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何故人は矛盾を嫌うのか

タイトル通りですが、何故人は矛盾を嫌うのでしょうか? 知人に同じ質問をしたときには 「人間が矛盾した命題に説明を与えて理解することが出来ないからではないか」という答えを頂きました では何故人は矛盾をそれとしてそのまま受け入れてしまえないのでしょうか? 数学の世界では、その理論の目的からして矛盾を排除すべきであるのは何となく理解できます しかし日常では『P∧¬P』のような命題でも素直に受け入れてしまうことも出来るのではないかと思います 例えば「"絶対"なんてことは絶対にない」という発言のように 矛盾を受け入れる事は例えば、自分が信仰している宗教以外の神を認めるような場合に意味を持つのではないかと考えています 矛盾を受け入れることは、知の追求を放棄することの様な気もするし 受け入れられない物を受け入れることのような気もしているのです 自分の中でも考えが上手くまとまっていなくて申し訳ないのですが、何か意見があれば聞かせて下さい

  • proto
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  • shkwta
  • ベストアンサー率52% (966/1825)
回答No.4

矛盾の中身を区別しないといけません。 記号論理学であれば、矛盾があると証明できた時点で、そのものが存在し得ないことが示されます。たとえば、ある前提から、xは負の数であることが示せる、その同じ前提からxが正の数であることも示せる、ということであれば、「そのようなxは存在しない」とか「前提自体が否定される」が結論です。数学の証明で使う背理法や、裁判での証拠の扱い(たとえば、証拠に矛盾があるので、無罪とする)が、これに当たるでしょう。 しかし、「矛盾を受け入れる」といった場合は、上に書いた真の矛盾ではなく、「妥協」です。たとえば、ある利益zに対して、変数x,yを増加させるとzが減少するが、xとyの和が一定なので同時には減らせないといった場合、zが最大になる妥協点を探します。○○教を信仰している人が、ある状況下で××教の儀式にも参加するというのは矛盾でなく妥協でしょう。 あるいは、「層」とか「次元」とか「時間変化」が存在する場合もあります。たとえば、紙に描かれた図形が、同時に○であり△であり、かつ□でもあるというのは矛盾ですが、空間図形なら上から見て△、右から見て□、前から見て○という図形は作れます。ある段階において矛盾でも、高い層では統合できる場合があります。 重い物体が上にあり軽い物体が下にあるというのは矛盾というより「不安定状態」です。上昇気流で雷が発生するというのはこれです。似たものとして、現実と法律が矛盾している場合、摘発されて現実が法律に合わせられるか、法律が改正されるか、あるいは法律の権威が失われるという時間変化を生じます。 その意味では矛盾のない状態は変化のないつまらない状態ですから、必ずしも矛盾が嫌われるということではないと思います。

proto
質問者

お礼

なるほど矛盾を様々な種類に分類して考えることが出来そうです。 他の方の回答を見ていても思いましたが、 自分が矛盾と呼んでいるもので別の呼び方に置き換える方がふさわしいものがありそうです。 考えるときの参考になります、ありがとうございました。

その他の回答 (7)

  • corpus
  • ベストアンサー率12% (25/200)
回答No.8

矛盾を嫌うのはなぜかということですが、矛盾を好む人もいると思います。自分で矛盾を探してみるのも楽しいかもしれませんよ。そして、矛盾に見えていたものが実は矛盾でなかったりすることもあるかもしれません。 矛盾でなくその反対の位置にある恒真命題(トートロジー)は人は好むでしょうか?例えば「p∨¬p」は常に真です。pに何が入ろうが、真になってしまいます。 恒真命題も矛盾命題も事実については何も語っていないのです。情報量がゼロなのです。もしかしたら、これが矛盾の嫌われる理由かもしれませんね。(いや、違うかな) しかし、レトリック(修辞法)として(見た目は矛盾にみえても)つかわれることはあると思います。「"絶対"なんてことは絶対にない」というのも矛盾という姿を借りて何かを言っているように思えます。先ほど言ったように本当に矛盾であるのなら情報量はゼロです。しかし、なにか情報を持っているとすれば、それは矛盾ではありません。ですから、「"絶対"なんてことは絶対にない」は実は矛盾していません。インパクトを与えているだけなのです。レトリックの一種なのです。 矛盾は命題だけでなく、行為としてもあると思います。「あの人は矛盾した言動をしている。」という非難があったりもします。しかし、本当に矛盾しているならそのことはできないはずです。これは同時に複数の行為をすることはできないということなのでしょう。信仰についてもあるときはその神を信じていたのに、別のあるときは別の神を信じることはできます。 結論:日常の矛盾は実は本当の矛盾にはなっていない。そして、本当の矛盾に対して恐れを抱く必要はないが、日常の矛盾に対しては注意を向ける必要がある。なぜなら、それが矛盾の形をとりながら矛盾でないことが多いから。何らかの意味を持っている。だから、特に日常の矛盾だからということでなく、ほかの言明についても日常の矛盾と同じだけ嫌ってよいはずである。そして、現にそうしている。

proto
質問者

お礼

他の方々の回答で矛盾を別の言葉に置き換えられることが多く、それで気付きましたが、 自分が考える対象にしていた物には、真の矛盾と矛盾に見えてそうではないものが含まれていたようです。 それらを区別して考えることで視野が開けそうです。 ありがとうございました。 わかりやすい文章で大変為になりました。

  • bofd
  • ベストアンサー率25% (8/32)
回答No.7

何における矛盾なのかによって、理由は変わると思います。 宗教における矛盾が受け入れられないのは、人の存在意義や行為の正当性をを宗教が規定しているからです。例えば、豚を神だと信仰している人が、豚を食べている人を見て、何か言いたくなるのは自然なことです。なぜなら、その人にとってそこで行われていることは自分の父を殺すことよりも残酷なことかもしれないからです。「人はこうすべき」という指針が宗教によって与えられている以上、対立を防ぐのは難しいです。 宗教の場合は、それ以外の理由として、すでに他宗教によって身内を殺された人や、略奪された人も多くいるでしょう。その原因はかならずしも宗教的対立とは限らないのですが、指導的立場の者がレッテルを貼り、わかりやすい構図をつくるために宗教が持ち出されるのはよくあることです。このように、宗教的対立は必ずしも個々の宗教の間での矛盾だけによって引き起こされるわけでありません。 科学における論理体系は、ものごとの因果関係を明らかにすることに存在意義あるのだから、無矛盾であることは科学が科学であるために必要なことです。 科学と同様に、哲学も矛盾のない論理体系が求められますが、語られる領域が科学のように客観的なものではないので、検証が難しく、様々な意見が生まれるので、ある一つの論理が絶大な力をもつということも少ないのだと思います。また基本的に、「人はこうすべき」ということよりも、世界のありようを記述することに重点が置かれているものが多いので、すぐさま誰かの行為を否定することも宗教ほどは多くないのだと思います。(マルクス主義など、「何を哲学とするか」によりますが。)

proto
質問者

お礼

私が矛盾だと思いこんでいて、実はそうではないものについて 別の視点を与えて下さった様に思います。 これから更に考えを深めるさいの参考にさせて頂きます。 ありがとうございました。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.6

単に、矛盾が整合性を失わせるものだからではないでしょうか。 一旦矛盾を認めてしまうと、最終的には自分の存在基盤を揺るがすことになるので、それを恐れるのだと思います。 通常「矛盾」と呼ばれているものは、単なる「勘違い」に過ぎないと考えます。 ご質問文中の「>自分が信仰している宗教以外の神を認めるような場合」について言うと、これは、 「ひとつの神だけが存在するという勘違い」から発する矛盾でしょう。 実は「神=真理」ですから、真理に対する認識の仕方(視点の据え方)によって様々な神が存在する事自体、何の矛盾も無いわけです。 ただ、自分の生きているメカニズムの根本的な原動力さえ知らないことで明らかなように、人間の認識できることには限界があります。 それゆえの矛盾は「人間は全てを理解できる」という勘違いによって生じるわけですから、この場合に関しては「とりあえず」矛盾を矛盾として受け入れるのが論理的帰結と言えます。 ですから、この段階で停滞する事は「>知の追求の放棄」というよりは、「人間の可能性の放棄」と言うべきかもしれません。

proto
質問者

お礼

このことを言い出すと話が広がりすぎてまとまらなくなるのですが。 矛盾が整合性を失わせ、自分の存在基盤を揺るがす、と仰っていますが、 私の存在基盤に整合性は必要不可欠なのでしょうか? 私は人間精神に整合性が理解できなくても、存在自体は揺るがない気がしているのです。 ただ、このことを言い出すと本当にまとまらなくなるので今日のところはとりあえずいいですが。 後半部分には本当に感心させられました。 理解と合わせて考えることで、さらに考えがふくらみそうです。 ありがとうございました。

回答No.5

すべての人が矛盾を嫌っているとは言えないのではないでしょうか。特に永遠という概念を持たない人は矛盾を当然のこととして受け入れていると思います。矛盾を嫌う人がなぜ矛盾を嫌うかといえば、「永遠を考えることができる人間がどうして有限の命しかもっていないのか」に対する答えと関係があると思います。好き嫌いは、数学の公式の中にも宇宙の中にも存在しないにもかかわらず、われわれ人間は好き嫌いを考えています。ひょっとしたら矛盾というのも人間を離れたら存在しないのではないでしょうか。

proto
質問者

お礼

多少考えさせられる内容で、すぐに理解できる回答ではないですが、 >好き嫌いは、数学の公式の中にも宇宙の中にも存在しないにもかかわらず、われわれ人間は好き嫌いを考えています。 の部分は、私と同じような考えをお持ちのようです。 理解に努めて、考えるときの参考にさせて頂きます。 ありがとうございます。

noname#31063
noname#31063
回答No.3

数学なら虚数でも存在可であったりしますが、論理の矛盾は自分の至誠・使命の到らなさを、他を恨んで責任転換出来ない事情でジレンマに陥るから、帰する理解の場すら想像ができなくて百害あって有益なしという判断になるから、自分ではなく矛盾を軽蔑するのではないか。 なるほど、知の追求には固定観念の呪縛から自由になれるか否かにあるようですね。

回答No.2

「人は合理的であることを好む」ということを前提にします。 「矛盾」は、その定義上「合理的」ではありませんが、そうした「論理的整合性」とは別に「損得」という考え方もあります。 「矛盾を受け入れる」ということが、現実ではその多くが「騙される」ということではないでしょうか。 「損得」で考えれば、自分に損になりそうなことは忌避するのが自然だと思います。 信仰の違いによる諍いで互いに「損」するような状況の時には、追求するということをやめて、矛盾という状態をそれとして受け入れるということも理に適っていると思います。 前提を否定する場合は、また別のお話ということで。

proto
質問者

補足

「損得」の話はよくわかりました 「人は合理的であることを好む」の部分ですが 何故合理的であることを好むのかを自分なりに考えた時に 「非合理的であると説明が付かない&矛盾が生じるから」ではないかと思いました つまりは『何故矛盾を嫌うのか』という問の答えと堂々巡りになってしまったのです だから今回の質問では『何故非合理を受け入れられないか』も質問の内容に含んで訊いているつもりでしたが もしかするとわかりにくかったかも知れません

  • sirowan777
  • ベストアンサー率14% (270/1906)
回答No.1

人は美しいものを求めるのと同様に、バランスを重視するからだと思います。 美しさはバランス(調和)です。 本能的に「違和感」を嫌うのでしょう。 矛盾がないということは、調和しているということです。

proto
質問者

お礼

本能的に美を求めるというのはわかる気がします しかし何故本能的に「違和感」を嫌うのかを考えると 違和感を感じる対象と、自分の経験を対比したときに矛盾を感じるからではないかと思います つまり「違和感を嫌う」=「矛盾を嫌う」では無いかと思うのです しかし、それを本能的と言ってしまえば それ以上説明の必要はない気もします この答えで納得できるかどうか、もう少し考えてみようと思います ありがとうございました

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    ふと思ったのですが、キリスト教と仏教、イスラム教とヒンズー教、みたいに複数の宗教宗派を同時に信仰してる人っているのでしょうか。 日本人みたいに曖昧に複数の宗教の行事をやっている、というのではなく、意識的に宗教組織に所属したり、信仰してる人限定で。 とある仏教関係の宗教家が「どんな神を拝んでもいい。その信仰に誇りがあれば」というような言葉を残しているのを聞いたことがあります。また、神道系の武術の伝承者でありながらキリスト教の神父をやっている人もいたりします。 ならば、「私はキリストや聖書の教えを信じていますが、同時に釈尊の教えも素晴らしいと思うので悟りも目指しています。そしてその手段として神道の修行も取り入れています」なんて人もいる気もするのですが、どうなのでしょう? 釈尊の教えは聞いた限り、特定の神への信仰は含まれていませんし、あくまで個人の悟りを開くための哲学のように感じます。 ならば仏教とキリスト教は別に矛盾しない気がするのですよね。宗派にもよるかもしれませんが。アッラーのほかに神はなし、って言ってるイスラム教は難しそうですが。 そういう風に複数の宗教の同時信仰って実際やってる人はいるのか? また、同時信仰ってどう思いますか?

  • 一般および個別絶対性理論 ならびに特殊絶対性仮説

     一般および個別絶対性理論 ならびに特殊絶対性仮説または宗教の絶対的批判  1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》なる主観を外から否定も肯定も成し得ないというときその神観としての主観を言う。〔(5)に見るごとく 神は 非知ゆえである〕。  2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》なる主観は 外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。  3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けて心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。または 神なる概念の弄びである。宗教は 存在理由が無い。  4. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。  5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。   経験事象     可知       既知(間違いだったと分かることもあるが知ったとする)       未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)     不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)   非経験の場     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。   【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心   -------------------------   【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト    【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよい。または 霊霊一如である。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  8. したがって 非経験の場 ないし 非知なる神は そのまま普遍神である。名が違うのみである。また それら有神論に対して 《無い神》と名づける無神論も いづれも普遍神についての互いに同等の説明である。  ――これが 一般絶対性である。  9. 個別絶対性とは ひとりの人の信仰 すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐっての説明となる。  10. というのは 普遍神をよぶ名前が異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。  11. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。また それとして とうとばれる。  12. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。  13. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間にとってゆえ――多様性を持つと見られるとき 特殊絶対性として捉えられる。  14. ちなみに 信仰から得られた観想を 倫理規範としまた世界観としたのは 宗教のオシヘである。オシヘは すでに思想である。  15. ところが もし宗教がこのオシヘをかかげ 無条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くなら いまの絶対性理論の外にある。オシヘは 思考の緑野の中におさまり 《考える》ものである。《信じる》とは 何の関係もない。神論としてアウトである。  ☆ ご見解をどうぞ。