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幕末の幕府の最高権力機構について

cse_riの回答

  • cse_ri
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回答No.1

参考文献と言われるとよくわからないのですが、 徳川幕府の意志決定は、通常は老中4人の合議性となっていました。 しかし4人の老中は対等ではなく、実質的には老中首座の意志に 他の老中が従うことが多かったようです。 しかし、たまに大老が任命されることがあり(通常は空席)、 大老がいる場合には、大老が幕府の最高権力者となります。 老中の任命・罷免については将軍が行いますが、実際は将軍は 老中首座(または大老)の進言をそのまま実行するだけですので、 老中首座(または大老)が実質的な決定権を持っていることに なります。

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