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幕末幕府の最高権力機構について

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とくに幕末の、最高権力機構がどうなっていたか知りたいのです。参考書ではたとえば老中阿部正弘が徳川斉昭の進言を入れ、老中松平乗全、松平忠優を罷免した。とか、元老中の堀田正睦が再任し、阿部正弘にかわって首座となった。などと書かれています。
老中の任免や外交など重要事項の決定はどのようになされたのでしょうか。老中首座(今の首相との説有り)が老中の全体会議(今の閣議との説有り)で発議し、将軍の裁可で決定されたのでしょうか。老中会議は多数決でしょうか、首座の専決でしょうか。また、大老と老中の関係はどうなのでしょうか。
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>老中の任免や外交など重要事項の決定はどのようになされたのでしょうか。老中首座(今の首相との説有り)が老中の全体会議(今の閣議との説有り)で発議し、将軍の裁可で決定されたのでしょうか。老中会議は多数決でしょうか、首座の専決でしょうか。 任免について。 (1)江戸幕府は、全てと言って良いほど、家格によって、決められた役職に就くことがほとんどでした ...続きを読む
こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>老中の任免や外交など重要事項の決定はどのようになされたのでしょうか。老中首座(今の首相との説有り)が老中の全体会議(今の閣議との説有り)で発議し、将軍の裁可で決定されたのでしょうか。老中会議は多数決でしょうか、首座の専決でしょうか。

任免について。
(1)江戸幕府は、全てと言って良いほど、家格によって、決められた役職に就くことがほとんどでした。

(2)極端に言えば「蛙の子は蛙」であって、決して「牛」などにはなれない仕組みでした。確かに、家格が良くて出世をしても凡庸な人材もいました。しかし、この「凡庸」こそが、徳川幕府を300年近く支えた、と言っても過言ではない。
つまりは、無理な改革などをせず、平々凡々としていた方が自然の流れとしては良かった場合もあります。

(3)将軍直属として、「大老」「老中」「若年寄」「奏者番」「寺社奉行」「京都所司代」「大阪城代」が並列しています。
    |―大老
将軍 |―老中 ――江戸町奉行など
    |―若年寄
    |―奏者番
    |―寺社奉行
    |―京都所司代
    |―大阪城代
(4)まず、2~3万石位の譜代の大名家より、20歳代の若者が選ばれ「奏者番」の役職に就きます。定員は20名。

(5)役務としては、年頭や五節句(礼式日と言います・後述します)などで諸大名が将軍に謁見する取次ぎ役、献上物を披露する役目、将軍に替わって代参や見舞いなどに出向いたりして、諸事政務の見習い役です。

(6)ここで頭角を現した者が、寺社奉行を兼務します。寺社奉行は定員4名。

(7)江戸町奉行、勘定奉行、寺社奉行を三奉行と言いますが、実際には「寺社奉行」は、奏者番の兼務で将軍直属。
江戸町奉行、勘定奉行は老中配下です。

(8)奏者番から寺社奉行の兼務を仰せつかった者は、やがて、大阪城代や京都所司代などに出世をし、さらに、若年寄や老中などになりました。

(9)この「奏者番」に選ばれるかどうかで、その人の出世コースが決まりました。

(10)任免権は、もちろん、将軍にありましたが、家格や老中たちの年長者の推挙で「老中」になりました。また、「老中首座」も、やはり、家格が一番物を言いました。

(11)「老中」は定員4~5名。
月番制と言って1ケ月交替に諸事の受付窓口を担当しました。
政務は、原則的に「合議制」でしたが、老中すべてが「同格」かと言うと、そうではなく、やはり、「先任老中」として古参の者が、主に「主導権」を握っていました。
また、「お掛り老中」として、担当も分かれていた時期もあります。
意見が分かれた時は、「老中首座」が決断しました。

(12)では、「老中首座」とは・・・これは、原則的には、古参の老中がその任に就きましたが、幕末も近くなると、若くても家格が上位の者が「大抜擢」されることもありました。

(13)あなたの言われる通り、「老中」は現代の「首相」にあたります。現代では、1ポストに1人制ですが、江戸時代は、1ポストに1人というわけではありませんでした。
なお、「老中首座」だけが「首相」ではなく、「老中自体」が「首相」の役目をはたしました。

>>参考書ではたとえば老中阿部正弘が徳川斉昭の進言を入れ、老中松平乗全、松平忠優を罷免した。

(1)安部正弘の人物像などはWikipedia等でお調べください。
安部正弘は12代将軍徳川家慶に若干24歳で老中に大抜擢された「切れ者」でした。そして、幕府の独裁をやめて「公武合体派(尊王派)」の水戸の徳川斉昭や薩摩の島津斉彬などと親交しており、彼らの意見を幅広く取り入れました。その結果、当時、ペリーなどが来航した折、海防掛りであった牧野忠雅と松平乗全、松平忠優(ただます)らの「開国派」を一時弾圧し、安政2年(18855)に老中を罷免しました。しかし、老中首座の安部正弘もやっと「公武合体」を推進しつつ「開国」も止むを得ない、との判断から、松平忠優は忠固(ただかた)と名を改めて、同年には老中に復帰しました。

(2)安部は、米国総領事のハリスと「通商条約」締結に向けての話し合いの最中の安政4年(1857)6月17日に39歳という若さで急死してしまいました。

>>元老中の堀田正睦が再任し、阿部正弘にかわって首座となった。などと書かれています。

(1)堀田正睦は家格が格段に高い地位でした。家系としては、3代将軍家光の「お側衆」から「老中」になった堀田正盛(まさもり)の血を引き、正盛は家光が死去した際、殉死までして、その名を知らしめました。

(2)そして、安部正弘や松平忠固らと共に「公武合体」を進めつつ、「開国派」でもありました。安部が死去した後、ただちに、堀田が「老中首座」になりました。

(井伊直弼)
(1)井伊直弼は、安部正弘の死去を受けて、自ら「自分なら諸外国とうまくやっていける」と、13代将軍家定に直訴をし、安政5年(1858)4月23日に「大老」に就任しました。

(2)「大老」は「老中」と同じく、将軍直属で、いわば、「名誉会長」のようなものでしたが、発言権は「老中」より若干上位でした。
また、余談ですが、井伊家は徳川家康が三河にいた頃からの直臣で、徳川家(将軍家)とは縁もゆかりもなかったが、上席家格を持ち、井伊家が幕府の役職に就くのは「大老」だけ、との決まりがありました。

(3)井伊は就任早々の5月1日には、家定に次期将軍を紀伊家徳川慶福(よしとみ=14代将軍)とすることを承認させた。
この背景には、大奥も大いに関わっていた。一橋慶喜は水戸の出身で英才でもあると同時に「倹約家」でもあり、慶喜が将軍になると、大奥の粛清が図られる、との噂が先行していいため、実権を持たない家定よりも大奥を敵に回すことは、自らの「保身」にはならない、と考えた。

(4)井伊直弼は「尊皇派」で、阿部正弘から引き継いだ米国との交渉を慎重に進めていた。しかし、6月16日、ロシアの軍艦アスコルド号が下田に入港したのを受けて、米国との交渉担当であった岩瀬忠震(ただなり)と井上清直(きよなお)は、米国の、
「時間はきわめて切迫している。我々と手を結べば、日本と友好的に行動することを誓約する」
との説得で、直ちに、老中堀田正睦(まさよし)に報告。堀田は同じ老中の松平忠固(ただかた)らと夜を徹して話し合いが行われ、二人は「即時条約断行論」を唱えた。そこで、井伊は、とりあえず、
「調印の延期ができるかどうかを打診せよ」
と、岩瀬と井上をポーハタン号に6月19日に送った。
ところが、二人は井伊の命に反して「調印」をしてしまった。

(5)井伊は、しかたなく、6月22日、江戸在中の諸大名を登城させ、条約調印を発表すると同時に、即時調印断行を唱えた堀田と松平の二人を老中から解任し、井伊と対立する一橋派の攻撃を交わそうとした。
一橋派は、これに対して、翌23日、登城し、
「同じ尊王論者であるのに、なぜ、調印をしたのか」
と、責任の追及をした。
この事件は「一斉不時登城」と呼ばれ、登城日でないにもかかわらず登城をし、この時登城したのは、水戸斉昭、慶篤(よしあつ)親子や尾張慶恕(よしくみ)、松平慶永(春嶽)らで、井伊よりも家格が上位であったため、井伊はひたすら平身低頭する以外に道はなかった。勢いに乗った一橋派は、24日にも不時登城をし、井伊を吊るし上げようとしたが、井伊は、
「将軍後嗣に、朝廷の承認がおりて、紀伊慶福が正式に決まった」
と、切り出し、一橋派の出鼻をくじいた。

(安政の大獄)
(1)怒り心頭に達した井伊は、安政5年(1858)7月5日、水戸斉昭に「急度慎(きっとつつしみ)」、尾張慶恕と松平慶永に「隠居・急度慎」、一橋慶喜と水戸慶篤には「登城停止」を将軍家定の名で命じた。
これが、世に言う「安政の大獄」で、尊皇攘夷派や一橋派の大名、公卿、志士(活動家)ら、連座した者100人以上にのぼったと言われている。この時、吉田松陰や頼山陽、橋本左内らも投獄、処刑された。

(2)さらに、井伊は、7月6日に家定が死亡したことを隠したまま、7月8日には、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダの五カ国との「修好通商条約」を締結した。
家定の死は8月8日に発表され、即日、14代家茂が将軍となった。 

(3)安政5年(1858)8月8日には孝明天皇の勅諚(戌午の密勅=ぼごのみっちょく)が水戸藩に下された。その内容は、米国はじめ英・露・蘭との修好通商条約調印を批判し、水戸・尾張両藩主らの処分の影響を心配し、幕府は徳川三家以下諸大名と群議して、国内治平、公武合体、内を整えて外国の侮りを受けぬ方策をたてるようにというのであった。この勅諚は、幕府にも下されたが、水戸藩に対しては、徳川三家はじめ列藩にも伝達するようにとの添書がついていた。
なぜ、朝廷は水戸藩へ勅諚を送ったか。それは、一つには、斉昭の正室が有栖川宮織仁親王の九女・吉子女王(よしこ)であったためと思われる。

(4)朝廷から、政治的な勅諚が幕府抜きに、直接藩に下されることは、前例がない。幕府は水戸藩に勅諚返納を命じたが、藩内の改革派、特にその過激派は、あくまでもこれに反対した。他方京都では勅諚降下に反対した親幕府の関白九篠尚忠(ひささだ)が辞任に追込まれた。さらに、8月10日、長州、薩摩など13藩に勅諚が伝達された。このことに広く深く公卿や尊攘志士等が関わっていることを知った井伊は幕府の危機と考え、安政5年(1858)9月頃よりは、井伊による「安政の大獄」が一層強化され、翌安政6年(1859)の年末まで続いたという。吉田松陰は特別に批判が厳しかったので逮捕された。

(礼式日)
「元旦」
元旦・・・これは、もちろん正月1日
「五節句」
人日(じんじつ)・・・正月7日(七草粥の日)
上巳(じょうし)・・・3月3日(雛祭りの日)
端午(たんご)・・・・5月5日(端午の節句)
七夕(たなばた)・・7月7日(七夕)
重陽(ちょうよう)・・9月9日(菊の節句)
「八朔」
八朔(はっさく)・・・8月1日
この日は、家康が初めて江戸へ入府した日で、元旦とならぶ重要な日とされました。

これらの「礼式日」には、江戸在中の大名たちは、総登城しました。

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