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芸術ってなに?

芸術とは何か、はっきりした定義を聞いたことがありません。私なりに答は持っていますが、皆さんのお考えをお聞かせください。 ちなみに「ヒトに感動を生じさせることを専ら意図して行われる活動」というのがstomachmanの答です。言い換えれば、芸術の本質はその意図にある。ここで「感動」とは、正確には「感情・気分の変化」というごく広い意味です。 でも、「うちの親父をからかって、怒らせてやろう」というのも芸術に入っちゃう。これで良いのかどうか、というところが難点でして... 従って、カテゴリーはあえて哲学を選びました。

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  • ベストアンサー
  • reis
  • ベストアンサー率46% (402/864)
回答No.10

stomachmanサマのおっしゃることは、残念ながら私には まるで理解できないことのようです。 ……と言っても、ケンカを売っているわけではないので そう取らないでいただけるとありがたいのですが。 「すごいものを創りたい」というのは欲求であり、その ための「方法」は手段であり、「出来たもの」を伝える のは「誇りと満足感」だと思います。 「芸術と呼ばれるべきもの自体」は、欲求でも手段でも 誇りでも満足感でもありません。 たとえるなら、真っ暗闇のなかで突然、しかも一瞬だけ 手にした「なにか」のようなものだと私は思います。 それが芸術だとされるジャンルによって、微妙に違いが あるとは思いますが。 たとえば、スポーツでは。 体調と精神のバランスが取れ、技に優れ、最高の結果が 生まれたとき……そういう状態を他人は「芸術的でさえ ある」と言うのではないでしょうか? でも、そういう時の本人は確かに最初は「やってやる」と 思いその場に立つのでしょうが、実際その瞬間は無我の 境地である……と。そういう話はよく聞くことです。 それが音楽なら。 自分が美しいと感じる旋律や、音や、歌であれば歌詞に 込められたメッセージや…。そういったものを伝えたいと ステージに立つけれど、ひとたび演奏を始めてしまえば そういう考えは忘れる。ただ、自分は音と同化する。 自分自身が音になる。……それが「芸術的」な演奏と 言われると思います。 「それを切り取ってみせる写真は芸術の範疇」という 御意見をいただきましたが、「切り取ってみせる」行為は 「手段」です。もちろん、「写真芸術」という言葉は ありますが、「切り取った写真」がすべて「芸術」なの ではなく、たまたま写し出された風景が、芸術に値する ものであった時に、はじめて「芸術」になるのではないで しょうか? きっと、そういう時、カメラを持つ者の感動が風景の美と 同調し芸術になるのでは…と思います。 「意図して創りあげるものではない」と書きましたが、 「意図を引きずったままでは、とうてい至ることの出来 ない」境地と言い直しましょう。 「まぐれを狙え!」とは、なかなか本質をついた御言葉と 思いますよ。 「まぐれでさえいいから」つかみたい…と思ったものを つかみ得た時、それが芸術を生むのだ、と思いますから。 「手間とコストを掛けてわざわざカタチにするのか」と いう御言葉には、自分の心が、抗いがたい欲求で「それ (芸術)」を求めるからだ…としかお答えできません。 「手間とコストを掛けてカタチにする」行為は確かに 芸術を生むけれど、その行為自体が芸術なのではない。 その行為によって「求められる」ものが芸術なのです。 ちなみに、芸術…特に音楽や美術を志す人々が、いちばん 恐れていることは「評論家」になることです。 あまりに大きな芸術への渇望が、一歩間違えると自分を 「評論家」にしてしまうのです。 「芸術とはこうなのだ!」と語ることは出来ても、けして 自分自身は「芸術」をつかむことが出来なくなってしまう のですね。 まあ、私などもそうやってつかみ損ねてるクチですので、 自分で言っていて苦々しいものがありますが。

stomachman
質問者

お礼

reisさんの本格的反論のおかげで、だんだん、構造が見えてきたように思います。 実践者の主観においては 学術:何か未知の真理があると信じ、それを垣間見ようとする活動 芸術:何か未知の「美」があると信じ、それを垣間見ようとする活動 という平行性がある。 その方法においては 学術の発見には、(必ずしも未知の真理の存在を予定しない)観察による偶然の発見と、洞察あるいは創出による発見(発明)がある。 芸術の作品には、(必ずしも未知の「美」の存在を予定しない)試行による偶然の作品と、・・・・による作品(創作物)がある。 という平行性がある。(「・・・・」は、まだ分からない) ここまでがオリジナリティの泉源であって、ここで完結している。 これを発表するという活動は、その真理/「美」をヒトに伝えようとする欲求によるもの。これを「文化」と呼ぶべきかな。なぜなら、発表なくしては、学術/芸術が知られることなく消滅する。  皆さんのお考えは、いかがでしょうか?

stomachman
質問者

補足

つまらない質問に何度もおつきあい戴き、感謝しております。 > 残念ながら私には まるで理解できないことのようです。  いいえ、どう見ても完全に理解していらっしゃる。けれども、同意できない、ということかと存じます。そう来なくっちゃ!  「芸術とは?」という問いに対するテーゼは、ほとんどの場合「芸術家」か「評論家」の立場から「かくあるべし」「かくなかるべし」という形、いわば既に存在する芸術活動に対する注文としてしか提示されません。Stomachmanの質問は、そもそもその範疇が一体何処までなの?ということに過ぎません。芸術を実践していらっしゃる方々から見れば、実にくだらない疑問であることは重々承知しております。しかし「少しばかり楽器が上手だから」というだけで芸術家を志望したり、「書くことがあるから」小説を書こう、という手合いに向ける問いとしては、結構効き目があったりします。さて、 > 「すごいものを創りたい」というのは欲求  このモチベーションが先ずある。そして、実際に創り出すことが本質的に重要である。そう仰ってるんですね。実際に出来るかどうか(届かないと分かっていても)、創ってみたい(どこまで行くか検証したい)、創らなくちゃ(実際に形にしてみる過程に於いてしか見えない細部、見えない全体がある。それを見極めたい)、という強烈な欲求。  これは分かります。(でもこれは研究活動においても全く同じです。だから分かるのかな?) >「出来たもの」を伝えるのは「誇りと満足感」だ  人に感動を与えようと作品を発表するのは副次的であり、燃えかすであり、自己顕示欲のなせる業に過ぎない。と読んで良いでしょうか。(研究成果の発表においても、建前は実利ですが、本音は「誇りと満足感」ですね。)  ところで、フランツ・カフカは自分の全ての原稿を燃やすよう遺言し、しかし実行されずに作品は後世に残りました。一方、本当に作品を誰にも見せずに処分したひとも(誰にも分からないけれど)沢山いる筈。このとき、作家自身の中で芸術が(成功にせよ失敗にせよ)完結したと見るべきか、あるいは、発表されない作品は芸術になりえないと見るべきか。  さらに、「純粋に、感動を分かち合いたい、伝えたい、という欲求。」これは芸術とはまた別のものであり、芸術ってそんな甘いもんと違いまっせ、と仰っているんでしょうか。しかしstomachmanには、ここにこそ最も原始的な芸術があるようにも思えるんです。 > (感動を与えてやろうなどという)「意図を引きずったままでは、とうてい至ることの出来ない」境地 > たまたま写し出された風景が、芸術に値するものであった時に、はじめて「芸術」になる > その行為自体が芸術なのではない。その行為によって「求められる」ものが芸術 凄みのあるご意見です。  芸術とは到達不可能なイデアである。「芸術に値するものであった時に、はじめて「芸術」になる」という同義反復でしかいい表せない。そういう意味でしょうか。たしかに価値ある作品が生まれるには、無我の境地が必要条件なのかも知れません。ただ、「芸術に値する」かどうかを判断する、その価値観あってのイデアじゃないでしょうか?だとすれば、イデアは芸術家ごとに違う。では、その違う物に通底する本質的属性は何でしょうか。やっぱり「とにかく(自分にとって)凄いもの」という事に行き着くんでしょうか?  (研究活動でも事情はよく似ています。研究って芸術だったのかな?それとも芸術が研究なのかな?いや、どちらも創造活動なんでしょうね。)

その他の回答 (25)

  • atsuota
  • ベストアンサー率33% (53/157)
回答No.5

定義せよ、と言われると難しいんですが、とりあえず具体的かつ独自の創意、工夫あっての芸術だと思います。 また、「ヒトに感動を生じさせることを専ら意図して」は必ずしも当てはまらないと思います。 例えば… 「うちの親父をからかって怒らせてやろう」だけでは芸術ではない。どうやって怒らせるかの工夫があり、かつ独自であれば芸術になり得る。 「死んでしまった大切な彼女の思いでのために書いた絵」なるものがあったとすると、それは画家自身のために書かれたものであって、公開するためのものでないし、当然自分以外の人間を感動させる意図などないと思います。しかし、これがその画家の死後公表されれば、充分芸術と評されることでしょう。 建築物は、「建築物としての機能要件を満たす」ことが専らの意図であって、「ヒトに感動を生じさせる」ことは(仮にあったとしても)副次的な場合がほとんどかと思います。にも関わらず、結果的に「ヒトに感動を生じさせる」ような建築物も数多くあり、それらは芸術であると私は思います。 一方、仮にものすごく美しい建築物(でも何でもいいですが)があって、それを機械で大量にコピーしたとき、それらコピー全てが芸術かというと、そうではなく、あくまでもオリジナルのみが芸術だと思うのです。これが私のいう「独自」の意味です。 ただし、「コピー技術」が芸術である場合もありうるとは思います。 難しいですね。また何か思いついたら書きにきます。

stomachman
質問者

補足

オリジナリティが必須の要件である。ということですね。なるほど。これは説得力ありますねえ。 で、質問:「誰がカバやねん」と、同じギャグを数十年言い続けて、確実に笑いが取れるのは、これはオリジナルと見なすかどうか?同じ歌を毎日おんなじように繰り返し歌う歌手はオリジナルかどうか?一回性の作品におけるオリジナリティに限らず、絵画でも同工異曲とも言うべき、同じ作家による似たような作品群(同じ方法論のバリエーション)が大抵ありますよね。どこまでがオリジナルなんでしょうか?  逆に、方法論はちっとも新しくないのだけれど、技術的に極めて完成度が高くて「感動」を引き起こす、ということもあると思います。(名人の落語とか、スーパーリアリズムの作品とか、いっこく堂の腹話術も?)。この場合のオリジナリティのありかは何処なんでしょう?  建築に関しては、「名建築は雨漏りがする」というのがギョーカイの常識だそうです。つまり作りにくい。また掃除も難しいのでしょう。京都国際会館だとか、東京フォーラムなんて、確かに美しく、面白い建物だけど、使ってみると実に使いにくい。機能美ってことを考えろよ、と言いたくなっちゃう。芸術性の方が実用性より優先されているとしか思えないです。

  • kojo
  • ベストアンサー率28% (69/238)
回答No.4

すみません…“自信なし”及びイメージで書きます…。 芸術…『魂の象徴』。 あくまでも私のイメージですが、他人に感動を与えるということ以前の欲求に突き動かされて、作品を生み出すのではないかと…。その「以前の欲求」とは一体なんでしょうとちょっと考えてみましたが、“魂”というのがなんとなく純粋な表現に思えた次第です。 そして魂がこもっている作品は、他者に美や感動を与えることができたり、芸術作品として評されたりするのではないかと…。 #reisさんの「衝動」という表現にも #惹かれましたが… 以上、「魂とはなんですか?」という補足がこないことを願っております。。。m(_ _)m

stomachman
質問者

補足

 ご回答、ありがとうございます。 魂とはなんですか?と訊くなと言われても....(^^; ここで言う魂とはなんですか?これが芸術の本質であるというのなら、やっぱり問わざるを得ないですよぉ。 > 他人に感動を与えるということ以前の欲求に突き動かされて、作品を生み出す 他人がどうでも良いのなら、なんでわざわざ形にしなくちゃいけなんでしょうか。そこが分からないんです。

  • nonkun
  • ベストアンサー率27% (98/357)
回答No.3

私が(勝手に)思うところでは。。。 stomachmanさんの答に「自らの信念・主張を持って」と書き加えればどうでしょう? この信念・主張とは1.自らの生き方のスタンスや例えば絵画なら画風についての技術的スタンス(印象派とか写実主義とか)などの自己立脚点の明示。2.社会に訴える何か(自分自身である場合のあれば、政治的な主張もあるだろうし、人の心に訴える何か全般) これ以外にも別にコムズカシイ考えではなくても、自分の信念・主張を持って作った作品は芸術ではないでしょうか? ・・・書いてるうちに自分でも何書いてるか判らなくなってきた。(^^; 余談:最近、世の人をあっと言わせるためだけの自己主張の芸術が多いと思いません?

stomachman
質問者

補足

おつきあいいただき、ありがとうごさいます。 > 自分の信念・主張を持って作った作品 なるほどなるほど。これを「意図」という言葉に込めてる積もりですが、そうは読めませんか? でも「自らの信念・主張」の範疇はこれ以上限定できないでしょうか? 親父に怒られて訳分かんなくなって渋谷でバットを振り回すのは芸術とは言い難い。しかし、社会不安を煽ることを意図したテロは、まさにこの芸術の定義に嵌っちゃうんですよね。(内心、あれは芸術の一種だと思っているstomachmanです。テロを賛美してるんじゃないですから誤解無きよう) > 自己主張の芸術 「自己主張」なくして芸術って語れるのかな?と思います。誰もやったことのない方法論、誰も想像もしたことのない種類の「感動」、そういう物を狙って、成功するのは難しいけれど、でもやる。そういう高級な自己主張もあれば、「ママ、見て。」と積み木の作品を見せる芸術も、景色の良いところに「富士展望台」なんて勝手に看板立ててヒトを誘導する(トウモロコシ売るのは入場料代わり)のも芸術だと、思うんですが、そこにはやっぱり自己の信念・主張があると思いませんか?

  • reis
  • ベストアンサー率46% (402/864)
回答No.2

「そのものが美的に完成され、衝撃的であるもの」 つまり、非の打ち所のない「美」が感じられ、しかも 他者に大きな感銘を与えるもの。 また、そういう既存の芸術に対して常にそれを打ち破る ように存在する新しい概念。 こういったものが芸術と……言われてますよね。 受け取る側が、たんに「美しい」と感じるだけでは 好みの問題で終わってしまいますし、人に何らかの感情を 持たせるものは芸術と呼ばれるもの以外にも存在するで しょう。 また意図して創りあげるものでもないと思います。 芸術を行うものが自らのインスピレイションに従って カタチにしたものから、自然に派生するものでしょうね。 ある意味、神がかり的というか。恍惚というか。 意思が介在できないところまでいくと見えてくるものでは ないでしょうか?

stomachman
質問者

補足

ありがとうごさいます。実にまっとうな説だとおもいます。 > 意思が介在できないところまでいくと見えてくるもの というと、美学が完全否定(うんにゃのっと)されてしまうんでは?美の方程式=方法論ってやっぱりそれなりにアリ(伝統工芸とか、大きいおっぱいとか、あのイルカとか泳いでるポスターなど)であって、そしてそれを越えたものを狙う、というんではないでしょうか? > 人に何らかの感情を 持たせるものは芸術と呼ばれるもの以外にも存在する その通りです。例えば美しい風景。しかしそれを切り取ってみせる「写真」は芸術の範疇ですよね。その違いは意図にしかないと思えるのですよ。 > 意図して創りあげるものでもない とするなら、「なんで手間とコストを掛けてわざわざカタチにするのか」が疑問です。仰る意味は「まぐれを狙え!」ってことじゃないでしょう?

  • arai163
  • ベストアンサー率22% (214/970)
回答No.1

芸術には無知の私ですが、芸術というのは、創る人が自分勝手に思うがままに創作し、それを見る側、とりわけ肩書きのついているお偉いさん?がこれは芸術と言えば、芸術になるし、こき下ろせば、屑になってしまう。 いずれにしても芸術というのは、創る側、見る側の個人的な感性だと思う。お偉いさんが×と言ったって自分が○ならそれでいい。 何億円の作品だって自分が気に入らなければ価値なんか無いに等しいし、無名の人の作品だって気に入れば自分にとって素晴らしい芸術になる。 芸術なんてそんなものだと思う。 的外れだったかナー・・・・

stomachman
質問者

補足

ありがとうございます。的はずれなんてとんでもない、まさにそういう話をしているんですよ。  「芸術の本質はその意図にある」というのは、 [A] 意図が結果に繋がるかどうかは(重要だけど、本質的には)関係ない、ということを意味した積もりなんです。 (1) その芸術が成功する=意図した通りに、ヒトに「感動」を与えられるか、 (2) 失敗する=感動を与えられないか、 (3) あるいは、意図しない「感動」を与えてしまう(ポジティブな感動とは限らず、「くだらねえ」とか「トンデモ」も含む。) ましてや、名声や経済的に成功するかどうかは別のことと考えてるんですが..... [B] また、狙っている「感動」の特別さによって、当然レベルの違いがある。例えば (1) 誰も感じたことがないような、新しい「感動」の体験を引き起こす。 (2) (旧知だが)期待していないような「感動」(知的興奮、怒りなど)を起こさせる (3) 大多数のヒトに、確実に(旧知だが)心地よい「感動」を起こさせる(大衆芸術) (4) 期待している通りの「感動」(笑いなど)を狙う(吉本新喜劇) 例えばコンセプチャルアートなんて、作品自体ではなく、作品の方法論をアピールしている。「面白い」と言わせたいのか、「なんだよそれ」と不満がらせたいのか、ってのはあるにしても。

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