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釈迦は菩薩であったとは言えないんですよね?

les-minの回答

  • les-min
  • ベストアンサー率41% (269/644)
回答No.7

こんにちは。。  すでにたいへんに詳細なご回答が上っているので、出る幕ではないのですが、感じたことがありまして、お邪魔します。  ご質問者さんがお感じになっているように、出家後成道前のお釈迦さまは、少なくとも「大乗的な菩薩」ではないと思います。  #5のご回答者さんもご説明されているように菩薩には「悟りを求める者」という意味と「悟りを備え、他者を利する者」の両方の意味合いがあります。大乗仏教では後者を強調するようになりますが、前者も非常に重要だと思っています。  そういう考え方を持つためか、ご質問者さんの感じ方や思考の流れを拝見しある程度はおっしゃる意味合いを含めることはできると思うのですが、どうも「お釈迦さまが菩薩と言えるかどうか」がさほどかように重要だろうか・・・という思いが抜けないです。(新しい視点に接することができたな、と興味深く思いましたが・・・)  大乗仏教の用い方とは少々異なるものの、「菩薩」という用語は、大乗仏教以前から、お釈迦さまや「将来悟りを開くことを約束された者」を指して使われていました。(ご回答の方々が触れているお釈迦さまの前世物語や、授記物語などです。)  そういう物語は、要は創作でしょうが、お釈迦さまは「菩薩」だったと認識されていたということかと思います。  大乗仏教の菩薩のモデルとしても、成道前のお釈迦さまが(かなり美化されているかもしれませんが)想定されているのではないかと思います。  悟りを備えつつ他者を利する者という意味合いでは、成道後の説法を決意したお釈迦さまは、大乗菩薩のモデルということになるでしょう。悟りを開くことと、それを伝えることはまったく別問題ですし。  そういう意味合いで、成道後説法を決意されるまでは、阿羅漢的だというご質問者さんのお考えは、確かにそうだと思います。(既にご指摘が挙がっているように、語句の意味合い的な問題もあって、難しいところですが・・・大乗仏教以前では「阿羅漢」は「如来」と同意併記されることもあるので。)  説法を決意されてから以降のお釈迦さまの心情というのは、非常に興味のあるところですが、法を説く事に「使命感」を抱いていた・・・というのは、少々引っかかりました。  自分はこうだと言える訳ではありませんし、単に表現上の問題かもしれませんが、何か違うような感じだなと思いました。説法を決意した当座はどうだったかわかりませんが、長い後半生、ずっと「使命感」というようなある種肩に力が入った状態のままだったとは思わないです。  なんだか、まとまりなく申し訳ないです。

nossoripig
質問者

お礼

回答して下さり真に有難うございます。おっしゃるところの意味、良く分かります。 >どうも「お釈迦さまが菩薩と言えるかどうか」がさほどかように重要だろうか・・・という思いが抜けないです。 自分も無意味さを感じつつも質問致しました。私は昔から物事を理論的に解釈しなくては(出来なくては)我慢出来ない性質なのです。周りの人からも度々そう言われてきました。そこが自分の短所であり、長所でもあると思っております。 はっきり言えます。「さほど重要ではありません。」 >法を説く事に「使命感」を抱いていた・・・というのは、少々引っかかりました。 実は私も「使命感を抱いていたという風に表現するのは、違っているな」と感じながらも、もっと良い表現が見つからなかったのです。しかし、使命感無くして下化衆生をする気にはならなかったはずとは今でも感じております。又、下化衆生を決意するまでに所謂心の葛藤があったとすれば、「梵天」とはすなわち釈迦の使命感でもあったのではと考えてそう表現致しました。

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