tumaritouo の回答履歴

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  • 神様とは

    (1)神様はいるのか?見たことある人はいるのか?人間に姿を見せることはあるのか?神と悪魔に違いはあるのか?個人的にキリスト、ブッタも神では無いと思う。(2)死後の魂、霊界はどうなっている?天国、地獄はあるのか?(3)罪はあるのか?     【依頼事項】(1)(2)(3)について教えて下さい。あらゆる宗教の観点からの意見をお待ちしています。専門家や経験者からの回答をお待ちしています。      【回答の仕方】宗派を述べて下さい。一般人は「一般人」にチェックを入れて回答下さい。宗教用語は分からないので、中学生レベルで理解出来ると内容だと助かります。

  • 仏教入門

    まったく仏教について知識がないのですが、 仏教の教えが分かりやすく書いてある書籍を教えてください。

  • 本当の自分とは?

    最近、「本当の自分」というものに対して悩んでいます。 私は、人間の人格というものが構築される時、基礎になるのは、「親から受け継いだ遺伝的な性格」と「生まれ育った周囲の環境」の二つなのではないか、と考えています。 しかし、そう考えてしまうと人格というのは結局、外部からの影響によって作り出されるもので、どこにも自分自身の意思による「本当の自分、いわばオリジナルの自分」というものが存在しないように思えてしまいます。 「本当の自分」なるものは果たして存在するのでしょうか? そもそも 「本当の自分」とは何なのでしょうか? わかり辛い文章ですいません。

  • 皆さんが思ういい曲を!

    最近、同じ曲ばかり聞いていて少し物足りなく感じてきてしまいましたw そこで、みなさんが思ういい曲を教えてください! ジャンルは、演歌以外だったらなんでもいいです! 邦楽・洋楽もどちらでもいいです! お願いします!

  • 中二病は何故起こるのか? 

    中二病は何故起こるのでしょうか。 漠然とした質問ですが、どなたかご存知の方、こうではないかと意見をお持ちの方がいらっしゃいましたら回答をお待ちしております。

  • 神様って本当にいる!?

    私は、なにかと嫌なことがある度に近くの神社に足を運び、おまいりをしてきます。最近感じたのですが、学校をサボったり、お金の無駄遣いなど自分にとってマイナスの行動をすると、後からその分嫌なことが必ず起こることが分かりました。やはり、神様っているもんなのでしょうか?

  • 直観の分析について

    直観の分析については、どのようなことが行われてますか? ネットで調べても全然ありません。 心理学でなくても、哲学宗教でもいいのです。 仏教の直観智、あたりの話なら知ってはいるのですが。 できれば論理的なものがいいなと思っています。 ご存じの方おられたら教えてください。よろしくお願いします。

  • 仏教の出現と仏陀と人間と神の関係について

    仏教について前にも増して疑問が深まったので質問させていただきたいと思います まず仏教出現の意義というものは分かってきたのですがなぜ日本に仏教は出現したのでしょうか。バラモン教やヒンドゥー教もあったのになぜ聖徳太子は仏教を取り入れたのでしょう?1000年もの時間をかけて伝えたのはなぜでしょう? そしてもう一つは仏陀と人間と神の関係とは明確に言うといったいどのような位置づけになるのでしょうか?

  • 死ぬことの意味、生きてることの意味を教えて下さい。

    凄く毎日がんばって生きていて、みんなに優しくて悪口とか全然言わない人が病魔に襲われて死んでしまう人がいる中、凶悪犯とかのさばって生きてる人もいる… 良い事も悪い事も結局どんな形であれ、いつしか自分に返ってくるって言いますが、これが結果?みたいな時があります。 理不尽な世の中なのに、生死の判別でさえ理不尽なのはどうしてなのかって凄く疑問に思うのですが… 生きてるっていう意味も知りたいです。 解答頂けたら幸いです。 よろしくお願いします。

  • 吃音(どもり)は悪化するものなのですか?

    僕は、中学の時に吃音を自覚したのですがそんなにひどくなかったです 高校、大学に進むにつれてどんどん悪化しています。 今までスラスラ言えた言葉も詰まって言いにくくなっています。 それまでは吃音も個性だと思ってましたが今ではそういえるレベルではないほど悪化してますし、久しぶりにあった中学校の同級生に会うと 吃りが悪化したねとよく言われます。 吃音は、ほっておくと悪化するのですか? 吃音の訓練をしても治らなかったという人もいますが 仮に治らなかったにせよ、ましには(中学生の時くらいまでに戻す)なって欲しいです。

  • 般若心経は間違った経典

    日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老の著書に「般若心経は間違い」があります。特に「空即是色」この言葉の扱いについての指摘が印象に残りますが、般若心経肯定派は、この意見に対してどういう反論がありますか? 色即是空、これは上座部仏教でも言われることで経典にも根拠を求められるそうですが、空即是色、これが事実無根の創作だろうということです。 いろいろな角度からのご意見お待ちしてます。 返事は遅れると思いますが、どうぞ宜しく。

  • 無意識と‘「記憶を司る脳領域」の作用’との違い?

    記憶を司る脳の領域として海馬領域と呼ばれてるところがあるようですが、その海馬領域での記憶の出入りの具合と意識の関係をいろいろ吟味するということなら解りますが、 意識の世界に対して‘意識の無い世界とか意識以前の世界とか意識の下層にある意識とかいう表現で 意識とはその氷山のほんの海面上の一角にすぎない。’ という表現は脳の持つ可能性を示す表現だとしても、かなり曖昧であり、むしろ不必要な表現に思われてならないのですが、どうなのでしょうか? 潜在意識という言葉も、この無意識という言葉を前提としているわけですが、その潜在意識の可能性ということにしても、「記憶というものの活用しだいでの広大な可能性」というふうに考えないと、かなり抽象的な幻想がまかりとおってしまうような気がしてならないのですが? それとも、意識とは別ななにかが脳の作用の中に何か存在しているという考えが何かあるのでしょうか? 無意識という言葉自体 何か変なのですが? 下意識でも別な点で同じく変ですが、 へたな曖昧な表現とやはり考えるべきところなのでしょうか? わたしは、 なんというか、ともかく厳しい状況下にてあまり本とか読んでこれなかった者です。  でも、いろいろ一生懸命考えて生きてきて、この情報化社会にこんな大切な点が曖昧であっていいのだろうか?と思えてきてしまうのですが、 これはやはり、無知による早とちりの面もさすがにいなめませんし、かといってほんとに単純に海馬領域の出入りの作用として 単純であるがゆえにこそ力のある 深い経験の何らかの脳科学的な検証や、その他の実験がされたものがどのように海馬領域と関わるのかの実験のための哲学が今大きなちからになるのではと これは本気でそう思えるので、ここに質問させていだだきました。 哲学だけでなく心理学や生物学に詳しいかたの回答とかも必要とする質問でしょうが、 まずは哲学からは、私のこの質問はどうとらえられるものなのでしょう。  この疑問を提唱された方は、過去の思索家とかの中におられますか?  その参考文献とかありますでしょうか?

  • 神とは何ですか?

    902さんの質問「神は死んだ。」のなかで神の定義が話題になっています。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=75125 「神を信じますか」という問いは、よくもちだされますが、問う人も 問われる人も、神という言葉の意味・定義・解釈・語感が、まったく まちまちであるという感想を昔から持っていました。 皆さん、神とは何だと思われますか。 学問的な答え、個人的な考え、もちろん宗教的な教えも、 なんでもいいです。いろいろ聞かせてください。

  • 無意識と‘「記憶を司る脳領域」の作用’との違い?

    記憶を司る脳の領域として海馬領域と呼ばれてるところがあるようですが、その海馬領域での記憶の出入りの具合と意識の関係をいろいろ吟味するということなら解りますが、 意識の世界に対して‘意識の無い世界とか意識以前の世界とか意識の下層にある意識とかいう表現で 意識とはその氷山のほんの海面上の一角にすぎない。’ という表現は脳の持つ可能性を示す表現だとしても、かなり曖昧であり、むしろ不必要な表現に思われてならないのですが、どうなのでしょうか? 潜在意識という言葉も、この無意識という言葉を前提としているわけですが、その潜在意識の可能性ということにしても、「記憶というものの活用しだいでの広大な可能性」というふうに考えないと、かなり抽象的な幻想がまかりとおってしまうような気がしてならないのですが? それとも、意識とは別ななにかが脳の作用の中に何か存在しているという考えが何かあるのでしょうか? 無意識という言葉自体 何か変なのですが? 下意識でも別な点で同じく変ですが、 へたな曖昧な表現とやはり考えるべきところなのでしょうか? わたしは、 なんというか、ともかく厳しい状況下にてあまり本とか読んでこれなかった者です。  でも、いろいろ一生懸命考えて生きてきて、この情報化社会にこんな大切な点が曖昧であっていいのだろうか?と思えてきてしまうのですが、 これはやはり、無知による早とちりの面もさすがにいなめませんし、かといってほんとに単純に海馬領域の出入りの作用として 単純であるがゆえにこそ力のある 深い経験の何らかの脳科学的な検証や、その他の実験がされたものがどのように海馬領域と関わるのかの実験のための哲学が今大きなちからになるのではと これは本気でそう思えるので、ここに質問させていだだきました。 哲学だけでなく心理学や生物学に詳しいかたの回答とかも必要とする質問でしょうが、 まずは哲学からは、私のこの質問はどうとらえられるものなのでしょう。  この疑問を提唱された方は、過去の思索家とかの中におられますか?  その参考文献とかありますでしょうか?

  • それでもなぜ人と関わるのか

    哲学カテゴリーじゃないかもしれないですが・・・ ちなみに私は20代男です。少し長い文であることを断っておきます。 家族の愛だとか、友情の素晴らしさとか、相手の為の自己犠牲とか、そういった理念(理想が)が数十年前と比べて無効になった印象を受けます。いわゆる身勝手な人間への説教としてこういう理想を持ち出しても一笑に付されるだけです。 社会学系統の本を読んでいると、社会構造の変化(家族や社会の役割が以前とは違う)が「理念の死」の原因の一つであり、また戦後から現在の間に自然科学が大きく発展し生命や感情の相対化を推し進め、それらの神秘性が薄められていることも大きいと思います。(行動学、脳科学などなど) もはや、観念的な態度(日本人のわかり合いの精神だとか)で人間関係を考えることは許されず、戦略的なシャレ(本心ではない行動)の言動を積み重ねて生きていくしかないのかななんて感じてしまいます。理念的な事を声高に直接説けば痛い人と看做され、緻密に積み重ねられた方便を経ないとだめです。(無駄話の中にそれとなしに紛れ込ませるとか)そして、そういう間接的に説かれる理念も、周りを害している場合が多分にあったりするのです。 きっと、理念や理想を通じて人が社会と関わるあり方は、主流ではなくなりました。本質的には人間は自己満足のために利己的に生きているのかもしれません。 さて、ここで疑問があります。 それでも、人は互いに関わり合います。なぜか。 この理由として、それも感情的な安全の為や実質的な利害を考えて動くからだという説明があるのですが、この説明が完全ではないと思える時が多々あります。 @利己的な人がバッシングされるとき。(お前は利己的だ、というとき当り前のことを言っているだけなのに) @誰かと「楽しさ」の共有をしている時に、感情的な安全、利害以上のものをも共有している場合がある。自分の損得を見失っている。また、自分が(名誉のためなどではなく)犠牲になって誰かに貢献する場合。 @そして、人間関係を虚無的にとらえる人がおそらくは主流になってはいないこと。評価されたり、もてはやされないこと。(プライベートな人間関係をシャレとして捉えている人は少ない) ここで改めて、どうして人は人と関わるのか、という疑問が湧いてきます。 このような問題に取り組んでいる文献をご存じであればそれも付記してください。

  • それでもなぜ人と関わるのか

    哲学カテゴリーじゃないかもしれないですが・・・ ちなみに私は20代男です。少し長い文であることを断っておきます。 家族の愛だとか、友情の素晴らしさとか、相手の為の自己犠牲とか、そういった理念(理想が)が数十年前と比べて無効になった印象を受けます。いわゆる身勝手な人間への説教としてこういう理想を持ち出しても一笑に付されるだけです。 社会学系統の本を読んでいると、社会構造の変化(家族や社会の役割が以前とは違う)が「理念の死」の原因の一つであり、また戦後から現在の間に自然科学が大きく発展し生命や感情の相対化を推し進め、それらの神秘性が薄められていることも大きいと思います。(行動学、脳科学などなど) もはや、観念的な態度(日本人のわかり合いの精神だとか)で人間関係を考えることは許されず、戦略的なシャレ(本心ではない行動)の言動を積み重ねて生きていくしかないのかななんて感じてしまいます。理念的な事を声高に直接説けば痛い人と看做され、緻密に積み重ねられた方便を経ないとだめです。(無駄話の中にそれとなしに紛れ込ませるとか)そして、そういう間接的に説かれる理念も、周りを害している場合が多分にあったりするのです。 きっと、理念や理想を通じて人が社会と関わるあり方は、主流ではなくなりました。本質的には人間は自己満足のために利己的に生きているのかもしれません。 さて、ここで疑問があります。 それでも、人は互いに関わり合います。なぜか。 この理由として、それも感情的な安全の為や実質的な利害を考えて動くからだという説明があるのですが、この説明が完全ではないと思える時が多々あります。 @利己的な人がバッシングされるとき。(お前は利己的だ、というとき当り前のことを言っているだけなのに) @誰かと「楽しさ」の共有をしている時に、感情的な安全、利害以上のものをも共有している場合がある。自分の損得を見失っている。また、自分が(名誉のためなどではなく)犠牲になって誰かに貢献する場合。 @そして、人間関係を虚無的にとらえる人がおそらくは主流になってはいないこと。評価されたり、もてはやされないこと。(プライベートな人間関係をシャレとして捉えている人は少ない) ここで改めて、どうして人は人と関わるのか、という疑問が湧いてきます。 このような問題に取り組んでいる文献をご存じであればそれも付記してください。

  • 無意識と‘「記憶を司る脳領域」の作用’との違い?

    記憶を司る脳の領域として海馬領域と呼ばれてるところがあるようですが、その海馬領域での記憶の出入りの具合と意識の関係をいろいろ吟味するということなら解りますが、 意識の世界に対して‘意識の無い世界とか意識以前の世界とか意識の下層にある意識とかいう表現で 意識とはその氷山のほんの海面上の一角にすぎない。’ という表現は脳の持つ可能性を示す表現だとしても、かなり曖昧であり、むしろ不必要な表現に思われてならないのですが、どうなのでしょうか? 潜在意識という言葉も、この無意識という言葉を前提としているわけですが、その潜在意識の可能性ということにしても、「記憶というものの活用しだいでの広大な可能性」というふうに考えないと、かなり抽象的な幻想がまかりとおってしまうような気がしてならないのですが? それとも、意識とは別ななにかが脳の作用の中に何か存在しているという考えが何かあるのでしょうか? 無意識という言葉自体 何か変なのですが? 下意識でも別な点で同じく変ですが、 へたな曖昧な表現とやはり考えるべきところなのでしょうか? わたしは、 なんというか、ともかく厳しい状況下にてあまり本とか読んでこれなかった者です。  でも、いろいろ一生懸命考えて生きてきて、この情報化社会にこんな大切な点が曖昧であっていいのだろうか?と思えてきてしまうのですが、 これはやはり、無知による早とちりの面もさすがにいなめませんし、かといってほんとに単純に海馬領域の出入りの作用として 単純であるがゆえにこそ力のある 深い経験の何らかの脳科学的な検証や、その他の実験がされたものがどのように海馬領域と関わるのかの実験のための哲学が今大きなちからになるのではと これは本気でそう思えるので、ここに質問させていだだきました。 哲学だけでなく心理学や生物学に詳しいかたの回答とかも必要とする質問でしょうが、 まずは哲学からは、私のこの質問はどうとらえられるものなのでしょう。  この疑問を提唱された方は、過去の思索家とかの中におられますか?  その参考文献とかありますでしょうか?

  • 誰も助けてくれません(泣)わたしはどうしたら?

    いろいろなことが重なり悩んでいます。 わたしはもうすぐ40歳になる既婚女性。 フルタイムで勤めており、まだ子供はいません。 今年の3月に夫がいきなり仕事を辞めてしまい現在無職です。 失業保険ももう切れますが貯蓄はありません。 現在は賃貸のアパートに住んでいます。 わたしはできれば早く夫の仕事が決まって、 普通の生活が送れるようになるのが希望です。 結婚自体が遅かったので、そろそろ子供も欲しいと思っています。 夫は当初、失業保険を貰っていたほうが得だからと 就職活動をしていませんでした。 しかしそろそろ失業保険が切れる頃になり、意欲的に就職活動を行った頃には何十社からも断られ面接さえもしてもらえない状態です。 当初は夫が洗濯・掃除などもしてくれましたが、 現在では昼過ぎまで寝ておりネットやテレビ三昧。 わたしが帰宅する頃、叱られないように慌てて掃除をしていました。 元々夫の物が散乱し自宅はきれいな状態ではありませんでしたが あまりにも家が酷いため全てわたしがすることにしました。 朝起きて掃除・洗濯、朝食を食べゴミを持って出勤。 くたくたになって帰ってくると、もう家はぐちゃぐちゃです。 夕食後、お風呂掃除をして入浴。 本当は先に夫に入ってもらい、わたしが最後に入れば 入浴後浴室掃除もでき効率が良いのですが、 夫は後で入ると言うため、結局私が浴室の掃除をするハメになります。 それでも調理は好きなようで、夫が夕食を作ってるので助かります。 しかしこれから先の生活を考えると不安になってきました。 夫にこれからのことを話し合いたいと伝えたところ 「お前はそうやって俺にプレッシャーをかけたり攻めたりする!」 といい、全く話し合ってくれません。 わたしの月給だけではこの先やっていけないのです。 夫の実家に相談したのですが、 「だいたい子供がいないから○○(夫の名前)がこんなになるんだ。」 と叱られてしまいました。 実はわたしは数ヶ月前交通事故に巻き込まれ怪我をしたのですが 職場の上司が「人が足りないから困る!」と休みをくれませんでした。 生活がかかっていなければ即辞めたかったのですが、 現実辞めることができないため我慢して働いていました。 それでわたしの身体が元に戻るまで少しの期間だけでも 夫を実家に住まわせて貰えないかと相談してみたんです。 でも「○○(夫)がこんなふうになったのは貴方ががいたらないから」と 断られてしまいました。 わたしはまだ夫とやっていこうという気持ちはあるのですが、 私の兄弟や両親からは”ちょっと普通じゃない”と言われます。 失業保険を貰ったほうが得だから働かないという感覚と、 転勤がいやだという退職理由。 夫は頑張って働いたら年収が1000万円貰える会社より、 年収は安くていいから楽な仕事がしたいそうです。 自分が楽することばかりで、妻や子供のことなど考えないのではとのこと。 友達も”離婚とか考えないのが不思議だ”と言います。 第三者から見て、夫はそんなに酷いですか? わたしは現在の勤め先がとても忙しく大変で 自分自身のことで精一杯なため、夫のことまで気が回らない状態です。 更に精神的にも体力的にもくたくたで感覚が麻痺しているのかもしれません。 こんな夫と一緒にいるのは将来的によくないでしょうか? 幸せにはなれませんか? ツライのに誰も助けてくれません。 夫が変わってくれるには、 わたしはどう接していけばいいのでしょうか? こんな状態のわたしに何でも結構です。 アドバイスや助言などありましたらどんどん言ってください。 よろしくお願いいたします。

  • 自分の存在

    皆さん始めまして。風梨と申します。 少し長くなってしまうかもしれませんが、どうか聞いてください。 私は高1なのですが、中2の時から今の今までずっと同じことで悩み続けています。(いつまでも解決しないというのも悩みの種です) 中2の時に林間学校に行ったのですが、そのとき突然『自分が自分である』ということに気がついて、なんというかまるで夢を見ているような気持ちになったんです。まるで今までとは別世界のような。そのとき以来色々なことを考えるようになって、うまくいえないのですが、自分だけ孤立しているような気分で、本当に自分は存在しているのか?と思ってしまうんです。頭では分かっているのですが、景色がちがく見えてしまって、それ以来遠くへ行くのが怖くなってしまいました。そのせいで、あまり積極的になれなくなってしまったんです。 そのことを考えるようになって以来、常に自分を意識するようになってしまったんです。笑ってるときも、友達といるときも、何をしているときも自分で自分を監視しているみたいに、、それがすごく怖いんです。他の掲示板にも書き込みをして、相談をしてみたら、精神科にいったほうがいいんじゃないかと進められて、余計に不安になってしまいました。私は病気なんでしょうか?私も、最近はどこかからだが悪いんじゃないかと疑ってしまいます。 たまにすごく何かに集中していて、忘れることもあるのですが、すぐに思い出してしまいます。 実は私は今高3で、上の文は高1の時にある掲示板で投稿したものです。 そのときこのことが哲学的なことに関係すると教えていただきました。 当時よりは冷静に考えられるようになった気もしますが、最近また孤独の中でさまよっています。この感覚を一度覚えるとドキドキがとまらなくなって、どうにかなってしまいそうになります。もう何年も自分の状況の説明の仕方を考えてきました。今私は受験生でそれどころではないのに、このことを考えると何も手につかなくなります。考えるというよりかは感覚的なことだと思うのですが・・・今は将来のことがすごく不安です。 いつかは自立しなければいけない、働かなきゃいけない、それなのにこんな状態じゃ普通の生活もできない気がするんです。 同じような感覚になったことがある方、現在そうである方、アドバイスや共感意見をお願いします。 最後まで読んでくださった方ありがとうございました。

  • 《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)

    仏教についてです。  はじめ釈迦は 世間に対する無常観として無我( anaatman )を説いたが この無我説を知り実践する主体として 涅槃を現わす如来我(仏性)を説くことになると聞きました。 →無我=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91 (1)梵我一如を ヒンドゥーイスムから けっきょく 継承したということですか。あるいは ブラフマン(梵)ともアートマンとしての我とも 仏教は違うというべきなのでしょうか。それでも 宇宙との合一といったことは説くということでしょうか。 (2)涅槃としての如来我は 自己到来・自己還帰(わたしがわたしである)や自己実現(わたしがわたしする)といった言葉で表現すると 間違いですか。 (3)梵我一如を〔仮りにですが〕含めて 仏性の顕現としてのブッダの智慧は わたしが 人間の能力によって 実現するのですか。わたし以外の力と働きが必要不可欠ですか。両方が必要だとしても 両方は互いに 対等な力ですか。 中で(3)は これまでにも問うてきましたが あらためて おしえを乞うものです。 もし答えられないとなれば 残念ながら 仏教について 人は 何にも分かっていないと受け取らざるを得ません。そもそも 仏教じたいが あいまいな内容であるのかというそのあたりまで 議論は進むと思います。 このような出で立ちですが よろしくお願い致します。