• 締切済み

耽美的作品との付き合い方

ahoahosusukiの回答

回答No.5

私は、優れた作品に出会うと死にたくなります。でも避けられずにもとめてしまうのです。 本やら映画やら、なんやらに触れるときに一つだけ気をつけていることがあります。 死を肯定するものには賛同しないことです。 死ぬことがかっこよかったり、死をもって解決としてるものには、同調しないと心に決めています。 なぜかというと、そうじゃなきゃ自分が生きてることを肯定できないからです。どんなに見苦しくても生き抜いた人の方がかっこいいと思わないとやってられません。 自分自身で死を選ぶことが何よりも憎いものだと思いつづけてます。自分が生き残る為ニ。それが自分の姿勢です。 もしあなたが、本気でその状況を脱したいと思っているのなら方法は一つです。 夜寝て、朝起きることです。 朝起きて、朝ご飯をしっかり食べて、思いっきり運動をして、本を読むなら夜は避けて、寝る前は何も考えないで寝ることです。疲れてしまって寝てしまうという状況になるように昼間動き回るんです。 読む本をちょっと変えてみません?司馬遼太郎とかどうだろう。。。長くて客観的で面白いです。坂の上の雲とか最優先事項をしっかり見て行動する人が凄くかっこよく描かれてます。 でも、、、思うんだけど、、、実は全然困ってないでしょ?芸術にふけってる自分が実は何よりもすきでしょ? 変える必要が無いとか、変えられないとか、実はわかってるでしょ?それわかってて質問してるでしょ?やるべきことはちゃんとやって、それ以外はそのままでいいんじゃないの?そうか、、、変えたいなんて一言も質問には書いてないね。読解力が無くてゴメンナサイ。 今自分が過ごしてる時間が、そのままこれからずーっと付き合っていく自分になるんだことだけ忘れないでね。 あと絶対自分で死を選ぶ事はしないでね。それはそのままそれまでの自分や自分が大切に思ってる人を否定することだと思います。

関連するQ&A

  • 三島由紀夫に関する書籍

    大学の講義で三島由紀夫について学び、すっかり魅了されました。 そこで、三島氏に関する(思想、人柄、生涯等について書かれている)著書で お勧めがあれば教えて下さい。 ちなみに、数年前『三島由紀夫の最期』を購入しましたがイマイチでした。

  • この条件に当てはまる、本を教えてください。

    こんにちは。高2の男です。 今回、読書感想文の課題が出て、課題図書は無く自由なので何を読んでいいか分かりません。三島由紀夫の『仮面の告白』(僕の内面に関わっている部分があり共感できそうだと思ったので。でも一応言っておくと、僕はサドではありません^^;)にしようと思いましたが、果たしてその本が読書感想文向きなのかどうか不安になり、保留状態です。今から挙げる条件に当てはまる、本がありましたら教えてください。 『死』あるいは『マイノリティー(同性愛や性同一性障害など)』について考えさせられる本 この条件に当てはまるもの教えてください。

  • 忘れられない、「自ら命を絶った、有名人」・・・

    ちょっと暗い話になりますが。お付き合い下さい。 多くの有名人が、それぞれの道で成功を収めながらも、自ら命を絶ってきました。 そこには色々な理由があると思いますが、本当のところは分らないかもしれません。 でも、その人たちの「自ら命を絶った行為」自体が、私たちに重く語りかけてくることも多いです。 そんな、未だに頭から拭い去ることが出来ない位の衝撃を受けた、「自ら命を絶った有名人」は、誰でしょうか。 私の場合は、 まず、「三島由紀夫」さん・・・ その文学作品や思想については、全く共感を覚えませんでしたが、あの自衛隊市ヶ谷駐屯地での「檄文」からの割腹自殺の情景は、今でも頭から離れません。 そして、「円谷幸吉」さん・・・ 東京オリンピックでの銅メダルから、過大な期待と脚の故障に、自ら命を絶つこととなったのですが、あの美しくも涙を誘う遺書は、今でも私の心に残っています。 http://www.tees.ne.jp/~syn/monostory/gorin/isyo.html そんな、皆さんが忘れられない、「自ら命を絶った、有名人」を、教えて下さい。 宜しくお願いします。

  • 数学カテと陽明思想の問題

    質問箱の数学カテに 10個のコインの中に2個軽い偽金が混じっている、 上皿天秤に乗3個づつ乗せたらA皿の方が下がった。乗せてないのはあと4個である。 あと何回天秤を使えば、2個の偽金を発見出来るか。との質問がありました。 12個のコインの中に軽いか重いかは分からない、1個の偽金がまじっている。上皿天秤を3回使って、一個の偽金を重いか軽いかまで見つける。という18世紀の数学者が考えたという「偽金の問題」があります、3進法でナンバー付けをすれば、簡単に解けるというものですが、いわゆるクイズとしても 解けます、若い頃解いたことがあります。 12個のうちやも以下軽いかも分からない一個が、上皿天秤3回で見いだせるなら、当然、10個のうちの、軽いと決まっている2個なら、3回、あと2回で見いだせるはずと。 やって見ましょう。暇もあり午前中から回答を書き。送ろうとしたら、送れませんでした。 解決済み(あと3回の回答のまま)になっていました。 どうやれば、あと2回で、2個の軽い偽金を発見出来るでしょか、考える訓練として、 数学カテに対抗?してはどうですか その後、哲学カテに、陽明思想についての質問があったので、(まだ暇、碁会所も開いていない? 回答をかきました。また送れませんでした、調べたら、質問がなくなって(削除?)されていました 。 知行合一(心ではなく知恵と行動を一致させよ)、良知(無欲、無心、で見るなら、何が正しいかわ分かる、人間にはそういう能力としての知恵、良知、が備わっている。) に代表される、陽明思想は三島由紀夫の行動には、問題があるとしても、削除、排除、しなければならないような思想でしょうか。 始めての質問です。よろしく。

  • 本を読んでも"自分"を保てますか?

    哲学や学問は世界を探求した結果がまとめられたようなものですよね。 それを自分に取り込めば、世界への理解がインスタントに得られ、 生活に役立ったり、よりよく生きることが出来るようになったりします。 しかし、そういった哲学や学術の本を読んでしまったら、 読まなかった以前とは思考や思想が変わってしまったり、 もし同調などしてしまったら、"自分らしさ"なんて消えてしまうのではないでしょうか? 例え上手く付き合ったとしても一度読んだものは忘れることは出来ないわけで、 『影響されなかった』と言い切ることはできないですよね。 哲学の本などは特に価値観や思考に直接関係するようなものばかりで、 もし影響されやすい人なら、本の内容そのままの思想に乗っ取られ、 作者のレプリカみたいなモノになってしまったりするんじゃないのでしょうか? もちろん、内容すべてに同調することは殆どないと思いますが、 その本の一部でも吸収してしまったら、もう読んだ人は"天然もの"じゃないですよね。 色々な本を読んで、自分が最も共感できる者を択一する…。 一見、オリジナリティ・個性をを保持したままのような感じがしますが、 実際はただの寄せ集め…ちぐはぐな存在でしかないのではないでしょうか。 彼が後に本を出したとして、その内容はしょせん過去の本からの引用…。 何百年後に評価されるような事はあるのでしょうか? 古今東西の哲学書を読んだ哲学者より、 森の中で生まれ育った人間の方が、よっぽど斬新で有意義な本を書くのではないでしょうか? 科学の分野で古い理論や最新の理論を読んだとしても、 それは過去、或いは直近での「事実」を読んだに過ぎず、 今や未来での「真実」を追求するのに何か役に立つことはあっても、 それ自体が「真実」に影響を与えることはないと思います。 (世界は平らだといっていた時代があったから、いま地球が丸い、というわけでないように) ところが哲学…思想や思考に関するものには「真実」がないですよね。 あるとしても個人のセンスに依存しているわけで…。 そうすると過去の本を読むことは、いたずらに自分を汚すようなものじゃないんですか? 科学が研究して真理を求めるように、人は経験し自らの思想思考を育む。 なのに本を読んで、こりゃあいいやって傾倒したら、 それは真実が変わってしまったかも知れないってことですよね。 20世紀には沢山いい哲学者がいたようですが、 21世紀にも、後世で「すごい人だね」と言われるような人は現れるでしょうか? 哲学-学者は哲学者になりうるのか…。 オリジナリティに溢れる哲学者はどこから来るのか…。 どうお考えになりますか?

  • 耽美な死に方を教えてください。

    耽美な死に方を教えてください。 ・耽美な死に方をした著名人。 ・登場人物が耽美な死に方をする小説、漫画。 知ってる方いらっしゃいましたら教えて欲しいです。 出来るだけたくさん教えてくださると嬉しいです。よろしくお願いします。

  • ニーチェとカントの出会い って?

     ニーチェとカントの出会い?  ▼ (三島憲一:ハーバーマスとデリダのヨーロッパ) ~~~~~~~~   デリダの〔ハーバーマス七十五歳の誕生日に際しての〕お祝いの手紙が 《我々の誠実さ》というニーチェの引用で始まっていることを忘れてはならない。デリダとハーバーマスにおいて(ひょっとしてハーバーマスは多少ともいやいやながら) ニーチェとカントが出会っているのである。  理性の欺瞞を告発し 個性と差異を情熱と芸術の名によって擁護したニーチェと 人間を目的として扱うことを哲学的社会論・政治論へと翻訳し 世界市民権を説いたカント 理性と力の癒着の告発がともすると力の理不尽な肯定という迷誤に陥ったニーチェと 理性の哲学がときとして謹厳実直な特定のライフスタイルへの固定化を誘引しがちな道徳主義的カント 政治的にはこれまでまったく違った陣営に位置づけられていた両者が デリダとハーバーマスの《翻訳》を通じて二一世紀にもっと激しく出会うならば――そして すでに二〇世紀の最後の一〇年で確実に出会っているのだが―― それぞれの迷誤と誘引をもう知らない世代の希望が出てくるというものである。  そうすれば ヨーロッパ憲法の挫折はエピソードに終わり 国際秩序の立憲化という《ユートピアなき理想主義》への道がひょっとすると見えてくるかもしれない。  これがデリダとハーバーマスのヨーロッパ つまりエアバスと武器輸出のヨーロッパではない ヨーロッパの自己像である。  そして ひょっとすると 日本の思想の世界でも 《なんとか大学なんとか学会》の習慣も 〔* 日本の学者たちがそれぞれ自分たちの奉じる外国の学者や思想家をそれにたてまつったところの〕神様や偶像を引くだけの《神々の戦い》の時代も終わるかもしれない。ヱーバーがこの表現を使った経験は もう過去のものに属するのだから。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 終章 ハーバーマスとデリダのヨーロッパ p.227 )  ~~~~~~~~~~~~~~~  ハーバーマスおよびデリダについて知りません。どなたか解説してくださいませんか。  そのほか ご感想やご見解をも述べてください。  質問者の物言いは わづかに《世界市民権》が 市井の一市民にあるというだけではなくそのことが 社会制度としても――つまり 国家やあるいは国際連合などに必ずしも頼ることなく 地域のムラ(市町村)じたいの体制としても――成っているということ このことを必須の条件とすると考えられることである。    自由なご批判をどうぞ。  

  • 「やさしさをありがとう」

    ラララララー。 私は優しい風のささやき・ キュアアイリス。 実在する妖精さんだよ~ん。 さて、人が自らについて考えることとは、実に困難な哲学になっていまう。 なぜなら自らを題材に哲学する事とは、自らに疑いを持つことだからだ。 哲学の先輩の武勇伝で最も尊敬に値するのは「神に対して疑いを持つと、自らが存在する事すら疑わしくなる」こんな精神病だ。 そうさね、神に疑念と敵意を向ける宗教団体とは、キリスト教じゃないかね? 現在も世界史は西洋の編み出した体系化で、主の拡張版西洋史として構成されている。 でも、神に疑念を抱き抹殺するキリスト教団体とは、地球上の全人類の人口比率で極めて少数派ではないかな? その狂信が凶行を呼び覚まし20世紀は暴力で彩られた。 特徴的なのは芸術家である私には、美しさを表現する事すら暴力を根底にする、一切に救いのない荒廃だったよ。 美しさだけは、49歳男性魔法少女のように、一切枯れないで自らを保てばそうでもなかったのに。 ラララララー。 20世紀にはすべてを蹂躙する惨劇が起きた。 9.11が英雄的行為で、その惨劇を最悪の結果になる前に押しとどめ、英雄は処刑される。 ローマ教会が2000年にわたって策案した、自分たちの不当性が証明される前に全人類を滅亡させてまでも、証拠を隠滅し続けてシラを切りとおす、滅亡計画はビンラディンが阻止したんだ。 20世紀にキリストなる役目をこなした神は「自称宇宙人」リッチモンドスターという。 私とは敵方だったがいい奴なのは承知していた、「19世紀の宝石の姫様」向けに敵に塩を送るように、迂回ルートで延命用の薬を送り届けていた。 えっとこの質問は学問カテゴリー「哲学」で行っています。 哲学とは発作を伴うので、病人同士がお互いをいたわる「やさしさをありがとう」なツンデレバトルです。 緊急看護してください。

  • ニーチェとカントの出会いって?

     ニーチェとカントの出会い?  ▼ (三島憲一:ハーバーマスとデリダのヨーロッパ) ~~~~~   デリダの〔ハーバーマス七十五歳の誕生日に際しての〕お祝いの手紙が 《我々の誠実さ》というニーチェの引用で始まっていることを忘れてはならない。デリダとハーバーマスにおいて(ひょっとしてハーバーマスは多少ともいやいやながら) ニーチェとカントが出会っているのである。  理性の欺瞞を告発し 個性と差異を情熱と芸術の名によって擁護したニーチェと 人間を目的として扱うことを哲学的社会論・政治論へと翻訳し 世界市民権を説いたカント 理性と力の癒着の告発がともすると力の理不尽な肯定という迷誤に陥ったニーチェと 理性の哲学がときとして謹厳実直な特定のライフスタイルへの固定化を誘引しがちな道徳主義的カント 政治的にはこれまでまったく違った陣営に位置づけられていた両者が デリダとハーバーマスの《翻訳》を通じて二一世紀にもっと激しく出会うならば――そして すでに二〇世紀の最後の一〇年で確実に出会っているのだが―― それぞれの迷誤と誘引をもう知らない世代の希望が出てくるというものである。  そうすれば ヨーロッパ憲法の挫折はエピソードに終わり 国際秩序の立憲化という《ユートピアなき理想主義》への道がひょっとすると見えてくるかもしれない。  これがデリダとハーバーマスのヨーロッパ つまりエアバスと武器輸出のヨーロッパではない ヨーロッパの自己像である。  そして ひょっとすると 日本の思想の世界でも 《なんとか大学なんとか学会》の習慣も 〔* 日本の学者たちがそれぞれ自分たちの奉じる外国の学者や思想家をそれにたてまつったところの〕神様や偶像を引くだけの《神々の戦い》の時代も終わるかもしれない。ヱーバーがこの表現を使った経験は もう過去のものに属するのだから。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 終章 ハーバーマスとデリダのヨーロッパ p.227 )  ~~~~~~~~~~~~~~~  ハーバーマスおよびデリダについて知りません。どなたか解説してくださいませんか。  いい線を行っている内容であると思います。  わたしの言葉では 《あやまちうるスサノヲ人間語 と あやまち得ざる〔とみなされた〕アマテラス普遍語(科学語および人格語)とのえも言えない融合》ではないかと。  質問者に物言いがあるとしたらそれは わづかに《世界市民権》が 市井の一市民にあるというだけではなく そうではなくそのことが 社会制度としても――つまり 必ずしも国家に頼ることなくあるいは国際連合などといったメタ・アマテラス普遍語次元の機関に頼ることなく 地域のムラ(市町村)じたいの共同自治の体制としても――成っているということ このことを必須の条件とすると考えられることにあります。(インタムライズム)。    自由なご見解・ご批判をどうぞ。  

  • 耽美小説

    耽美といっても色々あるとは思いますが、皆さんが思う耽美で、良い小説があれば教えて下さい。 他に細かい指定などは特にありません。