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「天平」 は本当に 「テンピョウ」 と読んだ?

タイトルのとおりですが、片仮名や平仮名が考案されたのは平安時代に入ってからだと聞いています。  という事は、それ以前は漢字しか存在しない時代だったわけですよね? 現在では 「天平」 は 「テンピョウ」 と教えられます。  決して 「テンペイ」 と読みません。 また古代朝鮮の 「新羅」 は 「シラギ」 と読みます。  決して 「シンラ」 と読みません (これなどは不思議で、韓国では 「シルラ」 と発音するのに、「ギ」 という音が一体どこから出てきたのでしょうか ・・) なぜですか? なぜ、漢字しか存在しない時代の固有名詞の読み方が 「これだ」 と確認できるのでしょうか? もしかすると、当時の人はテンペイとかシンラとか読んでいたかも知れないのに ・・・ たとえば、後の時代になって片仮名や平仮名で 「テンピョウ」 と読みをうった文献があるからそうだとなっても、それではその読みをうった人はどうやってはるか昔の読みを確かめた? という疑問が生じてくるんです。 その他にもたくさんあります。 聖徳太子はセイトクタイシではなく、本当にショウトクタイシと呼ばれた? 蘇我入鹿はソガノイルシカではなく、本当にソガノイルカと呼ばれた?

noname#174737
noname#174737
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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • Hossi-
  • ベストアンサー率24% (145/584)
回答No.3

文字は同じですが、発音自体が違うので、現代語に置き換えると当時の発音と異なるものとなると考えられます。奈良時代あたりの会話なら現代人が聞いたら通訳が必要です。 現代語では表現できない発音をされていたのかもしれません。文献に関しては一概には言えませんが、書かれた年代の発音の可能性もあります。 聖徳太子に関しては現代に伝わる呼称が複数あり、生前どの名で呼ばれていたかは明らかになっていません。むしろ聖徳太子は死後につけられたものの可能性もあります。 天皇家を巡る女性は「○子」という女性が多く登場しますが、たいてい「○シ」と読みますよね?(彰子=ショウシ、威子=イシ)漢字のみが伝わっていて発音の不明なものもあります。これは特に女性に関しては発音が伝わっていないことが多いからです。彰子はショウコ、アキコの可能性もあります。現代での便宜性上の仮の発音です。 本当にその発音だった、文献の書かれた当時の発音(というのも現代と違う恐れがありますが)、仮の呼び名その他の可能性に関して、どの例がどれなのかはケースバイケースなので一概には言えません。歴史学的にいえばとても面白い疑問だと思います。もし、歴史学に興味をお持ちならば、個々のケースに関して調べてみると面白いと思います。

noname#174737
質問者

お礼

有難うございました。 小野妹子もそうですね。 イモコと学校で教えられましたが、もしかしてショウシが正解だったりして ・・・ 想像すると面白いですね。

その他の回答 (3)

回答No.4

新羅に関してだけですが… >決して「シンラ」と読みません シンラ明神とかありますから、シンラとも読みますよ。 ただ国名としてもシンラと読んだのか、いつ頃からシンラ/シラギ二通りの呼び方だったかは寡聞にして存じません。 因みに、手元の高校時代の資料集では日本史ではシラギ、世界史ではシンラとなっていました。 シラギは古くはシラ「キ」だったそうで、キは「城」だとか、侮蔑の意味を表す接尾語だとか聞いたことがあるですが、ちゃんとしたソースが見つからなかったので詳しい方補足願います。 漢和字典で調べると、「羅」は古音はrで、中古音以降は母音で終る発音です。

noname#174737
質問者

お礼

有難うございました。 謎は深まるばかりですね。

  • tatsumi01
  • ベストアンサー率30% (976/3185)
回答No.2

「ヒョウ」は呉音だと思いますが、古い時代の発音は呉音が多いのではないでしょうか。「平等院」も「びょうどういん」ですし。「天平」について万葉仮名の振り仮名が残っているかどうかは知りませんので、確言はできません。 「新羅」の「羅」は "lag" と発音したかも知れず、日本では語尾に母音をつけて「ギ」になり、朝鮮半島では語尾子音が脱落した、と考えることができます。いずれにせよ、11世紀(?)以前の朝鮮語の資料がほとんど残っていないので、「新羅」が朝鮮半島で当時どう読まれていたかを知ることは困難ではないでしょうか。なお、英語では "Sylla" と書くようです。

noname#174737
質問者

お礼

有難うございました。 新羅についてはそのような考え方ができるんですねえ、勉強になりました。

  • notnot
  • ベストアンサー率47% (4851/10265)
回答No.1

ひらがな、かたかなが生まれる前も、万葉仮名があったので、少なくとも万葉仮名誕生以降については、音は文書でも伝わったと思います。あとは口承でしょうね。

noname#174737
質問者

お礼

有難うございました。 もし口承だとすると、結構、間違いというか本来の読み方と違うものが今に伝わっているかも知れませんね。 今の日本語は50音ですが、古代の日本語はもっと発音の種類が多かったように聞いていますからね。

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