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おおらかさについて

mamuku-の回答

  • mamuku-
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回答No.7

私が言った、哲学上の論争というのは、ソクラテスまでさかのぼらずとも いろいろある、ということを言いたかったのですが。認識論においても、 存在論においても、西洋哲学の分野で論争はあります。 ソクラテスは「悲劇的な死」というよりも、自ら選んで毒杯をあおいだ、つまり、 法に従い死を選んだ、という意味において、法に殉じたといったほうが、良いでしょう。 また、釈尊の場合は、生をまっとうした、というよりも、常に殺されるかもしれない(あるいは命を常に狙われていた)という状況の中において、生き延びたとったほうが良いでしょう。 質問者の方の言っている「西洋哲学」がかなり狭い意味において、使われている といった感じを持つのですが、私だけでしょうか? 西洋哲学における論争が、ソクラテスの例をあげるだけで、論争がフェアではない とか、ということは言えるのでしょうか? ところで、この質問の意図するところは何なのでしょうか? そこのところをお教え願えれば、より建設的な発言ができるというかんじがします。

mcqgogo
質問者

補足

たびたび恐縮です 前提の誤りを指摘されているように思いますので、あなた向けに問題を絞って質問を作り直してみます 問2のほうはこの際無視していただいて結構です お断りしたように始めから西洋の哲学論争については想定していませんし、これ以上の主張論評も出来ません、今は認識論も避けたいと思いますのでご了承ください そこで問いです 例えば、西洋に「空虚」を認識してその存在を主張するニヒリズムという考え方がありますが、こちらでは「空」の認識という仏教的な考え方があります 同じような事柄を原理的に認識するにしても、その後の実践的な生活感・姿勢に両者の間では大きな隔たりが生じてくるようです 片や虚無・排他的な世界観に変わり、片や世界をありのままに受け入れようとする、といった具合にです この違いを生み出す大きな要因として、西洋哲学者の学問にのぞむ姿勢のなかに、東洋に比べて「おおらかさ」に欠ける部分があることがあげられると思います このことをあなたはどのように考えますか? この問いの意図は、実践的な哲学の大切さの確認にあります

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