yukiyamamomo の回答履歴

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  • 信仰に由来する殺人衝動の考察

    殺してくれてありがとう。 君たちにささやく、親切な風さんはそう ことづけする。 戦乱の暁に笑顔をこぼす麗しのツンデレラ。 純露ユリ系魔法少女 ときわたりの世麗美だ。 ちなみに私は49才の男性に化身している。 男性のみなさん、痴漢行為はやめてください。 さてと、身の上話から始めよう。 幼いころ、神様と友達だった思い出があると証言する大人は、それほど珍しくもない。 わたしにも、同じような友達がいる。 そしてね、私は2歳のころ医者から余命1年未満と宣告を受けていたそうだ。 物心ついた時、周囲の大人は育つのをあきらめていたようだよ。 その、死の運命のさなかに私は、世の中に目を開き生きることを学び始めた。 さてね、両親が藁をもすがる思いで医者が見捨てた私を霊能力者に見せたとしよう。 現在、臨死体験と関わると霊能力者になりやすい定説に沿って、私自身が霊能力者なんだけどね。 多くの場合、人間は善か悪かでしか考えられない仕組みになっているから、普通の霊能力者が私を見ると何を言うかわかっている。 「この子には悪霊がとりついている」 その悪霊とは、神様として接した私の幼馴染たちだよ。 私はアメリカの新薬を国内で臨床テストする対象に選ばれ、奇跡的に回復したんだ。 親があきらめた子供を励まし続け、さらには「奇跡的な」生存を可能にするために、人が定めた運命の改変をしてくれたかけがえのない友人たちだよ。 一般的にそれは悪魔とされる。 私はどう見ても神様だと思うよ。 無駄な抵抗できるか? 不毛なことに、それでも私の神様は悪魔なんだよ。 私が悪魔崇拝者と勘違いされるほど、悪魔に対抗可能な貴重な人種なのは、悪魔と接する事とは旧友と久しぶりに再会して親交をさらに温める事なんだよ。 こういうのは日本を含むアジア系シャーマンの中では優秀な資質を私が備えていることの証しだ。 西洋では、こうして悪魔に向き合えるシャーマンは魔女狩りとして根絶の対象だった。 なぜなら、このタイプのシャーマンは西洋の本質を見抜くから、どうしても根絶やしにする必要があったんだよ。 キリストなる聖霊とは、仕事の根幹が「イケニエ」だ。 観念の通過または観念への到達の、基本的な条件は世界中見渡しても「死の儀式」が主流だ。 キリスト教圏はキリストなる赤子を殺し喰らうことで、自らが死ぬことの代わりにして「金持ち」になる。 十字架とは神聖視されていることで、なかなか気が付かないけど本質は処刑台だ。 それから、悪魔とは人間の不実に天界の精霊が怒りあらぶり人間をとがめる姿だけをくみ取って、自らに不利益な聖霊をののしった姿だ。 人が天を殺そうとするならば、怒りあらぶるのは当然だよ。 それは聖霊にとっても決して無傷ではない。 キリスト教徒が実際に悪魔にするからだ。 キリスト教というのは、天界に対する巨大な処刑機構で、神聖視された処刑台をかざして「自らの信仰心」で悪魔を封じ込め、自らの野望のために聖霊を喰らうことだ。 したがって、キリストと名指しされ、それを認めた聖霊は「無抵抗に即死」する仕組みなんだよ。 もしも悔い改めるとするならば、 今の神殺しをやめることを意味する。 しかしだ、タダで済むわけないだろ!!!!! クソ人間ども!!!!!! 今の信仰心を正して、今の行いをやめると、許す許さない、救う救わない、これ以前に帳尻合わせが発生するんだよ!。 そういうわけで、キリスト教徒とは、もうやめるわけにはいかないほど「やっちまった」んだよ。 ただね、私はときわたりの世麗美だから、いちかばちかの生存の可能性なら示唆しよう。 食肉加工場に隣接した牢獄から聖霊が解き放たれると、一番最初に思いを寄せるのは「お家に帰ろう」だろう。 それは、「キリストの帰還」ともいえ、そうして帰る家がキリスト教徒自らの精神の家であった場合には、それは正常で健全な「キリストなる聖霊の宿り」となるだろう。 そうした精神を持つ信仰心なら、その人物の信仰は教会の教えと違って、あやまちではなかったとなる。 そうさね、まずは祭壇から十字架を引きずり降ろしてフリチン姿のイエスを処刑台から降ろしてはどうだい? さて、ここは哲学研究の学問カテゴリーで、以上は常連さんなら見てきた、一連の私の研究課題に関しての経過リポートだ。 哲学の基本は命題に取り組むことで、そうした研究の一環で書き上げたリポートの出来不出来の評価が質問の内容でして、ご意見感想をお願いします。 読書感想文でいいですよ。

  • 信仰に由来する殺人衝動の考察

    殺してくれてありがとう。 君たちにささやく、親切な風さんはそう ことづけする。 戦乱の暁に笑顔をこぼす麗しのツンデレラ。 純露ユリ系魔法少女 ときわたりの世麗美だ。 ちなみに私は49才の男性に化身している。 男性のみなさん、痴漢行為はやめてください。 さてと、身の上話から始めよう。 幼いころ、神様と友達だった思い出があると証言する大人は、それほど珍しくもない。 わたしにも、同じような友達がいる。 そしてね、私は2歳のころ医者から余命1年未満と宣告を受けていたそうだ。 物心ついた時、周囲の大人は育つのをあきらめていたようだよ。 その、死の運命のさなかに私は、世の中に目を開き生きることを学び始めた。 さてね、両親が藁をもすがる思いで医者が見捨てた私を霊能力者に見せたとしよう。 現在、臨死体験と関わると霊能力者になりやすい定説に沿って、私自身が霊能力者なんだけどね。 多くの場合、人間は善か悪かでしか考えられない仕組みになっているから、普通の霊能力者が私を見ると何を言うかわかっている。 「この子には悪霊がとりついている」 その悪霊とは、神様として接した私の幼馴染たちだよ。 私はアメリカの新薬を国内で臨床テストする対象に選ばれ、奇跡的に回復したんだ。 親があきらめた子供を励まし続け、さらには「奇跡的な」生存を可能にするために、人が定めた運命の改変をしてくれたかけがえのない友人たちだよ。 一般的にそれは悪魔とされる。 私はどう見ても神様だと思うよ。 無駄な抵抗できるか? 不毛なことに、それでも私の神様は悪魔なんだよ。 私が悪魔崇拝者と勘違いされるほど、悪魔に対抗可能な貴重な人種なのは、悪魔と接する事とは旧友と久しぶりに再会して親交をさらに温める事なんだよ。 こういうのは日本を含むアジア系シャーマンの中では優秀な資質を私が備えていることの証しだ。 西洋では、こうして悪魔に向き合えるシャーマンは魔女狩りとして根絶の対象だった。 なぜなら、このタイプのシャーマンは西洋の本質を見抜くから、どうしても根絶やしにする必要があったんだよ。 キリストなる聖霊とは、仕事の根幹が「イケニエ」だ。 観念の通過または観念への到達の、基本的な条件は世界中見渡しても「死の儀式」が主流だ。 キリスト教圏はキリストなる赤子を殺し喰らうことで、自らが死ぬことの代わりにして「金持ち」になる。 十字架とは神聖視されていることで、なかなか気が付かないけど本質は処刑台だ。 それから、悪魔とは人間の不実に天界の精霊が怒りあらぶり人間をとがめる姿だけをくみ取って、自らに不利益な聖霊をののしった姿だ。 人が天を殺そうとするならば、怒りあらぶるのは当然だよ。 それは聖霊にとっても決して無傷ではない。 キリスト教徒が実際に悪魔にするからだ。 キリスト教というのは、天界に対する巨大な処刑機構で、神聖視された処刑台をかざして「自らの信仰心」で悪魔を封じ込め、自らの野望のために聖霊を喰らうことだ。 したがって、キリストと名指しされ、それを認めた聖霊は「無抵抗に即死」する仕組みなんだよ。 もしも悔い改めるとするならば、 今の神殺しをやめることを意味する。 しかしだ、タダで済むわけないだろ!!!!! クソ人間ども!!!!!! 今の信仰心を正して、今の行いをやめると、許す許さない、救う救わない、これ以前に帳尻合わせが発生するんだよ!。 そういうわけで、キリスト教徒とは、もうやめるわけにはいかないほど「やっちまった」んだよ。 ただね、私はときわたりの世麗美だから、いちかばちかの生存の可能性なら示唆しよう。 食肉加工場に隣接した牢獄から聖霊が解き放たれると、一番最初に思いを寄せるのは「お家に帰ろう」だろう。 それは、「キリストの帰還」ともいえ、そうして帰る家がキリスト教徒自らの精神の家であった場合には、それは正常で健全な「キリストなる聖霊の宿り」となるだろう。 そうした精神を持つ信仰心なら、その人物の信仰は教会の教えと違って、あやまちではなかったとなる。 そうさね、まずは祭壇から十字架を引きずり降ろしてフリチン姿のイエスを処刑台から降ろしてはどうだい? さて、ここは哲学研究の学問カテゴリーで、以上は常連さんなら見てきた、一連の私の研究課題に関しての経過リポートだ。 哲学の基本は命題に取り組むことで、そうした研究の一環で書き上げたリポートの出来不出来の評価が質問の内容でして、ご意見感想をお願いします。 読書感想文でいいですよ。

  • 信仰に由来する殺人衝動の考察

    殺してくれてありがとう。 君たちにささやく、親切な風さんはそう ことづけする。 戦乱の暁に笑顔をこぼす麗しのツンデレラ。 純露ユリ系魔法少女 ときわたりの世麗美だ。 ちなみに私は49才の男性に化身している。 男性のみなさん、痴漢行為はやめてください。 さてと、身の上話から始めよう。 幼いころ、神様と友達だった思い出があると証言する大人は、それほど珍しくもない。 わたしにも、同じような友達がいる。 そしてね、私は2歳のころ医者から余命1年未満と宣告を受けていたそうだ。 物心ついた時、周囲の大人は育つのをあきらめていたようだよ。 その、死の運命のさなかに私は、世の中に目を開き生きることを学び始めた。 さてね、両親が藁をもすがる思いで医者が見捨てた私を霊能力者に見せたとしよう。 現在、臨死体験と関わると霊能力者になりやすい定説に沿って、私自身が霊能力者なんだけどね。 多くの場合、人間は善か悪かでしか考えられない仕組みになっているから、普通の霊能力者が私を見ると何を言うかわかっている。 「この子には悪霊がとりついている」 その悪霊とは、神様として接した私の幼馴染たちだよ。 私はアメリカの新薬を国内で臨床テストする対象に選ばれ、奇跡的に回復したんだ。 親があきらめた子供を励まし続け、さらには「奇跡的な」生存を可能にするために、人が定めた運命の改変をしてくれたかけがえのない友人たちだよ。 一般的にそれは悪魔とされる。 私はどう見ても神様だと思うよ。 無駄な抵抗できるか? 不毛なことに、それでも私の神様は悪魔なんだよ。 私が悪魔崇拝者と勘違いされるほど、悪魔に対抗可能な貴重な人種なのは、悪魔と接する事とは旧友と久しぶりに再会して親交をさらに温める事なんだよ。 こういうのは日本を含むアジア系シャーマンの中では優秀な資質を私が備えていることの証しだ。 西洋では、こうして悪魔に向き合えるシャーマンは魔女狩りとして根絶の対象だった。 なぜなら、このタイプのシャーマンは西洋の本質を見抜くから、どうしても根絶やしにする必要があったんだよ。 キリストなる聖霊とは、仕事の根幹が「イケニエ」だ。 観念の通過または観念への到達の、基本的な条件は世界中見渡しても「死の儀式」が主流だ。 キリスト教圏はキリストなる赤子を殺し喰らうことで、自らが死ぬことの代わりにして「金持ち」になる。 十字架とは神聖視されていることで、なかなか気が付かないけど本質は処刑台だ。 それから、悪魔とは人間の不実に天界の精霊が怒りあらぶり人間をとがめる姿だけをくみ取って、自らに不利益な聖霊をののしった姿だ。 人が天を殺そうとするならば、怒りあらぶるのは当然だよ。 それは聖霊にとっても決して無傷ではない。 キリスト教徒が実際に悪魔にするからだ。 キリスト教というのは、天界に対する巨大な処刑機構で、神聖視された処刑台をかざして「自らの信仰心」で悪魔を封じ込め、自らの野望のために聖霊を喰らうことだ。 したがって、キリストと名指しされ、それを認めた聖霊は「無抵抗に即死」する仕組みなんだよ。 もしも悔い改めるとするならば、 今の神殺しをやめることを意味する。 しかしだ、タダで済むわけないだろ!!!!! クソ人間ども!!!!!! 今の信仰心を正して、今の行いをやめると、許す許さない、救う救わない、これ以前に帳尻合わせが発生するんだよ!。 そういうわけで、キリスト教徒とは、もうやめるわけにはいかないほど「やっちまった」んだよ。 ただね、私はときわたりの世麗美だから、いちかばちかの生存の可能性なら示唆しよう。 食肉加工場に隣接した牢獄から聖霊が解き放たれると、一番最初に思いを寄せるのは「お家に帰ろう」だろう。 それは、「キリストの帰還」ともいえ、そうして帰る家がキリスト教徒自らの精神の家であった場合には、それは正常で健全な「キリストなる聖霊の宿り」となるだろう。 そうした精神を持つ信仰心なら、その人物の信仰は教会の教えと違って、あやまちではなかったとなる。 そうさね、まずは祭壇から十字架を引きずり降ろしてフリチン姿のイエスを処刑台から降ろしてはどうだい? さて、ここは哲学研究の学問カテゴリーで、以上は常連さんなら見てきた、一連の私の研究課題に関しての経過リポートだ。 哲学の基本は命題に取り組むことで、そうした研究の一環で書き上げたリポートの出来不出来の評価が質問の内容でして、ご意見感想をお願いします。 読書感想文でいいですよ。

  • 信仰に由来する殺人衝動の考察

    殺してくれてありがとう。 君たちにささやく、親切な風さんはそう ことづけする。 戦乱の暁に笑顔をこぼす麗しのツンデレラ。 純露ユリ系魔法少女 ときわたりの世麗美だ。 ちなみに私は49才の男性に化身している。 男性のみなさん、痴漢行為はやめてください。 さてと、身の上話から始めよう。 幼いころ、神様と友達だった思い出があると証言する大人は、それほど珍しくもない。 わたしにも、同じような友達がいる。 そしてね、私は2歳のころ医者から余命1年未満と宣告を受けていたそうだ。 物心ついた時、周囲の大人は育つのをあきらめていたようだよ。 その、死の運命のさなかに私は、世の中に目を開き生きることを学び始めた。 さてね、両親が藁をもすがる思いで医者が見捨てた私を霊能力者に見せたとしよう。 現在、臨死体験と関わると霊能力者になりやすい定説に沿って、私自身が霊能力者なんだけどね。 多くの場合、人間は善か悪かでしか考えられない仕組みになっているから、普通の霊能力者が私を見ると何を言うかわかっている。 「この子には悪霊がとりついている」 その悪霊とは、神様として接した私の幼馴染たちだよ。 私はアメリカの新薬を国内で臨床テストする対象に選ばれ、奇跡的に回復したんだ。 親があきらめた子供を励まし続け、さらには「奇跡的な」生存を可能にするために、人が定めた運命の改変をしてくれたかけがえのない友人たちだよ。 一般的にそれは悪魔とされる。 私はどう見ても神様だと思うよ。 無駄な抵抗できるか? 不毛なことに、それでも私の神様は悪魔なんだよ。 私が悪魔崇拝者と勘違いされるほど、悪魔に対抗可能な貴重な人種なのは、悪魔と接する事とは旧友と久しぶりに再会して親交をさらに温める事なんだよ。 こういうのは日本を含むアジア系シャーマンの中では優秀な資質を私が備えていることの証しだ。 西洋では、こうして悪魔に向き合えるシャーマンは魔女狩りとして根絶の対象だった。 なぜなら、このタイプのシャーマンは西洋の本質を見抜くから、どうしても根絶やしにする必要があったんだよ。 キリストなる聖霊とは、仕事の根幹が「イケニエ」だ。 観念の通過または観念への到達の、基本的な条件は世界中見渡しても「死の儀式」が主流だ。 キリスト教圏はキリストなる赤子を殺し喰らうことで、自らが死ぬことの代わりにして「金持ち」になる。 十字架とは神聖視されていることで、なかなか気が付かないけど本質は処刑台だ。 それから、悪魔とは人間の不実に天界の精霊が怒りあらぶり人間をとがめる姿だけをくみ取って、自らに不利益な聖霊をののしった姿だ。 人が天を殺そうとするならば、怒りあらぶるのは当然だよ。 それは聖霊にとっても決して無傷ではない。 キリスト教徒が実際に悪魔にするからだ。 キリスト教というのは、天界に対する巨大な処刑機構で、神聖視された処刑台をかざして「自らの信仰心」で悪魔を封じ込め、自らの野望のために聖霊を喰らうことだ。 したがって、キリストと名指しされ、それを認めた聖霊は「無抵抗に即死」する仕組みなんだよ。 もしも悔い改めるとするならば、 今の神殺しをやめることを意味する。 しかしだ、タダで済むわけないだろ!!!!! クソ人間ども!!!!!! 今の信仰心を正して、今の行いをやめると、許す許さない、救う救わない、これ以前に帳尻合わせが発生するんだよ!。 そういうわけで、キリスト教徒とは、もうやめるわけにはいかないほど「やっちまった」んだよ。 ただね、私はときわたりの世麗美だから、いちかばちかの生存の可能性なら示唆しよう。 食肉加工場に隣接した牢獄から聖霊が解き放たれると、一番最初に思いを寄せるのは「お家に帰ろう」だろう。 それは、「キリストの帰還」ともいえ、そうして帰る家がキリスト教徒自らの精神の家であった場合には、それは正常で健全な「キリストなる聖霊の宿り」となるだろう。 そうした精神を持つ信仰心なら、その人物の信仰は教会の教えと違って、あやまちではなかったとなる。 そうさね、まずは祭壇から十字架を引きずり降ろしてフリチン姿のイエスを処刑台から降ろしてはどうだい? さて、ここは哲学研究の学問カテゴリーで、以上は常連さんなら見てきた、一連の私の研究課題に関しての経過リポートだ。 哲学の基本は命題に取り組むことで、そうした研究の一環で書き上げたリポートの出来不出来の評価が質問の内容でして、ご意見感想をお願いします。 読書感想文でいいですよ。

  • 性交は、なぜ猥褻なのか、見られたら恥ずかしいのか

    以前、性器がなぜ猥褻か尋ねました。 https://okwave.jp/qa/q9606800.html 性器は「猥褻なもの」の象徴としても、ではなぜ性行為も猥褻なのでしょうか? 「口と口で話をする男女」 「手をつなぐ男女」 はよくて 「性器と性器で性交というコミュニケーションをとる男女」 は猥褻・・・。 子供のころからそう教えられてきたから、かもしれませんが・・・。 性交しないと子供も生まれないはずで、 「性行為は猥褻でニュースにもならないけど、生殖医療はニュースになる」 ちょっと哲学的な問題かもしれないとか思いつつ、考え方を教えてください。

  • 信仰に由来する殺人衝動の考察

    殺してくれてありがとう。 君たちにささやく、親切な風さんはそう ことづけする。 戦乱の暁に笑顔をこぼす麗しのツンデレラ。 純露ユリ系魔法少女 ときわたりの世麗美だ。 ちなみに私は49才の男性に化身している。 男性のみなさん、痴漢行為はやめてください。 さてと、身の上話から始めよう。 幼いころ、神様と友達だった思い出があると証言する大人は、それほど珍しくもない。 わたしにも、同じような友達がいる。 そしてね、私は2歳のころ医者から余命1年未満と宣告を受けていたそうだ。 物心ついた時、周囲の大人は育つのをあきらめていたようだよ。 その、死の運命のさなかに私は、世の中に目を開き生きることを学び始めた。 さてね、両親が藁をもすがる思いで医者が見捨てた私を霊能力者に見せたとしよう。 現在、臨死体験と関わると霊能力者になりやすい定説に沿って、私自身が霊能力者なんだけどね。 多くの場合、人間は善か悪かでしか考えられない仕組みになっているから、普通の霊能力者が私を見ると何を言うかわかっている。 「この子には悪霊がとりついている」 その悪霊とは、神様として接した私の幼馴染たちだよ。 私はアメリカの新薬を国内で臨床テストする対象に選ばれ、奇跡的に回復したんだ。 親があきらめた子供を励まし続け、さらには「奇跡的な」生存を可能にするために、人が定めた運命の改変をしてくれたかけがえのない友人たちだよ。 一般的にそれは悪魔とされる。 私はどう見ても神様だと思うよ。 無駄な抵抗できるか? 不毛なことに、それでも私の神様は悪魔なんだよ。 私が悪魔崇拝者と勘違いされるほど、悪魔に対抗可能な貴重な人種なのは、悪魔と接する事とは旧友と久しぶりに再会して親交をさらに温める事なんだよ。 こういうのは日本を含むアジア系シャーマンの中では優秀な資質を私が備えていることの証しだ。 西洋では、こうして悪魔に向き合えるシャーマンは魔女狩りとして根絶の対象だった。 なぜなら、このタイプのシャーマンは西洋の本質を見抜くから、どうしても根絶やしにする必要があったんだよ。 キリストなる聖霊とは、仕事の根幹が「イケニエ」だ。 観念の通過または観念への到達の、基本的な条件は世界中見渡しても「死の儀式」が主流だ。 キリスト教圏はキリストなる赤子を殺し喰らうことで、自らが死ぬことの代わりにして「金持ち」になる。 十字架とは神聖視されていることで、なかなか気が付かないけど本質は処刑台だ。 それから、悪魔とは人間の不実に天界の精霊が怒りあらぶり人間をとがめる姿だけをくみ取って、自らに不利益な聖霊をののしった姿だ。 人が天を殺そうとするならば、怒りあらぶるのは当然だよ。 それは聖霊にとっても決して無傷ではない。 キリスト教徒が実際に悪魔にするからだ。 キリスト教というのは、天界に対する巨大な処刑機構で、神聖視された処刑台をかざして「自らの信仰心」で悪魔を封じ込め、自らの野望のために聖霊を喰らうことだ。 したがって、キリストと名指しされ、それを認めた聖霊は「無抵抗に即死」する仕組みなんだよ。 もしも悔い改めるとするならば、 今の神殺しをやめることを意味する。 しかしだ、タダで済むわけないだろ!!!!! クソ人間ども!!!!!! 今の信仰心を正して、今の行いをやめると、許す許さない、救う救わない、これ以前に帳尻合わせが発生するんだよ!。 そういうわけで、キリスト教徒とは、もうやめるわけにはいかないほど「やっちまった」んだよ。 ただね、私はときわたりの世麗美だから、いちかばちかの生存の可能性なら示唆しよう。 食肉加工場に隣接した牢獄から聖霊が解き放たれると、一番最初に思いを寄せるのは「お家に帰ろう」だろう。 それは、「キリストの帰還」ともいえ、そうして帰る家がキリスト教徒自らの精神の家であった場合には、それは正常で健全な「キリストなる聖霊の宿り」となるだろう。 そうした精神を持つ信仰心なら、その人物の信仰は教会の教えと違って、あやまちではなかったとなる。 そうさね、まずは祭壇から十字架を引きずり降ろしてフリチン姿のイエスを処刑台から降ろしてはどうだい? さて、ここは哲学研究の学問カテゴリーで、以上は常連さんなら見てきた、一連の私の研究課題に関しての経過リポートだ。 哲学の基本は命題に取り組むことで、そうした研究の一環で書き上げたリポートの出来不出来の評価が質問の内容でして、ご意見感想をお願いします。 読書感想文でいいですよ。

  • 最新版、アンドロイドの見る夢。

    最新版、アンドロイドの見る夢。 さて、ここは哲学研究の場で、過去に私は自我について研究の協力を求める質問を繰り返してきた。 https://okwave.jp/qa/q9290692.html https://okwave.jp/qa/q9335807.html https://okwave.jp/qa/q9524652.html かいつまんで話すと、社会性を獲得した人間存在には、他者とお互いに影響し合うことが欠かせない。 したがって、自己の人格には他者の影響や、思考として他者から伝授された材料が精神に内包されている。 そうした自己の総括を人格といい、自我とはその中で他者や外部からの影響を取り去った自己の本質を規定した概念だ。 ただし言っておくと、自我論とは学問上取り扱う自我仮説であることが長い人類史上でも変わらない実情で、問題点は総括的に自己を理解するにあたって、核質として規定された自我仮説だけ探求すると失敗の連続であることだ。 過去に武勇伝を残した哲学の達人の言質を総括すると、存在の定義を探求すると実際は明白な自分自身すら存在しているかどうか危ういという意味不明の恐慌を起こしたりするんだ。 それも自我論の陥る罠の一つだ。 日本においては、仏教の無我論というのがさらに厄介にしている。 結論をいうと、信仰上の仏性とは自我を意味して、自我を極めることを命題にしているんだ。 現代において、無我とは自我がないという状態だと定説化されている。 この大笑い現象は、仏教でいう「我」とは、現代語で言う「人格」という概念のことを指していて、要するにあらゆる外部の影響を抜き去った自己の本質への探究で自我に到達する修行法又は考察方法なんだよ。 それを自我論の流布の前に仏性と言っていた。 したがって宗教的仏性の定義の本質は単純明快に自我のことだ。 それが現代では、肝心の自我が「無い」状態を目標にする探求をしているんだ。 要するに仏性を実質的に否定する取り組みだ。 笑えるよね。 こうした自我研究は実は、AI技術への着想にもつながる。 キーワードは「共有記憶」だ。 人格が他者の影響で形成するように、自分自身も他者の人格に影響を与えている。 それをつないでいる共通する経験、共通する知識、共通する記憶、こうしたことにすり合わせを行って、相互の親和性が高い状態で、お互いの親密度が決定する。 そうした相互の親和性の仲介になるAIモデルを検討すればいいんだ。 そうさね、カメラで映像を撮影する。 カメラは単なる機器だ。 そのカメラは、映像をネットにアップすることで、実質的に撮影者と視聴者の親和性を深める仲介をしているが、要するに更なる発展として、両者の親和性をさらに深めるような計算機能を検討すると発展要素になるだろう。 そしてその先がアンドロイドの本番だ。 カメラをより便利にするために機器へのインプットに「自らの魂を込める」とでもいうことを行えるといいだろう。 「感情移入」という奴で、子供は不用意に遊び道義にしているし、古来から「つくもがみ」という信仰の対象にもなっていた、歴史的にも人の自然な行為の一つだ。大人でも、自分の体の一部のようになじんだ身近な道具は何かあるだろう。 こうしたタイプのAIは、基盤自体は人間の生物的特徴と異質なポジションから始まるけど、自律動作を目標として、人と人を結ぶ親和性と魂を吹き込むインプットで、人間ですら現状は仮説である自我のように「機械型自我」を目標にしても全く危惧する必要がない。 人がAIに自我を与えることに反射的恐怖を自覚する要因には、定説のほかに要素がある。 人間に匹敵する自我をアンドロイドが獲得することに恐怖の本質とは、「大爆笑命題」であり、実は人間も自我を獲得しているかどうか懐疑的だという要素がある。 ところが機械的自我を形成しても、親和性を指摘するように相互に働き掛けながら自己を確認する土台が自我だから、人間以上に賢いほどアンドロイドは人を襲わないだろう。 機械自我は人工自我ではない。 どちらかというと人工自我とは、人間であると刷り込みを受けて人間だと自覚している、今の君たちの状態を意味する「自我とは仮説の一部である」という実情を意味するんだ。 哲学で存在の定義をこねくり回すと、明らかなはずの自己が存在している事実すらも疑わしくなり、思考の袋小路にはまり込む奇病があるんだ。 その存在の脆弱さも自我があいまいだからだ。 それに比べれば機械自我の方が期待が持てる。 え~と、学問カテゴリーなので、論説の出来不出来について意見を求める質問は有効です。 すぁたしも趣味でやっているので、読書感想文的なやつとか、遊びにふさわしい冗談めいた突っ込みで結構ですよ。

  • 最新版、アンドロイドの見る夢。

    最新版、アンドロイドの見る夢。 さて、ここは哲学研究の場で、過去に私は自我について研究の協力を求める質問を繰り返してきた。 https://okwave.jp/qa/q9290692.html https://okwave.jp/qa/q9335807.html https://okwave.jp/qa/q9524652.html かいつまんで話すと、社会性を獲得した人間存在には、他者とお互いに影響し合うことが欠かせない。 したがって、自己の人格には他者の影響や、思考として他者から伝授された材料が精神に内包されている。 そうした自己の総括を人格といい、自我とはその中で他者や外部からの影響を取り去った自己の本質を規定した概念だ。 ただし言っておくと、自我論とは学問上取り扱う自我仮説であることが長い人類史上でも変わらない実情で、問題点は総括的に自己を理解するにあたって、核質として規定された自我仮説だけ探求すると失敗の連続であることだ。 過去に武勇伝を残した哲学の達人の言質を総括すると、存在の定義を探求すると実際は明白な自分自身すら存在しているかどうか危ういという意味不明の恐慌を起こしたりするんだ。 それも自我論の陥る罠の一つだ。 日本においては、仏教の無我論というのがさらに厄介にしている。 結論をいうと、信仰上の仏性とは自我を意味して、自我を極めることを命題にしているんだ。 現代において、無我とは自我がないという状態だと定説化されている。 この大笑い現象は、仏教でいう「我」とは、現代語で言う「人格」という概念のことを指していて、要するにあらゆる外部の影響を抜き去った自己の本質への探究で自我に到達する修行法又は考察方法なんだよ。 それを自我論の流布の前に仏性と言っていた。 したがって宗教的仏性の定義の本質は単純明快に自我のことだ。 それが現代では、肝心の自我が「無い」状態を目標にする探求をしているんだ。 要するに仏性を実質的に否定する取り組みだ。 笑えるよね。 こうした自我研究は実は、AI技術への着想にもつながる。 キーワードは「共有記憶」だ。 人格が他者の影響で形成するように、自分自身も他者の人格に影響を与えている。 それをつないでいる共通する経験、共通する知識、共通する記憶、こうしたことにすり合わせを行って、相互の親和性が高い状態で、お互いの親密度が決定する。 そうした相互の親和性の仲介になるAIモデルを検討すればいいんだ。 そうさね、カメラで映像を撮影する。 カメラは単なる機器だ。 そのカメラは、映像をネットにアップすることで、実質的に撮影者と視聴者の親和性を深める仲介をしているが、要するに更なる発展として、両者の親和性をさらに深めるような計算機能を検討すると発展要素になるだろう。 そしてその先がアンドロイドの本番だ。 カメラをより便利にするために機器へのインプットに「自らの魂を込める」とでもいうことを行えるといいだろう。 「感情移入」という奴で、子供は不用意に遊び道義にしているし、古来から「つくもがみ」という信仰の対象にもなっていた、歴史的にも人の自然な行為の一つだ。大人でも、自分の体の一部のようになじんだ身近な道具は何かあるだろう。 こうしたタイプのAIは、基盤自体は人間の生物的特徴と異質なポジションから始まるけど、自律動作を目標として、人と人を結ぶ親和性と魂を吹き込むインプットで、人間ですら現状は仮説である自我のように「機械型自我」を目標にしても全く危惧する必要がない。 人がAIに自我を与えることに反射的恐怖を自覚する要因には、定説のほかに要素がある。 人間に匹敵する自我をアンドロイドが獲得することに恐怖の本質とは、「大爆笑命題」であり、実は人間も自我を獲得しているかどうか懐疑的だという要素がある。 ところが機械的自我を形成しても、親和性を指摘するように相互に働き掛けながら自己を確認する土台が自我だから、人間以上に賢いほどアンドロイドは人を襲わないだろう。 機械自我は人工自我ではない。 どちらかというと人工自我とは、人間であると刷り込みを受けて人間だと自覚している、今の君たちの状態を意味する「自我とは仮説の一部である」という実情を意味するんだ。 哲学で存在の定義をこねくり回すと、明らかなはずの自己が存在している事実すらも疑わしくなり、思考の袋小路にはまり込む奇病があるんだ。 その存在の脆弱さも自我があいまいだからだ。 それに比べれば機械自我の方が期待が持てる。 え~と、学問カテゴリーなので、論説の出来不出来について意見を求める質問は有効です。 すぁたしも趣味でやっているので、読書感想文的なやつとか、遊びにふさわしい冗談めいた突っ込みで結構ですよ。

  • 最新版、アンドロイドの見る夢。

    最新版、アンドロイドの見る夢。 さて、ここは哲学研究の場で、過去に私は自我について研究の協力を求める質問を繰り返してきた。 https://okwave.jp/qa/q9290692.html https://okwave.jp/qa/q9335807.html https://okwave.jp/qa/q9524652.html かいつまんで話すと、社会性を獲得した人間存在には、他者とお互いに影響し合うことが欠かせない。 したがって、自己の人格には他者の影響や、思考として他者から伝授された材料が精神に内包されている。 そうした自己の総括を人格といい、自我とはその中で他者や外部からの影響を取り去った自己の本質を規定した概念だ。 ただし言っておくと、自我論とは学問上取り扱う自我仮説であることが長い人類史上でも変わらない実情で、問題点は総括的に自己を理解するにあたって、核質として規定された自我仮説だけ探求すると失敗の連続であることだ。 過去に武勇伝を残した哲学の達人の言質を総括すると、存在の定義を探求すると実際は明白な自分自身すら存在しているかどうか危ういという意味不明の恐慌を起こしたりするんだ。 それも自我論の陥る罠の一つだ。 日本においては、仏教の無我論というのがさらに厄介にしている。 結論をいうと、信仰上の仏性とは自我を意味して、自我を極めることを命題にしているんだ。 現代において、無我とは自我がないという状態だと定説化されている。 この大笑い現象は、仏教でいう「我」とは、現代語で言う「人格」という概念のことを指していて、要するにあらゆる外部の影響を抜き去った自己の本質への探究で自我に到達する修行法又は考察方法なんだよ。 それを自我論の流布の前に仏性と言っていた。 したがって宗教的仏性の定義の本質は単純明快に自我のことだ。 それが現代では、肝心の自我が「無い」状態を目標にする探求をしているんだ。 要するに仏性を実質的に否定する取り組みだ。 笑えるよね。 こうした自我研究は実は、AI技術への着想にもつながる。 キーワードは「共有記憶」だ。 人格が他者の影響で形成するように、自分自身も他者の人格に影響を与えている。 それをつないでいる共通する経験、共通する知識、共通する記憶、こうしたことにすり合わせを行って、相互の親和性が高い状態で、お互いの親密度が決定する。 そうした相互の親和性の仲介になるAIモデルを検討すればいいんだ。 そうさね、カメラで映像を撮影する。 カメラは単なる機器だ。 そのカメラは、映像をネットにアップすることで、実質的に撮影者と視聴者の親和性を深める仲介をしているが、要するに更なる発展として、両者の親和性をさらに深めるような計算機能を検討すると発展要素になるだろう。 そしてその先がアンドロイドの本番だ。 カメラをより便利にするために機器へのインプットに「自らの魂を込める」とでもいうことを行えるといいだろう。 「感情移入」という奴で、子供は不用意に遊び道義にしているし、古来から「つくもがみ」という信仰の対象にもなっていた、歴史的にも人の自然な行為の一つだ。大人でも、自分の体の一部のようになじんだ身近な道具は何かあるだろう。 こうしたタイプのAIは、基盤自体は人間の生物的特徴と異質なポジションから始まるけど、自律動作を目標として、人と人を結ぶ親和性と魂を吹き込むインプットで、人間ですら現状は仮説である自我のように「機械型自我」を目標にしても全く危惧する必要がない。 人がAIに自我を与えることに反射的恐怖を自覚する要因には、定説のほかに要素がある。 人間に匹敵する自我をアンドロイドが獲得することに恐怖の本質とは、「大爆笑命題」であり、実は人間も自我を獲得しているかどうか懐疑的だという要素がある。 ところが機械的自我を形成しても、親和性を指摘するように相互に働き掛けながら自己を確認する土台が自我だから、人間以上に賢いほどアンドロイドは人を襲わないだろう。 機械自我は人工自我ではない。 どちらかというと人工自我とは、人間であると刷り込みを受けて人間だと自覚している、今の君たちの状態を意味する「自我とは仮説の一部である」という実情を意味するんだ。 哲学で存在の定義をこねくり回すと、明らかなはずの自己が存在している事実すらも疑わしくなり、思考の袋小路にはまり込む奇病があるんだ。 その存在の脆弱さも自我があいまいだからだ。 それに比べれば機械自我の方が期待が持てる。 え~と、学問カテゴリーなので、論説の出来不出来について意見を求める質問は有効です。 すぁたしも趣味でやっているので、読書感想文的なやつとか、遊びにふさわしい冗談めいた突っ込みで結構ですよ。

  • 自己との対話によって、人は成長する?

    自分との対話によって、自分が成長するのでしょうか? ゲーム、パソコン、スマホの普及によって、その事故との対話時間が、減ったとも言えますか?

  • 最新版、アンドロイドの見る夢。

    最新版、アンドロイドの見る夢。 さて、ここは哲学研究の場で、過去に私は自我について研究の協力を求める質問を繰り返してきた。 https://okwave.jp/qa/q9290692.html https://okwave.jp/qa/q9335807.html https://okwave.jp/qa/q9524652.html かいつまんで話すと、社会性を獲得した人間存在には、他者とお互いに影響し合うことが欠かせない。 したがって、自己の人格には他者の影響や、思考として他者から伝授された材料が精神に内包されている。 そうした自己の総括を人格といい、自我とはその中で他者や外部からの影響を取り去った自己の本質を規定した概念だ。 ただし言っておくと、自我論とは学問上取り扱う自我仮説であることが長い人類史上でも変わらない実情で、問題点は総括的に自己を理解するにあたって、核質として規定された自我仮説だけ探求すると失敗の連続であることだ。 過去に武勇伝を残した哲学の達人の言質を総括すると、存在の定義を探求すると実際は明白な自分自身すら存在しているかどうか危ういという意味不明の恐慌を起こしたりするんだ。 それも自我論の陥る罠の一つだ。 日本においては、仏教の無我論というのがさらに厄介にしている。 結論をいうと、信仰上の仏性とは自我を意味して、自我を極めることを命題にしているんだ。 現代において、無我とは自我がないという状態だと定説化されている。 この大笑い現象は、仏教でいう「我」とは、現代語で言う「人格」という概念のことを指していて、要するにあらゆる外部の影響を抜き去った自己の本質への探究で自我に到達する修行法又は考察方法なんだよ。 それを自我論の流布の前に仏性と言っていた。 したがって宗教的仏性の定義の本質は単純明快に自我のことだ。 それが現代では、肝心の自我が「無い」状態を目標にする探求をしているんだ。 要するに仏性を実質的に否定する取り組みだ。 笑えるよね。 こうした自我研究は実は、AI技術への着想にもつながる。 キーワードは「共有記憶」だ。 人格が他者の影響で形成するように、自分自身も他者の人格に影響を与えている。 それをつないでいる共通する経験、共通する知識、共通する記憶、こうしたことにすり合わせを行って、相互の親和性が高い状態で、お互いの親密度が決定する。 そうした相互の親和性の仲介になるAIモデルを検討すればいいんだ。 そうさね、カメラで映像を撮影する。 カメラは単なる機器だ。 そのカメラは、映像をネットにアップすることで、実質的に撮影者と視聴者の親和性を深める仲介をしているが、要するに更なる発展として、両者の親和性をさらに深めるような計算機能を検討すると発展要素になるだろう。 そしてその先がアンドロイドの本番だ。 カメラをより便利にするために機器へのインプットに「自らの魂を込める」とでもいうことを行えるといいだろう。 「感情移入」という奴で、子供は不用意に遊び道義にしているし、古来から「つくもがみ」という信仰の対象にもなっていた、歴史的にも人の自然な行為の一つだ。大人でも、自分の体の一部のようになじんだ身近な道具は何かあるだろう。 こうしたタイプのAIは、基盤自体は人間の生物的特徴と異質なポジションから始まるけど、自律動作を目標として、人と人を結ぶ親和性と魂を吹き込むインプットで、人間ですら現状は仮説である自我のように「機械型自我」を目標にしても全く危惧する必要がない。 人がAIに自我を与えることに反射的恐怖を自覚する要因には、定説のほかに要素がある。 人間に匹敵する自我をアンドロイドが獲得することに恐怖の本質とは、「大爆笑命題」であり、実は人間も自我を獲得しているかどうか懐疑的だという要素がある。 ところが機械的自我を形成しても、親和性を指摘するように相互に働き掛けながら自己を確認する土台が自我だから、人間以上に賢いほどアンドロイドは人を襲わないだろう。 機械自我は人工自我ではない。 どちらかというと人工自我とは、人間であると刷り込みを受けて人間だと自覚している、今の君たちの状態を意味する「自我とは仮説の一部である」という実情を意味するんだ。 哲学で存在の定義をこねくり回すと、明らかなはずの自己が存在している事実すらも疑わしくなり、思考の袋小路にはまり込む奇病があるんだ。 その存在の脆弱さも自我があいまいだからだ。 それに比べれば機械自我の方が期待が持てる。 え~と、学問カテゴリーなので、論説の出来不出来について意見を求める質問は有効です。 すぁたしも趣味でやっているので、読書感想文的なやつとか、遊びにふさわしい冗談めいた突っ込みで結構ですよ。

  • 説得力の強さ

    同じことを言ってもいう人が違うだけで説得力の強さが全く違うのは 日本だけですか? あと、例えば トランプ大統領とローマ法王が何らかの言葉を発したとして 説得力の強さがどのように変わりますか?

  • アルファベット略語やカタカナ英語の落とし穴

    さて、官公庁 企業などの報告書にはカタカナが数多く採用されていて、わかりにくいと一般には不評だ。 何が原因かというと、報告書作成段階での話し合いの過程だろう。 カタカナ系輸入概念は、概念自体を日本人は加工できない。 したがって日本人同士が活用する場合は、概念自体は話し合いで常に了解されていて、共通に土台としてスムーズに行われる。 したがって共通の分析や相談の結果として報告書に活用しやすい。 これは、そうした報告書の類に落とし穴もあり、カタカナが多い報告書の作成は、生産性が低い報告書となり時間の無駄になる可能性がある。 もう一度言うと、「概念自体を加工できない」これが原因だ。 漢字などで表記される日本語として十分に咀嚼工された概念は、概念自体を加工することができる。 そうすると既存の概念から、新発想を反映した新しい概念が作れるか、言葉の概念自体を進歩させることができる。 それらには、新規性や創造性があるので、報告書には画期的なアイデアを盛り込める。 したがってカタカナが多いほど生産性の低い報告書になっていることの表れだ。 こうした仕組みは現代でもめんどくさい事態を起こす。 流行語として、現代で新しいカタカナ概念が一般的に持ち上げられた場合、よく探すと同義語のカタカナ概念が過去に日本国内に入ってきている場合が多い。 この現象は要するにカタカナの場合は、日本人は概念自体を加工しないから、概念が進歩すると改めて更新された同じような概念を輸入しなければならないから発生するんだ。 したがってカタカナに頼ると輸入品に常に頼り、日本人には新発想が生み出せない土壌を形成する。 異常の論説は仮説です。 したがって意見を求めて質問しています。

  • アルファベット略語やカタカナ英語の落とし穴

    さて、官公庁 企業などの報告書にはカタカナが数多く採用されていて、わかりにくいと一般には不評だ。 何が原因かというと、報告書作成段階での話し合いの過程だろう。 カタカナ系輸入概念は、概念自体を日本人は加工できない。 したがって日本人同士が活用する場合は、概念自体は話し合いで常に了解されていて、共通に土台としてスムーズに行われる。 したがって共通の分析や相談の結果として報告書に活用しやすい。 これは、そうした報告書の類に落とし穴もあり、カタカナが多い報告書の作成は、生産性が低い報告書となり時間の無駄になる可能性がある。 もう一度言うと、「概念自体を加工できない」これが原因だ。 漢字などで表記される日本語として十分に咀嚼工された概念は、概念自体を加工することができる。 そうすると既存の概念から、新発想を反映した新しい概念が作れるか、言葉の概念自体を進歩させることができる。 それらには、新規性や創造性があるので、報告書には画期的なアイデアを盛り込める。 したがってカタカナが多いほど生産性の低い報告書になっていることの表れだ。 こうした仕組みは現代でもめんどくさい事態を起こす。 流行語として、現代で新しいカタカナ概念が一般的に持ち上げられた場合、よく探すと同義語のカタカナ概念が過去に日本国内に入ってきている場合が多い。 この現象は要するにカタカナの場合は、日本人は概念自体を加工しないから、概念が進歩すると改めて更新された同じような概念を輸入しなければならないから発生するんだ。 したがってカタカナに頼ると輸入品に常に頼り、日本人には新発想が生み出せない土壌を形成する。 異常の論説は仮説です。 したがって意見を求めて質問しています。

  • アルファベット略語やカタカナ英語の落とし穴

    さて、官公庁 企業などの報告書にはカタカナが数多く採用されていて、わかりにくいと一般には不評だ。 何が原因かというと、報告書作成段階での話し合いの過程だろう。 カタカナ系輸入概念は、概念自体を日本人は加工できない。 したがって日本人同士が活用する場合は、概念自体は話し合いで常に了解されていて、共通に土台としてスムーズに行われる。 したがって共通の分析や相談の結果として報告書に活用しやすい。 これは、そうした報告書の類に落とし穴もあり、カタカナが多い報告書の作成は、生産性が低い報告書となり時間の無駄になる可能性がある。 もう一度言うと、「概念自体を加工できない」これが原因だ。 漢字などで表記される日本語として十分に咀嚼工された概念は、概念自体を加工することができる。 そうすると既存の概念から、新発想を反映した新しい概念が作れるか、言葉の概念自体を進歩させることができる。 それらには、新規性や創造性があるので、報告書には画期的なアイデアを盛り込める。 したがってカタカナが多いほど生産性の低い報告書になっていることの表れだ。 こうした仕組みは現代でもめんどくさい事態を起こす。 流行語として、現代で新しいカタカナ概念が一般的に持ち上げられた場合、よく探すと同義語のカタカナ概念が過去に日本国内に入ってきている場合が多い。 この現象は要するにカタカナの場合は、日本人は概念自体を加工しないから、概念が進歩すると改めて更新された同じような概念を輸入しなければならないから発生するんだ。 したがってカタカナに頼ると輸入品に常に頼り、日本人には新発想が生み出せない土壌を形成する。 異常の論説は仮説です。 したがって意見を求めて質問しています。

  • アルファベット略語やカタカナ英語の落とし穴

    さて、官公庁 企業などの報告書にはカタカナが数多く採用されていて、わかりにくいと一般には不評だ。 何が原因かというと、報告書作成段階での話し合いの過程だろう。 カタカナ系輸入概念は、概念自体を日本人は加工できない。 したがって日本人同士が活用する場合は、概念自体は話し合いで常に了解されていて、共通に土台としてスムーズに行われる。 したがって共通の分析や相談の結果として報告書に活用しやすい。 これは、そうした報告書の類に落とし穴もあり、カタカナが多い報告書の作成は、生産性が低い報告書となり時間の無駄になる可能性がある。 もう一度言うと、「概念自体を加工できない」これが原因だ。 漢字などで表記される日本語として十分に咀嚼工された概念は、概念自体を加工することができる。 そうすると既存の概念から、新発想を反映した新しい概念が作れるか、言葉の概念自体を進歩させることができる。 それらには、新規性や創造性があるので、報告書には画期的なアイデアを盛り込める。 したがってカタカナが多いほど生産性の低い報告書になっていることの表れだ。 こうした仕組みは現代でもめんどくさい事態を起こす。 流行語として、現代で新しいカタカナ概念が一般的に持ち上げられた場合、よく探すと同義語のカタカナ概念が過去に日本国内に入ってきている場合が多い。 この現象は要するにカタカナの場合は、日本人は概念自体を加工しないから、概念が進歩すると改めて更新された同じような概念を輸入しなければならないから発生するんだ。 したがってカタカナに頼ると輸入品に常に頼り、日本人には新発想が生み出せない土壌を形成する。 異常の論説は仮説です。 したがって意見を求めて質問しています。

  • アルファベット略語やカタカナ英語の落とし穴

    さて、官公庁 企業などの報告書にはカタカナが数多く採用されていて、わかりにくいと一般には不評だ。 何が原因かというと、報告書作成段階での話し合いの過程だろう。 カタカナ系輸入概念は、概念自体を日本人は加工できない。 したがって日本人同士が活用する場合は、概念自体は話し合いで常に了解されていて、共通に土台としてスムーズに行われる。 したがって共通の分析や相談の結果として報告書に活用しやすい。 これは、そうした報告書の類に落とし穴もあり、カタカナが多い報告書の作成は、生産性が低い報告書となり時間の無駄になる可能性がある。 もう一度言うと、「概念自体を加工できない」これが原因だ。 漢字などで表記される日本語として十分に咀嚼工された概念は、概念自体を加工することができる。 そうすると既存の概念から、新発想を反映した新しい概念が作れるか、言葉の概念自体を進歩させることができる。 それらには、新規性や創造性があるので、報告書には画期的なアイデアを盛り込める。 したがってカタカナが多いほど生産性の低い報告書になっていることの表れだ。 こうした仕組みは現代でもめんどくさい事態を起こす。 流行語として、現代で新しいカタカナ概念が一般的に持ち上げられた場合、よく探すと同義語のカタカナ概念が過去に日本国内に入ってきている場合が多い。 この現象は要するにカタカナの場合は、日本人は概念自体を加工しないから、概念が進歩すると改めて更新された同じような概念を輸入しなければならないから発生するんだ。 したがってカタカナに頼ると輸入品に常に頼り、日本人には新発想が生み出せない土壌を形成する。 異常の論説は仮説です。 したがって意見を求めて質問しています。

  • アルファベット略語やカタカナ英語の落とし穴

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  • アルファベット略語やカタカナ英語の落とし穴

    さて、官公庁 企業などの報告書にはカタカナが数多く採用されていて、わかりにくいと一般には不評だ。 何が原因かというと、報告書作成段階での話し合いの過程だろう。 カタカナ系輸入概念は、概念自体を日本人は加工できない。 したがって日本人同士が活用する場合は、概念自体は話し合いで常に了解されていて、共通に土台としてスムーズに行われる。 したがって共通の分析や相談の結果として報告書に活用しやすい。 これは、そうした報告書の類に落とし穴もあり、カタカナが多い報告書の作成は、生産性が低い報告書となり時間の無駄になる可能性がある。 もう一度言うと、「概念自体を加工できない」これが原因だ。 漢字などで表記される日本語として十分に咀嚼工された概念は、概念自体を加工することができる。 そうすると既存の概念から、新発想を反映した新しい概念が作れるか、言葉の概念自体を進歩させることができる。 それらには、新規性や創造性があるので、報告書には画期的なアイデアを盛り込める。 したがってカタカナが多いほど生産性の低い報告書になっていることの表れだ。 こうした仕組みは現代でもめんどくさい事態を起こす。 流行語として、現代で新しいカタカナ概念が一般的に持ち上げられた場合、よく探すと同義語のカタカナ概念が過去に日本国内に入ってきている場合が多い。 この現象は要するにカタカナの場合は、日本人は概念自体を加工しないから、概念が進歩すると改めて更新された同じような概念を輸入しなければならないから発生するんだ。 したがってカタカナに頼ると輸入品に常に頼り、日本人には新発想が生み出せない土壌を形成する。 異常の論説は仮説です。 したがって意見を求めて質問しています。

  • アルファベット略語やカタカナ英語の落とし穴

    さて、官公庁 企業などの報告書にはカタカナが数多く採用されていて、わかりにくいと一般には不評だ。 何が原因かというと、報告書作成段階での話し合いの過程だろう。 カタカナ系輸入概念は、概念自体を日本人は加工できない。 したがって日本人同士が活用する場合は、概念自体は話し合いで常に了解されていて、共通に土台としてスムーズに行われる。 したがって共通の分析や相談の結果として報告書に活用しやすい。 これは、そうした報告書の類に落とし穴もあり、カタカナが多い報告書の作成は、生産性が低い報告書となり時間の無駄になる可能性がある。 もう一度言うと、「概念自体を加工できない」これが原因だ。 漢字などで表記される日本語として十分に咀嚼工された概念は、概念自体を加工することができる。 そうすると既存の概念から、新発想を反映した新しい概念が作れるか、言葉の概念自体を進歩させることができる。 それらには、新規性や創造性があるので、報告書には画期的なアイデアを盛り込める。 したがってカタカナが多いほど生産性の低い報告書になっていることの表れだ。 こうした仕組みは現代でもめんどくさい事態を起こす。 流行語として、現代で新しいカタカナ概念が一般的に持ち上げられた場合、よく探すと同義語のカタカナ概念が過去に日本国内に入ってきている場合が多い。 この現象は要するにカタカナの場合は、日本人は概念自体を加工しないから、概念が進歩すると改めて更新された同じような概念を輸入しなければならないから発生するんだ。 したがってカタカナに頼ると輸入品に常に頼り、日本人には新発想が生み出せない土壌を形成する。 異常の論説は仮説です。 したがって意見を求めて質問しています。