- ベストアンサー
キリスト教の『モーセの十戒』の中で・・・。
キリスト教のモーセの十戒の中で 「神の名をみだりに唱えてはならない」 & 「隣人の家をむさぼってはならない。」 とありますがこの二つの意味と解釈の仕方を教えて頂けないでしょうか? 最近キリスト教に関心があり、「十戒」の事を知ったのですがこの二つが どういう事なのかわからなくて困っております。
- 哲学・倫理・宗教学
- 回答数2
- ありがとう数3
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
「神の名をみだりに唱えてはいけない」のみ。 言葉のままです。 キリスト教における神の名はヤハウェです。 それに従い、ヤハウェとは呼ばず「主」や「御名」を使っています。
その他の回答 (1)
「神の名をみだりに唱えてはならない」 >軽々しく、神様の名前を言ったりしてはいけない。たとえば、今の英語で言えば、「オ~、マイゴッド!!」なんて、ふざけて使うな、ということ。普通、神様の名前を何度も連呼するなんてあまりないでしょうから。 「隣人の家をむさぼってはならない。」 >他の人のものを搾取するな、奪うな。
お礼
ありがとうございました。
関連するQ&A
- モーセの十戒について
モーセの十戒は (1)主が唯一の神であること (2)偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止) (3)神の名を徒らに取り上げてはならないこと (4)・・・ と続いていきますが、この十戒の上記三つについて私はふと疑問が浮かびました。 モーセは唯一神ヤハウェからこの十戒を受けたとされますが、 この上記三つの内容を、私は、 「人々が信仰を疑わないようにするための措置であったのではないか」 と考えたました。神がこのような信仰に対する具体的な作法まで預言するのでしょうか? 宗教による解釈は人それぞれだと思いますが、みなさんはどう思われますか?
- ベストアンサー
- 歴史
- なぜキリスト教も仏教もモーゼの十戒を守らないのです
なぜキリスト教も仏教もモーゼの十戒を守らないのですか? いきなり他の神を崇めて、偶像も作ってしまって、毎日、神に祈ってる。 そのくせに日曜日は休みと安息日だけは守る。意味がわからない。 1、私のほかに他の神を崇めてはならない 2、偶像を造ってはならない 3、主(神)の名をみだりに唱えてはならない 4、安息日(毎週の日曜日)を覚えて、これを聖なる日とせよ。 5、父と母を敬え 6、殺してはならない(殺人) 7、姦淫してはならない 8、盗んではならない 9、偽証してはならない(嘘をつく) 10、隣の家の物を欲しがってはならない
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- モーゼの十戒と「人の道」十ヶ条
モーゼの十戒と「人の道」十ヶ条を並べてみた。 モーゼの十戒 1.主が唯一の神であること 2.偶像を作ってはならないこと 3.神の名を徒らに取り上げてはならないこと 4.安息日を守ること 5.父母を敬うこと 6.殺人をしてはいけないこと 7.姦淫をしてはいけないこと 8.盗んではいけないこと 9.偽証してはいけないこと 10.隣人の家をむさぼってはいけないこと 一方、 「人の道」 十ヶ条 一 アルケーが唯一絶対の神であること 二 天国、地獄を語らぬこと 三 正義に味方し、死を恐れぬこと 四 変化流転は万物の常なることを知ること 五 過去にも未来にも永遠無限なる宇宙を知ること 六 かたちや儀式あるいは権威に捕らわれぬこと 七 己に自惚れぬこと、また己を卑しまぬこと 八 人に分け与えること 九 色情をいだかぬこと 十 食物に拘らぬこと 果たしてどちらがより真っ当であると言えよーか、 どちらがより真理に近いと言えよーか。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- 「モーゼの十戒」と「人の道 十ヶ条」
モーゼの十戒 1.主が唯一の神であること 2.偶像を作ってはならないこと 3.神の名を徒らに取り上げてはならないこと 4.安息日を守ること 5.父母を敬うこと 6.殺人をしてはいけないこと 7.姦淫をしてはいけないこと 8.盗んではいけないこと 9.偽証してはいけないこと 10.隣人の家をむさぼってはいけないこと 「人の道 十ヶ条」 一 万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神が唯一絶対の神である 二 天国、地獄を語らぬこと 三 正義に味方し、死を恐れぬこと 四 変化流転は万物の常なることを知ること 五 過去にも未来にも永遠無限なる宇宙を知ること 六 かたちや儀式あるいは権威に捕らわれぬこと 七 己に自惚れぬこと、また己を卑しまぬこと 八 人に分け与えること 九 色情をいだかぬこと 十 食物に拘らぬこと 果たしてどちらがより真っ当であると言えよーか、 どちらがより真理に近いと言えよーか。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- 所謂モーゼ(モーセ)の「十戒」に付いて教えて下さい。先日久しぶりに旧約
所謂モーゼ(モーセ)の「十戒」に付いて教えて下さい。先日久しぶりに旧約聖書(ヘブライ語聖書)の「出エジプト記」20章の「十戒」を読んでいましたら,第5節に「私は熱情の神である」と記述が有り,英文では(私は普段聖書を読む時は英語の勉強も兼ねて「和英対照」の聖書(新共同訳)を参考にしています)「I tolerate no rivals」(直訳すれば「私に逆らう(反抗する)者は決して許さない」とでもなるのでしょうか)となっており,英文と日本文の意味が余りにも違いすぎるので,参考までに他の聖書を調べてみましたが(日本聖書協会発行の文語訳/新改訳等4冊)全て「私は妬む神」となっていました。因みに米国で購入したNew International Version でも「I am a jealous God 」になっており,新共同訳以外は全て(我が家にある聖書のみですが)「妬む神」となっており,「熱情の神」とは意味が余りにも違いすぎると思いました。原文(ヘブライ語・ギリシャ語?)は判りませんが,何故訳によってこれほどの違いが出るのでしょうか。出来れば原文(?)の意味を教えて頂ければ幸いです。
- ベストアンサー
- その他(生活・暮らし)
- 旧約聖書のモーセの律法&マリアとエリザベトについて
『手塚治虫の旧約聖書物語』で、2つ分からない事がありました。 1つはモーセの十戒と律法の違いです。ヘブライ人とエジプトを出た後、シナイ山で神(または主)からモーセに与えられた律法の一部が十戒である、という解釈でいいのでしょうか? もう1つは聖母マリアが故郷に戻る途中で訪問したエリザベトですが、この2人の関係は従姉妹(いとこ)でしょうか?どなたか教えて下さい。
- ベストアンサー
- 歴史
- キリストを 引き下ろす / 死者の中から引き上げるとは どういうことか
キリストを 引き下ろす / 死者の中から引き上げるとは どういうことか このところわたしは《これを人間と呼べるか》といううたがいに悩まされました。答えは出ない・出せないというこたえを いまのところ得ました。得たのですが そのことと 次のローマ書の文章が絡まっているように――たぶん 個人的なくせからのようなのですが――思われます。 まづそのパウロの言うところをだれか解釈してくれませんか。 ▲ (ローマ書 10章) ~~~~~~~~~~~ 5 モーセは、律法による義について、 「掟を守る人は掟によって生きる」(レヰ゛記18:5) と記しています。 6 しかし、信仰による義については、こう述べられています。 「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」 (参照:申命記30:12) これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。 7 また、 「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」 (参照:申命記30:13) これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。 8 では、何と言われているのだろうか。 「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」 (申命記30:14) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ モーセの律法の義にしろ イエスのあとの信仰の義にしろ それほどむつかしいことではなく 誰もが実践できると言っているようなのですが 果たしてそうなのですか? 言いかえると 神がさづけたまうならば ただちに信仰はあたえられて心はやわらがしめられるとは思いますが 果たしてその信仰の動態として 《これでも人間と呼べるか》といううたがいが起きたときにも 実践は取り立ててむつかしいということではないと言っているのでしょうか? 答えは出ない・出せないというこたえをわたしは得たのですが それによると 実践はそこで止まってしまうというのが 実際です。果たしてそのあたりのことを交えて どのように解釈するのがよいでしょうか? 表題のことが 主題になるのではないかと思ったのですが それが定かなことだというのではありません。つまり 十字架からキリストを引き下ろす必要もなければ 死者の中から引き上げることも要らないというのであれば すべて《実践の条件》はととのっていると言われているようなのです。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- キリスト教・厳しい・新たな契約・信仰のみ
山上の垂訓でイエスが神を愛することと隣人を愛することが重要だといってユダヤの十戒を改め、新しい契約を結んだと記憶していますが・・・。 キリスト教の中には信仰のみではなく、ユダヤの十戒的な規律を求めるのがあるのはなぜでしょうか? 個人的に規律を求めるのが多い気がしてます。 マックスウェーバがいってたカルヴェン派の予定説が規律をしていることが救われる印とうけとめたということなのでしょうか? 規律を重んじないから世界宗教になったと思うので・・・。 詳しい方、ご教授お願いします。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- 十戒は爆破可能
イエスの神が天国に案内すると言うのなら断るつもり https://okwave.jp/qa/q7518543.html 掲載したHTTPの読みやすくした修正投稿 正確ではないだろうが拾ってきた文章だよ。 日本の風土に合わせて提示された、十戒の中で生きることを苦悶させている苦痛から問いかけた達成不可能な人の叫びだった。 > 『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証し てはならない。父と母を敬え。あなたの隣人を自分と同じように愛せよ。』 この上に書いてあることが実現に苦痛を伴うそうだ。 さてと、 「殺してはならない。」 文明の開化期の風潮なら人と人がどのように折り合いをつけて共生するかが大切だった筈で、この殺しの対象は同じ人間だろう。人と自然界との関わりなら、自然の恵みは神の恵みであり、食べる事は殺すことではない。それ以外に殺すと言ったら神の事だ。他人の神様を殺してもいいのかね? それは戒めから抜け落ちている。 どちらも殺すなんてとんでもない。 姦淫してはならない。 生殖は、神への愛を紡いでいく神聖な行いで、それ以外が姦淫と解釈するなら破る必要はない。 盗んではならない。 私は盗む事は無い。 しかし盗まれる事は多くて困り果てているが、盗む輩をとがめるつもりはない。それが生き様ならば、私はその人をとやかく言わない。 盗む輩を弁護するが、盗む事を赦さないのは人間同士の場合だけだ。 私は赦す。 偽証してはならない。 罪人を穏やかにするための、あなたを赦すと言う言葉なら何度も投げかけた。 罪人はそれを嘘だと解釈するので、その限りでは私は常に嘘をついている。 偽証ではない。私は本気なのだよ。 父と母を敬え。 敬っておるよ。 しかし全くの他人も敬っており特別に敬っているわけではない。 それって罪なんですか? あなたの隣人を自分と同じように愛せよ。 他者を愛する私にぶっ殺してやると言う輩は多いよ。 このカテゴリーの回答者も大半はそうだ。 そのおかげで愛する事が自らを犠牲にしてまでも(他者を)愛することになってしまうのだが、楽勝だよ私は愛する。 こうして見解を述べると私は天国に案内されそうだが、ここだけの話だが聖書に登場する天国の実態は私にしてみれば地獄だよ。 聖書の世界への案内をする天使は私にとって悪魔だよ。 天使であり悪魔でもある聖霊たちだ。 それはともかく質問は君達はこんなくだらない事を大切にするのかい? 命題を新規作成しないと、哲学ではないから質問の本質を所感という形で提示するよ。 私は十戒をクリアできることに喜ばない。 戒律を受け入れて達成すればキリスト教徒かユダヤ教なのだけども、戒律とはそもそも不要なのだと思うから、戒律そのものを無視している。 この問題が苦悩であることを私に教えた、普通の日本人が精神汚染される類の深刻な問題ではないのだと考えている。 そういう点から、回答者様も何らかの哲学を披露してください。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
お礼
ありがとうございました。 よくわかりました。