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「感情」

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みなさんは感情マネジメントという言葉を知っていますか?(自分あるいは他人の)「感情」をマネジメント(管理)することを言います。例としてこのようなものがあります。
〇子供は、自分を虐待していた精神病の履歴をもつ父親のことを、本当に許したい、愛したいと思っているし、またそのように感じるべきなのだとも感じている。けれども、一方で騙されていたとも感じているし、またそのことに怒りも感じている。この子供は結局父親を許すことができず、かといって単に怒ることもできず、父親を愛すべきだという義務との葛藤にさらされた。このような、感情をマネジメントすることが強く求められるような状況においてどのような実践がなされているかみなさんの意見を聞かせて下さい。ややこしくてすいません。
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  まず、この質問は、「言語」の問題ではなく、「心理学」の問題で、カテゴリーがおかしいと思います。「感情マネジメント」とは、どういう言葉か、意味を尋ねているのではないからです。またそうとしても、やはり、心理学カテゴリーでしょう。
 
  それはとまれ、「感情マネジメント」などという言葉があるとして、これを「感情の管理」などというのは不適切でしょう。感情は、意識的思惑で「管理」できるものでも、するものでもないからです。一時の感情に振り回され、すぐ行動に移してしまう、自己の感情を、もっと冷静な行動ができるように、或る程度客観的に把握し、対処できるよう自己を訓練するというなら、感情のマネージメントというのもあるかも知れませんが、例のような場合は、不適切な用法です。
 
  このような問題は、臨床心理学や精神医学の問題で、別に医者にかかったり、カウンセラーと相談しないとしても、問題的には、臨床心理の問題です。
 
  どのような実践がなされているかと、云っても、どういう状況なのかで話が違って来るでしょうし、一体「誰の実践」のことを云っているのかで、全然話が違って来ます。子ども自身が、自己の問題を解決するために、どんな実践を行っているかという話なのか、学校の教師や、周囲の人が、子どもの悩みに気づいて、何か実践しているのかという話なのか、更に進んで、そういう子どもの相談に乗る、公的機関などが、どういう実践をしているのか、また、心理療法家、カウンセラーや医者は、どんな解決の実践をしているのか、何を尋ねているのかです。
 
  子どもの主体的問題として、臨床心理療法家が、アドヴァイス乃至相談に乗っているとして、このような感情の矛盾、アンビヴァレンツを、どう解消または、自我に統合するかという実践の話なら、臨床心理の技法や理論の実践の話になるでしょう。
 
  「本当に許したい、愛したいと思う」というのは、子どもの場合、そこまでの心の他者への配慮というか洞察は基本的にないのです。あるとすれば、それは、元々、優しく、愛していた父親が、精神病を発病して、理不尽な虐待を受けて、その行動の矛盾に当惑し、愛憎のアンビヴァレンツに悩んでいるという状況でしょう。
 
  しかし、例示記述では、父親が精神病であったのは、過去のことになっています。すると、そういう例があるのかという疑問になります。子どもではなく、そういう幼少時または思春期体験を持った子供が、成人乃至、相応の年齢になって、広く他者の状況を斟酌できるようになり、父親の事情をそれとして斟酌し、しかし、過去に受けた虐待の記憶は消えないというのが、この状況でしょう。しかし、この場合、子どもは、父親に対し子どもであるので、実際は、成人した大人の話になります。
 
  そうとしても、どうも操作的で不自然な状況設定です。それは、「感情の管理」などと云っていることからも窺えるでしょう。
 
  しかし、成人あるいは若い成人で、こういう心理の葛藤、アンビヴァレンツを持っている人はいるでしょう。そういう人はどうやって、自己の心理的安定を得ればよいのか、分裂した自己の感情を統合すればよいのかという問題であれば、それなりの理論や技法が臨床心理であるはずです。このような状態が、もっと極端で、問題から逃れようとすると、それが罪になり、問題に直面すると、これも罪になるような場合、どうあっても罪になるので、こういう状態を二重拘束状態と呼び、精神分裂病は、この二重拘束状態の表現ではないかという理論があったと思います。
 
  しかし、そんな極端なものでない場合、「カテクシスの解除」というような問題ではなかったかとも思います。簡単に云えば「拘り」からの解放ということになりますが、これは結構難しいのです。
 
  許すことができない、怒り、憤りの感情が、率直な感情で、これがカテクシスに当たるのです。許したい・愛したいという感情は、理念的感情とも言えるでしょう。道義的にこう感じねばならないという感情である可能性が高いのです。あるいは、他者の事情を斟酌でき、やむを得なかったのだと分かり、意識(理屈)では許しても、許さない、感情複合のコアが、無意識に強く残っており、これに拘泥する、すなわちカテクシスの状況にあることが、どうしようもなくディレンマに思えるということでしょう。
 
  感情の管理ではなく、この場合、感情(複合感情=Komplex)の解除、解放、脱カテクシスが解決の方向でしょう。許すことができないという自分の心の現なるありようを率直に認め、それを意識して、そのような状態に、自分の心はどうしようもなくあるのだということを自覚することでしょう。つまり、そういう自己を、意識自我が管理などできないということを、まず自覚することです。管理できると考えているのは、感情複合のカテクシスの重さが分かっていないということになります。
 
  一つの方法は、「許せない」という自分自身の心の感情と、自我が、和解することです。自己の感情と自我の和解とは、どういうことなのか、ということがあるかも知れませんが、その感情は、無意識の複合なので、自我が元々コントロールできるようなものでないので、その感情・カテクシスの存在を自我の方で認め、そのような感情と共存するということです。抑圧したり、消したりするよう意識的努力するのではなく、そういうものだという「心の事実」を自我が受け入れることです。つまり、「許せない」という感情はもっともなことである。「許したい」という思いももっともなことである。どちらの感情も「わたしの感情なのだ」と思い、カテクシスを承認することでしょう。承認によって、カテクシスは、弱まるとも言えるのです。
 
  もう一つは、そのような事例の他の人について知ることがあるでしょう。多くの他の事例を知ることにより、その他の人は、どう問題に対応したかが分かり、それが分からなくとも、世界は広い、つまり、意識や無意識の世界は、自分の心の大きさと広がりで考えていたよりも広いということが意識されると、実は、それだけの広がりが、自分の心にも可能性としてあることが分かり、自分の無意識が思っていた以上に深く広く、色々なことがあることを自覚することになり、このような過程で、感情複合は、相対的に、心のなかの一般的な感情複合、より大きな感情の複合にまとめられて行き、結果的にそれは、自我のその感情複合への拘泥からの解除ともなるのです。つまり、「許せない」という感情の複合が、より大きな感情の複合、つまり、人間として生きている限り、心に持っている世界の不条理さなどの感情のなかに統合され、従来のパターンとは異なる形となるということです。
 
  二つ云いましたが、どちらも、「許せない」という感情を消したりするのではなく、それを認めることで、(認めると云っても、「許せない」ことを「許す」のではなく、「許せない」という感情を、正当なものとして、受け入れるということです)、自我のカテクシスを解除し、感情複合は、別のものに変化し、このような状態に心のダイナミクスが変容すれば、以前は問題であったことが、何時の間にか問題ではなくなっていることに、ふと気づくということです。
 
  (いずれにしても、時間が解決する問題でもあるのです。無論、何もしないでいれば解決するということではなく、実は何もしないと云うのも、カテクシスに反発しないということで、1の承認になっているのです。カテクシスは、忘れるというのも、承認の方法なのです。意識的に忘れることはできませんから、承認して、時間が経過して行くと、ある日、忘れていたことに気づくという形の忘却です。思い出してまた葛藤するというのもあります。それはもう仕方ないので、自分からは一生逃げられないのですから、そういう感情複合と共存するしかないのです。こういう意味もあるのです。……別の質問で、「嫌な自分を克服するのだ」と回答していた人がいましたが、克服できない「嫌な自分」があるのです。鼻が低いのは嫌なら、今は整形できますが、足がどうしようもなく短すぎるのは嫌だなど、未だいまの医学技術では、普通の人はどうしようもありません。そういう「自己」と折り合いを付け、そういう自己を承認して、拘泥からの解除を行うしかありません)。
 
  これは理論的な話で、実践的には、それぞれの人の問題なのです。どうしようもない感情とは、和解するしかないというのが、一般的な方法で、「和解」の意味は上に述べた二つの場合に、実は共通しているのです。複合感情も感情も管理など出来ないことを知れば、拘泥からの解除がより容易になるともいう話です。
 
  なお、「経験者」にし、「自信あり」とします。それは、そういう個別問題の経験者という意味ではなく、感情のカテクシスの解除の問題では、経験者であり、また、妥当なことを述べているからです。魂の問題は、個人個人で解決することで、一般的解決法はないのです。人間の魂の問題とは、そういうものなのです。
 
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