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織田信長について

「長篠の戦い」の際に、織田軍の火縄銃(鉄砲)を使用する作戦を考えたのは織田信長なのでしょうか?教えて下さい。 また、織田信長が行った偉業で代表的なものを教えて下さい。

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質問者が選んだベストアンサー

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  • nishikasai
  • ベストアンサー率24% (1545/6343)
回答No.1

織田信長がどういう良いことをしたかは知りませんが、 彼はユニークな男であったのは確かです。わたしが感心したことは鉄砲のほかに二つあります。 1.足軽の持つ槍を長くしたこと。確かに長い槍だと相手の槍が自分に届く前に相手を刺せる。 2.今川義元を倒した時、 今川義元の首をとった者より、今川義元の居所を知らせた者に一番褒美を与えたこと。その頃から織田信長は情報が重要であることを知っていた。日本がレーダー開発や暗号解読をもっと一生懸命やっていたら太平洋戦争も少しは違っていたでしょう。

teke0404
質問者

お礼

確かに私もnishikasaiさんの意見に共感します。 情報提供して頂き有難うございました。

その他の回答 (5)

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.6

鉄砲を使うという戦術 武田軍に攻められた長篠城の城壁には銃弾の後だらけ、つまり、武田軍も鉄砲は使っていた。 という意味では、織田信長が…というのは、そもそも質問になりません。 たぶん、三段攻撃のことを質問者は想定されているかと思いますが、最近では、これは、偽説ではないかといわれています。 技術的に、無理ということ。 信長のやったことに関しては、その当時の大名なら考えそうなことを、延長線的にやったという評価もあります。 その意味で、偉業は「日本の半分を支配下に入れた」という事実だけは否定できないことかと考えます。

teke0404
質問者

お礼

情報を提供して頂き有難うございました。

  • at9_am
  • ベストアンサー率40% (1540/3760)
回答No.5

> 「長篠の戦い」の際に、織田軍の火縄銃(鉄砲)を使用する作戦 よく長篠の戦いは武田騎馬隊と織田鉄砲隊の戦いと言われますがこれは誤りです。武田騎馬隊と呼ばれるものは実在しませんし、武田鉄砲隊も存在します。たとえば長篠の戦いの直前には長篠城が武田鉄砲隊によって城壁が崩されてしまった、という逸話が残っています。 この戦いは織田・徳川連合軍が武田軍に対して野戦陣地の構築に成功し、武田軍を退却するか前進して破るかしなければ退路を断たれて全滅する状況に追い込みます。ここで前進を選択した武田軍が大敗北を喫した、というのが実状のようです。 勿論、このような陣地戦で鉄砲隊が活躍したのは当然のことですが、この当時には既に城に鉄砲狭間が普及しだした時期でもありますから、ある程度当然の知恵であったと言えるでしょう。 > 織田信長が行った偉業で代表的なもの みなさんが色々挙げると思いますので、挙げないと思うものを一つだけ挙げることにします。 ・簿記の採用 単式簿記ですが、近江商人が開発した簿記を採用したのは信長(だけではないが)です。これによって、 どの様な物資を どこに どれだけ 輸送すればよいのかということを把握する事ができ、織田家の広大な領土の戦闘を支える基礎となっていきました(戦争でもっとも大事なことの一つは兵站であるということは今も昔も変わりません)。のちに豊臣家において大々的に利用され、小田原攻めや朝鮮出兵などを支える基礎となっていくことになります。

teke0404
質問者

お礼

私も「簿記」の採用については知りませんでした。貴重な情報有難うございました。

noname#113190
noname#113190
回答No.4

織田信長は時代の変わり目に出現した一種の革命家であり、様々な社会システムが変わりました。 まず、従来の大名は領土を支配して、そこから上がる米などの農作物を経済基盤にしていましたが、信長は愛知県西部の津島の港湾支配により商業を基盤としています。 従って、土地というものは重要ではなく、旧来の大名が自分に支配地域を中心に勢力圏を広げたのに対して、本拠地を清洲から小牧、岐阜、安土とTPOに合わせて移して行きます。 これにより、故郷から軍団を編成して遠征する必要がなくなり、常に最前線で戦うことが可能になりました。 これを支えたのが商業で、これまでの戦は農民を徴発して軍団を編成しますから、農繁期はどうしても戦が出来ません。 信長の兵は銭で動きますから、年中無休で戦えることになり、専業の武士階級が形成されます、これまでは武士と農民は兼業で、農民も武装して万一に備えていました。 この専業武士の形成により、農民は武装の必要がなくなり、治安の安定によって、商人は織田の領内を自由に行き来することが可能になり、商業経済が発展します。 これまでは追いはぎ・山賊から身を守るために、商人も浪人を雇って用心棒として旅を続け、それぞれの領主が関所を作って通行税を取るため、小売価格がその費用を上乗せされて高くなりましたが、織田氏の一元支配により関所が廃止され、街道は織田の兵により治安が維持されるので、旅人は安心して旅が出来ますから、消費者は安いものを買うことが可能になり、流通革命が起こります。 これは旧勢力としては自分の利権が侵されることになりますから、団結して抵抗勢力となって織田氏に反抗します。 本願寺などは信徒を動員して戦いますが鎮圧され、これ以降は僧侶が長刀を振り回して殺生を行うことはなくなり、現在我々が見るようなお坊さん、説法などで信徒を導く、精神的な存在になります。 もう1点は地名の変更で、稲葉山城を岐阜と命名したように、安土、長浜など、自分の支配地域の地名を変えていきます。 これも従来は天皇のみに許されたことですけど、彼以降の武将は信長に習い、徳川家康も浜松と地名を変えるのが流行しました。 これ以外にも、能力主義の導入、転勤の多さ、鉄張り船の導入など、彼の人生は激動の時代で、現在でも十分通用するセンスの持ち主です。

teke0404
質問者

お礼

織田信長についての様々な情報を提供していただき有難うございます。

  • haifa7741
  • ベストアンサー率10% (20/193)
回答No.3

信玄(没前)の上洛戦時に家康が 三方が原の戦いで小銃を武田方騎馬軍団に広角乱射して かなり効果があった その成功例にヒントを得て 長篠の戦に応用した そういう見解が一般的です

teke0404
質問者

お礼

私もそのように考えています。情報を提供して頂き有難うございます。

回答No.2

桶狭間の作戦は明らかに信長の独断でしょうが、既に日本一の大勢力となっていた時期の長篠において、本当の発案者が判る事は無いでしょう。 偉業についても異論があり、足利義輝の試行を参考にしただけと言う論もありますが、戦国時代の固着を打破する為に行った以下の3つを偉業と考えます。 専業戦闘集団を作り上げた事。 旧勢力であり混乱を助長していた、幕府・仏教集団を滅ぼした事。 楽市楽座等、商業の自由を拡大し、経済発展を進めた事。

teke0404
質問者

お礼

織田信長の偉業についての情報を提供していただき有難うございます。

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