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希望とは?(2)

silverman0の回答

回答No.11

こんにちは。 貴方のお礼文を拝見していて気になったのが、 「自らが守ろうとし信じているものが、同時に重大な欠陥である「矛盾」を抱えている事に気付いた時、出口の見えない混沌という名の迷路に迷い込みました」、という文章でした。  ここから、貴方の「絶望」とは、NO10さんの仰っているような、「充実」が欠如した為に引き起こされたようなチャチなものでは「ない」と私は思います。 「希望」というものが、不確定要素を信じる、という事で成立するならば、「絶望」も同じ原理だと思います。 しかしながら、「信じる」という行為は根拠がありません。 何かを信じる為には前提が必要なのですが、その前提を疑うと、更にその前提を見つめなければならない、とこのように永遠に続いてしまいますね。ですから、どこかで妥協しなければならない、という事だと思います。 絶対的な根拠が無いのに、行動している私たちっていったい・・・。 って事ですよね? じゃあ、苦痛を快楽に、快楽を苦痛に、の繰り返しゲームを死ぬまで続けるか? 普通の生活を求めるならば、信念で自分を塗り固めて、繰り返しゲームをしていればいいんじゃないでしょうか? 僕もまだどうすればいいのかわからないのですが、 一つ考えた事は、 「今この瞬間の出来事はすべて真実である」という事なのですが、如何でしょうか? 否定肯定でなく、ただそこにそれがあるだけなのです。 ちょっと乱暴な終わらせ方ですが、こんなんで如何?

maddog
質問者

お礼

こんにちはsilverman0様。 >「希望」というものが、不確定要素を信じる、という事で成立するならば、「絶望」も同じ原理 そうなのです。 不確定要素によって、どちらも引き起こされる為に非常に厄介なのです。 人間に出来るのは、未然にこの度合いを調整し防ぐ確率を上げるか、何らかの解決策を模索する事で脱する確立を上げるしかありません。 >絶対的な根拠が無いのに、行動している私たちっていったい・・・ まさにその通りです。 結局、最終的には「信じる」という要素が必要になってくる訳ですが、あまりに現実はシビアです。 >信念で自分を塗り固めて 信念を持っている人間は確かに強いです。 しかし、その信念が崩される時が来るのが、世の非情さで御座います。 >ただそこにそれがあるだけなのです 仰る通り、困難はただそこに存在するだけです。 しかし、私達はその渦中で生きている以上、制限時間もある為、何とかして越えねばなりません。 しかし、あまりにそのハードルは高過ぎる、と思うのです。 闊達な御意見、実に有難う御座います。 私共々、いつか分かる日が来ると信じたい思いで御座います。

maddog
質問者

補足

沢山の方が聡明なご意見を述べて頂き、有難う御座います。 一旦ここで締め切らせて頂きます。 出来れば皆さん全員にポイントを差し上げたいのですが、システム上、個人的判断で勝手に選ばせて頂きました。 ですが、皆さんの御意見全てが真実であると私は思います。 それらに大差はないかと存じます。 出来る事なら、私のポイント全部を差し上げたい所ですが、出来ない為どうかご容赦下さいまし。 本当に有難う御座いました。

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