• 締切済み

自分は淘汰されるべき人間?

メンタルヘルスというか、なんか別の話かもしませんが、ここが一番かと思いここに書き込んでみました。 よく、「色んな生き物は何かをなすべき為に、この世に生を受けているんだ」と言うようなことを聞きますが、では、その目に見えない「何か」を成し終えたらその生き物は生きている価値が無いのでしょうか? また、その「何か」を持って生まれていない(見つからない)生き物は、自然の摂理に従い淘汰されるべきなのでしょうか? 何か回りくどい言い方になってしまったのですが、自分自身、その「何か」を見つけることが出来ず「自分は淘汰されるべき人間」という考えが頭から常に離れないのです。 このような考えを持つこと自体変だと、この質問を投げた人には言われているのですが、本当に変な考えなのでしょうか? どの様な回答でも構いませんので、どうぞ宜しくお願いいたします。

みんなの回答

  • yunyan
  • ベストアンサー率18% (3/16)
回答No.14

あなたが淘汰されるとはどういった状態になることを言うんですか?

  • k-ishi
  • ベストアンサー率50% (3/6)
回答No.13

また、書きます。k-ishi。 次の一節を読んでください。淘汰されるべき人間なんていません。 1.「あの世」への帰還  (1)「魂」としての自覚

参考URL:
http://www.sol.dti.ne.jp/~sam/realaim/NO1.html
  • aipha
  • ベストアンサー率0% (0/0)
回答No.12

mercury_starさんが今生きているならまだ淘汰されるべき人間じゃないと思います。 人間はなにか役目をもってこの世に生まれて、そして成し遂げたら死ぬんだと自分は強く信じていますが、その役目は気づかないものかもしれませんよ。 「役目」はスゴイ物を発明したり、世界平和に貢献したりとかじゃなく、 もしかすると家庭を持って子供を立派な常識のある人間に育てる事かもしれません でもそう考える事は大事だと思います。ただいつも考えるべき事ではないと思うんです。 変なアドバイスになってしまいましたが参考にしてもらえたら、と思います。

  • suzuryou
  • ベストアンサー率52% (9/17)
回答No.11

そもそもの淘汰という考えが、本当にありえるのかが重要です。ダーウィンの進化論(この進化論自体、他人の理論のパクリではあるが…)の不完全さは議論されて久しいです。 『役割の終わり=淘汰』という考え自体が、もしかしたら自然の法則に反しているかも知れません。 簡単に終われるような役割りは役割りにならないのではないでしょうか。卑近な例で言えば、会社でも簡単に終了できる役割りの与え方は、よっぽど会社に余裕がない限りしません。およそ人間に求められる全ての役割りは社会に満ちており、人間にできない役割りは存在しません。 あるとすれば、自分の理想とする役割りと現実のギャップだけではないでしょうか。 発展途上国で、道端で物乞いをする子供達は、「やむをえない」状況という背景はありながらも、それが彼らの切実な役割りであって、その意味でも、その宿命の中で役割りを果たしていると考えられないでしょうか。 私達は、あまりにも恵まれた社会に住んでいるために、役割りについて考えられる余裕が生まれているとも思います。 先日、NHKの教育テレビで、瀬戸内寂聴さんが悩み相談をしていましたが、mercury_starさんと同様の質問を受け、「世の中が豊かになったのですね」と答えられていました。世界を見渡せば、自分の役割を考えられる余裕のある人の方が少数で、ほとんどの人が明日を生きる為にどうするかで精一杯なのだということでしょうか。 私は、この豊かな社会で生まれ育って、自分の役割について考えられる(悩める)幸運を感じるのが、まずは先だと思います。 突き放す言い方かも知れませんが、私も同様の悩みを経過しており、私の出した結論も、このようなものでした。

  • peapoppo
  • ベストアンサー率13% (17/122)
回答No.10

真面目に突き詰めれば確かに 「自分は生きるに値する人間か?」という疑問はありますね。 何の根拠もなく自信は持てないですね。 何かを成し遂げたと実感したとしても 「私は人類に欠くべからざる人間だ」などと言われればどんな人物でも鼻持ちならないと感じますよね。 「何かを担って生まれて来た」と考える場合は神の存在を肯定しなくては矛盾しますよね。 色々な宗教家が色々な説を唱えたりしていますが、突き詰めれば「何であなたはそんなことを知っているのか!?」と突っ込みたくなるし、それに答えられる人などいないでしょう。 人間とて生物です。 生物として生まれただけ・・・だと思うのが正解ではないでしょうか? 生まれっぱなしで周囲に迷惑を掛けっぱなしで死んでいくのか、偶然出会う人達にいくらかでも役に立って気持ち良く一生を終わるのか、それは人間として生まれたあなたが決めることではないでしょうか。 ただ、貴賎もなにもなくただヒトとして生まれた者同士に上下は無いはずなので、淘汰されるべき人とそうでない人の区分って物も無いわけです。 そんなことは誰にも決められない。

  • BRANDX
  • ベストアンサー率32% (16/50)
回答No.9

 「生き物は何かをなすべき為に・・・」と書かれておりますが、そのなすべき行いは、絶対的な評価に基づく物ではありません。あくまでも相対的な価値観として捉えるべき物でしょう。家族の為、地域社会の為、国家の為、世界人類の為、地球の為等々、考えられることは色々と有るのですが、無理に自身の認識として捉えなければならないことでもないと思います。自分の行いや存在そのものが、自分の思惑とは違った影響を社会に及ぼしている事を考えなければなりません。  先日、某国営放送で、若者たちが自分の存在意義についての討論をやっていましたが、彼らは”存在意義”と”自己満足”という二つの言葉の狭間で悩んでいたように思われます。私は”存在意義”についても前述したように、相対的な価値観として捉えるべきであろうと考えます。何々にとっての自分の存在意義というように、色々な角度から 考えると、それなりの答えが浮き上がってくるでしょう? それが、例えば”自分にとっての自分の存在意義”に行き着いても、それはそれで面白いじゃないですか。要するに 存在意義とか、なすべき行いとか、淘汰されるとか、あまり自分の中だけで悩むことは無いと思いますよ。ただ、この問題について考えている貴方も、そのことによって、ある事柄に対する何かの影響を成し遂げているかも知れません。 

  • k-ishi
  • ベストアンサー率50% (3/6)
回答No.8

mercury_star様 宗教に答えを求めるのも一つの方法と思いますが、このたびはそのようなことを言うのはやめましょう。多分いろいろ試行錯誤されたのでしょうから。 (1)生物学者である「柳沢圭子」さんという方が、生物学的視点から人生を語られています。何冊もの本を出されています。あなたのような質問に対する答えがきっとある筈です。参考に読まれたら如何ですか。書籍検索(の著者検索)で検索できます。 (2)人は生まれる前に「人生の自己計画」を立てて生まれてくるのだということが、米国の精神医学者の退行催眠療法によって明らかにされています。この関係の本も何冊も出版されています。経営学者でおられる、福島大学の飯田史彦先生という方がこの手の研究をまとめた論文を出されております。一般人にも読みやすい内容です。URLを参考にして下さい。宗教的な話のように思われますが、宗教ではありません。 誰も自分の人生は生まれる前に自分で計画して生まれてくるという事です。自分の人生の目的はあなた自身が知っているということです。こういう事実をどう解釈されるかはあなた次第です。 飯田先生は何冊もの本を出されていますので、ご参考にされては如何ですか。飯田先生のHPもあります。 以上。k-ishiでした。

参考URL:
http://www.sol.dti.ne.jp/~sam/realaim/Lifeindex.html
回答No.7

マグロは釣り上げて、さばいて食べればおいしい。 養殖した人間にしてみれば、マグロの使命はおいしく食べられること。 でもそんなこと、マグロ自身にしてみれば知ったことじゃない。 どう生きるかはマグロの勝手、マグロの感じる幸せを追っていくというのが 生き物なんじゃないかなあとわたしは思ってます。 世界一の俊足に生まれついたら、運動選手にならなきゃいけないかしら? それでも、走るより料理が好きだったら、料理人になったほうが そのひとにとっては自然で幸せなのだとわたしは思います。

  • miki101
  • ベストアンサー率7% (3/38)
回答No.6

たしか新聞で見たと思うのですが、とても印象に残った言葉があったので、ここで書かせていただきます。 「ここにあなたの地球での使命が終了したかどうかを判定するテストがあります。  生きていますか?  もし命があるのなら、あなたの使命は終わっていないのです。  - リチャ-ド・バッハ」 いかがでしょうか?

  • soba
  • ベストアンサー率12% (23/185)
回答No.5

「為すべき事」それを決めるのは自分です. 「何か」が何かを決めている人もいれば、まだ決めていない人もいます. 決めていない人は、そのうち見つかります. 為し終わった人は、次の「何か」が見つかります.すぐ見つからない人もいます. あなたの言う「何か」が見つからなくても焦る必要はナッシング. なぜなら、「何かが無い」時間も大切な時間だからです. いつも何かに向かって全力疾走できる人はなかなかいません. 私は、2年前から今の「為すべき事」を発見して走っています.とろとろと.

関連するQ&A

  • 人間は淘汰されなくていいのでしょうか?

    地球の人口が2022年11月の時点で、約80億人に達すると聞きました。 今後も人口は増え続けていくようです。 これを聞いて私は、人間は淘汰されなくていいのかなと思いました。 人間以外の生き物は環境に合わない、生存競争に勝ち残れないモノは、淘汰されていきますよね。 ですから、数が増えすぎることがあまりない。 ところが人間は社会の中の競争に勝てなかったとしても、誰かが助けを差し伸べてくれます。 大きくは人道支援、近くでは生活保護などで・・・ 人間すべてが自分の力だけで繁栄をして、数を増やしていくのは良いですが、弱者を助けることによって、数を増やしていくのは、あまりよろしいことではないような気がします。 人でなし、薄情などと言われるかもしれませんが、自分の力で生きていけない人は淘汰された方が良いのではないでしょうか。 弱者を助けるためのお金、人手を地球環境の保全や科学の進歩などに使った方が建設的な気がします。 いきなり助けを切り捨てたりすると、各方面から非難の嵐となるでしょうから、徐々に減らしていくのが良いと思います。 地球が人で溢れる前に、みなで真剣に考えたほうが良いとは思いませんか。 みなさんのご意見、お待ちしております。

  • 人も、弱い者は淘汰されるべきなのか?

    動物は弱い者は淘汰される。 人間だけが弱いのに生き残れるようになった。 たとえば、農業や貯蓄を作った。 それによって、食物連鎖が成立しなくなり、 人だけは増えるようになった。 たとえば、人はお金という概念を作った。 狩りができない人間でも生き残れるようになった。 成金デブみたいな、動物で見れば下等なヤツでも、金で女を引き寄せ、セックスして、 子孫を残せるようになった。 これは自然に反しているのか? 弱いヤツは淘汰されるべきなのか? オレは実力のない自分に愕然としている。 オレが生き残るには、力をつけるしかないのか? もちろん自殺する気はない。 だが、オレは力がなく、モチベーションが上がらない自分がキライだ。 毎日風呂入って、空腹にもそこまで耐えた経験がない。 オレは恵まれてる。 だが、そのせいか弱いのではないか? 今日も、雨と風が強いからって、イライラしてる自分がイヤだった。 「なんで、この程度の自然に振り回されるんだよ」と思って。 慰めはいらない。 教えてくれ。 人も、弱いヤツは淘汰されるべきなのか? 人は、自然の摂理に反しているのか? 弱いオレは弱いままだとどうなるんだ? 本気で淘汰されると実感したなら、力がほしい。

  • 劣っている人間は死ぬしかないのか…

    この世は人間の間で格差がありますよね… 貧富の差、能力の差、体力の差、ルックスの差、社交性の差、頭脳の差、コミュニケーション力の差などが有ります 俺は全てにおいてが人並みより劣っていて何も取り柄がないので死にたいと思っています… 自然界の摂理では弱者が淘汰されるので、弱者が自殺するのも仕方ない事だと思いませんか?

  • 人間という種は終わりでしょうか?

    生物は、その種の中で強いものだけが子孫を残すことができるようになっているため、 種としての強さはどんどん高まります。でなければ、ほかの種にとって代わられるからです。 つまり種の中の弱いものを淘汰することで種は永続しているといえます。 人間社会でも100年ぐらい前までは、弱いもの(障碍者等)は淘汰されてきました。 発展途上国においてはいまだにそのようなことが行われています。 そしてそうした国では、子だくさんは普通なのです。 しかしながら先進国においては、弱者を淘汰するということをしなくなりました。 そして、出生率はどんどん低下しました。 西洋の神は「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」っておっしゃったそうですが、 生まない増えないになっていますので、神の指示を無視しているのです。 もはやこの人間という種は自然の摂理に背き、神の指示にも住むいたのですから このまま長くない期間ののちに滅びてゆくのでしょうか。そうならないためには 弱い者たちを淘汰することが必要なのでしょうか? よろしくお教えください。

  • 人間であることが悲しくなる

    数年前に中国の毛皮産業の実態を知ってから、現在までにもいろいろな動物虐待のニュースを見聞きしました。 殴る・蹴る・踏みつけるの暴行を加えたあと、ぐったりしていても生きてるまま皮を剥がされ、 剥がされたあとも意識があり、ぐったりしたまま、まばたきをする。 皮を剥がされたあとの動物の目。頭に焼き付いて離れません。 サファリパークで、生きた牛をトラの群れに放ち、食べられる姿を大歓声と笑顔で見ている人々。 それを見たいがために、お金を払う人々。 それをビジネスとする人々。 愛犬に必要のないメスを入れ、人工的に姿形を変えてしまう人々。 動物が整形をしたいなんて望むとでも思っているのでしょうか。 いらなくなったから処分してくれ。年間34万頭。 どうしてこんな世の中が存在してるのでしょうか。 私には理解できません。 動物愛護団体。そもそも愛護という言葉自体、上から目線で好きではありません。 どうして人間は、人間中心の世界にしてしまってるのですか。 どうして動物は、生き物として扱われないのですか。 どうして動物は、こんなに苦しめられないといけないのですか。 自然界の摂理はあると思います。 でも、自然ではないところで、人間の手によって、苦しめられてる動物が存在する理由は何ですか。 涙が止まりません。どうして動物は殺されなくてはいけないのですか。 そう考えても、どれだけ涙を流しても、私には何もすることができません。 デモなどを起こしてる団体に加わってみようか、そこで自分にも何かできるのではないか。 そう考えました。でも怖いんです。 今ある実態を知ってしまった。でもそれ以上のことがあるのかもしれない。 それを知るのが怖いんです。知りたくないと思ってしまうんです。 逃げてるんです。偽善者です。 私は弱い人間です。非難する資格なんてないんです。 こんな私も人間。やっぱり人間って最低です。 人間のいいところは、どうやって見つければいいのでしょうか。 人間として生まれてきてしまった以上、人間として生きていかなければいけません。 人間として生きるには、人間嫌いのままではやっていけません。 こうやって話を聞いてもらえるのも人間同士だから。 それはわかっているつもりなんです。 でも、いいところを見ようとしても、あの目が、動物の悲しい目が、頭から離れません。 この世からいなくなってしまうしかないのでしょうか。

  • どうして人を殺しちゃいけないんでしょうか?

    人間は自分の必要不必要に動物を殺します。 だけど人間は殺してはいけない、と学校では教わります。 けど人間だって生き物ですから自然淘汰、という形での『殺し合い』は容認されるのではないでしょうか? 何故人を殺してはいけないのでしょう?

  • 人間が人間としての自覚を持って生きるためには

    こんばんは。 遥か2500年も昔に 釈尊はこの世界の全てを論理的に理解して 「人間が人間として自覚して生きれば 人間は自然淘汰の競争原理を克服して 永遠に滅びない」ことを悟られたようです。 しかし 今現在 人間は人間として自覚することを疎かにして自らを滅ぼそうとしています。私は 人間よ人間に戻りなさいと言いたい。 釈尊の時代 人間は神の言葉(ロゴス)を創り 言葉でお互いに対話することにより共同体という社会を構成して繁栄していました。人間は(真、善、美)も創りよりよい生き方を模索しました。 しかし 強固な共同体は神を頂点としたピラミッド構造(階級社会)となり 人間ではない者が出てきてしまいました。 釈尊は 誰もが自分の思うようにならないので苦しんでいたりするのや人間が争うのを観て どうしたらいいかと考えました。 彼は この世界を五感で「あるがまま」に観ました。なんと彼は 全ての物が移り変わる「諸行無常」であることに気づいたのです。さらに あらゆる事象の「因果律」(エントロピーや不確定性原理等も含む)にも気づきました。 当時の人間は「輪廻転生」という概念も創りだしていました。 釈尊は 神の言葉をも創りだしたり 、「慈・悲・喜・捨」(慈しみ、憐れみ、随喜、落ち着き)の心を持つ人間は 一番尊い生き物であると確信しました。「天上天下唯我独尊」 それならば 一番尊い生き物である人間は 人間として自覚して生きれば 人々は「輪廻転生」という概念を信じているので 来世も人間として生まれると思うだろう と考えました。「極楽浄土」 また 人間でないものになろうとする人々は 争い殺し合い自然淘汰されるだろうと思いました。(神になろうとする者や人間としての自覚の無い者等) 1)この世界に「神」が存在するならば (神は全知全能であるので極楽浄土も輪廻転生も存在する) 一番尊い生き物である人間は人間として自覚して生きれば極楽浄土に逝き 来世があるならば人間にしか生まれ変わらない。 人間として自覚しない生き方をすれば 来世で人間に生まれ変わることはない。 2)この世界に「神」が存在しないならば  一番尊い生き物である人間は人間として自覚して生きれば争うことを止め助け合い その子孫は決して滅びることはない。 人間として自覚しない生き方をすれば 自ら争い殺し合い自然淘汰される。 釈尊はこの世界の全てを理解し 五感で認識できないものは考えても何も生み出さない(非我)として 人間が自ら人間として自覚して生きれば その子孫が生き残り人間は滅びないと信じたのです。釈尊の苦しみは無くなり心は静かになりました「涅槃静寂」 私は 「人間としての自覚をもって生きる」=「中道に生きる」ことができればもう何もいらないような気がするのですが。 貴方は 貴方が予想もしない災難に直面した時 「人間が人間としての自覚を持って生きるためには」 どのような新しい哲学を創った方がいいと思いますか?  「対話」による真理の追究が哲学だとも言えますが 何かございましたら よろしくお願いします。

  • 神は人間を特別扱いするものなのですか?

    人間は他の動物に対しては、グルメや美食・実験・有害などの理由で、平気で惨殺しておきながら、人間自身が惨殺されたりすると、「この世に神はいるのか!!」などと言い出しますね。 これは単に、人間というものを全生物の中で特別扱いしてくれる、人間にとって都合のいい神を欲しているに過ぎない、と思えてならないのですが・・・。 自分達は他の生き物に対して残虐極まりないことをしておきながら、いざ人間が残虐な目にあうと、それを眺めているだけの神を責めたりその存在を疑問に感じたりする。 そのような思いからは、神というものは、他の生き物は突き放しても、人間だけには優しくなくてはならないという、人間の思い上がりのようなものを感じてしまうのですが。 皆様はどう思われますか?

  • 人間と法とは

    人間が秩序ある社会生活を営むためには法による秩序が必要であることは理解した上で質問させていただきます。 人間はこの世に生を授かった瞬間から、法に従わざるを得ない生き物なのでしょうか。 例えば「国境」というものを考えてみると、本来自然界にはそのような境目はなく、生き物たちは自由に地球上に生息することができます。 しかし私のような日本人が国から離れ少し遠くの場所へ行こうとするだけで、パスポートのようなものがなければどこの場所へも行くことが出来ません。 自らの意思で生まれたのではなく、自らの意思で生まれる場所を選ぶでもなく、自らの意思とは関係なく法の下に置かれ、本来存在しないさまざまな制約を課せられる人間とは一体なんなのかと疑問に思いました。 これは決して、法律などいらない!という無責任な人のための暴論ではなく、法律による権利や義務や平等は人間の叡智の結晶であるとも思います。 しかしその一方で上記のような疑問を持ち、不思議に思うこともあります。 全くもって無知な質問で大変お恥ずかしいのですが、ふと疑問に思ったので皆さんのご意見を伺えたらと思い投稿させていただきました。 よろしくお願いいたします。

  • 自然淘汰 混血 について。

    こんにちは。ご批判覚悟で質問させていただきます。  現在、『 ブラックバス・ブルーギル 』の存在などで、 日本古来の、在来種の魚類に存続の危機がもたされていますよね。  ですが自身は漁師ではないし、これらのことに無頓着な私は、 自然淘汰の一つの結果だとしか受け止めることができないでおります。  または、この数年、日本在来種のクワガタと、 外来種のクワガタの混血が発見されたと問題になっていますよね。  これは本当に許されないことなのでしょうか?。  人間は、人種を問わず恋愛をし、いろいろな 新しい(?)混血人種をかってに生みだしていることもまた事実です。  混血は人間には許されて、 他の生物(特に昆虫)に対しては(例外もあるが)許されない。  このことが理解することができないでいるというか、 こんなことはどうでもいいのではと、私は思っております。  このような考えを持つ私は、間違っているのでしょうか?。  尚、私はブラックバスやブルーギルを放流したことはないし、 また、外来種の生物を野に放つことなどは一切してはおりません。  返信は遅れますが、必ず反論ではない返信はさせていただきます。  宜しくお願いいたします。