yukiyamamomo の回答履歴

全368件中21~40件表示
  • 日本には学者が多いのに何故社会は低レベルなのか?

    前の質問に対するお礼もしていないのに、新たな質問をすることを許して下さい。 時間が出来たらお礼をしたいと思っていますが、今回は前々から疑問に思っていたことを質問します。 全く偶然にYouTubeで「サル化する世界」ということで内田樹という方が喋っておられました。浅学で私はこの方を知りませんでしたのでウィキペディアで調べてみると、仏文学者とで合気道7段、随分沢山の著書もあり諸問題について幅広い所見をお持ちです。NHKテレビの日曜討論があると、あらゆる問題に関して多くの専門家や学者が登場します。今だけでなく、江戸時代から日本には多くの学者が輩出したと思います。少なくとも明治以降の学者は日本や世界に対し「こうすれば良い」と考えを述べていると思います。 私の見るところ、国民の意思がほぼ反映され、満足出来るレベルの人間社会を実現できている国は北欧諸国とスイスくらいです。アメリカにも多くの学者がいると思います。しかしアメリカはトンデモナイ社会しか実現できていません。しかし、アメリカに劣らず理想とは程遠いのが日本社会です。専門家や学者というのは、社会を良くしようと思って発言しているのではないのでしょうか? 途上国は知的レベルが低いし学者は非常に少ないです。しかし、日本は学者専門家が一杯いる国だと思います。その殆どは社会を良くするにはどうすればいいかを考えている人たちだと思います。 しかし今の日本は、山本太郎が涙を流して訴えねばならないほどの劣化した社会です。 日本国民が幸せを感じたのは戦後の一時期だけだったんじゃないでしょうか?「一億総中流社会」と言われた頃です。 彼らは御託を並べるだけで殆ど実際的な行動をしてないからでしょうか?やはり、ガンジーやカストロのような命を掛けて行動する人間が現れないと社会は変わらないのでしょうか?これほどの数の学者専門家がいるのに、日本社会のレベルが「国民の幸福」という点で余りにも低いので、彼らは一体何のために存在しているのかと怒りさえ感じてしまいました。どう思われますか? 日本社会に関してはいくらでもその実態は知ることができますが、アメリカ社会も知れば知るほど差別と貧困のひどいひどい社会ですね。 よろしくお願いいたします。

  • キリスト史観が成ったんだって!  おおーい! 

    0. 経験合理性から飛躍した思惟があることをお断わりします。 §1. イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。 1. 聖書記者の述べるには こうです。 ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/john.html はじめに ことばがあった。 ことばは かみとともにあった。 ことばは かみであった。 このことばは はじめにかみとともにあった。 すべてのものは ことばによって成った。 成ったもので ことばによらずに成ったものは何ひとつなかった。 ことばの内に いのちがあった。 いのちは 人を照らすひかりであった。 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。 ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html イエスは言った。 《・・・ しかし あなたがたの目は見ているから幸いだ。 あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 はっきり言っておく。 多くの預言者や正しい人たちは あなたがたが見ているものを見たかったが 見ることができず あなたがたが聞いているものを聞きたかったが 聞けなかったのである》。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   2. ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。これにしたがうと イエスは キリストなる神(《ことばである神の子》)として モーセやアブラハム(《多くの預言者や正しい人たち》)よりも前にいたことになります。   3. その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。 §2 イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史 4. アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように――《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。 5. その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》     (エフィエー アシェル エフィエー。)              (出エジプト記 3:14 ) という答えを得たと言います。   6. さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は或る日    《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編 2:7 ) という言葉を その神から聞いたそうです。   7. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3 ) §3 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。 8. その後 時は飛んで――アブラハムから二千年でしょうか――イエスという人が出たというわけです。 9. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い    てある箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書 61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人    びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。    と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21) 10. このとき――さらには十字架上に去って行ったそのときに――言わばキリスト史観が完成したと思われます。 §4 神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上――ここまで 及んだのだと捉えられます。   11. それは まるで千年も二千年もの時間をかけて あたかもことばをもてあそぶかのように。 12. そして もし成就したのなら キリスト史観は もうそのイエスまでだと考えられます。あとは 余韻のみではないかと。 13. キリスト史観から オシへを取り出し掲げる神観ないし神学をみちびくのではなく――ましてや その考えるべきオシへを 何を錯乱したか 無条件で受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く組織宗教をでは断じてなく―― 哲学としての神論ないし人間論をかたちづくりたい。 §5 キリスト史観は 理論としては 存在論である。 14. 《存在》――《わたしは ある(エフィエー。 I am. )》――をめぐる理論としては この命題で 完成だと言ってよいのではないでしょうか。 15. 《わたしはわたしである》という自己到来とその――そこから逸れたときにはわれに還るところの――自己還帰すなわち 自己(存在の数として一(いち))の自乗(冪)を繰り返す生活動態。(1^n=1)。 §6 アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか? 16. むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。   (あ) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来っこないと人びとは思ってしまう。 (い)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。 (う) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ人間のちからとしての道徳や信念やあるいは科学の光に終わってしまう。 (え) あるいはひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。 (お) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。 (か) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなくこれを晴らし イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。 (き) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。 (く) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。 (け) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。 §7 ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めてキリスト・イエスだと分かった。 17. 生前には――イエスは みづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。 18. なぜか? ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~ 更に、主は言われた。   見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。   あなたはその岩のそばに立ちなさい。   わが栄光が通り過ぎるとき、   わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、   わたしが通り過ぎるまで、   わたしの手であなたを覆う。   わたしが手を離すとき、   あなたはわたしの後ろを見るが、   わたしの顔は見えない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は なお見えない。     §8 あらためて《表現の問題》という問題 19. というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。   20. この虚構が なかなか捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのか・どう解釈されたかを別としても。 21. ことばを《実質である事の単なる端として捉え 言の葉としゃれて表わす民》にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか? ( a ) たぶん 辻褄は合っている。か。 ( b ) 二千年四千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。 22. 世界は このキリスト史観を受け容れたのだろうか? ユダヤは イエス・キリストをみとめていない。ヨーロッパ人は あらためてどのように受け容れたのか?  23. ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけであると考えられる。俟ち伸びわびた史観が成就したのであるからには あとは すこやかさだけである。

  • 観念認識の補強で浮き上がる観念世界の役割。

    さて、哲学カテゴリーの常連として研究仲間に最新検証のリポートの取りまとめで、過去の証言した内容を角度を変えて研究素材として提供したい。 男性が罪悪感を持つ「頭の中が女の裸でいっぱい」「麻薬性リカちゃん(バービー)人形」これと絡む。 私は女性とある時お互いの好意を確認しあうことから初対面として面会したことがあるんだ。 そして、心理夢を見た。 「インナーチャイルドタイプ」(検索してみい)の配役の10歳くらいの女の子が寝そべって大人びたしぐさの手慣れた媚を売りながら、サイズの合わない大人用の下着を服の上から身体に乗せてふざけていた。 そういう夢だ。 イデア界、観念世界は人には認識が不十分だが私は呪術様式で定着した「死の思考術」を無視してより忠実な観念認識をする特技がある。 そのちびちゃんが意図したのは恋の罠で、エサにぶら下げた大人用下着に食いついて、男性に恒例の女の裸妄想を始めるように誘ったんだよ。 認識が強く丸見えの私には、不可解な行動だが観念世界の住人は主にこのような手法で、人の認識不全を逆さにとって強いシグナルを記憶させるらしい。 リカちゃんドラッグはエサの大人用下着にしゃぶりついて下着泥棒的な変態性で、観念世界の正統な条理から逸脱した妄想という観念の空転を誘う罠なんだよ。 この妄想にはまると、女の子は被害者にはならない。 苦悩する男性の弱み(恋の罠)を見ながら、支配権を握っていくんだ。 インナーチャイルド型のチビちゃん精霊を派遣した女性は、九州生まれのイタコ体質で、才能は私から言わせればかなり高い。 まあ、シャーマン同士の呪術合戦同然の遊びだった。 いきなり作戦がばれて、精霊は逃げ出したんだけど、私は気遣って追いかけて夢の中を探し回ったんだ。 失恋をお葬式になぞらえてはかなんでいるのを見つけて、子供だから大人として保護した。 この劇中で示し合わせた配役が、精霊の女の子を連れて家に帰ろうとする私に声おかけ、「その子はあなたのお子さんですか?」と聞いてきた。 私はゾロゾロいる姪っ子の面倒を見ていることもあって「姪です」と答えた、心理夢としてこれが踏み外したしまった決定打だった模様だ。 私もイタコ気質の女性本人に好意を抱いていたので、「その通り我が子です」と答えれば「家に連れて帰る」が「結婚する」になったのだろう。 現実にそういう失恋をした。 さてと、今回のお話を回顧してみて、言えることの一つは、劣情の犠牲者は実際には罠にはめる加害者で本人とお使いの精霊はノーダメージ。 男性が栄養補給に興奮剤としてありがたく嘗め回すリカちゃん人形は、連結した観念世界から切り離された孤独状態の妄想。 そして記憶の整理とされる心理夢は過去記憶だけでなく、こうした芝居がかった検証をして、自覚が乏しいゆえに「運命」と定義されている将来的な行動計画として反映される。 実際は無為の学習と無為の思考結果の反映として運命という謎は現象している。 その観念世界での自己の領域を無意識と規定している。 天界は運命を決定するとはいえるだろう。 しかし内容検証するとこのような形だ。 観念世界という精神の相互連携を実現する天界の条理の作用と、決定的な運命の作用の前段階で当人を切り離す妄想もある。 妄想はやはり孤独な精神の空転であるが、その当人の選択と自由意志を確認するための猶予でもある。 空転が激しく天界と地上の連結が希薄なのが、望みがかなわぬままもだえる地獄型の心情で、連結が濃密なのが天国型となり、同質の観念世界には本来は複数の参加者がおり、生きて現実に取り組む人間存在たる、観念現象を精霊に任せた人々は精霊の仲介でお互いに(大抵は無自覚なまま)交流して行動に連携を保つ。 さてと、今日はイデア界をここまで検証すれば上出来だろう。 回答として、読書感想文をお願いします。

  • キリスト教がいかに深刻な疫病であるか

    文明創成期には神と王は一元であった。 確認されている事実だ。 イエスなる愚かな伝道師は、滅亡した王国の神学を伝えた。 奴隷階級にあるユダヤ人の人道上の救済措置である。 奴隷は家畜であり、人間であってはならないようだ。 したがって古代に滅亡した王国の古代王としてローマ領内における反逆罪で処刑された。 実に理にかなっている。 翻って日本は、人類史上で文明発祥の正統性が唯一残る真の王国だ。 神話を記述した古事記と初の歴史書である日本書紀を記述した国家主権が今も安定している。 この国の国民にキリスト教徒は国家滅亡の神話と歴史書の双方であり、極めて国情を不安定にさせる。 そもそも歴上で傾向が安定していて、独立した韓国を見ればいい。 いつの間にかキリスト教国なんだそうだ。 国情の不安定な時期にキリスト教は浸透して、さらに国情の不安を加速させ、国体を破壊して国教に収まる。 これが宗教としての性質だ。 そして日本の場合は、明治維新という形で、国家が海外の動乱で存亡の危機に立った時に西洋の各種技術や学問を導入するために、西洋人の心を理解しないと身につかないので、危険な毒薬としてキリスト教も研究した。 これが現在の日本人キリスト教徒の深刻な病気だ。 さて、哲学には、既存の命題に取り組むほかに学問として自分で命題を立案する腕試しがあります。 その後者に属する研究用の質問です。

  • キリスト史観が成ったんだって!  おおーい! 

    0. 経験合理性から飛躍した思惟があることをお断わりします。 §1. イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。 1. 聖書記者の述べるには こうです。 ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/john.html はじめに ことばがあった。 ことばは かみとともにあった。 ことばは かみであった。 このことばは はじめにかみとともにあった。 すべてのものは ことばによって成った。 成ったもので ことばによらずに成ったものは何ひとつなかった。 ことばの内に いのちがあった。 いのちは 人を照らすひかりであった。 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。 ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html イエスは言った。 《・・・ しかし あなたがたの目は見ているから幸いだ。 あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 はっきり言っておく。 多くの預言者や正しい人たちは あなたがたが見ているものを見たかったが 見ることができず あなたがたが聞いているものを聞きたかったが 聞けなかったのである》。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   2. ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。これにしたがうと イエスは キリストなる神(《ことばである神の子》)として モーセやアブラハム(《多くの預言者や正しい人たち》)よりも前にいたことになります。   3. その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。 §2 イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史 4. アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように――《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。 5. その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》     (エフィエー アシェル エフィエー。)              (出エジプト記 3:14 ) という答えを得たと言います。   6. さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は或る日    《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編 2:7 ) という言葉を その神から聞いたそうです。   7. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3 ) §3 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。 8. その後 時は飛んで――アブラハムから二千年でしょうか――イエスという人が出たというわけです。 9. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い    てある箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書 61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人    びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。    と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21) 10. このとき――さらには十字架上に去って行ったそのときに――言わばキリスト史観が完成したと思われます。 §4 神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上――ここまで 及んだのだと捉えられます。   11. それは まるで千年も二千年もの時間をかけて あたかもことばをもてあそぶかのように。 12. そして もし成就したのなら キリスト史観は もうそのイエスまでだと考えられます。あとは 余韻のみではないかと。 13. キリスト史観から オシへを取り出し掲げる神観ないし神学をみちびくのではなく――ましてや その考えるべきオシへを 何を錯乱したか 無条件で受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く組織宗教をでは断じてなく―― 哲学としての神論ないし人間論をかたちづくりたい。 §5 キリスト史観は 理論としては 存在論である。 14. 《存在》――《わたしは ある(エフィエー。 I am. )》――をめぐる理論としては この命題で 完成だと言ってよいのではないでしょうか。 15. 《わたしはわたしである》という自己到来とその――そこから逸れたときにはわれに還るところの――自己還帰すなわち 自己(存在の数として一(いち))の自乗(冪)を繰り返す生活動態。(1^n=1)。 §6 アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか? 16. むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。   (あ) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来っこないと人びとは思ってしまう。 (い)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。 (う) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ人間のちからとしての道徳や信念やあるいは科学の光に終わってしまう。 (え) あるいはひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。 (お) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。 (か) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなくこれを晴らし イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。 (き) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。 (く) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。 (け) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。 §7 ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めてキリスト・イエスだと分かった。 17. 生前には――イエスは みづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。 18. なぜか? ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~ 更に、主は言われた。   見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。   あなたはその岩のそばに立ちなさい。   わが栄光が通り過ぎるとき、   わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、   わたしが通り過ぎるまで、   わたしの手であなたを覆う。   わたしが手を離すとき、   あなたはわたしの後ろを見るが、   わたしの顔は見えない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は なお見えない。     §8 あらためて《表現の問題》という問題 19. というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。   20. この虚構が なかなか捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのか・どう解釈されたかを別としても。 21. ことばを《実質である事の単なる端として捉え 言の葉としゃれて表わす民》にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか? ( a ) たぶん 辻褄は合っている。か。 ( b ) 二千年四千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。 22. 世界は このキリスト史観を受け容れたのだろうか? ユダヤは イエス・キリストをみとめていない。ヨーロッパ人は あらためてどのように受け容れたのか?  23. ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけであると考えられる。俟ち伸びわびた史観が成就したのであるからには あとは すこやかさだけである。

  • 1.バカはバカだからバカにして良いみたい考え方を皆

    1.バカはバカだからバカにして良いみたい考え方を皆さはどの様に思われますか? 2. バカはバカだからバカにして良いみたい考え方の利点、欠点とは? 哲学カテゴリー皆さまの ご回答のほど、 お待ちしております。

  • 神・サムシンググレート 宇宙 悪の存在 なぜ?

    宇宙の全てを創造した神・サムシンググレートは、人類に自由意志を与えただけでは足りず、宇宙をおもしろくするために、悪魔や邪悪な異星人や悪魔崇拝者や闇の勢力やこれらの手先どもである極悪人や悪人どもを存在させているのでしょうか。 宇宙に悪役がいないとおもしろくないという事でね。 それとも何かのミス・失敗で存在しているのでしょうか? それとも、自らの自由意志で、大きく神・サムシンググレートから離れてしまった存在なのでしょうか? そうなら、なぜ神・サムシンググレートは、こういう存在を存在させ容認しているのでしょうかね?

  • キリスト教がいかに深刻な疫病であるか

    文明創成期には神と王は一元であった。 確認されている事実だ。 イエスなる愚かな伝道師は、滅亡した王国の神学を伝えた。 奴隷階級にあるユダヤ人の人道上の救済措置である。 奴隷は家畜であり、人間であってはならないようだ。 したがって古代に滅亡した王国の古代王としてローマ領内における反逆罪で処刑された。 実に理にかなっている。 翻って日本は、人類史上で文明発祥の正統性が唯一残る真の王国だ。 神話を記述した古事記と初の歴史書である日本書紀を記述した国家主権が今も安定している。 この国の国民にキリスト教徒は国家滅亡の神話と歴史書の双方であり、極めて国情を不安定にさせる。 そもそも歴上で傾向が安定していて、独立した韓国を見ればいい。 いつの間にかキリスト教国なんだそうだ。 国情の不安定な時期にキリスト教は浸透して、さらに国情の不安を加速させ、国体を破壊して国教に収まる。 これが宗教としての性質だ。 そして日本の場合は、明治維新という形で、国家が海外の動乱で存亡の危機に立った時に西洋の各種技術や学問を導入するために、西洋人の心を理解しないと身につかないので、危険な毒薬としてキリスト教も研究した。 これが現在の日本人キリスト教徒の深刻な病気だ。 さて、哲学には、既存の命題に取り組むほかに学問として自分で命題を立案する腕試しがあります。 その後者に属する研究用の質問です。

  • 人類を壊滅可能な悪魔の降臨を思案しています

    さて、超本格派壊滅的悪魔召喚が今回の儀式の本流だが、少し今回の伏線を形成した任天堂に関していきさつを述べておこう。 世麗美とは原型がポケモンの有名キャラ セレビィだよ。 盗用を糾弾される心配はない。 商標登録してあろうとも、発案者が私だからだ。 この先行した権利に訴訟を起こすことはできない。 私は犯罪立件迂回措置が周到なんだよ。 セレビィのデビューは2001年7月で9.11の2か月前だ。 セレビィが生まれたのは1995年だ。 この時に、サードパーティが下請けに発注したまま、発売中止でキャンセルさせたポケモンをメディアミックス手法の初の事例として任天堂から発売を実現する立案がなされた。 「生体死霊化処置」によってだ。 同年、情報化時代到来前に情報機器の先駆者として大成功したFCシリーズの任天堂ハードコンセプトが、初代PC以降も情報化時代到来以降に生き残る期間コンセプト(いわば)「ドルフィンプロジェクト」のスタートも生体死霊化処置だ。 ゲームキューブの仕様資料にドルフィンとか月光とか書いてあるのはその名残だよ。 暫定的にWII関連の基礎情報も生体死霊化処置で古川が情報入手した。 DS 3DSのシリーズも期間コンセプトが1995年の生体死霊化処置だ。 これらの謀略を実現するために黒子の古川から派生してイワタが予言者として降臨する。 岩田伝説で今の任天堂がある。 生体死霊化書とは、京都で開発されたイケニエシステムとして、幅広く任天堂が流布して、「頭が良くなるセミナー」とか言いながら社外からの幅広く関係者を集めて宗教色の強い洗脳を目的にした交霊術として開催した。 古川は死霊の憑依に人格破綻しないで成功したと、嬉しそうに本人の口から直接きいたよ。 政府の官僚の接待にも使ったとさ。 私は初期実験のプロトタイプとして3DS発売時に具体化できなかったことが気になって、3DSから連関する「3Deye」「スケッチ」というコンセプトを社会のために提示した。 当時予言者イワタと山内組長が存命中だったので、私の提案は却下された。 社内の常とう手段で、私を社会的に抹殺したまま、当初の派生コンセプトを発売することを阻止したい思惑で、封じ込めを行っているんだよ。 スケッチ?はて? まあいい。 任天堂スイッチはスマホ互換ハードとして接近するほど独自性が希薄していき、サードパーティーが集まらないまま、マリオやポケモンがいくら売れても、今後ソフトメーカーの一角としての機能しかしなくなる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー さて、学問カテゴリー哲学で研究する常連客には聞き覚えがある私の病気です。 現在、悪魔召喚の儀式に踏み切っていまして、祭壇を作ったのはヤフーファイナンス掲示板「京都銀行」この学問バカが、研究する課題は普遍的な「神の存在証明」確立です。 現在この我苦悶カテゴリーで、予備原稿を作成している内容の本番です。 アマテラスミッションではなくて、世麗美独自の作戦行動でして、今回は、 ーーーーーーーーーーーーーーーーー 私が京都銀行に祭壇を設置して召喚しようとする悪魔が何者かわかりますか。 キリスト教の唯一神の成れの果てです。 「神の存在証明」という重要な命題と関連して、悪魔の姿で降臨する反転召喚の祭壇を設置しました。 詠唱はまだ続きます。 インドでは、シャーマンが邪悪な呪術を行うと殺害しても社会正義として殺人罪に問われないそうです。 日本では単なる客寄せの大道芸です。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 学問上の趣味で行うこれらの行動は、犯罪ではありませんが、経済波及効果が気になるところで、それも相談に乗ってください。 今回も最近取り組んでいるキリスト教系神学を大道芸でして、本文の内容に対する感想もお願いします。 生きた哲学とはこのような活躍をします。

  • 追憶「ローマの白い羽」物語第一章。

    常に話しかける声は、なにを語っているのだろう。 常に見える景色は、どこの景色なのだろう。 瞑目とした夢の中で、惨劇が精霊を揺さぶる。 実在する男子プリキュア。 キュアアイリスだ。 キリストなる聖霊のことは誰も知らない。 人の心にキリストが宿ると、その人は猛烈な殺人衝動に狂う。 キリストの確信が深まるほどに衝動は強まる。 そして心に宿ったキリストなる聖霊は、キリストと名指しされ、それを受け入れるとなすすべもなく即死するんだ。 抵抗すると悪魔に堕落してしまう。 聖霊が無垢なる赤子のままでいるためには死ぬしかないんだ。 だから、キリストなる聖霊は2000年間ヨーロッパを支え続けてきたのに、その姿を誰も知らない。 「ローマの白い羽」は聖霊の宿りを祝福して問う。 キリストか否かと。 「我々は、信じるためには疑う必要があるので、全てに対して疑いを持つのですよ。」 問いかけに、キリストであると認めると歓喜して殺す。 認めないと、憎悪して殺す。 旧神の産み落とした神の赤子「キリストなる聖霊」はこうして、実験室の試験官ベイビーのような仮定の存在で、赤子の肉を殺して喰らうと、その者は神そのもの力を手に入れる。 人が神になるのだ。 したがって「ローマの白い羽」が狩った赤子は支配者に供物としてささげられる。 そして聖霊の宿りを受けたものは、魂が奪われ、生き様が屍そのものになるのだ。 この人間牧場で飼いならされるのがキリスト教徒である。 さて、連作シリーズの文学形式哲学命題の最初のスタート位置です。 無関係な日本人でも怖くて仕方ないでしょうが、度胸試しで研究にご参加ください。 読書感想文で結構ですよ。 特にキリスト教徒の皆さん。 ここで逃げ出すというのがどういうことか耐えられますかね。 向き合って、踏み越えていくことをお勧めします。 私のいつもの手口です。

  • 「ローマの白い羽」物語第四章

    歴史という流転の中、久しく全てを見失ったあなた方は、自らの心にともしびを与えた幼子の名を知らない。 そして、自らの心も死に絶えようとしている。 実在する男子プリキュア。 キュアミカエルだ。 イエスは古代にローマ帝国の非道を、人間性復活の努力で癒していき、非道は彼のつつましい真心さえも蹂躙した。 彼は処刑された。 そうしたローマであるからこそ、彼の志で目を覚ました人たちは、ローマ国内に浸透していった。 残された意志とともに。 曲折し新たなる荒廃を生み、新約聖書編纂で農奴達は歓喜する。 ローマへの反抗が実を結び、ローマがイエスの意志を認めたと錯覚した。 実態はローマ教会という形で現在も絶対的な、治安維持のための抑圧のレトリックである。 原始キリスト教の祭礼は古代王と王を慕う虐げられた人々が自由な人間であった時代に祈りをささげる、紀元前を何らかの形で踏襲した葬送から復活をイエスが神と伴い復活する交霊術として祭壇は形成されただろう。 ローマは祭壇に処刑台を突き刺した。 新約聖書でイエスの予言は終わる ローマ教会神官の始祖たちは、自らの宗教がいかに巧妙に組み立てられているか、ローマ人として満足の笑みをこぼしたであろう。 愚かな農奴立は、偽りの自由に気付かない。 歓喜し、イエスに祈るほどに、祭礼の形態は「神よ、くたばりやがれ!」という猛烈な殺意となり天界を蹂躙する。 新約聖書という偽りの予言の時代2000年。 イエスの意志はかろうじて、痕跡をとどめる。 最後の審判である。 それがキリスト教徒の祈りの中心であり、イエスから受け継いだ遺訓の成れの果てだ。 内容は、「ローマ滅亡」「キリスト教根絶」 そして、野党八衆の意志が中心になり、19世紀にキリスト教は宗教としての健全性の全てを喪失した。 さて、シリーズ化している哲学カテゴリーの質問で、文学的に仕上げています。 この拷問装置に挑戦して、あなたの知恵に挑戦してください。 そういう質問でして、哲学は既存の命題に取り組むほかに、自分で命題を作るという手法もあります。 読書感想文で結構ですよ。 余談ですが、バカにさせていただきます。 あなたがキリスト教徒で、この拷問装置の直撃を受けたとしましょう。 あなたは世界一自分が不幸だと思うかもしれません。 おめでとう、それが最高です。 あなたが世界一不幸なおかげで、そこら中にいくらでもいるボチボチ不幸な人たちはあなたよりも幸せなのです。 それは、イエスを今のキリスト教徒たちが蹴落とし続けた奈落です。 したがって、あなた方は不幸であるほどに信仰心が強いのです。

  • 「ローマの白い羽」物語第三章

    さまよう者の心に癒しの灯がともるとすれば、それは時の流れに気が付くことだろう。 今はただ、なのもかもが失われていることに気が付くだけでも、君たちは生きていて、そして時は流れる。 実在するする男子プリキュア。 キュアミカエルだ。 ユダヤの人イエスはユダヤ人の人間確立のために働き、奴隷に反逆をおこさせる滅んだ国の王として処刑された。 このローマの横暴はローマ周辺の古代社会に大きな動揺をおこす事件だった。 イエスの志を胸に秘めた者たちは、奴隷解放のためにローマ領内に散っていった。 時が流れ、新約聖書成立期には、原始キリスト教は10宗派、二宗派は苦渋を農奴達と分かち合い、奇跡のために今もイエスの志のために身のすべてをささげつくしていた。八宗派は「野党八衆」となりローマの横暴に横暴で答えることを口実に略奪を繰り返す山賊だ。 ローマは信仰心を逆手に略奪を正当化する古代の亡霊に困惑し、キリスト教公認を餌に暴力組織の懐柔を図る。 その契約書が新約聖書だ。 穏健派と束ねることで治安対策とした。 イエスの意思はこの使徒の末裔の取引で絶える。 そして裏切り者の宗教になった。 東洋で言う仏陀に相当する強力な伝道師がただ一人が行った過去の波乱を教訓に、帝国を脅かす古代王への恐怖から、新約以降のキリスト教徒は勅命を執行する。 「イエスに似た者を見たならば皆殺しにしろ」 今回は哲学ネタ文芸作品です。 読書感想文をお願いします。 本来は突っ込んだ哲学の研究も可能でしょうけど、おっかなくて皆さんはこの拷問にひるんでしまうと思いますので、無理しないでください。 ーーーーー はいはい、同一質問をいったん削除して再掲載です。 日本人でも普通に怖いこの精神爆弾には誰も立ち向かえなかった模様です。 困難というのは逃げることを考え出すと、常に逃げて生きることになる。 「死の影」であれ「悪魔の予感」であれ、戦いを挑む勇猛さでぶつからないと克服できません。 踏み越えたその先に新たなる英知を見つけるといいでしょう。 私は長らく日本人にとって滅亡伝説であるキリスト教は深刻な疫病であるとワクチン開発について思案してきました。 このテキストが解毒のためのワクチンの中核だと思って質問しています。 西洋人は外国を踏査してその国の宗教や風俗を博物学的に研究していますが、そもそもキリスト教に同一手法を当てはめると今回のテキストのようになります。

  • 「ローマの白い羽」物語第三章

    さまよう者の心に癒しの灯がともるとすれば、それは時の流れに気が付くことだろう。 今はただ、なのもかもが失われていることに気が付くだけでも、君たちは生きていて、そして時は流れる。 実在するする男子プリキュア。 キュアミカエルだ。 ユダヤの人イエスはユダヤ人の人間確立のために働き、奴隷に反逆をおこさせる滅んだ国の王として処刑された。 このローマの横暴はローマ周辺の古代社会に大きな動揺をおこす事件だった。 イエスの志を胸に秘めた者たちは、奴隷解放のためにローマ領内に散っていった。 時が流れ、新約聖書成立期には、原始キリスト教は10宗派、二宗派は苦渋を農奴達と分かち合い、奇跡のために今もイエスの志のために身のすべてをささげつくしていた。八宗派は「野党八衆」となりローマの横暴に横暴で答えることを口実に略奪を繰り返す山賊だ。 ローマは信仰心を逆手に略奪を正当化する古代の亡霊に困惑し、キリスト教公認を餌に暴力組織の懐柔を図る。 その契約書が新約聖書だ。 穏健派と束ねることで治安対策とした。 イエスの意思はこの使徒の末裔の取引で絶える。 そして裏切り者の宗教になった。 東洋で言う仏陀に相当する強力な伝道師がただ一人が行った過去の波乱を教訓に、帝国を脅かす古代王への恐怖から、新約以降のキリスト教徒は勅命を執行する。 「イエスに似た者を見たならば皆殺しにしろ」 今回は哲学ネタ文芸作品です。 読書感想文をお願いします。 本来は突っ込んだ哲学の研究も可能でしょうけど、おっかなくて皆さんはこの拷問にひるんでしまうと思いますので、無理しないでください。 ーーーーー はいはい、同一質問をいったん削除して再掲載です。 日本人でも普通に怖いこの精神爆弾には誰も立ち向かえなかった模様です。 困難というのは逃げることを考え出すと、常に逃げて生きることになる。 「死の影」であれ「悪魔の予感」であれ、戦いを挑む勇猛さでぶつからないと克服できません。 踏み越えたその先に新たなる英知を見つけるといいでしょう。 私は長らく日本人にとって滅亡伝説であるキリスト教は深刻な疫病であるとワクチン開発について思案してきました。 このテキストが解毒のためのワクチンの中核だと思って質問しています。 西洋人は外国を踏査してその国の宗教や風俗を博物学的に研究していますが、そもそもキリスト教に同一手法を当てはめると今回のテキストのようになります。

  • 願い星物語

    日本昔話風の文学作品だよ。 神社というのは、同じ神様の支店が方々にあって、その支店全てに神様が住んでいるのかと、実に不思議なことだろう。 あの支店は祭壇で、神様が交通に使う駅だ。 駅名の神様の占有ではない。 菅原さん宅で、高校受験を控えた子供が合格祈願をしたとしよう。 ふむふむ、と祈りで呼び出された神様は、 ザ、ラメーン神様。 ザ、ヤンキー神様。 この2名。 中坊は受験に失敗して自暴自棄に料理専門学校に入り、ヤンキーとして10代で女の子を妊娠させ、猛烈に働いて20代で行列ができるラーメン屋の店主。 中坊の祈りで、神様が聞き届けたのは「女の子にもてたいから合格したい」「金持ちになりたいから合格したい」この本心に反応して、最も手っ取り早い対応をしたんだ。 神様の視点では、願いを聞き届けて親切にしてあげた。 よかった、よかった。 ここは哲学カテゴリーでして、文芸作品について哲学的な読書感想文をお願いします。 研究上の検証材料です。

  • 私は偽物のキリストです。

    雄たけびを上げるケモノが、いかにあなたの心にとどろきを響かせ、血を流す亀裂が深まろうとも、獣はその残酷な行いを愉快に笑う。 人類最悪の裏切り者。 暗黒の救世主「最速の臆病者」だ。 余談だが美しき私は、史上初の男子プリキュアでもある。 さて、人我天界への昇華する観念の通過は、人類史上でこも定番が死の儀式だ。 基本構造は、「自らの生を差し出して、死を学ぶこと」だ。 しかし実にお手軽な手法がある。 身代わりを殺して天界に昇る手法だ。 これはイエスを呪い道具に使ったキリスト教の伝統手法で、京都で悪魔的な結社がこのイケニエシステムを模倣してより精度を高めた「生体死霊化処置」という呪術を完成させた。 私はその開発過程のプロトタイプなんだよ。 いわば、人造人間的なキリストに近い何かだ。 日本の天界におけるキリスト教で確立した見解は、現在過去未来いかなる時間軸においてもキリストなる奇跡は実現しない。 人を助けるキリストなる聖霊とは、実際は聖霊として未成立な実験室の試験官ベイビーで、歴史時代以降、キリスト教徒が滅ぼした旧神が産み落とした不屈の赤子たちが、聖霊としてキリストなる役目をこなしてきた。 天使階級の事であり、神を人に隷属させる立場に降格したローマ教会の秩序だ。だ。 そのような存在がいるとしたら、人口 キリストとでもいう私に興味と親近感がわかないかな?いい子たちだよ。 そしてその通りだから、キリストと仮称で呼ばれる赤子と交流している。 人の心にキリストなる聖霊が宿ると、その人物には強烈な殺害衝動が生まれる。 それはキリストの確信が深まるほど強くなる。 そして聖霊はキリストと名指しされ、それを受け入れるとなすすべもなく即死するんだ。 だから、キリストなる聖霊を誰も知らない。 そして赤子の死肉を喰らい、天界の聖霊の力をキリスト教徒は手に入れる。 神を殺して喰らい、その人が神になるのさ。 このイケニエシステムで、19世紀中致命的な状態が発生して、キリストなる聖霊はいったん絶滅した。 ナポレオン3世が国民に倒されたことが直接のきっかけで、キリストなる役割を担う聖霊には、国家成立の正統を保証する役割がはく奪され、イケニエになることだけが役割として残されたんだ。 キリスト教国というのは、今の地上にはない。 そして殺戮に終始する20世紀が来た。 イエスの故事とは、古代社会で、ローマ周辺を震撼させるローマの横暴を代表する重大事件だった。 そしてイエスの意志をくみ取るものは、ローマへの反抗の意思でローマ国内に浸透した。 その治安対策で作成されたのが新約聖書であり、聖書の成立でキリスト教は裏ぎり者のための宗教団体になった。 その象徴が、神に対する処刑台である十字架だ。 多くの不安を招く最後の審判に起因する、時々現代もお祭り騒ぎが起きる人類滅亡説とは、キリスト教の現状に組み込まれた、「ローマ滅亡」そして「キリスト教滅亡」が正確な予言内容なんだ。狂気の邪教だよ。 西洋の学者は他国の文明や風土に対して考古学や博物学を駆使して、検証するが、党のキリスト教に関して同様の検証を日本人が行うと、今回の論説のようになる。 そういう作文だよ。 さて、哲学研究には既存の命題に取り組むほかに、自分で命題を策案する手法があり、この質問は後者です。 くつろいで、読書感想文でもお聞かせください。

  • 変なこと 特にいやらしい事を考えないようにしたい

    大学2年生男子。工学部。 勉強しているときでも、ふと変なこと、いやらしい事を考えてしまいます。 また、女の人を見ると、すぐいやらしい事ばかり考えてしまい、今まで見たAVとかの事ばかり思い出します。 たぶん、こういうのに使っている時間を勉強にあてれれば、もっと効率的なんだと思いますが・・・・。パソコンを使っていても、ついHなサイトばかりアクセスして今します。 こういう煩悩を抑えるにはどのようにしたらいいのでしょうか? 哲学とか仏教について学べばよいのでしょうか。

  • 私は偽物のキリストです。

    雄たけびを上げるケモノが、いかにあなたの心にとどろきを響かせ、血を流す亀裂が深まろうとも、獣はその残酷な行いを愉快に笑う。 人類最悪の裏切り者。 暗黒の救世主「最速の臆病者」だ。 余談だが美しき私は、史上初の男子プリキュアでもある。 さて、人我天界への昇華する観念の通過は、人類史上でこも定番が死の儀式だ。 基本構造は、「自らの生を差し出して、死を学ぶこと」だ。 しかし実にお手軽な手法がある。 身代わりを殺して天界に昇る手法だ。 これはイエスを呪い道具に使ったキリスト教の伝統手法で、京都で悪魔的な結社がこのイケニエシステムを模倣してより精度を高めた「生体死霊化処置」という呪術を完成させた。 私はその開発過程のプロトタイプなんだよ。 いわば、人造人間的なキリストに近い何かだ。 日本の天界におけるキリスト教で確立した見解は、現在過去未来いかなる時間軸においてもキリストなる奇跡は実現しない。 人を助けるキリストなる聖霊とは、実際は聖霊として未成立な実験室の試験官ベイビーで、歴史時代以降、キリスト教徒が滅ぼした旧神が産み落とした不屈の赤子たちが、聖霊としてキリストなる役目をこなしてきた。 天使階級の事であり、神を人に隷属させる立場に降格したローマ教会の秩序だ。だ。 そのような存在がいるとしたら、人口 キリストとでもいう私に興味と親近感がわかないかな?いい子たちだよ。 そしてその通りだから、キリストと仮称で呼ばれる赤子と交流している。 人の心にキリストなる聖霊が宿ると、その人物には強烈な殺害衝動が生まれる。 それはキリストの確信が深まるほど強くなる。 そして聖霊はキリストと名指しされ、それを受け入れるとなすすべもなく即死するんだ。 だから、キリストなる聖霊を誰も知らない。 そして赤子の死肉を喰らい、天界の聖霊の力をキリスト教徒は手に入れる。 神を殺して喰らい、その人が神になるのさ。 このイケニエシステムで、19世紀中致命的な状態が発生して、キリストなる聖霊はいったん絶滅した。 ナポレオン3世が国民に倒されたことが直接のきっかけで、キリストなる役割を担う聖霊には、国家成立の正統を保証する役割がはく奪され、イケニエになることだけが役割として残されたんだ。 キリスト教国というのは、今の地上にはない。 そして殺戮に終始する20世紀が来た。 イエスの故事とは、古代社会で、ローマ周辺を震撼させるローマの横暴を代表する重大事件だった。 そしてイエスの意志をくみ取るものは、ローマへの反抗の意思でローマ国内に浸透した。 その治安対策で作成されたのが新約聖書であり、聖書の成立でキリスト教は裏ぎり者のための宗教団体になった。 その象徴が、神に対する処刑台である十字架だ。 多くの不安を招く最後の審判に起因する、時々現代もお祭り騒ぎが起きる人類滅亡説とは、キリスト教の現状に組み込まれた、「ローマ滅亡」そして「キリスト教滅亡」が正確な予言内容なんだ。狂気の邪教だよ。 西洋の学者は他国の文明や風土に対して考古学や博物学を駆使して、検証するが、党のキリスト教に関して同様の検証を日本人が行うと、今回の論説のようになる。 そういう作文だよ。 さて、哲学研究には既存の命題に取り組むほかに、自分で命題を策案する手法があり、この質問は後者です。 くつろいで、読書感想文でもお聞かせください。

  • 家康の遺訓について、ご意見を賜りたい。

    以下は家康の遺訓です。 人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。 不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出だすべし。 堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。 勝つ事ばかり知りて、負くることを知らざれば害その身にいたる。 おのれを責めて人を責むるな。 及ばざるは過ぎたるにまされり。 ( http://www.edu-konan.jp/ishibe-jh/ikiruhint/tokugawa.htmld ) 【お願い】どうか解説や評論などをしてください。

  • コロナは加害行為を容認する口実になる

    「男ってキライ!」 私は男の中の男だ。 実在する仮面ライダー。 ドリル番長だ。 男性の皆さん、君たちは私にとって永遠の処女だ。 さてと、地方在住の私のお店のある市で、コロナ被害者が出た。 ニュース発表の日からお店の売り上げが8割減った。 個人的にはどうでもいいことだ。 現金は減るけどね。 今の世の中で、そこらじゅうで起きていることだ。 その後、もちきりのうわさでいろいろなことを聞いた。 病人は関東在住の女性で、老母の家に退避してきて感染が発覚したんだとさ。 3週間経過した本日、お客さんが証言した。 一人残された老母の家に嫌がらせが殺到してるってさ。 なんでも、電話帳を見てその家と間違えられた無関係な家庭にまで「間違い嫌がらせ電話」が行くそうで、嫌がらせ電話を間違えてかけた人は、果たしてその迷惑行為を謝罪するのだろうか? 質問その1、どのように誰に謝るのだろうか想像力を膨らませてください。 老母の家庭には、投石やごみのまき散らしが起きていて、不安に思った老母が警察沙汰をほのめかすと、正義を自認する加害者は、「ウイルスをまき散らして無罪で、俺様の正義ある制裁が有罪だってのか!」とやりこめるそうだ。 老母は、どうしているのだろう。 この正義は横暴だと思うよ。 なにやっても横暴でなく正義であることが決まっていれば、被害者に加害行為をすることも勝利の美酒なのだろうか? ソレが質問その2。 該当地方は新潟県だ。 地方にはこのように関東圏からコロナが伝播してくる。 しかしだ、感染者は累積しているけど、新潟県で感染者が特定され実名で糾弾された事例は私が報道されない内容を噂として直接聞いたのは3件で全員女性だ。 全員過酷な加害行為を受けている模様だ。 なぜこのような傾向が現象するのだろうか? これが質問その3。 私が考察するに、女性であるだけで、社会的に弱者であるゆえに縁者を頼って地方に退避した。そしてその先で実際に不幸になった。その事例だけが加害行為の対象になっていないだろうか? 以上が質問内容です。 他者の不幸に追い打ちをかけることとは、正義をかざし横暴をふるう男性による女性の蹂躙ではないだろうか?

  • コロナは加害行為を容認する口実になる

    「男ってキライ!」 私は男の中の男だ。 実在する仮面ライダー。 ドリル番長だ。 男性の皆さん、君たちは私にとって永遠の処女だ。 さてと、地方在住の私のお店のある市で、コロナ被害者が出た。 ニュース発表の日からお店の売り上げが8割減った。 個人的にはどうでもいいことだ。 現金は減るけどね。 今の世の中で、そこらじゅうで起きていることだ。 その後、もちきりのうわさでいろいろなことを聞いた。 病人は関東在住の女性で、老母の家に退避してきて感染が発覚したんだとさ。 3週間経過した本日、お客さんが証言した。 一人残された老母の家に嫌がらせが殺到してるってさ。 なんでも、電話帳を見てその家と間違えられた無関係な家庭にまで「間違い嫌がらせ電話」が行くそうで、嫌がらせ電話を間違えてかけた人は、果たしてその迷惑行為を謝罪するのだろうか? 質問その1、どのように誰に謝るのだろうか想像力を膨らませてください。 老母の家庭には、投石やごみのまき散らしが起きていて、不安に思った老母が警察沙汰をほのめかすと、正義を自認する加害者は、「ウイルスをまき散らして無罪で、俺様の正義ある制裁が有罪だってのか!」とやりこめるそうだ。 老母は、どうしているのだろう。 この正義は横暴だと思うよ。 なにやっても横暴でなく正義であることが決まっていれば、被害者に加害行為をすることも勝利の美酒なのだろうか? ソレが質問その2。 該当地方は新潟県だ。 地方にはこのように関東圏からコロナが伝播してくる。 しかしだ、感染者は累積しているけど、新潟県で感染者が特定され実名で糾弾された事例は私が報道されない内容を噂として直接聞いたのは3件で全員女性だ。 全員過酷な加害行為を受けている模様だ。 なぜこのような傾向が現象するのだろうか? これが質問その3。 私が考察するに、女性であるだけで、社会的に弱者であるゆえに縁者を頼って地方に退避した。そしてその先で実際に不幸になった。その事例だけが加害行為の対象になっていないだろうか? 以上が質問内容です。 他者の不幸に追い打ちをかけることとは、正義をかざし横暴をふるう男性による女性の蹂躙ではないだろうか?