒツジ飼いまで現れる。 んじゃ、ここはやっぱハイジにペータそれとユキちゃんを見とかねば。【えほん】 http://www.heidi.ne.jp/hp/ehon/main.html 本繋がりで、一冊 『ユリイカ』ー詩と批評ー /青土社 特集エキゾティシズム8 P12~P20『苦労してパン屋になる方法。』明坂英二(著) P18に「パン屋の洗礼」に触れて書かれてある。 P122~P138『回帰なきサイクル』木下誠(著) ー ヴィクトル.セガレンの<エキゾティスム> ー http://www.jca.apc.org/gendai/kikan/ekkyo/syokai/exotism.html shiverは悪寒(おかん) sivaは?ヒンドゥー教の三神。 破壊神。湿婆。 シヴァの女王 四分の三拍子 ワルツ ムンク「生命のフリーズ」

noname#80116
質問者

お礼

     (旧約聖書・雅歌)    そなたの口よりくちづけの中のくちづけ    をわたしに・・・あなたの    やさしみは ぶどう酒にまさり    あなたの匂いは 香あぶらのように    満ちあふれます。それゆえ    おとめたちは あなたを    愛するのです。    わたしを    伴なってください。わたしたちは    あなたに    ついてまいります。王が    わたしを その室にともなわれるとき    わたしたちは喜び    あなたによって よろこびを    持ちます。    わたしたちは ぶどう酒にもまさる    あなたの優しみを    よび求めています。    わたしたちが    あなたを愛することは ゆえのない    ことではありません。    わたしは    黒い肌    でも    きれいです。    エルサレムの女性たちが証人です。    それは ケダルの天幕のようです。    ソロモンのとばりのようにです。    わたしが肌が焼けているからと言って    ――それは太陽が灼いたのです――    わたしを見つめないでください。    わたしの母の息子たちは わたしを    かたきにして怒り わたしに    ぶどう園を見張らせました。    でも    わたしは    そのぶどう園をまもることは しません    でした。    わたしの    こころより愛するお方よ おしえて    ください。あなたは    あなたの羊の群れを    どこで養い    昼にはどこで休ませるのかを。    わたしは    あなたの仲間の群れのそばで 身を隠して    いるような    そんな人にさせないでください。    もし    女たちのもっとも美しき者よ    あなたがそれを知らないなら    牝羊たちの通った跡について行き    あなたの小山羊を    羊飼いたちの住むかたわらで    養い育てなさい。    わたしの伴よ わたしは    あなたを ファラオの車の    雌馬にたとえよう。    あなたの頬は首飾りのなかで美しく    えりあしは真珠をつらねて 輝こう。    わたしたちは あなたに    銀を散らした    金の首飾りを差しあげよう。    ・・・    わたしは シャロンのばら    谷の    ゆりです。

noname#80116
質問者

補足

《ユリイカ》の《特集エキゾティシズム8》が 書店でも図書館でも 見つからなかった。最新号?バックナンバー? ヴィクトル・セガレンは 腰を据えて 中国に取り組んだ人のようですね。知らなかった。 ハイヂには 両親がいなかったのですか。はじめて知った。 福沢諭吉とともに 理科系に強いのですか。ソニーの大賀という人が 音楽家で 電気に強いとかでしたね。 今回は 課題少なし。 『雅歌』は 聖書に入っているのかという内容だと思います。短編だから すぐ読めますよ。話者が変わります。 月の砂漠・・・ 怪電波なら いつでも 説明できますよ。自然科学による説明は別。 《このカテゴリで人気のQ&A》にまだ 入っているね。 ところで 土曜日だったかに 一度 そのランキングから わたしの二つの質問が消えたことがあった。そして この教えて!gooの質問のページにアクセスできない状態が 続いた。カテゴリ一覧のページまでしかアクセスできない。どうなってるの?(かつて アクセスが集中しているので あとで 試してくれといった案内が 出たことがあったけど 今回は そうではなく クリックしても 反応がない。ほかのサイトは ふつうにアクセスできるのに)。

回答No.26

こんばんは、brageloneさん。 ●これじゃ わたしも いいっぱなし (*^-^)b いいんじゃないですの? 教えて!goo ウンチクの宝庫。 みてけば お宝 山ほど 眠ってる。 見過ごせば ただの 石ころ かも しれないけど。 磨けば ヒカルー☆"ピカッ!"とね。エクセレント!!! http://www.your-diamond.net/modules/tinyd0/rewrite/tc_3_html 何も指輪をくれと催促しているわけではないですよ。 まぁ、何ぞの時の参考に…(*^^*)>゛゛゛だはぁ ともあれ ●さらに解明してほしい ↑ との、こと。 それにしてもまたまた"遺留物"てんこ盛り。 これを解明せいと? ひとまず、 ヨイショ o(^^o)(o^^)oヨイショ あれはあれ o(^^o)(o^^)o これはこれ と、個別に仕分け おっと、その前に… 注釈:【曼茶羅.曼陀羅】 (梵語manda la 輪円具足.道場.壇.本質と訳す) 諸尊の悟りの世界を象徴するものとして、一定の方式に基づいて、 諸仏.菩薩および神々を網羅して描いた図。 四種曼茶羅.両界曼茶羅など多くの類がある。 ちと、あたってみました。で、ロン! "糞中ホルモン、酵素およびDNAを用いたエゾヒグマの個体識別の試み" http://www.nacsj.or.jp/pn/houkoku/h08-no03.html ほるもん繋がりでもう一丁! "人体による静電気放電" http://www.miyazaki-gijutsu.jp/series2/noise032.html アンドロゲン.シャワー 『思い過ごしも恋のうち』 http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND1078/index.html 男は立てよ行けよ女の元へ~♪ 背中がうずく時がかんじんなのね~♪ (*´Д`)=з ったくぅー、お茶目だね~♪ http://www.rasmes.com/ タイトル『仏教が好き!』 (P110~仏教は女性原理が強い) 著者 中沢新一 河合隼雄 発行所 朝日新聞社

noname#80116
質問者

お礼

   My dearest, if you don't know,    just follow the path    of the sheep.    Then feed your young goats    near the shepherds' tents.    You move as gracefully    as the pony    that leads    the chariot of the king.    Earrings add to your beauty,    and you wear a necklace    of precious stones.    Let's make you some jewelry    of gold,    woven with silver.     ( ”Song of songs ( Song of Solomon )”(『旧約聖書・雅歌』 第1章:第8-11節) まづは お礼として。曼荼羅の一場面として。(《馬》ではないだろうに)。

noname#80116
質問者

補足

littlekissさん こんばんは。 河合隼雄と中沢新一については わたしには評判がよくないです。  後者は その昔 『チベットのモーツァルト』を世に出したときから この人はいったい何を考えているのだろうと思いました。資本主義に身を任せて生きるのもよし 反対して何か粋なことを言って見るのもよし その中で 知の高度な遊びにおいて おもしろおかしく暴れるのもよし うんぬんと 何でもあり――つまり 自分には 何も無しだと わたしは決めつけました。頭は 抜群にいいのですよ。わたしの sour grapes なのでしょうね。次に出た一冊を読んで あとは まったく読んでいません。 河合隼雄は おもろいおっさんとして 受け入れられているのですが そして 精神分析の臨床の仕事については てんで わたしは分からないわけですが そもそもの出発点において おかしな考えをしています。まさに この質問での神なる三位一体に さらに 第四位として 悪魔を 据えるという四位一体のそれです。悪魔も 神の一員だと言います。→http://d.hatena.ne.jp/bragelone/20051124 このあたりで とめます。 『電気と電子のお話』を 最初から 読み始めました。 《静電気放電》は 人体のであっても 接触によって起こるわけで 人体から出る(あるいは 出す)放射物の問題とは やや ちがう。 "糞中ホルモン、酵素およびDNAを用いたエゾヒグマの個体識別の試み"――《個体識別》が 普及すれば これも 将来 放射線との関係で 役立つかも知れない。 まだ《背中がうずく》というのでもない。《背中がうずく時がかんじんなのね~》で そのときに 《男は立って 女の元へ行く》のだとすればですな。ったくーっ だいたん。  《仏教は女性原理が強い》――だから 《原理》は 絶対者の次元だとも捉えられるから そう言わないで ふつうに 女性についても心配りが届いていると言えばよいのに。つまり 神に女も男もないというのに その性差を 原理の次元にまで持っていきたいというのは 現実に悪がはびこっているから 原理の次元に 悪魔を 神のほかに 別の神として立てる必要があるというのに同じ発想のようだと思わるる今日このごろ。・・・ これも読んでいないから 犬の遠吠えでやんす。(ただし 河合隼雄は めちゃめちゃ たくさんの著書――二十冊近い――を読んでるよ)。 曼荼羅の《だ(荼)》が ちゃ(茶)になっているよ。 たとえば 冷蔵庫電波というものがあります。冷たい感じを 相手の体において起こさせるのです。寒ぅーいと 言葉でも添えて言う場合あり。目眩まし電波もあるよ。とにかく 周りが一瞬 見えなくなるという影響をこうむります。足元がおぼつかなくなり 躓きがちになる錯乱電波も 経験済みだでよ。それをするのは 残念ながら 女に多い。よほど恨まれているのかねぇ。――こういう分類は もう相当 昔にやったもんだ。気分を害させて すみません。orz.

回答No.25

こんにちは、brageloneさん。 ●気づくのがおそぃー! (ρ_-)o むにゃ むにゃ "寝る子を起こす" |(><)| キャーッ!コワ。いいの? ひとまず、いいということで… (^O^)/ こんちは。ちょい"休息"充電とばかりに静かな"湖畔"でうとうと、すると…もう起きちゃ如何?とどこからか声が、、、ったくぅー オニ!はい、"解凍"します。"遅い"は"late",一文字ちがえば"lake"。よって、先のお礼欄へ立ち返る。すると…"Thank you,littlekiss-san,for your kind answer."←これは何かい、回答要求か? (|||_|||)。。。うーむ ほでは、ここは正攻法で質問にこたえるべかなと、ようさん見たこともない言葉が並ぶご本を一冊本棚から引っ張りだし読みつつもなかなか先へ進まんのよこれが、いまやっとこさP203あたり、総ぺージ数P310。 ちなみに、引っ張り出してきたご本は… タイトル『生命の海<空海>』 著作者 宮坂 宥勝 梅原 猛 発行所 株式会社 角川書店 ↑ 何かの参考になりますでしょうか? http://www.nirs.go.jp/report/nenj/H7/nenj-251.htm#TAG-03

noname#80116
質問者

お礼

こんにちは littlekissさん。寝てたんかいな。起こさなよかった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ §生体多様同時計測法に関する基礎的調査研究 生体放射に関しては、    人体から放射されている各種放射    (生物フォトン、遠赤外線、オゾン、コロナ放電、など) の測定に関する前年度までの調査を基に研究を開始した。実験では、気功との関連で注目すべきデータが得られた。 (放射線医学総合研究所年報・平成7年度 §2.5.1放射線科学研究部) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《人体から放射されている》ものがあった!!!  これは 前々から感じていた。あたかも 自由自在に放射するかのようだと感じていた。  さらに解明して欲しい!!!  女性のあなたには言いにくい電波が 人から出ているのですよ。こんなこと言うと おかしいと思われるだろうが。 宮坂 宥勝の編集した『空海コレクション』を読んだ。 梅原 猛は あまり買っていない。  と言っても この秋から勉強をやり直しているわけで その昔も 専門だったわけではない。ゆえに 先学・先達に学んでいます。  密教はわかりにくいですね。即身成仏 ありましたか。曼荼羅は?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~      意識の排泄としての放射線 偉い人が 能力に応じて その偉さに応じて 指導者アマテラスとなることに 問題はない。  そのような人たちは その地位をしりぞくことも うまいはづである。 そうでない場合 そうでなく偉い地位に立った人たちは その地位を保守することに必死である。しがみついている。 その結果は とうぜんのごとく みづからの意識を あたりかまわず 吐き散らす。  意識の排泄が ある程度においてでも とおるとなるならば このとばっちりは まわりの人びとにかかる。  このまわりの人びとも 自分より低い地位の人たちに 意識の排泄をおこなうようになる。 意識の排泄がまわりまわって あたかも境界人間にまで至ったばあい どうなるか。  反撥・反抗 それとも 自滅? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これじゃ わたしも 言いっぱなしかも。

回答No.24

こんばんは、brageloneさん。 (|||_|||) うーむ、こりゃ また こむずかしいことを。。。 ↓ ●ブッダの慈悲の光は どんなのかな ブッダをようしらんからその"慈悲"といわれてもわからんがな ただ"光"(電磁波)いうんやったらまだなんとか… 目に感じる電磁波ちゅうのを可視光線とかいうんやったかね?波長数は380~800ナノメートル程度とか。赤い色を放つ赤外線の波長は可視光線より長く、約800ナノメール~1ミリメートル。紫の色を放つ紫外線の波長は可視光線より短く、X線より長い1~400ナノメールの間。ガンマ線(γ線)極めて波長の短い電磁波(波長数10のマイナス2乗ナノメール以下、エネルギー1メガ電子ボルト以上。エックス線(X線)波長数は10マイナス3乗~10ナノメール。各線は波長の長い短いはあるもののどれも電磁波。 ●…変換すれ、さらにさらに どれだけでも 吸収できるのでござりましょうか? ↑ ┐(´ー`)┌ 新聞ひろげて 吸い取り紙 http://staff.miyakyo-u.ac.jp/~m-yasu/ref/R2.html http://www.curri.miyakyo-u.ac.jp/curri-ex/st/m-yasu/env/sub-on/L40.html http://premium.nikkeibp.co.jp/em/ecolabo/03/index.shtml http://premium.nikkeibp.co.jp/em/ecolabo/03/02.shtml http://premium.nikkeibp.co.jp/em/ecolabo/03/03.shtml http://premium.nikkeibp.co.jp/em/ecolabo/03/04.shtml ところで、"●お滝さん出なきゃ"って?もしや… ~♪春 こうろうの~♪って、あのお月さんの? 『荒城の月』土井晩翠 作詞,滝廉太郎 作曲 http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/koujouno.html http://www.mmjp.or.jp/MIYAJI/mts/nihonnnouta/koujounotsuki.htm (*´Д`)=зふぅー、ほでも後のほうで"●…自分の無力さに又しても悩みを重ねなければならないであろう。"とかなんとかことばが載せてあったしなぁー。因果?巡り合わせ?"金色夜叉"いやいや、"情念"で、尚且つ、暗くならないで、カラット、ご陽気に、いくならば…ここは、ほれ"お富さん"でござりやしようかねぇー? 『お富さん』 ~♪粋な黒塀 見越しの松に~♪ ~♪仇な姿の 洗い髪~♪ ~♪死んだ筈だよ お富さん~♪ ~♪生きていたとは お釈迦さまでも~♪ ~♪知らぬ仏の お富さん~♪ ~♪エー サォー 玄治店~♪ http://8.health-life.net/~susa26/ikoi/otomi.html ●彼は 幸せに免疫でなかった ●私は 幸福というものになろうとし あなたを貧欲に愛し続けた ↑ 具合わるそうですね。 http://www.nii.ac.jp/CAT-ILL/PUB/nl/nl-70-04.html http://www.tmin.ac.jp/medical/05/immune1.html http://www.tmin.ac.jp/medical/12/feeding1.html ならば、べートーヴェンをご試聴されてみては? http://listen.jp./newtype/dl_album_00028944296563.htm (→o←)ゞ あちゃゃ お滝さんもお月さんもチラッとでてからあとまだでてこない?遅ればせながら…お月さんをまずは出します。 ~♪月が でたでた 月が でた~♪ (炭坑節) 炭が出た! 【触媒CVD法による カーボンナノコイル/ナノツイスト】 (ナノチューブ,ナノコイル,ナノツイスト) http://www.arc.eee.tut.ac.jp/ken1.htm http://www.arc.eee.tut.ac.jp/research/nanotube/cvd/cvd_01.htm http://www.city.nagano.nagano.jp/upload/1/sangyou_nano_nanoPDF_20-30.pdf http://homepage.mac.com/kazuya_takahata/basic.htm http://annex.jsap.or.jp/plasma/PE_files/PE42.pdf http://www.fepc-atomic.jp/cycle/

noname#80116
質問者

お礼

Thank you, littlekiss-san, for your kind answer. けれども 今回は 振るいませんな。 カーボンナノコイルの写真は よく分かった。だけど 質問は ほったらかし。 具合わるそうって言われてしまった。たしかに表現は 適当でなかったかも。免疫という語が。ベートーヴェンは 音悪し。残念。月光なら よく聞くよね。 荒城の月は 昔のことという意味? まあ お月さんも お富さんも あんまし ピンと来ない。 《ところで、"●お滝さん出なきゃ"って?もしや…》って もしや・・・?! 《ブッダの慈悲の光》――いま 別の質問で すごいことになっているよ。すばらしい答えがつづいています。こちらは ぼけーっとしているばかり。お滝さんの出番じゃないですか。(文章がつながっていないかも)。 林達夫は 二三冊読みました。えらそうに言えば 惜しい!!といった内容です。 法身なり報身なりブッダは どうも絶対者とは言わないようです。ただし 仏教辞典の解説にあるとおり やはり絶対にかかわるとせざるを得ない。 さて これから どうなるでしょう。たのしみかも知れませんよ。 今回は こんなところで 失礼します。

noname#80116
質問者

補足

littlekissさん おはようございます。(20071113)  《別の質問で すごいことになっているよ。すばらしい答えがつづいています。こちらは ぼけーっとしているばかり。》などと あたかも身内扱いにしてしまって すみません。m(___)m  気づくのがおそぉーい!!

回答No.23

こんばんは、bragelonさん。 ●それにしても 鬼哭寺とは すごい 名前ですね。 ↑ そだね、字面だけ眺めてみると"鬼""哭"と、←むむ、、、 "おに こく?"で、耳で聞いた"こく"を"国のこく"と聞き間違えたら… さあ大変。 "おにのくにのてら"なんて鬼ヶ島のお話へと転ぶ? どこまで転ぶねん!とのご心配はご無用。 そこはそれ、七転び八起き。話を立て直しまして、 "鬼哭寺"と書いて"きこくじ"と読む。 仮名にするとまた感じが変わりませんこと? "戻りたい戻れない気持ちうらはら~" (禁区より) すごい名前の寺なら他にもありましてよ。 その名も"ガンガン寺" 【 第41話 】 http://www.city.hakodate.hokkaido.jp/soumu/hensan/hyakuchin/041.htm そなんだな、乳だの鐘だの歌だのと、あれこれ織り込まれてるから絞るのにひと苦労。 ひとまず、乳を訪ねて三千里とロシアへひとっ飛び。 鑑賞アイテムその1 http://www2.famille.ne.jp/~choko-h/memory/palnas.htm 【 パルナスの歌 】 ぐっと かみしめてごらん ママの 暖かい心が お口の中に しみとおるよ 甘い お菓子の お国のたより おとぎの国の ロシアの 夢のおソリが 運んでくれた パルナス パルナス モスクワの味 パルナス パルナス パルナス ケーキをパクリ。ゴックン。舌触り。ペロリ。なんか味が違う。。。と、思いつつ、食後の運動とばかりにジャグリングに勤しむ。かばんの中からあれこれ取り出し、おっと、梵(Brahman)これつかっちゃおうと。シャカ、シャカ、ヒョイと。あらあら不思議。またまたケーキが出てきたわ。ハイジのケーキ"アルハンブラ″。ひへぇ~今度はスペイン?Palacio de Alhambra (アルハンブラ宮殿)へ。そういえば、西欧の鐘楼となんかちがうとかどうとかいってたわね。 西欧:内からの刺激で共鳴 東洋:外からの刺激で共鳴 ほい、ほんでもって"鐘"と"鍾"これもよく見りゃ、見過ごしがち。 鑑賞アイテムその2 http://www.nikkeibp.co.jp/style/life/joy/classic/050811_bell/ 鐘とケーキの孔からアハロノフボーム効果とばかりに帰国できなかった人をたよりに歌を探せば…ラフマニノフ~エドガー.アラン.ポー"鐘"。ほでも無数の詩が並ぶところから鑑みて《ピアノ三重奏曲第2番ニ短調 悲しみの三重奏曲》 鑑賞アイテムその3 【第4章 アンドレイ.ルブリョフ】 http://www.asahi-net.or.jp/~wu3t-kmy/4_rublyov/rublyov.htm 白(しろ)き蝶(てふ)の、白(しろ)き花(はな)に、 小(ちさ)き蝶(てふ)の、小(ちさ)き花(はな)に、 みだるゝよ、みだるゝよ。 長(なが)き憂(うれひ)は、長(なが)き髪(かみ)に、 暗(くら)き憂(うれひ)は、暗(くら)き髪(かみ)に、 みだるゝよ、みだるゝよ。 いたづらに、吹(ふ)くは野分(のわき)の、 いたづらに、住(す)むか浮世(うきよ)に、 白(しろ)き蝶(てふ)も、黒(くろ)き髪(かみ)も、 みだるゝよ、みだるゝよ。 『野分』より カーボンナノコイルがどやこやいう話… "変換"したエネルギーのこっちゃで。 http://www.jsim.or.jp/pdf/H17zisedai.pdf http://phi.med.gunma-u.ac.jp/oldlec/ecology.html http://www.sof.or.jp/ocean/newsletter/155/a01.php http://www.sof.or.jp/ocean/newsletter/144/a01.php

noname#80116
質問者

補足

《アンドレイ・ルブリョフの・・・イコン画、『三位一体 (トローイツア)』 を見ると、そこには輝くような平和な光と、透明感あふれる慈愛の気分が満ちている。》(神谷武夫) ――ブッダの慈悲の光は どんななのかな。 《カーボンナノコイルがどやこやいう話…》 ――処理・再利用の前の話。コイルは 電磁波を みづからの中に吸収している。そのとき 容量いっぱいに吸収したままになっているの? 一からおしえてくれないと 分からん。吸収したあと 《変換》しているということかいな。変換すれば さらにさらに どれだけでも吸収できるのでござりましょうか? 人体は電磁波を吸収しますか。吸収したあと どうなりますか。 《ボリショイ スチャースチ ベチェネ ベリョーダ》 ――《ボリショイ スチャースチ〔エ〕》は《大きな しあわせ》であり 《ベチェネ》は 《永遠に》だと思うが 《ベリョーダ》が分からん。 《鐘とケーキの孔からアハロノフボーム効果とばかりに帰国できなかった人》の中に 《ラフマニノフ~エドガー.アラン.ポー》がいるのかいな。  ・《The Aharonov-Bohm effect・・・ is a quantum mechanical phenomenon by which a charged particle is affected by electromagnetic fields in regions from which the particle is excluded.》(Wiki)  ・パルナスは palnas っちゃうよ。ええかげん。ことほど かように 日本のブッディスムも どうも ええかげん。  ・ラフマニノフは 深く重い感じから明るいところへ移っていく曲がよかったけれど。(何だか疾患にかかった医師のために作ったんだったか)。(三重奏曲のほうは チャイコフスキーを悼んでだそうな。曲を聞けば 思い出すかな)。  ・ポーと鐘とは ようわからん。(読んでない)。  ・フランツ・リスト(1811~1886)の「ラ・カンパネラ」――鐘つながりだけかよ。これが 超絶技巧だったっけ。  ・盆に梵鐘;早 彼岸も過ぎて;野分も そんなには来ていない。 さて お返しに困った。困った。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ――un monostique(一行詩)――    彼は幸せに免疫でなかった。    ――deux distiques(二編の二行詩)――    私は幸福というものに免疫になろうとして    あなたを貪欲に愛し続けたのだ。    あなたに沿って    わたしは歩く。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・ブッダでは間に合わなかった。 《戦争中、彼は庭造りに精をだしたが、言論人としては全く沈黙した。 それが本当の知識人の良心というものだ。》(神谷武夫)といわれる林達夫がのたまう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 絶望の唄を歌うのはまだ早い と人は言うかも知れない。しかも 私はもう三年も五年も前から何の明るい前途の曙光さえ認めることができないでいる。だれのために仕事をしているのか 何に希望をつなぐべきなのか それがさっぱりわからなくなってしまっているのだ。 この自分の眼にしっかりと何かの光明をつかむために 何かの見透しをもちたいために 調査室の書棚の前にも立ったし 研究会のテーブルの周りにも腰かけてみた。私には納得の行かぬ 目先の暗くなることだらけである。 いや 実はわかりすぎるほどよくわかっているのだ。受けつけられないのだ。無理に呑み込むと嘔吐の発作が起きるのだ。私のペシミズムは聡明さから来るものではなくして この脾弱い体質から来る。先見の明を誇ろうなどという気は毛頭ない。そんなものがあればあるで 自分の無力さに又しても悩みを重ねなければならないであろう。 (林達夫:《歴史の暮方――時代と文学・哲学》 昭和十五年六月) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 林は その著書の中で なかなかいいことを言っているが そして戦時中という情況をわたしは知らないで言うのだが こういう沈黙や理知的な対処の仕方では 満足できないと思った。ピンと来ない。日本のブッディスムにも クリスチア二スムにも もう一歩を期待したいきょうこのごろ とか。 お滝さんが出なきゃね。

回答No.22

おはようございます、brageloneさん。 No.19補足欄の英詩を読みました。 We live in different world,you and I.~ 私たちは お互いに 違う 世界に 住んでいる。あらゆる 方法で 試して みよう。 でも 私たちは お互い 会うことが できない。君は 君の世界で 生きていて 幸せを 感じている。私も 自分の世界に 生きていて 満足している。それなら もっと お互いを 理解 し合おうじゃ ないか。干渉 すること なく。私たちは 雄牛の角を まげて 壊す。しかし 私たちは そんな風に 壊されたりは しない だろう。 ↑ なんじゃこりゃ?なんのはなしじゃい?と、文面を読みつつにらめっこ。ありゃ?これってもしや…"シンクロニシティ"を詩バージョンで書いてあるのかな?で、詩にたちかえり再度みてみると文面に"あらゆる方法で試してみよう"と。くぅー、先に理がおかれてた…。ついぞ見過ごしてしまうから困ったもんだ。究極のイジワル英詩だ!ほんとにイジワルだね!!と、ブツブツ言いつつ英語の基礎本をひらくと中に ー1.学習の内容と方法ー ここで採られている題材は、人の日常生活、風俗習慣、思想感情、地理、歴史、制度、科学技術などに関するものが多い。題材の形式には説明文、対話、物語、伝記、小説、劇、詩、随筆、論文、日記、手紙、時事文などである。文法や作文を系統的に学習するために別の教科書を使うことが多い。なお、副読本として、英米の作家が書いた小説や論文などを読む機会もあるだろう。要するに、いろいろな教材を通して音声としての英語に慣れると同時に、基本的な文法事項を学んで活用できる読解力や作文力を身につけることが必要である。 と、最初のぺージに言葉がある。 あとの英詩を日本の歌にたとえると 色は匂へど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ 有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔いもせず ↑ これでどじゃ? ほれからほれから~ No.21で余談の余談で"釣り鐘"のお話をほりこんだのはさして深い意図はないの。たまたま、土曜日11月3日に京都へ私用ででかけ、そんとき八坂さんで神楽の舞を見いの、知恩院の釣り鐘を見いのしてきたもんだからホイっと綴ったの。ん、先にNo.19への補足でいただいていた言葉に反応してたのかもしれない。"情念"。で、釣り鐘見たでしょ、安珍と清姫のお話が思い浮かぶわけよ。道成寺。和歌山の御坊。ちょいと話しそれるけど、御坊市にある『ふく田』の釣り鐘まんじゅうは絶品。おいしんだよ。おっと、話をもどして、うん、釣り鐘→煩悩→ブッテイスムと展開してみた。で、釣り鐘のお話をちょろりあたってみたら、丸いボコボコには"乳"という名称がちゃんとあるみたい。【鋳物よもや話】 http://www.nbk-okamoto.co.jp/yomo/yo020.htm 釣り鐘のお話も追ってみていくとなかなか深心。 No.19へのお礼の中のQ(設問) Q:コイルが吸収した電磁波は どこへ行くの? 海の中もしくは冷やして乾燥させて再利用 http://www.nissei.co.jp/freezedry/genri.html http://www.jpo.go.jp/shiryou/s_sonota/map/ippan22/4/4-2-1-8.htm

noname#80116
質問者

補足

     鬼哭寺の一夜(漱石 新體詩 明治三十七年頃)    百里に迷ふ旅心、    古りし伽藍に夜を明かす。     (中略)    折りしもあれや枕辺に、    物の寄り来る気合して、     (中略)    吾を呼ぶなる心地して、    石を抱くと思ふ間に、    仏眼颯と血走れり。    立つは女か有耶無耶の    白きを透かす軽羅(うすもの)に    空しく眉の緑りなる    仏と見しは女にて、    女と見しは物の化か    細き咽喉(のんど)に呪ひけん    世を隔てたる声立てゝ    われに語るは歌か詩か    『昔し思へば珠となる    睫の露に君の影    写ると見れば砕けたり    人つれなくて月を恋ひ    月かなしくて吾願    果敢なくなりぬ二十年    ある夜私(ひそ)かに念ずれば    天に迷へる星落ちて    闇をつらぬく光り疾(と)く    古井の底に響あり    陽炎燃ゆる黒髪の    長き乱れの化しもせば    土に蘭麝(らんじゃ)の香もあらん    露乾(ひ)て菫枯れしより    愛、紫に溶けがたく    恨、碧りと凝るを見よ    未了の緑に纏はれば    生死に渡る誓だに    塚も動けと泣くを聴け』     ・・・・・・・・・    塚も動けと泣く声に    塚も動きて秋の風    夜すがら吹いて暁の    茫々として明けにけり    宵見し夢の迹見れば    草茫々と明けにけり 昔の人も ブッダの往生を思っていたのでしょうかね。《浅き夢見じ 酔ひもせず》と。それにしても 鬼哭寺とは すごい名前ですね。    I rested my head agaisnt her heaving bosom;    I cooled my burning forehead on her snowy breast:    She bathed my burning forehead with the amber light    Of her flowing hair, flowing like dreams forlorn:    She supported my feverish head on the downy pillow    Of her soft arms, soft alabaster of serenest hue.    Then came the Twilight; gliding from afar with love:    Soothing it came and wooingly it wrapped us up    In her thickening light, thinner than the moon,    That eternal Twilight ! That enchantress who lends    Enchantment to everything we see and makes it all violet.    Then came the stars: they seemed to light her golden head.    They seemed to move on her golden head ----one ---- two ---- and three.    The three stars moved and glittered there on her golden head.    And lit her dreamy hair, dreamily flowing in the darkness.    The Twilight is violet still; the stars are always three.    Her bosom is heaving , her breast is white even now,    Her hair forever golden; forever flowing like dreams.----    And I ? Ask me not who I am; for I am not    What was once thought to be, nor could ever be !           November 29, 1903 浅き夢も見ず 泥酔などしていないのだろうけれど 漱石は 何を考えていたのだろう? *梵鐘 たしかにおもしろいですね。梵( Brahman )というのだから ブッディスム以前の宇宙原理=法身なのかも。 ロシアの夕べの鐘の音も いい歌だったことを覚えている。西欧の鐘楼の音と ちと違う。 (和鐘には 百八のボコボコ乳のものもあるとか。へえーーえ)。 * カーボンナノコイルは電磁波を 容量(素材?)いっぱいに吸収して そのまま 保っているということですか。 そのあと 処理・再利用へと?

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     ○  神および信仰ならびに〔信仰の偽造物なる〕宗教についての一般理論  第三章 特異な内容のオシエ――イエス・キリストという補助線説明について――  1. 神とは何であるかについて説明するのが 補助線としてのオシエです。(ちなみに 《神》というコトバも 補助線です。《かみ》というコトバ・文字・発音は 神そのものではありません)。  2. 聖書の神は 新約に到って――もとからのあり方がいっそう明らかになったごとくではありつつ―― 一般的に見て 特殊である。《ふつうの人間イエスは 同時に 神の子でありみづからも神なるキリストである》と想定している。  3. 神は 《真理》として これを人間が信じるものである。人間イエスは存在としての《事実》であり そしてそのオシエは 《キリスト・イエスの主観真実が表わされたコトバとしての命題(考え・判断)》である。つまり 考えるものである。  4. ここでは この特殊な神学について 聖母と呼ばれるマリアをめぐって 説明し得たらと願う。  5. すなわち マリアは 一方で神の貌(かお・かたち)としての議論においては 神なる聖霊によってみごもった。また一方で人間の貌としては 許婚のヨセフとのコイトスをつうじて受胎した。  6. 聖霊によるものと人間の精子によるものとふたつの受胎が同時に起きたという物語である。明らかにおとぎ話である。  7. このほうが しかしながら 人びとには 元気をあたえる。人びとがそれぞれ元気が出ることをささえる。のではないか?  8. もしゴータマ・ブッダのように 法身としてのブッダ――すなわち《真理》――と そして必ずしも百分の百においてではないと考えるが応身としての――ひとという事実存在としての――ブッダとに分かれているならば 人びとにとっての元気は――つまりブッダター(仏性)の発現は―― その場その現在においてただちには のぞみがたい。ということになるのではあるまいか?  9. マリアなる女性における聖霊によるイエス・キリストの身ごもり この奇妙奇天烈な物語のほうが 人間にとっては よりいっそう現実的である。のではあるまいか。  10. なお ゴータマ・ブッダによるオシエは 考えてみるに必ずしも補助線ではないと思われる。それは 向こう岸へ渡す筏であり 渡ったあとは捨ててしまってよいというように補助線のごとくではあるが どうもそうでもないようだ。  11. それは けっきょく足場でしかないように思われる。足場がいかに立派に組まれていたとしても 本体の家が 立派に建てられる保証はまだない。のぞむ家とはまるで違ったものが建つかもしれないし または何にも建たなかったということもあるかも知れない。  12. つまり 《家》としての法身なるブッダ(真理)が そのオシエなる補助線によって指し示されたとは なおまだ言い難い。単に家の出来上がると想定されたところに ただ足場をこしらえただけであったと成らないとも限らない。  13. つまりは ブッダターの発現としてのさとりなる状態が――つまり肝心の家本体が―― まるでさだかでも明らかでもない。二千年を超えて永遠に 分からない状態でありつづけている。と言わざるを得ない。(むろんこれは ブッダ批判です)。  ☆ 以上の趣旨説明について 当否・是非を問います。思いっきり自由なご見解をどうぞ。

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  • われわれは各々が ブッダであると何故言わないか

     あらためて問います。  資料を検討しつつ 表題の問いに 最終的に行き着きます。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 2 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 1 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いのかたちで考えてまいります。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(霊我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《有る神》と呼んでもまた《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りているナゾの何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら――ただの程度問題なのだから――余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それも中途半端に触れたりするのではなく すでに初めに大前提としてそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) しかもおそらくは 《非思考の庭》にあって そういう前提ないし想定の理論が成り立っているのであろうか。 つまり そのようなナゾとそしてナゾではなく認識しうる経験世界との――ヒラメキなどをとおしての――切り結びの問題か?  (9) ブッダということは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか?)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないのか? なぜゴータマの代化城なるマボロシから卒業しないのか?

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     次のような議論をめぐって ことの実態を明らかにしていただきたい。こういう問いです。  ▲(ヰキぺ:仏陀) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E9%99%80  § 仏陀の範囲  ( a ) 一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり、  ( b ) ヴェーダの宗教のアートマンのように、どんな存在にも内在する真我を「ブッダ」と呼んだり、「仏性」とよんだりする。  ( c ) 場合によれば宇宙の根本原理であるブラフマンもブッダの概念に含まれることもある。  ▲(ヰキぺ:過去七仏) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E4%B8%83%E4%BB%8F  § 概要  ( d ) 仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる。  過去七仏(かこしちぶつ)とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。  ~~~~~~~~~~  問いです。  【Q‐1】 ( d )のゴータマ・ブッダのほかに過去六人のブッダがいたということは 何を言おうとしているか?    (1) ひょっとしてゴータマのさとりは 師匠が無く証明のしようが無いことゆえ そのような単なる修辞学的言辞によって論証のしようのない根拠を示しただけのことか?  (2) 過去七人のブッダたちのあいだで その《さとり》に程度の差はあるのか? ( a )のゴータマの境地は 相対性の世界にしたがうか?  (3) ブッダに聞いてみないと分からないという逃げ道(理屈)が用意されているということなのか?  【Q‐2】 唯我独尊と言うなら 《ひとり満ち足りているもの》であるはずだ。ならば・・・  (4) ならば ( c )の《宇宙の根本原理であるブラフマンも ブッダの概念に含まれることもある》だけではなく まったく同じダルマであると言わなくては 不合理ではないか?  (5) ならば そのブラフマン(梵)のみならず ( b )のわれわれ人間なる存在における《アートマン(我)》も――けっきょく 梵我一如というごとく―― ひとしいと言わねばウソではないか?  (6) ただし 確かにその《ブラフマン=アートマン》のことを 《無い神》と呼んでも――それは経験存在たるわれわれにはついぞ分からない《ひとり満ち足りている何ものか》であるからには―― 同じことであるから ブッダのさとりはそういう無神論〔なる信仰〕だと弁明することは出来る。そういう理解でよいか?  けれども  【Q‐3】 ( a ) 《一般には、釈迦と同じ意識のレベルに達した者や存在を「ブッダ」と呼ぶようになったり》という見方がただしいのなら その《ブッダなるさとり》には レベルの差がつねにあると見るべきなのか?  (7) けれども もしそうなら余計に 《われわれ一人ひとりが それぞれブッダである》と言えるのであり それだけではなく すでに初めにそう言っていなくては 話は始まらないのではないか?   (8) とは言うものの もしさとりのすべてが 相対性の世界に従うのであるなら 何をもって《自灯明》なり《法灯明》なりと そのオシエは言うのか? つまりは やはり それら両者をそれぞれ《アートマン》なりおよび《ブラフマン》なりと同一だと言っていなくては 話はまとまりがつかないのではないか?  (9) ブッダは ダルマが絶対だと――想定して――言わないことには 千年二千年とつづくただの《おさとりごっこ》に過ぎないのではないか? (ここでは 《想定して》が ミソだと考えられるがどうか)。  (10) 人びとは われわれ一人ひとりが ブッダであると何故言わないか?

  • ゴータマ・ブッダは 世界一の詐欺師なり。

     1. 《空》を 神と見立てればよいものを あくまで人間の境地だと言い張った。  2. すなわち 《目覚めた(ブッダ)》状態としてであり 言ってみれば《神として》ではなく 《神の場に行き来できる存在》として にんげんなる《われ》にその境地があるのだと言い張った。  3. ブッダ状態としての《さとり》とは ここで あくまで《確率》として存在するというものである。言いかえると その存在についてもその状態についても ついぞ人が確定して認識しえず言葉によって表現しえない場なのだと。  4. 言いかえると ブッダよ あんたのさとりを 示せという疑いや要求に対しては あくまでシラを切る。《表現しえず》と。  さとったのなら 人びとに分かるように説明せよと言われても 沈黙をまもる。  人びとが それはこれこれの状態を言うのではないか? と尋ねた場合には いやいや さとりとは そんな生ぬるい境地などではないと答える。  では どうなのか? という問い返しには だんまりを決め込む。  5. したがって ブッダのさとりは 表現の問題におさまるかとさえ考えられる。  人びとに分かるように説明しえないならば そのさとりは インチキではないか? という問いに対しては いやいや われははるか昔からはるかこの先までブッダである。と言って聞かない。  説明が出来ていないではないか? という問いに対して いやいや われは その現場を取り押さえられても姦淫はしていないとどこまでも言い張るごとく ブッダなりと答える。ブッダはブッダなんだよおーんと。  ――このような《表現およびやり取りの問題》にすべてをおさめようというおそろしく決意の固い宗教家なのではないか?  6. 一方で 人びとの求道の心を引き出し ただし他方では さとりの証明にかんしては 量子を特定して示すことは出来ないというような論理で どこまでも逃げ しかもブッダ論をぶちつづける。      *  この質問は 下記の質問でのやり取りを承けています。   【Q:ブディズムの再生はあるか。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7563932.html  その趣旨説明から 次のくだりをふたたびかかげます。上の    1. 《空》を 神と見立てればよいものを・・・  について説明している箇所ですから。  ☆☆ (信仰の類型) ~~~~~  ( d ) 有神論および無神論それぞれとしての信仰を 類型的にまとめてみます。互いに同等であると見るというものです。  |非経験の場|経験世界の分身|信仰の形(非思考の庭)|  ○ 神道  |かみ|かみがみ|もののあはれを知る;きよらかなおそれ|  ○ ヒンドゥーイズム  |ブラフマン|神々|アートマンなるわれ|  ○ ブディズム  |空|神々|如来蔵(信じないと信じる)|  |マハーワイローチャナ|マンダラ|秘密なるわざ|  |アミターユス|無し|絶対他力;自然法爾|  ○ 聖書  |ヤフヱフ|無し|名を受け容れる|  |キリスト|無し|名を受け容れる|  |アッラーフ|無し|クルアーンに拠る|    ○ 西欧古典古代  |宇宙霊魂;世界霊魂|神々|《わたし》|  ~~~~~~~~~~  7. 有神論(たとえば 梵我一如)をしりぞけ それでも無神論〔という信仰〕の立ち場をも採らないならば その存在論・その人間の境地論は 《非思考の庭》としての信仰と 思考としての経験思想とのあいだで どっちつかずのままに終わる。というおそれが 大きいと思われる。  果たして どうか?

  • 《法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る》

     これは ゴータマ氏の発言であるようですが どういう意味でしょうか?  ▼ (心にしみる原始仏典) ~~~~~~~~  「ヴァッカリ」『サンユッタ・ニカーヤ』22.87(PTS Text,SN.Vol.3,pp.119-124.))   http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/vakkali.html  13 ・・・ヴァッカリよ、法を見る者は、わたし(=ゴータマ)を見るのだよ。わたしを見る者は、法を見るのだ。というのは、ヴァッカリよ、法を見る者は、わたしも見るのであり、わたしを見る者は、法を見るのだから」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  つぎのようなイエス(=《わたし》)の言葉とどう同じでどう違いますか?  ▲ (ヨハネ福音) ~~~~~~~~~~~  △  12章 45節  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  わたし(=イエス・キリスト)を見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。  △ 5章 19節  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  そこで、イエスは彼らに言われた。   「はっきり言っておく。   子は、父のなさることを見なければ、   自分からは何事もできない。   父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。  △ 10章 30節  http://www.bible.or.jp/read/titlechapter.html  わたしと父とは一つである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ありうべき対照ないし対応を 推測で挙げます。    ブッダ:法 / 法身・・・・・・・・・・人 / 応身:ゴータマ    聖書:父なる神・・・・・・・・・・・子なる神:キリスト             ・・・・・・・・・・・・ 人:イエス  すなわち  △ (ヨハネ福音10:30) わたし(イエス・キリスト)と父〔なる神〕とは一つである。  ☆ というごとく 法身仏=応身仏ゴータマ という想定でしょうか?  その場合 人としてのゴータマは 成道以前のその人でしょうか? 以後は 人間ではなくなっているのでしょうか?  ▼ (スッタニパータ)  ~~~~~~~~~~~   http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  1074  師《ゴータマ)が答えた、     「ウバシーヴァよ。     たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は     滅びてしまって(火としては)数えられないように、     そのように聖者は名称と身体から解脱して     滅びてしまって、     (生存するものとしては)数えられないのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • さとりとは 動態である。

     にわか仕立ての立論です。  批判・修正・そしてさらなる展開を よろしかったら 思う存分おこなってください。  1. さとりとは 池に落ちて 濡れずに上がって来ることである。  2. さとりとは 池は要らないと気づくことである。すでに洪水が地を蔽っているというのに という場合を言う。(ヱ゛-ダだか何だったかの請け売りです)。  3. 客観は ただ人間が世界を認識したと思い 〔じつはそれは世界の一部なのだけれどそれを〕言葉の論理と表現のあやとで何とか説明しようとしたその見方である。  4. そのような池は 要らない。(池のために人間があるのではない)。となれば――その境地にあれば―― まづさとりを得ていると言えるのではないか?  (4-1. ただし その溜め池を――覚え書きとしてのように――つくったりすることは なおも怠らない。必要であろう)。  5. 人間は 世界についての全客観には及ばないけれど 見方によっては そのかよわいささやかな主観がすでに世界を超えてものを見ることができると どういうわけか なれば――それは けれども なおも時間的存在たる者の部分的な動態でしかないゆえ―― そのような人間たちが相い集まって力を合わせて どこまでも話し合いをとおして一緒になおも問い求めを欠かさず 世界をともにいとなんで行くこと これが さとりである。つまり 動態だ。  6. 単純には 縁起共生と言うと思われる。業もこれを共業(ぐうごう)として捉えているということであろう。  (これは ここで ぼんぼにえさんたち専門家におそわりました)。  (6-1. ゴータマくんら ブッダはどうでもよいでしょう。いかにブディズムに通じているという人たちのあいだに 過去にとらわれている場合が多いことか。つまり いわゆる精神論が 大雨を降らしたごとく崖崩れをもたらして世界を蔽っている。あぁ うっとうしい)。

  • ブッダは 絶対ですか

    仏性というのでしょうか それは 絶対の境地なのでしょうか。 それとも 人間であるかぎり ゴータマ・ブッダとて 絶対だとは言えないでしょうか。 あるいは 生命だとか慈悲というのでしょうか そのような普遍的な力とそのはたらきとしてのブッダは 絶対の存在なのでしょうか。 仏教は 絶対という概念をめぐっては どういう立ち場なのでしょう。是非とも知りたいと存じます。ご教授ください。

  • 日蓮は 神か ブッダか 人間か

     特には 創価学会への質問になります。  ◆ (御義口伝巻下) ~~~~~~   http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=752&gn=%E5%BE%A1%E7%BE%A9%E5%8F%A3%E4%BC%9D%E5%B7%BB%E4%B8%8B&a1=34&a2=61&re=&pl=&c=10&p=1  日蓮所立自寿量品至開結二経  寿量品廿七箇の大事  第一 南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事  文句の九に云く   如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なり   別しては本地三仏の別号なり、   寿量とは詮量なり、   十方三世・二仏・三仏の諸仏の功徳を詮量す   故に寿量品と云うと。  御義口伝に云く   此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり 神力品の付属是なり、   如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり   別しては本地無作の三身なり、   今日蓮等の類いの意は 惣じては如来とは一切衆生なり   別しては日蓮の弟子檀那なり、   されば無作の三身とは 末法の法華経の行者なり    無作の三身の宝号を 南無妙法蓮華経と云うなり、   寿量品の事の三大事とは是なり、   六即の配立の時は 此の品の如来は 理即の凡夫なり   頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時 名字即なり、   其の故は 始めて聞く所の題目なるが故なり   聞き奉りて修行するは 観行即なり   此の観行即とは 事の一念三千の本尊を観ずるなり、   さて惑障を伏するを 相似即と云うなり   化他に出づるを 分真即と云うなり   無作の三身の仏なりと究竟したるを 究竟即の仏とは云うなり、   惣じて伏惑を以て 寿量品の極とせず    唯凡夫の当体本有の儘を 此の品の極理と心得可きなり、   無作の三身の所作は何物ぞと云う時 南無妙法蓮華経なり云云。   第二如来秘密神通之力の事      御義口伝に云く    無作三身の依文なり、    此の文に於て重重の相伝之有り、    神通之力とは 我等衆生の作作発発と振舞う・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまりは 本地無作(もしくは本有無作)の法報応の三身なる存在がいると言う。  ◆ ~~~~~   無作の三身とは 末法の法華経の行者なり    無作の三身の宝号を 南無妙法蓮華経と云うなり、  ~~~~~~~  ☆ それにしても なんで日本語で表わさないのでしょう?  そしてこの質問では前提としてすでに《南無妙法蓮華経》を 法身のブッダとして 《真理にひとしい・真実の神》と名づけています。    そのダルマの場ないしチカラを言うときに 神と呼んで捉えたほうが うんと早いし 分かりやすいと考えられます。    すなわち本地が無作――つまり 自然法爾(じねんほうに)――であるゆえに 朽ちることのない真理としての神であると。    そしてこれを《南無妙法蓮華経》とも ここでは 言いかえているのですが 問題は  ◆ 無作の三身とは 末法の法華経の行者なり   ☆ というふうに日蓮その人を当てていることにあります。――確かに存在を身につくっているからには 応身のブッダだとも見られうるでしょうが それにしても問題は 日蓮というひとりの人間が この法身のブッダであり 真理であり神である。と言ったことになります。  ここだと考えられます 問題は。  おそらく かんたんに済まそうとするなら ブッダと神とは違うと言えばよいかに見えるのですが。  だったら けっきょく《ブッダ》とは何か? の問いに哲学として答えなければならないでしょうね。  人間のことか? なら 法身のブッダに人間はなれない。  人間のことではないか? なら それが法身として真理でもあると定義して使ってもよいはず。だけれども 人間である日蓮が この法身であり真理であり神であるブッダであるというのは くるしい。のではないでしょうか。  ■ 無作の三身とは、久遠元初自受用身の“仏”を指す。  ☆ ということだと聞きますが。  ずばり    ○ 日蓮は 法身のブッダであり 神ですか?  すなわち 法身の――また本地無作の法報応の三身としての――ブッダであるとすれば    ○ 理即や名字即から究竟即までの段階など関係なく――     あるいはまた 無明と明知との区分などはいっさい関係な     く―― 初めから 神としてのブッダである。  となります。そうなのですか?   神としてのブッダと人間とのあいだには もはやいかなる想定も妥当性のある存在がいるとしておこなうことは出来ないはずです。(天使は 仮りの物語です)。  人間が 有限の程度問題としての高い段階であるブッダに成ることは出来ると言えましょうが 神としての(法身としての)ブッダであることは かないません。  もし 人間であると同時に法身であり神としてのブッダでもあるとすれば そういう想定は 人間イエスが神なるキリストであるという場合です。  もしそういう想定に踏み込もうということでしたら それ相応の――物語としてながら――理論としての整理をしておかねばならないでしょうから。  このように考えるなら 法身のブッダなる日蓮という命題は やはりくるしい。のではないでしょうか?