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島原の乱

島原の乱は 「島原・天草一揆」や「天草・島原の乱」と呼ばれてますが「天草・島原一揆」や「島原・天草の乱」という表記は誤りなのでしょうか?また、誤りならばどうして一貫性のない順序なんでしょうか?

  • 歴史
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  • ベストアンサー
  • charpon
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回答No.7

#3の回答者です。 >天草・島原一揆という言い方が少なくとも地元ではしっくりこないんですね。ちょうど、千葉県・浦安のディズニーランドと呼ばずに浦安・千葉県のディズニーランドというのが馴染まないのと同じなんでしょうか. これは私の意見ですが、熊本県で「天草・島原の乱」「天草・島原一揆」と呼ばれるのは、おそらく郷土の愛着からでしょう。つまり、歴史も地元中心なので、地元の「天草」が常に「島原」の先に来るわけです。もちろんこれは誤りではありません。理由はANo.3 の通りです。 >先生は、昔は島原の乱と呼んでいたからよくわからないけど、教科書の表記が正しいといっていました。 私も「島原の乱」で習いましたし、今でもそう呼んでいます。今はどう教科書に載っていますか? 先生のいうことは、ある意味、的を得ていて、ある意味間違っていると思います。 確かに、教科書の表記は、受験で利用すると言う意味では正しいです。質問者様が今後、高校・大学と入学受験をさせるのでしたら、教科書の表記を正確に覚えておいた方がよいでしょう。 そもそも先生はわからないのに×をつけたというのはどうでしょうかね~?学術的には教科書の記述自体は、間違えとは言わないまでも、正確ではありません。あまり詳しく話すと趣旨からはずれますが、古代から現代までを要約しすぎているからです。普通は、何十冊も必要な記述を1冊の200~300ページにまとめれば、説明のつかないことも多く生まれます。(著者である研究者は苦心してると思いますが♪)しかも、教科書も研究者が記述しているため、編著者によって各教科書の内容が(用語も含めて)異なってくることもあるのです。もちろん、お役所が一通り目を通して、教科書として認可していますが… 受験の世界では教科書は、正しい書物でありますが、もし、質問者様が大学に入って、歴史学を学ぶことがあったら、どれだけ正確でない物かわかると思います。 先生も大学で歴史学を学んでたら知っているはずだけどな~入試でなければ、「天草・島原一揆」は○でいいと思うけどね~(独り言) まぁ、高校入試受験に備えた先生の優しい思いやりと思っていた方がいいかもしれませんね。 >昔そう呼んでいたなら今もそう呼べばいいのになと思います。 そうですね。気持ちはわかります。でも、「島原の乱」だけだと、島原地方だけで起きた一揆・反乱と勘違いされるかもしれないじゃないですか。だから、「島原・天草…」「天草・島原…」の方がより歴史事実としては正確なのだと思います。 ちょっと今回の質問の趣旨から外れまが… 過去の歴史事実(過去に起きた出来事)はもう変わりませんよね。でも、歴史は変化していきます。というのは、現在も歴史学の世界で新しい発見や事実がわかってきているからです。研究者が新しい事実を解明すれば、それが歴史となって、教科書の記述も変化していきます。これは、しょうがないですよね。 老婆心ながら、中学一年生で歴史用語の一貫性について考えられれば大したものだと思います。学習者としては大変かもしれませんが、頑張ってくださいね。 最後に、長文になって、申し訳ありませんでした。

その他の回答 (6)

  • charpon
  • ベストアンサー率75% (9/12)
回答No.6

#3の回答者です。たびたびすみません。 中1の期末ですか・・・・ なら○でいいのじゃないでしょうか? 熊本大学附属図書館の展示などは「天草・島原一揆」を使用しているようです。 http://www.lib.kumamoto-u.ac.jp/exhibit/1999/moku2.html 歴史学研究という学術雑誌の書評でも「天草・島原一揆」が使われているいようですね。ちなみに福田千鶴さんとは、研究者さんですね。 http://www.rc.kyushu-u.ac.jp/~hatt/tiru.html もともと熊本県では、天草が熊本県ということもあって、「天草・島原の乱」「天草・島原一揆」という呼称がよく使われているようですよ。 もし、やはり納得いかないのでしたら、先生にいろいろ資料を集めて、持って行けば加点してくれるかもしれませんね。

mickey_mouse123
質問者

お礼

たびたびありがとうございました。天草・島原一揆という言い方が少なくとも地元ではしっくりこないんですね。ちょうど、千葉県・浦安のディズニーランドと呼ばずに浦安・千葉県のディズニーランドというのが馴染まないのと同じなんでしょうか。 先生は、昔は島原の乱と呼んでいたからよくわからないけど、教科書の表記が正しいといっていました。昔そう呼んでいたなら今もそう呼べばいいのになと思います。

  • smzsmz
  • ベストアンサー率22% (13/58)
回答No.5

う~ん自分が先生なら△かな! 期末なら×にするかも。 なぜなら、 一揆の「中心が島原」で、天草はそれに呼応する形で起きたからです。 従って 島原・天草は○で 天草・島原は×になるのです。 「天草一揆」「天草の乱」と言われるのは地名でなく 首謀者が天草四郎だからです。 似た例では「由井正雪の乱」等個人名が入っていますよね。 島原天草の乱と言う時は、地名になります。 歴史的な背景は他の方々が説明している通り 重税が上げられさらにキリシタン弾圧が有ったため キリシタンが天草四郎を担ぎ上げさらに騒動が大きくなっていったと推測されます。 島原の乱の経緯は学校で習ったと思いますが、 下記サイトに詳しく書いてあります 一読して下さい。 参考:URL http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E8%8D%89%E3%81%AE%E4%B9%B1

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E8%8D%89%E3%81%AE%E4%B9%B1
mickey_mouse123
質問者

お礼

ありがとうございます。 島原・天草の乱 とは呼ばず、天草・島原の乱とするのは何故なんでしょうか。一揆の時と乱の時とで一貫性がないのはどうしてでしょうか? 

  • charpon
  • ベストアンサー率75% (9/12)
回答No.4

#3の回答者です。 >「天草・島原一揆」の解答が × だった そうですか・・・なにか試験だったのでしょうか? 歴史学的には、地名の並列表記に規則はありませんので「天草・島原一揆」の解答で文句なく○です。 歴史の学術論文の場合も、なるべく一般的に使用される用語で書きますが、「1637年(寛永14)の天草・島原地域で発生した一揆」という説明があれば「天草・島原一揆」でも十分通用するはずです。質問者様の言われるように、所詮、通例で用いられる用語ですから。 でも、日本史受験などの試験の場合は、落とすためのものなので、教科書に沿った用語で答えないと×になる可能性が高いですね。 ただ、知識を問うためのテストなら、採点者の無知を呪うしかないですが・・・・

mickey_mouse123
質問者

お礼

そうなんです。中一の期末考査です。一度 ○ だったに × にされました。教科書のとおりの用語でなくてはいけないのですね。

  • charpon
  • ベストアンサー率75% (9/12)
回答No.3

呼び方に誤りはなく、また基本的に一貫性はないのではないでしょうか。 「島原の乱」の呼び方は、他にも「天草一揆」「天草の乱」「島原一揆」「島原・天草一揆」様々です。 これらの呼び方は歴史学術用語であり、歴史学者が、 1637年(寛永14)10月下旬から翌年2月下旬にかけて、九州の島原半島南部と天草諸島のキリシタン農民が主体となり、キリシタン信仰の復活、租税の重圧からの解放を意図して、幕藩権力に抗戦した一揆。(『日本大百科全書』引用) について、指した用語なので、いろいろな呼び方があるのだと思います。 例えば、一揆専門の研究者が辞書を書けば、「一揆」としますし、政治専門の研究者なら、辞書に「乱」と書くかもしれないのです。 教科書の場合は「島原の乱」で、ほぼ統一されているみたいですが・・・・ 所詮、歴史用語は歴史事実を研究者の間で、共通に認識できれば良いものなので、用語の統一はなかなか難しいと思います。 歴史的史料の中で大きな歴史的反乱や一揆などについて、普通「今度之大事(この度の大事)」や「此度の騒動」などの様に現在の呼び方は出てきませんので、各研究者が歴史的な事実と実態を調べて、各人の基準・規則性によっていろいろな呼び方をしているのが現状です。もちろん、学界で常識となり、統一されて用いられる用語もあるとは思います。 >島原の乱は 「島原・天草一揆」や「天草・島原の乱」と呼ばれてますが「天草・島原一揆」や「島原・天草の乱」という表記は誤りなのでしょうか? つまり、表記の誤りではなく、歴史用語については辞書や年表を編著した研究者によって、表記は異なってくるものだと思った方がよいでしょう。

mickey_mouse123
質問者

お礼

ありがとうございました。「天草・島原一揆」の解答が × だったので、地名の並列表記に規則があるのかと疑問に思いました。慣例でそう呼ばれているに過ぎないんですね。

  • rey-aw
  • ベストアンサー率19% (6/31)
回答No.2

「島原・天草一揆」は、一揆の起きた場所。 乱は、内乱を意味しますから、 乱のおきた国をさします。 または、戦争の「名前」を入れます。 一貫性は無いですが、規則性はあります。 大塩平八郎の乱と、応仁の乱は、 武力衝突があった。 何々の変は、暗殺があります。 役なら、戦争です。 島原全土が一揆を起こしてはいない。 一揆に乱の名前を付ける程規模が大きく、 また、この事から、 戦争などが少なく、他は平穏であったと、 「島原・天草一揆」や「天草・島原の乱」 この表記から、歴史が推測出来ます。

mickey_mouse123
質問者

お礼

ありがとうございます。 一揆 乱 変 の違いがよくわかりました。

回答No.1

誤りではないんじゃないですか? でも日本史って同じ出来事なのに言い方が違うって事がいくつかありますよね。 蛤御門の変=禁門の変 禁門の政変=7月17日の(政)変 etc 何故なんでしょう?

mickey_mouse123
質問者

お礼

ありがとうございます。誤りの根拠が慣例に習うと云うことなのですね。研究者の恣意性に左右されるのでいやはや学習者は大変です。

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