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ものまねが得意な日本人の性質

カテゴリが違うかもしれませんが、ここに書きます。 一般に、日本人はものまねが得意だといわれています。 例えばバレンタイン、クリスマスなどは本来宗教的な意味があったはずですが、その意味は切り離されて楽しい行事と化しています。 七福神も、本来の信仰とは切り離されて、何となくありがたいという軽い気持ちでもてはやされています。 芥川龍之介は、日本人が海外の思想を捻じ曲げて自分のものにする様子を「造りかへる力」と表現したそうです。 宗教に限らず、日本人は何でも自分なりに解釈してしまう癖があるようです。 このような日本人の性質を学術的には何と言うのでしょうか。 またこの性質に関する書籍があれば紹介してください。

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  • larme001
  • ベストアンサー率44% (271/608)
回答No.7

日本人は物まねがうまいというより、異文化、外国のものを取り込んで、独自の工夫を重ねて有効なものにする、という点で優れているのはよく言われることです。日本は国土も小さいですし、大半が山です。また、資源や基本的な食料も海外に依存しています。また地震等自然災害も多いので、そのような生活環境の中で、より無駄のない高精度、高機能のものを作ったり、考えたりする技術が生まれたのではないでしょうか?たとえば、「お金がない」とそれだけ細かいところにもケチったり知恵を働かせますよね。捨てるほど金があれば、そんな細かいところはどうでもよくなるでしょう。それとにたようなものだとおもいます。 クリスマスやバレンタインはもともと100%宗教的な意味、というわけでもないですが、日本はどちらかというとお菓子メーカーの戦略が一般的なものに定着していったような気がします。ゴールデンウィークなども元々は映画だとか社会的ブームが定着していくことって多々ありますね。アメリカならバレンタインは男女とわず、贈り物をする習慣がありますし、クリスマスも似たようなものです。これはどちらかというと、日本人の集団性や社会性などによるものでしょう。アメリカだと、個人個人が好き勝手やっているけど、反面多彩な趣味を持った人たちが、それぞれ主張を持ち、それを誇りにしていたりします。まあ、アメリカとはそういう国ですから他のヨーロッパなどでは状況は変わるかもしれません。日本の場合、良い意味で言うと、宗教等による価値観の衝突が少なかったので、周り誰でも良いと思ったものを寛大にとりあえず何でも取り入れて自分のものにしようとする傾向はあるかもしれません。 後は、日本語自体がカタカナであったり、語尾変化をさせることにより多彩な表現ができますから他文化を受け入れやすい言語であったりするかもしれませんね。言葉一つでも、我々はそれで考えたり、意思疎通をするので意外と国民性などに反映していたりもするでしょう。逆にいえば、自分たちの文化について知らなさすぎ、とか、説明できない、などと批判されがちですがね。

pittit
質問者

お礼

国土の狭さが日本人の実用性を重視する性格を作ったというのは非常に納得しました。 宗教でも、御利益があるとか、悪運を避けるとか、実用的なものがもてはやされるのはケチケチ精神によるものなんでしょうね。 土地が無いという絶対的な条件の中でいかにやりくりするかを追求した結果、自分が変わればいい、自分が工夫しようと自己反省的な精神が生まれたのではないかと思います。 だから多文化を取り入れることに抵抗が少ないし、意味よりも実用性を重視する解釈になるのでしょうね。 ありがとうございます。

その他の回答 (9)

noname#25818
noname#25818
回答No.10

そういうことさえ解らない. 囚われて曇っている目.

pittit
質問者

お礼

数々の御注進ありがとうございます。 修行をして出直して参ります。

noname#25818
noname#25818
回答No.9

そういうことが 嬉しいから 大きな勘違いは 君臨! 目の前のささやかな幸せこそが 幸せと認識するから... もどきが 多い.

noname#25818
noname#25818
回答No.8

意味は祝祭にある. 心に訴えるものがあるものを 寿ぐのだ.

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.6

[このような日本人の性質を学術的には何と言うのでしょうか。] 学術的な表現はないか、わからないけど、おそらく「おひとよし性格」あるいは宗教的にいえば「性善説的思想」が強い国民性なのではないかと思いますね。いい意味での模倣はどの国民でもあることは、皆さんのご指摘の通りだと思います。日本人は他国民が悪いと考える模倣もいい意味で取り込むところがあります。これは本質的に民族間にある敵愾心・敵対心が少ないというところにあるように思います。これは陸続きの隣国がないという点、聖徳太子以来の「和」の精神からきていると思いますね。ものの模倣だけでなく卑下の言葉も気にせずに取り込みますね。中国の魏が卑下してつけたと思われる「卑弥呼、邪馬台国」なども学者が日々気にせずに使ってますし、戦後の「ジャップ」などもそうですね。こんなところは不思議な国民性ですが、強いて言えば「和の模倣精神」ですね。これは世界広しといえども日本だけでしょう。

pittit
質問者

お礼

「和」というのはいい言葉ですね。 日本人はとてもプライドが低いと思うんです。 誇りが無いということでなく、誇りの基準が他人によって決定されて、他人の評価イコール自分の価値になっている気がします。 だから他人にバカにされても、される自分が悪いと自己反省的になって、バカにされないようになるのが誇りだと感じる。 よく言えば謙譲の心、悪く言えば主体性の無さなんですが、日本人は特にこういう意識が強いと思います。 だいぶすっきりしました。ありがとうございます。

  • reigji
  • ベストアンサー率14% (4/27)
回答No.5

別に日本に限らずアメリカでもクリスマスはイベントですよ。日本人は白人文化大好きだから真似してるだけの話。つーか日本人だけじゃない。中華思想の中国や我が強い韓国人やアラブの人達もなんだかんだでみんな白人文化が大好きで飛びついてますよ。ミーハーなのは日本人だけじゃないよ。

pittit
質問者

お礼

なるほど。言われてみるとニンジャ、サムライなど日本の文化も都合よく解釈されてる気がします。 他文化の吸収はまず形から入るということでしょうか。 情報ありがとうございます。

  • sonsin
  • ベストアンサー率42% (6/14)
回答No.4

ある国語学者の言で、「学ぶとは真似ぶから来ている」と読んだことがあります。 真似て学び先人の良いことを再現するには、創意と工夫が必要となるようです。 創意と工夫が身につくと、こんなことができたらいいなという想像から、創造が始まり発明・発見につながります。物まね人種だといわれたら、創造人種だと言われたのと同じです。   インスタントラーメンは、あるアメリカの機関が20世紀最大の発明だと評価しましたが、昔からあったラーメンを、血のにじむような努力で改善を重ねた結果です。 これができたらこんなに素晴らしいことになるという、豊かな想像力が支えでした。 どうやら、自分の考えを先人の成果に『味の素』のように、そっと付け加える謙虚さが成功につながるようです。 これは創造的な成果のすべてに共通のようです。 

pittit
質問者

お礼

ありがとうございます。 真似て自分なりに解釈するのが想像の種ということですね。

noname#66269
noname#66269
回答No.3

日本人と言うよりも、ものまね、すなわち「模倣行動」は、生物一般にとって基本的な行動の一つとなっています。 子は親の行動を模倣して成長しますし、 人類の文明も、これまで  エジプト → ギリシャ → ローマ → ヨーロッパ → アメリカ という具合に、前文明を模倣して発展してきました。 他の進んだ文明を模倣できない種族は、衰退し消滅していかざるを得ないことは、歴史が示しています。 (西欧開化を速やかに果たした日本に、西欧化を拒否した朝鮮が吸収されたように) もちろん、このような模倣は、取り入れたものを自分の都合いいように変形させて発展さすという段階を必然的にもたらします。その時にこそ、模倣者は、前文明を完全に凌駕し、一時代を築く文明へと繁栄していくとこになります。 日本が、過去、中国文明と西欧文明の両文明を素直に模倣し、それを咀嚼・発展さすことができるとすれば、次は世界に君臨する日本文明の時代が来ると言っても過言ではないと思います。

pittit
質問者

お礼

なるほど、日本人が意味まで模倣しないのは、宗教意識が薄くて価値を感じないからかもしれませんね。 参考になります。

noname#25818
noname#25818
回答No.2

心の狭い偏狭宗教は好きですか? 日本人はお祭り好きなんだな. 和尚さんが人生は祝祭であるといっていました.

noname#25818
noname#25818
回答No.1

内包されるものと内包するものにおいて どちらが許容力があるだろう.

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