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中島義道による、人生論の代表作は何でしょうか?

中島義道氏による、人生論の代表作(主著)は何でしょうか? つい先日に軽く立ち読みした、中島義道による『カイン―自分の「弱さ」に悩むきみへ』が面白かったので、これと同じ流れの代表作を読みたいのです。 なお、いままでに読んだ中島氏の著作は以下のとおりになります。  ・「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの  ・働くことがイヤな人のための本―仕事とは何だろうか  ・ぐれる! お手数とは存じますが、何卒ご教示くださいますようよろしくお願い申し上げます。

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  • ベストアンサー
  • tabataba3
  • ベストアンサー率47% (211/443)
回答No.1

「うるさい日本の私」と「私の嫌いな10の言葉」と「日本人を〈半分〉降りる」の三冊だけ読みました。「私の嫌いな……」は人生論的な色が濃く、他の二冊は社会・文化論の色が濃いけれども、日本社会の中の私を論じるという意味では人生論です。 三冊だけなので代表作かどうかは判断しかねますがは、その中では「日本人を……」は秀逸な日本人論であり、人生論であると思いました。

YMO2005
質問者

お礼

ご教示くださり有難うございます。それでは週末にでも、「日本人を〈半分〉降りる」を読んでみます。

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    私は「自我」という言葉をこのように解釈しています。  自分ひとりで考えてきてしまったもので  別に矛盾とかは いろいろな体験からも無いと思えるのですが 皆様のご意見をお聞かせいただければと思いました。 視点が違えば こうした考えは それによってさらに豊かになるという期待もあります。 よろしくお願いします。 ↓↓↓ 私の人生(現在63歳ですが)からは 誰もが「自我」は、持っているという観察結果が 狭い視点なのかもしれませんが 出てきます。 しかも、それを 人と隔てる殻とすると かなり強固な殻として表現可能なものとして「自我」は存在してしまっています。 そこを 私はまず、 卵の殻ではなくて 鉄のような堅固な殻を持ったの球や円を 便宜的説明図として ここに想定させていただきます。 それは、まず そのへんをこのように考えるからです。 人を助けたいという気持も 多くの場合、 自分の満足や 自分の名誉  人から善い人と思われたい心からとか、 それによって信用されたいから あるいは感謝されるのが気持いいから あるいは見返りがいつかは期待できるからとか とか なんらか 自分のためであったりするところ  そのへんを冷徹に見つめるとなのですが、 自分をまず、大切にしたり 自分にまずゆとりを作らなければ どうせ人へのなんら助けにならないことからも   また さらには ほんとうに気持にも生活にもゆとりがなければ 人は 人を押しのけてでも まず自分の欲望を 人を助けることより優先します。 普通は こうして ゆとりさへあれば 自我の堅い殻の中にても、法律は守りますし、 人助けもします。  それが常識の範囲というものでしょう。 戦争のような極限状況で無い限りの 私たちの神経は 自分のためにも 平和を望んでいるからです。 しかし平和であっても この自我を知ってしまうと、 人の存在すら認めない考えの人も出てきます。 ただ のけものにされたくないから、いい人のふりをしているだけとなったりします。 善人でありたい 道徳心とかも強い人は多いですから これはとてもきつい冷たい見方でしょうが  私は まず このへんは冷徹に しっかりと 自我の構造を見つめておいて 真実の追及してゆくべきところと思えてしまっているということです。 そうすることによって それでも崩れない 他の人へのあたたかい思いやりの気持の所在はどこにあるのかをより明確にあぶりだしたい気持からの 冷徹さでもあると思っていただいていいところでもあるのですが、 ともかく 最初は この鉄のような硬い殻の ボールをイメージしてください。 次に、何故、 その殻は それほど硬いのか?  それは 欲望の存在がそのエネルギー 出発点では必ずその殻を持った円や球体のうち側のエネルギーを持ってしまい それに覆われるような形で その殻が形成されているからです。 そういう便宜上のイメージの話ですが、 そういうふうに表現することができると私はですが思っています。 「人はみなそれぞれ絶対弧」という哲学言葉があると聞いていますが それは又別の意味合いの「弧」の世界の表現でしょう。 むしろ人の存在を認めるからこその尊敬とう文字の裏返し その基点のようまものの表現であるのだろうと感じます。 そうではなくて、 死が絶対的別れであることを知る時のような深い奈落の孤独の世界が 見えにくくてはあっても そこには あるということです。 誰もが その「巨大な」とさえ言えてしまうような殻の硬さの中に置かれているという図、 しかも欲望が故という理屈、 ここまで 文意は理解できましたでしょうか? これは 左脳(論理脳)で捕らえると そのようにも表現できるという意味合いでもあるのですが、ともかくまず 論理的には そのような図が考えられることを念頭の置いておいてください。 しかし 欲望は さまざまなニーズの総合、 その重複性の奥に 時に無意識的にかもしれなくても《幸せを願う》という究極へと向かいます。(ここも反論があるかもしれませんね) 幸せは 音楽への感動や この大地への感動 大自然への感動、その中での安らぎや新鮮な気持といったことを心に見出す時にやってきます。 ある意味欲望は そのへん ほんの薄皮をむけば その心の故郷と一体となった美の世界をともないます。(この欲望自体の構造については、 別に質問したいとおもっていますが) いずれにしても  その「幸せ」感と一体となるようなエネルギーが希求の中に入り込むと(その実感が命に宿り始めると)その中からは 他の人の幸せも 自分と同じ様にせつせつと願う気持も 同時に生まれると私は思っているのです。 もっと単純な話が 人って ほんとうにうれしい事があると 人に伝えないではいられない気持になります。 そういう気持を知らない人はそれだけうれしいことがあまり無くて 記憶に残っていないからだと思いますが ともかく その延長線にある 人間性の必然だと思っていただけると解りやすいかと思います。 つまり ちょうど 磁力線のように それはなんと いとも簡単に 鋼鉄のように固い殻を突きぬけてしまいます。   それがどんなに硬くてもです。 別に それで 聖人とかになれるとか言いたいのではなくて、 かならず そこには、これも誰もが、少なくとも心の奥は 暖かい気持になってしまうということです。 これを卵に仮に例えるなら 黄身の部分がそれかもしれません。  偉いとかかいいとかのえらい違い^^は考えないで下さい。 自分のことのように 相身互いの気持にはなれるようになるということです。 この自我論が意味しているものは、 誰もが まあそんなものではないでしょうか、という大局的意味合いです。  誰を低くみたり 誰を英雄視したりすることもなく もっとみんなが 自分を見つめ 信頼し、  相手を認め 信頼しあい、 語り合えるようにするための図のつもりなのです。 しかし 私は わりと幼い頃から こうした人間についての考えを真剣に考えてきた者ですが、 本とかをあまり読む機会がないまま 忙しい人生を生きてきました。 他の人の心理学とか 哲学とかで すでにこうした自我論というのがあるのかないのかもわかりませんし、 他と比較できないので 自信とかも沸いてきません。 それは、それでいいのかもしれませんが、 やはり 対話は 勇気や力を私に与えれくれると思うのです。 もしよろしければ、 この考えの欠点、 間違っていると思える点、 感想、その他 ご意見をお聞かせいただけると ありがたいのですが、  どうかよろしくお願いいたします 人生観から生まれた論の一つですので、この紙数ですべて書けるものでは無い論文となっているところ もしご意見をいだだけましたら そのつど お一人お一人に 補足文を書かせていただこうと思います。 よろしくお願いいたします。

  • 皆さんの人生論、人生観を教えてください。

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