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天皇の歴史について
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- 7zigennDNA
- ベストアンサー率42% (8/19)
天皇をめぐる誤解や短慮の多くは、 近代的な価値観で天皇を説明しようとする為に生じています。 そんな理屈では、天皇の謎は解けません。 古事記をどう解釈するか、特に、神話時代の伝承についてどう解釈するか、 戦前は、これを天皇の神格化に利用し、戦後は、絵空事として無視してきました。 縄文時代について学べば、学ぶほど、「縄文の心と魂」は、 古事記の物語の中に、 そして天皇の御心の中に、 脈々と活き続けていると思えてきます。 天皇は、縄文と弥生の結び目に位置する存在。 そう考えながら、古事記を読み解くと、新しい解釈ができます。 奈良盆地における縄文時代の末期に、開拓者として入り、 周囲の縄文人達と協力関係を築きながら、 水田稲作を広めた中心人物が、初代天皇とされる神武天皇だったのでは。 縄文の心と魂を、水田稲作の技術や文化に融合させることに成功したからこそ、 水田稲作の適地にも非適地にも影響力を広げていけたものと推察します。 縄文と弥生の結び目に位置するからこそ、 天皇は、古代から広範な部族に支持を広げることが可能だったに違いなく、 現代においても、国民統合の象徴に最も相応しいと考えます。 だから天皇は、一見、庶民から最も遠そうな存在でありながらも、 逆に、庶民の心に最も近く、 庶民の心の奥底にも鎮座している「縄文の心と魂」に寄り添っていらっしゃる。 東日本大震災の被災者を見舞うお姿にも見られるように、 誰よりも、庶民の心に寄り添う事がおできになる。 人類史の中でも、奇跡的な存在でいらっしゃると思います。 そして、隼人族は、縄文時代から続く海人族の代表的部族。 縄文時代から続くもう片方は、森の民。 海幸彦と山幸彦の関係です。 海人族は、日本列島に様々な技術や文化を伝え、 絶大な影響力を及ぼしてきましたが、 それでも、日本列島の住民の主体は、森の民であった。 この事実を物語に反映したものと考えます。 <参考URL> 縄文の心と魂 http://web01.joetsu.ne.jp/~dimen/page047.html 古事記の解釈・編纂方針と背景 http://web01.joetsu.ne.jp/~dimen/page048.html 古事記の解釈・神代 http://web01.joetsu.ne.jp/~dimen/page049.html 日本人の起源、魂のルーツ http://web01.joetsu.ne.jp/~dimen/page046.html
- sophia35
- ベストアンサー率54% (638/1164)
おはようございます。 天皇が長崎の出身と言うことは、先ずありえませんね。神話の舞台が長崎と言うよりも、山幸が対馬の沖海神の社に針を探しに言ったと言うだけの事ですから、「伝説の一舞台」と言うだけで、「天皇の発祥地」ではありません。天皇の発祥を考えたければ、記紀になぞらえれば天孫降臨は日向の高千穂と言う事になりますし、実際に天皇の親となる山幸彦も、玉依比売が神武を産んだのは高千穂宮です。そして、日向の地から神武は東征に向かい、エウカシやナガスネヒコなどと戦いを討伐し、畝火の白檮原宮で即位しました。天皇が日向から何故畿内に向かったかは、「神武東征」で調べてみてください。書籍も資料も山のようにありますよ。丸投げせずに、少しは自分で調べましょうよ。 あと、最初に「諸説紛々」である事をわきまえた上で、三兄弟は三部族と考えられるとの説もあります。海幸治める隼人族は元から日本の国にいた部族(南方系海人族で、インドネシアの方から上ってきたとされています)だから兄とし、後進の部族を弟と定め、先住部族を討伐し服従させる事に成功、また、華系海人族(海神)の娘を娶る事で、国交を築く事に成功した事を、「神話」の形で知らしめたとさせる説もあります。この辺りも記紀研究の資料を調べれば、沢山ありますから探してみてください。 記紀は神話ではなく、神話の形を取った討伐記であり、一歴史書であります。#1さんが仰るように、記紀をもって天皇の正当性を知らしめたものです。一歴史書としてみると、様々な見解が得られますよ。
- teinen
- ベストアンサー率38% (824/2140)
神話の舞台は,長崎ではなく,宮崎では? 「山幸彦は高千穂宮に住んだ」とあります。また,海幸彦は隼人の祖神です。隼人は現在の鹿児島県に住む人々を指します。 日本神話は,大和政権の正当性を知らしめるために作られたものですから,隼人に限らず,全ての地域の人々を服従させる必要があったのです。武力によって服従させる話もあれば,話し合いによって服従させる話もあります。大国主命が出てくる国譲り神話は,後者の代表例です。 「日本神話」で検索すれば,いろんな話が出てきて面白いですよ。
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