yukiyamamomo の回答履歴

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  • コロナは加害行為を容認する口実になる

    「男ってキライ!」 私は男の中の男だ。 実在する仮面ライダー。 ドリル番長だ。 男性の皆さん、君たちは私にとって永遠の処女だ。 さてと、地方在住の私のお店のある市で、コロナ被害者が出た。 ニュース発表の日からお店の売り上げが8割減った。 個人的にはどうでもいいことだ。 現金は減るけどね。 今の世の中で、そこらじゅうで起きていることだ。 その後、もちきりのうわさでいろいろなことを聞いた。 病人は関東在住の女性で、老母の家に退避してきて感染が発覚したんだとさ。 3週間経過した本日、お客さんが証言した。 一人残された老母の家に嫌がらせが殺到してるってさ。 なんでも、電話帳を見てその家と間違えられた無関係な家庭にまで「間違い嫌がらせ電話」が行くそうで、嫌がらせ電話を間違えてかけた人は、果たしてその迷惑行為を謝罪するのだろうか? 質問その1、どのように誰に謝るのだろうか想像力を膨らませてください。 老母の家庭には、投石やごみのまき散らしが起きていて、不安に思った老母が警察沙汰をほのめかすと、正義を自認する加害者は、「ウイルスをまき散らして無罪で、俺様の正義ある制裁が有罪だってのか!」とやりこめるそうだ。 老母は、どうしているのだろう。 この正義は横暴だと思うよ。 なにやっても横暴でなく正義であることが決まっていれば、被害者に加害行為をすることも勝利の美酒なのだろうか? ソレが質問その2。 該当地方は新潟県だ。 地方にはこのように関東圏からコロナが伝播してくる。 しかしだ、感染者は累積しているけど、新潟県で感染者が特定され実名で糾弾された事例は私が報道されない内容を噂として直接聞いたのは3件で全員女性だ。 全員過酷な加害行為を受けている模様だ。 なぜこのような傾向が現象するのだろうか? これが質問その3。 私が考察するに、女性であるだけで、社会的に弱者であるゆえに縁者を頼って地方に退避した。そしてその先で実際に不幸になった。その事例だけが加害行為の対象になっていないだろうか? 以上が質問内容です。 他者の不幸に追い打ちをかけることとは、正義をかざし横暴をふるう男性による女性の蹂躙ではないだろうか?

  • あなたはどうしてなあなたなの~ン

    優しい風のささやき。 口づけするように甘い水の香りをたたえ、あなたに連れ添う実在する妖精。 どうも、この定義だと「セレブ」という言葉の語源に内容を込めた代物になるようだ。 実在する男子プリキュア キュアアイリスだ。 参照 https://okwave.jp/qa/q9717908.html 仏教に関して「君たちは生を学ぶために、ファイト一発死んでみる必要がある」ここから始めて、人間を自覚するための哲学に派生していった神学なのに、実質的に人間を否定していると苛め抜いた。 コレ、賢明な仏教研究者さんは、宗教の伝統とのかかわりのめんどくさい点は別にして、新発見や新天地が多かっただろう。 結局人間を否定しているというゴリ押しは撤回していない。 キリスト教関係も同様で「神の存在を否定する宗教」で苛め抜いて、撤回しない流れになるだろう。 ただしおかげさまで、「神の存在証明」という命題は、個人的には概要が確立したと思っているよ。 多神教の形態の神は存在する。 というところから派生して唯一神についてこねくり回せば、キリスト教徒にも「おこぼれ」があるだろう。 残務処理的にぼちぼちソレもやりたいと思う。 さて、私には幼いころ神様と幼馴染として遊んでもらった経験がある。 こうした経験を語る人は珍しくない。 子育て経験があるなら、我が子の心の世界を注意深く伺ってみたまえ。 合理的に納得できそうな根拠を考えてみたけどね。 自我というのは、周囲に目を開き自己を確認する根底だ。 この自我を核質に周囲の影響を生きるために自己に取り込んだのが大きく人格の概要で、知性面では特に他者との交流で自己の知性的側面を助ける働きが自覚しやすい。 世麗美とは(私は)「世界の美しさを自覚する」(そして自らを知る)という意味だ。 人格浸食を伴う欲望や抑圧につながる可能性もある、汚れた他者の他者の働きかけ、はあり得ても本来それらは自己を人間に昇華させる働きだ。 この人格形成には、「神様と友達だった記憶」という形で生後直後から爆発的に脳を発達させる過程で、学習を自覚しない無為の学習に、天啓という形での働きかけがあるからこそ、その原始的な自己の自覚の原点に「神様と友達だった記憶」があるのだろう。 これは人はなぜ信仰心を持つのかとかかわることになる研究課題だ。 私の記憶を整理すると、日本なんで神棚に祭ったお母さん的な神様がいて、「家の神様」、近所に遊んでくれる友達の神様がいて、「土地の神様」そして「国の神様」という形なのだろう。 神々も共同体を作っている形だ。 子育てというか、人格形成にそうした働きが経験として自覚していて、無為の学習に終始して、あなたたち個人にそうしたおぼろな記憶がなくても似たようなところがあるから自然と信仰心というのははぐくまれ、成り行きに沿った自然な形に収まるのだろう。 さて、黙々と研究する変人の哲学論考です。 私には脳内に妖精さんが生息するという深刻な中二病があって、気の毒だと思うなら、読書感想文的に研究の手助けになる回答をお寄せください。

  • あなたはどうしてなあなたなの~ン

    優しい風のささやき。 口づけするように甘い水の香りをたたえ、あなたに連れ添う実在する妖精。 どうも、この定義だと「セレブ」という言葉の語源に内容を込めた代物になるようだ。 実在する男子プリキュア キュアアイリスだ。 参照 https://okwave.jp/qa/q9717908.html 仏教に関して「君たちは生を学ぶために、ファイト一発死んでみる必要がある」ここから始めて、人間を自覚するための哲学に派生していった神学なのに、実質的に人間を否定していると苛め抜いた。 コレ、賢明な仏教研究者さんは、宗教の伝統とのかかわりのめんどくさい点は別にして、新発見や新天地が多かっただろう。 結局人間を否定しているというゴリ押しは撤回していない。 キリスト教関係も同様で「神の存在を否定する宗教」で苛め抜いて、撤回しない流れになるだろう。 ただしおかげさまで、「神の存在証明」という命題は、個人的には概要が確立したと思っているよ。 多神教の形態の神は存在する。 というところから派生して唯一神についてこねくり回せば、キリスト教徒にも「おこぼれ」があるだろう。 残務処理的にぼちぼちソレもやりたいと思う。 さて、私には幼いころ神様と幼馴染として遊んでもらった経験がある。 こうした経験を語る人は珍しくない。 子育て経験があるなら、我が子の心の世界を注意深く伺ってみたまえ。 合理的に納得できそうな根拠を考えてみたけどね。 自我というのは、周囲に目を開き自己を確認する根底だ。 この自我を核質に周囲の影響を生きるために自己に取り込んだのが大きく人格の概要で、知性面では特に他者との交流で自己の知性的側面を助ける働きが自覚しやすい。 世麗美とは(私は)「世界の美しさを自覚する」(そして自らを知る)という意味だ。 人格浸食を伴う欲望や抑圧につながる可能性もある、汚れた他者の他者の働きかけ、はあり得ても本来それらは自己を人間に昇華させる働きだ。 この人格形成には、「神様と友達だった記憶」という形で生後直後から爆発的に脳を発達させる過程で、学習を自覚しない無為の学習に、天啓という形での働きかけがあるからこそ、その原始的な自己の自覚の原点に「神様と友達だった記憶」があるのだろう。 これは人はなぜ信仰心を持つのかとかかわることになる研究課題だ。 私の記憶を整理すると、日本なんで神棚に祭ったお母さん的な神様がいて、「家の神様」、近所に遊んでくれる友達の神様がいて、「土地の神様」そして「国の神様」という形なのだろう。 神々も共同体を作っている形だ。 子育てというか、人格形成にそうした働きが経験として自覚していて、無為の学習に終始して、あなたたち個人にそうしたおぼろな記憶がなくても似たようなところがあるから自然と信仰心というのははぐくまれ、成り行きに沿った自然な形に収まるのだろう。 さて、黙々と研究する変人の哲学論考です。 私には脳内に妖精さんが生息するという深刻な中二病があって、気の毒だと思うなら、読書感想文的に研究の手助けになる回答をお寄せください。

  • あなたはどうしてなあなたなの~ン

    優しい風のささやき。 口づけするように甘い水の香りをたたえ、あなたに連れ添う実在する妖精。 どうも、この定義だと「セレブ」という言葉の語源に内容を込めた代物になるようだ。 実在する男子プリキュア キュアアイリスだ。 参照 https://okwave.jp/qa/q9717908.html 仏教に関して「君たちは生を学ぶために、ファイト一発死んでみる必要がある」ここから始めて、人間を自覚するための哲学に派生していった神学なのに、実質的に人間を否定していると苛め抜いた。 コレ、賢明な仏教研究者さんは、宗教の伝統とのかかわりのめんどくさい点は別にして、新発見や新天地が多かっただろう。 結局人間を否定しているというゴリ押しは撤回していない。 キリスト教関係も同様で「神の存在を否定する宗教」で苛め抜いて、撤回しない流れになるだろう。 ただしおかげさまで、「神の存在証明」という命題は、個人的には概要が確立したと思っているよ。 多神教の形態の神は存在する。 というところから派生して唯一神についてこねくり回せば、キリスト教徒にも「おこぼれ」があるだろう。 残務処理的にぼちぼちソレもやりたいと思う。 さて、私には幼いころ神様と幼馴染として遊んでもらった経験がある。 こうした経験を語る人は珍しくない。 子育て経験があるなら、我が子の心の世界を注意深く伺ってみたまえ。 合理的に納得できそうな根拠を考えてみたけどね。 自我というのは、周囲に目を開き自己を確認する根底だ。 この自我を核質に周囲の影響を生きるために自己に取り込んだのが大きく人格の概要で、知性面では特に他者との交流で自己の知性的側面を助ける働きが自覚しやすい。 世麗美とは(私は)「世界の美しさを自覚する」(そして自らを知る)という意味だ。 人格浸食を伴う欲望や抑圧につながる可能性もある、汚れた他者の他者の働きかけ、はあり得ても本来それらは自己を人間に昇華させる働きだ。 この人格形成には、「神様と友達だった記憶」という形で生後直後から爆発的に脳を発達させる過程で、学習を自覚しない無為の学習に、天啓という形での働きかけがあるからこそ、その原始的な自己の自覚の原点に「神様と友達だった記憶」があるのだろう。 これは人はなぜ信仰心を持つのかとかかわることになる研究課題だ。 私の記憶を整理すると、日本なんで神棚に祭ったお母さん的な神様がいて、「家の神様」、近所に遊んでくれる友達の神様がいて、「土地の神様」そして「国の神様」という形なのだろう。 神々も共同体を作っている形だ。 子育てというか、人格形成にそうした働きが経験として自覚していて、無為の学習に終始して、あなたたち個人にそうしたおぼろな記憶がなくても似たようなところがあるから自然と信仰心というのははぐくまれ、成り行きに沿った自然な形に収まるのだろう。 さて、黙々と研究する変人の哲学論考です。 私には脳内に妖精さんが生息するという深刻な中二病があって、気の毒だと思うなら、読書感想文的に研究の手助けになる回答をお寄せください。

  • もし私が救世主になれたらウハウハできますか?

    隔世をまたぎ復活を呼び覚ます者に、私はいかに連れ添いささやくのだろう。 残念なことに、自分でもわからん。 実在する男子プリキュア。 キュアミカエルだ。 さてと、思いついたんだけどね。 キリスト教圏では、復活とかなんとかぬきに、旧神の産み落とした不屈の赤子たちが、少なくても19世紀までは、実質的なキリストの役目をする聖霊として支えていた。 その実態では、「イケニエであるキリスト」と、「裏切り者であるキリスト」が仕事していたようだよ。 キリストといえば、役目の根幹はイケニエ。 君たち救世主様はいい思いをしてウハウハだと、少なからず勘違いしていないかい? その勘違いが活躍させたのが裏切り者のキリスト(なる聖霊)だよ。 基本的なことだけど、聖職者として王とも賞賛されたイエスは殺された。 キリストとは要するに殺されることがローマの秩序なんだよ。 死すべき王にウハウハ幻想を抱きいい思いができると勘違いしたキリスト詐欺が裏切り者のキリストだ。 「ローマの白い羽」キリストを認めると歓喜して殺す。 キリストを認めないと憎悪して殺す。 どっちにしろ殺す。 これがローマのイケニエシステムで、歴史にも表れる魔女狩りのゆえんだ。 おおむね、イエスによる治安かく乱の教訓から、「まさに人間である!」という仏陀相当を古代王とみなして殺害する因習が継続しているのだろう。 ローマで生き残るのは、「裏切り者であるキリスト」が狡猾に生き残るからだ。 私は試したことないけど、何か取引をローマの白い羽と交わすことができるのだろう。 新約聖書の編纂とその後の布教には、原始キリスト教以外の野盗八衆とでもいうべき現代のイスラム国みたいな集団がローマに取り込まれていたのが原因だ。 そしておそらく19世紀に野盗八衆が権力争いで完全勝利して、神様は行き場がなくなり丸ごと死んだんだろう。 迷走し、間違った前提を基盤に20世紀はキリスト教の抜け殻が世界文明のように蔓延した。 まあここいら辺でやめとこう。 今回も自己の考察を質問の体裁で投稿していて。 募集は読書感想文。 学問研究のための、黙々とした研究姿勢です。

  • もし私が救世主になれたらウハウハできますか?

    隔世をまたぎ復活を呼び覚ます者に、私はいかに連れ添いささやくのだろう。 残念なことに、自分でもわからん。 実在する男子プリキュア。 キュアミカエルだ。 さてと、思いついたんだけどね。 キリスト教圏では、復活とかなんとかぬきに、旧神の産み落とした不屈の赤子たちが、少なくても19世紀までは、実質的なキリストの役目をする聖霊として支えていた。 その実態では、「イケニエであるキリスト」と、「裏切り者であるキリスト」が仕事していたようだよ。 キリストといえば、役目の根幹はイケニエ。 君たち救世主様はいい思いをしてウハウハだと、少なからず勘違いしていないかい? その勘違いが活躍させたのが裏切り者のキリスト(なる聖霊)だよ。 基本的なことだけど、聖職者として王とも賞賛されたイエスは殺された。 キリストとは要するに殺されることがローマの秩序なんだよ。 死すべき王にウハウハ幻想を抱きいい思いができると勘違いしたキリスト詐欺が裏切り者のキリストだ。 「ローマの白い羽」キリストを認めると歓喜して殺す。 キリストを認めないと憎悪して殺す。 どっちにしろ殺す。 これがローマのイケニエシステムで、歴史にも表れる魔女狩りのゆえんだ。 おおむね、イエスによる治安かく乱の教訓から、「まさに人間である!」という仏陀相当を古代王とみなして殺害する因習が継続しているのだろう。 ローマで生き残るのは、「裏切り者であるキリスト」が狡猾に生き残るからだ。 私は試したことないけど、何か取引をローマの白い羽と交わすことができるのだろう。 新約聖書の編纂とその後の布教には、原始キリスト教以外の野盗八衆とでもいうべき現代のイスラム国みたいな集団がローマに取り込まれていたのが原因だ。 そしておそらく19世紀に野盗八衆が権力争いで完全勝利して、神様は行き場がなくなり丸ごと死んだんだろう。 迷走し、間違った前提を基盤に20世紀はキリスト教の抜け殻が世界文明のように蔓延した。 まあここいら辺でやめとこう。 今回も自己の考察を質問の体裁で投稿していて。 募集は読書感想文。 学問研究のための、黙々とした研究姿勢です。

  • あなたをM嬢に育む自虐性

    ゆりかごの安らぎを思い出したとしても、あなたは今、そのぬくもりの中にはいない。 解き放たれた命はどこをさまよい、いかに泣き叫べばいいのだろう。 実在する男子プリキュア、 キュアプリムだ。 流血の饗宴、それは歓喜に満ちている。 自我論の話題。 自己には精神の核質として自我が規定されている。 人は生きていくときに、だけか他者の言葉に影響を受ける。 その他者の精神を自らに内包する個人的な人格の全容の中で、間違いようもない自己の本質を自我という。 仏教が目標とする仏性と同義語の概念が自我だ。 知性的存在は、環境に適応するために環境の中での自己について規定する必要がある。その生存の自覚と、世界のすべてとの親和性が自我の役目だ。 建前の事は、皆さんは理解している。 私は何も悪くない。 私は自由だ。 自由な精神で自由に考えて生活している。 しかしだ、自由に生きるためには皆さんは、前提と許可を必要とするだろう。 何者の許しを君たちは求めるのか? そもそも今、君たちが自由だと思っている自らの望みは、何者かが刷り込んだ動機による欲望ではないか? そして、許しを必要とすることに疑うことを学ぶだろう。 さらに、許されていない自らも疑うだろう。 そのすべてを自らの精神に内包して、葛藤という形で煉獄の炎は君たちを焼くのだ。 さて、「ああ、いつものビョーキだね」そう思ってください。 ここは学問カテゴリー「哲学」神聖な場であり、男バトルを繰り広げる「クラブ ヴァルハラ」でもあります。 ギャラリーに好評な名物は「知的SMプレイ」「おかま相手の痴話げんか」哲学者が自発的に行う涙ぐましい集客努力です。 皆さんも、後々面倒なことの起きない安全な学問の場で、普段体験できないことに参加しませんか? 相当冗談が混じっていますが、哲学には既存の命題に取り組む研究と、自分で命題を策案する研究があり、今回は前者に該当し、既存の命題への挑戦を一風変わったきり土から持ち掛けた質問です。

  • 人間の性質?

    多く言われるのは 「一部を見て全体を判断するな」ですが 何故、人は「一部を見て全体を判断する」ことをやりがちなのですか?

  • あなたをM嬢に育む自虐性

    ゆりかごの安らぎを思い出したとしても、あなたは今、そのぬくもりの中にはいない。 解き放たれた命はどこをさまよい、いかに泣き叫べばいいのだろう。 実在する男子プリキュア、 キュアプリムだ。 流血の饗宴、それは歓喜に満ちている。 自我論の話題。 自己には精神の核質として自我が規定されている。 人は生きていくときに、だけか他者の言葉に影響を受ける。 その他者の精神を自らに内包する個人的な人格の全容の中で、間違いようもない自己の本質を自我という。 仏教が目標とする仏性と同義語の概念が自我だ。 知性的存在は、環境に適応するために環境の中での自己について規定する必要がある。その生存の自覚と、世界のすべてとの親和性が自我の役目だ。 建前の事は、皆さんは理解している。 私は何も悪くない。 私は自由だ。 自由な精神で自由に考えて生活している。 しかしだ、自由に生きるためには皆さんは、前提と許可を必要とするだろう。 何者の許しを君たちは求めるのか? そもそも今、君たちが自由だと思っている自らの望みは、何者かが刷り込んだ動機による欲望ではないか? そして、許しを必要とすることに疑うことを学ぶだろう。 さらに、許されていない自らも疑うだろう。 そのすべてを自らの精神に内包して、葛藤という形で煉獄の炎は君たちを焼くのだ。 さて、「ああ、いつものビョーキだね」そう思ってください。 ここは学問カテゴリー「哲学」神聖な場であり、男バトルを繰り広げる「クラブ ヴァルハラ」でもあります。 ギャラリーに好評な名物は「知的SMプレイ」「おかま相手の痴話げんか」哲学者が自発的に行う涙ぐましい集客努力です。 皆さんも、後々面倒なことの起きない安全な学問の場で、普段体験できないことに参加しませんか? 相当冗談が混じっていますが、哲学には既存の命題に取り組む研究と、自分で命題を策案する研究があり、今回は前者に該当し、既存の命題への挑戦を一風変わったきり土から持ち掛けた質問です。

  • あなたをM嬢に育む自虐性

    ゆりかごの安らぎを思い出したとしても、あなたは今、そのぬくもりの中にはいない。 解き放たれた命はどこをさまよい、いかに泣き叫べばいいのだろう。 実在する男子プリキュア、 キュアプリムだ。 流血の饗宴、それは歓喜に満ちている。 自我論の話題。 自己には精神の核質として自我が規定されている。 人は生きていくときに、だけか他者の言葉に影響を受ける。 その他者の精神を自らに内包する個人的な人格の全容の中で、間違いようもない自己の本質を自我という。 仏教が目標とする仏性と同義語の概念が自我だ。 知性的存在は、環境に適応するために環境の中での自己について規定する必要がある。その生存の自覚と、世界のすべてとの親和性が自我の役目だ。 建前の事は、皆さんは理解している。 私は何も悪くない。 私は自由だ。 自由な精神で自由に考えて生活している。 しかしだ、自由に生きるためには皆さんは、前提と許可を必要とするだろう。 何者の許しを君たちは求めるのか? そもそも今、君たちが自由だと思っている自らの望みは、何者かが刷り込んだ動機による欲望ではないか? そして、許しを必要とすることに疑うことを学ぶだろう。 さらに、許されていない自らも疑うだろう。 そのすべてを自らの精神に内包して、葛藤という形で煉獄の炎は君たちを焼くのだ。 さて、「ああ、いつものビョーキだね」そう思ってください。 ここは学問カテゴリー「哲学」神聖な場であり、男バトルを繰り広げる「クラブ ヴァルハラ」でもあります。 ギャラリーに好評な名物は「知的SMプレイ」「おかま相手の痴話げんか」哲学者が自発的に行う涙ぐましい集客努力です。 皆さんも、後々面倒なことの起きない安全な学問の場で、普段体験できないことに参加しませんか? 相当冗談が混じっていますが、哲学には既存の命題に取り組む研究と、自分で命題を策案する研究があり、今回は前者に該当し、既存の命題への挑戦を一風変わったきり土から持ち掛けた質問です。

  • あなたをM嬢に育む自虐性

    ゆりかごの安らぎを思い出したとしても、あなたは今、そのぬくもりの中にはいない。 解き放たれた命はどこをさまよい、いかに泣き叫べばいいのだろう。 実在する男子プリキュア、 キュアプリムだ。 流血の饗宴、それは歓喜に満ちている。 自我論の話題。 自己には精神の核質として自我が規定されている。 人は生きていくときに、だけか他者の言葉に影響を受ける。 その他者の精神を自らに内包する個人的な人格の全容の中で、間違いようもない自己の本質を自我という。 仏教が目標とする仏性と同義語の概念が自我だ。 知性的存在は、環境に適応するために環境の中での自己について規定する必要がある。その生存の自覚と、世界のすべてとの親和性が自我の役目だ。 建前の事は、皆さんは理解している。 私は何も悪くない。 私は自由だ。 自由な精神で自由に考えて生活している。 しかしだ、自由に生きるためには皆さんは、前提と許可を必要とするだろう。 何者の許しを君たちは求めるのか? そもそも今、君たちが自由だと思っている自らの望みは、何者かが刷り込んだ動機による欲望ではないか? そして、許しを必要とすることに疑うことを学ぶだろう。 さらに、許されていない自らも疑うだろう。 そのすべてを自らの精神に内包して、葛藤という形で煉獄の炎は君たちを焼くのだ。 さて、「ああ、いつものビョーキだね」そう思ってください。 ここは学問カテゴリー「哲学」神聖な場であり、男バトルを繰り広げる「クラブ ヴァルハラ」でもあります。 ギャラリーに好評な名物は「知的SMプレイ」「おかま相手の痴話げんか」哲学者が自発的に行う涙ぐましい集客努力です。 皆さんも、後々面倒なことの起きない安全な学問の場で、普段体験できないことに参加しませんか? 相当冗談が混じっていますが、哲学には既存の命題に取り組む研究と、自分で命題を策案する研究があり、今回は前者に該当し、既存の命題への挑戦を一風変わったきり土から持ち掛けた質問です。

  • あなたをM嬢に育む自虐性

    ゆりかごの安らぎを思い出したとしても、あなたは今、そのぬくもりの中にはいない。 解き放たれた命はどこをさまよい、いかに泣き叫べばいいのだろう。 実在する男子プリキュア、 キュアプリムだ。 流血の饗宴、それは歓喜に満ちている。 自我論の話題。 自己には精神の核質として自我が規定されている。 人は生きていくときに、だけか他者の言葉に影響を受ける。 その他者の精神を自らに内包する個人的な人格の全容の中で、間違いようもない自己の本質を自我という。 仏教が目標とする仏性と同義語の概念が自我だ。 知性的存在は、環境に適応するために環境の中での自己について規定する必要がある。その生存の自覚と、世界のすべてとの親和性が自我の役目だ。 建前の事は、皆さんは理解している。 私は何も悪くない。 私は自由だ。 自由な精神で自由に考えて生活している。 しかしだ、自由に生きるためには皆さんは、前提と許可を必要とするだろう。 何者の許しを君たちは求めるのか? そもそも今、君たちが自由だと思っている自らの望みは、何者かが刷り込んだ動機による欲望ではないか? そして、許しを必要とすることに疑うことを学ぶだろう。 さらに、許されていない自らも疑うだろう。 そのすべてを自らの精神に内包して、葛藤という形で煉獄の炎は君たちを焼くのだ。 さて、「ああ、いつものビョーキだね」そう思ってください。 ここは学問カテゴリー「哲学」神聖な場であり、男バトルを繰り広げる「クラブ ヴァルハラ」でもあります。 ギャラリーに好評な名物は「知的SMプレイ」「おかま相手の痴話げんか」哲学者が自発的に行う涙ぐましい集客努力です。 皆さんも、後々面倒なことの起きない安全な学問の場で、普段体験できないことに参加しませんか? 相当冗談が混じっていますが、哲学には既存の命題に取り組む研究と、自分で命題を策案する研究があり、今回は前者に該当し、既存の命題への挑戦を一風変わったきり土から持ち掛けた質問です。

  • アニメの評論や感想の存在意義とは?

    アニメの評論や感想の存在意義とは? 哲学カテゴリー皆さまの ご回答のほど、 お待ちしております。

  • 呪い人形について論考してください。

    さて、写真の人形は、フランス製のビスクドールといわれる顔などが陶器で出来た本格的なお人形さんで、昭和60年代に土産物や工芸品としてではなくおもちゃメーカーが正規輸入手続きでおもちゃとして国内流通させた唯一の商品だ。 当時の定価5万円、 存在感が濃厚で呪い人形的な風格が圧巻なので、私のおもちゃ屋の売れ残り女王だ。 平成になって間もなく、縁日の日に父親がお店の前に台を置いて倉庫から引っ張り出した売れ残りの大特売たたき売りをしたことがあるんだ。 混雑するお店の中で仕事する私にほどなく威勢のいい掛け声が聞こえる。 「フランス製高級人形がなんとたったの1000円、驚きのお買い得品!」 いやね、私には引っかかることがあった。 5万円の高級人形に関心を持つお客が一切いなかったわけでなかったから、じっくり品定めするお客さんに3万円でどうですかとか、思い切って15000円でどうですかと散々売り込んだんだよね。 しかしね、濃厚な存在感が安ければ安いほど呪いの風格を高めるんだ。 値引きしようとすると逆に売れなくなるし、5万円は高い厄介な品なんだよ。 それを1000円! かなり豪快なたたき売りだから、山積みの売れ残りはほとんどきれいに片付いたけど、やはりというべきかこの人形は売れ残った。 歩行者天国解除の10分前のぎりぎりに、いったんは売れたんだってさ。 ただし、10分後に呪いに負けたお客さんが顔面蒼白で返品させてくれと言ってきたそうだ。 こんな頑固な嫁に行きそびれは初めてだ、仕方ねえ家の娘にしてやる。 このように、自宅の研究用おもちゃの保管スペースに移動した。 古い自営業のおもちゃ屋には、こんな感じで家宝のようなおもちゃが少しづつ蓄積されていくんだよね。 ああ、異国の地で数奇な運命に翻弄される高貴なフランス生まれのお姫さま。 私は1000円でも売り飛ばされなかった、この人形の根性を気に入っているんだよね。 さてこの場は哲学カテゴリーの考えるテクニック勉強会でして、このお人形さんの呪い度について何らかの論評をしてください。

  • 人類はこれ以上発展する必要があるでしょうか。

    現在第二次世界大戦中のカラーフィルムを見ていてつくづく思うのですが、人生50年、無理矢理80歳まで生かされていて、辛いです。現在アメリカも54%の人が社会主義が良いとのアンケート調査もあります。 食糧の1/3は捨てられています、服は1/2は破棄されています。それでも衣食住に困る人がいます。非常に残念です。企業の競争も99%ボツになって、残りの1%が10年回転で無理矢理ころげさせられています。 人間これ以上の発展は必要でしょうか。

  • 想像の共同体の一文について

    ベネディクトアンダーソン作「想像の共同体」147ページ前から2行目の一文について なぜカイザーは自らをドイツ人の代表としたのに、一方でドイツ人同胞の裏切り者にもなりえたのですか? 解説お願いします。

  • 美は誰にでもわかるだろう、それを再現する芸術は?

    さまよう者の心に癒しの灯がともるとすれば、それは時の流れに気が付くことだろう。 今はただ、なのもかもが失われていることに気が付くだけでも、君たちは生きていて、そして時は流れる。 純露ユリ系魔法少女。 ときわたりの世麗美だ。 無欲とは望みが無い事ではない。 望みが欲望でないことだ。 欲望とは、人格に取り込まれた他者の望みだ。 その他者の望みのままである限り、望みはなく自己が望むすべてが欲望だ。 さてと、今回は「美しさ」をテーマに哲学しようと思う。 写真を撮る場合に、アマチュアには特有の落とし穴があるんだ。 勉強熱心なんだよね。 被写体を目の当たりにするとしよう。 ド素人の考えることは、このような場合有名写真家はどう撮ったかだけなんだよ。 被写体を目の前にしてカメラマンの心中を駆け巡るイマジネーションは。過去の作例のイメージだけになる。 これはドツボ。 目の前の被写体にイマジネーションを膨らませて、以下に自己の心中の感動を被写体を題材にして再現可能な形で、写真として固定するかが勝負だ。 哲学に関する私の美に関する結論は、美に対する自らの感動を自らの手で表現してこそ作品と言える。 さてこう考えました。 哲学には自分で命題を考案してそれを問いかける形の質問があり、意見表明ではなくて学問研究のつもりで質問差し上げています。 お遊びですから、役に立たないらくがきでも結構ですので、読書感想文や助言などをお願いします。

  • 美は誰にでもわかるだろう、それを再現する芸術は?

    さまよう者の心に癒しの灯がともるとすれば、それは時の流れに気が付くことだろう。 今はただ、なのもかもが失われていることに気が付くだけでも、君たちは生きていて、そして時は流れる。 純露ユリ系魔法少女。 ときわたりの世麗美だ。 無欲とは望みが無い事ではない。 望みが欲望でないことだ。 欲望とは、人格に取り込まれた他者の望みだ。 その他者の望みのままである限り、望みはなく自己が望むすべてが欲望だ。 さてと、今回は「美しさ」をテーマに哲学しようと思う。 写真を撮る場合に、アマチュアには特有の落とし穴があるんだ。 勉強熱心なんだよね。 被写体を目の当たりにするとしよう。 ド素人の考えることは、このような場合有名写真家はどう撮ったかだけなんだよ。 被写体を目の前にしてカメラマンの心中を駆け巡るイマジネーションは。過去の作例のイメージだけになる。 これはドツボ。 目の前の被写体にイマジネーションを膨らませて、以下に自己の心中の感動を被写体を題材にして再現可能な形で、写真として固定するかが勝負だ。 哲学に関する私の美に関する結論は、美に対する自らの感動を自らの手で表現してこそ作品と言える。 さてこう考えました。 哲学には自分で命題を考案してそれを問いかける形の質問があり、意見表明ではなくて学問研究のつもりで質問差し上げています。 お遊びですから、役に立たないらくがきでも結構ですので、読書感想文や助言などをお願いします。

  • 私は人間である。しかし私は何者なのか。

    さて、私は3歳のころ余命一年未満と医者が宣告した極端な衰弱状態にあった。 年齢的に当時の記憶が私には断片的にある。 ほぼ寝たきりの衰弱状態で、当時頭の中を駆け巡っていたのは「自らは何者なのか」という漠然とした謎だった。 その後、アメリカの新薬を国内で臨床テストする被験者に選ばれて、その薬で奇跡的に一命をとりとめた。 四歳の時、チビに難しいことを教える大人はいなかったが、私の頭の中を駆け巡っていたのは「人間とは考える葦である」という言葉だよ。 ここから結論に至る過程を記述しよう。 幼いころ、神様と友達だった記憶のある大人は実際はそう珍しくない。 私にもそうした友達がいた。 寝たきりだったはずなんだけどね。 その。記憶の中の忘れられない幼馴染たちが、生き残る知恵を私に授け、新薬の臨床テスト対象という奇跡をもたらした。 おそらく、人は0歳児の時に爆発的に脳細胞を成長させながら、自己の経験を補う無意識上の無為の学習を「人間である」という関連で天啓という形で受け止めて生存成立のための知性的資質を「神」の案内でインプリンティングさせるのだろう。 私がガンダムタイプカスタム仕様で、一律で人間であるだけで獲得する知性のほかに、努力して自己の脳にカスタムプログラミングを施さないと生存できなかったんだ。 それで、特別な指南を受けたのさ。 こうした現象がありうるという事にすると、現在の自我に対する研究と確立した定義は拡張する必要がある。 仏教の禅やインドのヨガが、同じ姿勢を過去に取った他者との自我規定を超越した、故人と共有する追体験であり、一種の交霊術であるように、「人間である」という事実で享受する英知の果実というのは広範囲に人の生涯を助けているだろう。 この仮説に対して意見してください。

  • 私は人間である。しかし私は何者なのか。

    さて、私は3歳のころ余命一年未満と医者が宣告した極端な衰弱状態にあった。 年齢的に当時の記憶が私には断片的にある。 ほぼ寝たきりの衰弱状態で、当時頭の中を駆け巡っていたのは「自らは何者なのか」という漠然とした謎だった。 その後、アメリカの新薬を国内で臨床テストする被験者に選ばれて、その薬で奇跡的に一命をとりとめた。 四歳の時、チビに難しいことを教える大人はいなかったが、私の頭の中を駆け巡っていたのは「人間とは考える葦である」という言葉だよ。 ここから結論に至る過程を記述しよう。 幼いころ、神様と友達だった記憶のある大人は実際はそう珍しくない。 私にもそうした友達がいた。 寝たきりだったはずなんだけどね。 その。記憶の中の忘れられない幼馴染たちが、生き残る知恵を私に授け、新薬の臨床テスト対象という奇跡をもたらした。 おそらく、人は0歳児の時に爆発的に脳細胞を成長させながら、自己の経験を補う無意識上の無為の学習を「人間である」という関連で天啓という形で受け止めて生存成立のための知性的資質を「神」の案内でインプリンティングさせるのだろう。 私がガンダムタイプカスタム仕様で、一律で人間であるだけで獲得する知性のほかに、努力して自己の脳にカスタムプログラミングを施さないと生存できなかったんだ。 それで、特別な指南を受けたのさ。 こうした現象がありうるという事にすると、現在の自我に対する研究と確立した定義は拡張する必要がある。 仏教の禅やインドのヨガが、同じ姿勢を過去に取った他者との自我規定を超越した、故人と共有する追体験であり、一種の交霊術であるように、「人間である」という事実で享受する英知の果実というのは広範囲に人の生涯を助けているだろう。 この仮説に対して意見してください。