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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:定冠詞は「全体」を指し示すか)

定冠詞の機能とは?全体を指し示すか

Nakay702の回答

  • Nakay702
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回答No.2

質問者からの補足を拝見しました。 @「聞き手の文法」と「発話者の文法」とを区別することにどのような意味があるのでしょうか。/(それらは)表裏一体のものだと思います。定冠詞使用に際しての主導権はもちろん話者にありますが、コミュニケーションの原理に立てば、定冠詞の使用は発話者と聞き手の共同作業によるものだと思います。 ⇒突然反発して恐縮ですが、共同作業が即一体とはならないでしょう。現実問題、発話者の文法はパロール・個人語寄りで、syntagmを重視し、斬新的表現に富む傾向がある一方、聞き手の文法はラング・標準語寄りで、paradigmを重視し、変化や逸脱表現を忌避する傾向があって、しばしば行き違いが起こり得ます。かつて、些細な表現の解釈をめぐって国際的な対立騒動が起こったこともありました。古くは、solipsismの悲観的な所説もありましたが、そこまでこだわらないとしても、コミュニケーションの原理に立てばこそ、入力側と出力側で文法や解釈上の規則に関して齟齬や軋轢の類が生じる可能性のあり得ることは、念頭に留めて置くに如くはないと思います。 @<指示範囲について定冠詞が全体、不定冠詞が部分を表し>についてですが、<指示範囲について不定冠詞が部分を表す>ことは不定冠詞の成り立ちから論理的に導くことができます。でも、<指示範囲について定冠詞が全体を表す>ことは定冠詞の成り立ちから論理的に導くことはできません。もし、I bought a book at the store, but the book was uninteresting. におけるthe bookの有り様を全体というのであれば、確かにお説が成り立ちます(おそらく要素が一つしかない集合のすべてということだと思います)が、ただ一つのものを全体という言い方でもって表現することに、日本語の使い方として若干の違和感を覚えます。 ⇒またも逆らうようですみませんが、定冠詞は全体を表す「ことがある」と言っているだけです。ただ一つのものだけを全体と言うわけではありません。例えば、They are teachers of our school. が先生の一部を表すのに対し、They are the teachers of our school. が先生全員を表すという場合も含めてのことです。 @Russellの唯一説においては単数可算名詞だけが該当することをHawkinsが指摘しました。たしかに、Russellは存命中に他に不可解な見解を披瀝することもありましたが、定冠詞の特性を単数可算名詞だけにあてはめて、物質名詞・抽象名詞・複数可算名詞の場合を放念したとはまさか考えにくいことです。もしかしたら、彼は唯一性ということを定冠詞を使った定名詞句全体に当てはまるものとして説を唱えたのではないかという気がします。だとしたら、Russellの欠陥をついたと思ったのはHawkinsの勇み足ということになります。/the+名詞が指し示す範囲は全体であるとするHawkins説は、何らかの前提から導かれたものではなく、論理上の要請によるものでしかありません。その場合、その仮定がthe+名詞のすべてのありようにおいて成り立つのであれば問題ありませんが、語用論的にしか成り立たないし、成り立つケースも多くないとすれば、その説の信憑性に疑問符がつくのではないかと思います。 ⇒正直、私は(上記所説の)冠詞をめぐる語用論はよく存じません。ただ単純に、定冠詞は、ひとことで言えば限定を表すが、その特異点として「そのものの全体を限定する」ことがあるので、それを称して「定冠詞は全体を表すことがある」と言える、と考えています。 @<指示範囲について定冠詞が全体、不定冠詞が部分を表し、指示方法に関しては定冠詞が限定を、不定冠詞が任意を表す>に関して言えば、全体+ではなく全体±だということです。また、限定+ではなく限定±です。なぜなら、I bought a book at the store. The book was uninteresting. におけるthe bookと、The Browns go to the sea for vacation in the summer. におけるthe seaは限定と言うより間接的な指示と言った方がふさわしいものだからです。限定という言い方が成り立つのは、話題に出ていない名詞に形容詞(句・節)や同格句(節)が付与される時くらいなものだと思いますが、指示方法全体のうちのどのくらいの割合を占めるのかは不明です。だとすると、<指示方法に関しては定冠詞が限定を、不定冠詞が任意を表す>において、限定ではなく、限定又は間接指示とすべきだと思います。Chestermanは意味素性としてlocatabilityを追加しています。同定可能ということです。これなら不定冠詞の場合の任意という言い方と対照的に使えそうな気がします。 ⇒なるほど、お説のご趣旨、十分納得がいきます。 @私が議論の対象としたかったのは、そもそもこのような意味素性分析に意味があるのかということです。Nakayさんのおっしゃる「現在の共時態」の解析も同じものだと思いますが。ここで語が持つと考えられている意味がどのようなあり方をしているのか考えてみます。古くからある考えでは、語の意味は言語使用者から客観的な実体として独立しているとするものです。でも、その場合、語の意味を言語使用者から切り離して客体化してとらえることになるので、意味を正しくとらえることができません。意味をとらえようとすると、あるいは定義を行おうとすると、その正しさが問題にされる時に説明不可能です。説明しようとすると論理循環または無限遡及が起きます。この問題を解消しようとすれば、言語使用者が語に対して主体的な関わりを持ち、意味づけを行っていると考えるしかありません。これまで何度も紹介した現象学の考え方です。この考え方を引き継いだのが認知文法・認知言語学です。認知文法によれば語の意味は概念ではなく概念化です。すなわち言語主体による意味づけという面がクローズアップされてくるわけです。 ⇒意味素性分析に意味がないとは思いませんが、後半のお説は了解です。「論理循環または無限遡及」は、その昔(英語ではありませんが)ある辞書作りに携わった折、大いに問題となって、ずいぶん議論を交わした記憶があります。(後者に相当することは「無限後退」と呼んでいました。) @意味素性分析は何の意味も持たない飾りでしかありません。実際、認知文法・認知言語学には意味素性といった発想はありません。主体から独立した意味などあり得ないからです。現在の言語学研究者は多かれ少なかれ認知文法・認知言語学の影響を受けていますから、素性分析が関心の対象から外れてきているのではないかと思います。定冠詞の特性についての議論(指示範囲が全体か唯一か)にしても無視されているのかなという気がします。⇒語の最終的な意味は発話にかかって初めて確定されるものですね。一方、意味素性分析は、当事者(主体)が、語とその意味を選択して発話表現に織り込む際の母体となるもの、つまり、語彙的パラダイムの可能態の研究であると同時に、それと、主体による意味確定との関係の研究でもありますよね。「何の意味も持たない」とは考え難いです。 @今後、認知文法・言語学を含む多くの研究者が意味素性分析にますます関心を示さなくなると思われますが、実践的な指導に当たる人たちの中にはその方法を続ける人もいると思います。それと、生成文法のように、他に主たる分析手段を持たない研究者は素性分析を放棄するわけにはいかないと思われます。ちなみにChestermanは比較言語が専門でしたから素性分析は必携の道具だったはずです。 ⇒私は、素性分析の手法も認知文法・認知言語学の方法論も必要だと考えています。それは、くだんの研究対象に肉薄するための、異なる切り口だと考えるからです。あたかも、心理学における行動分析学と脳神経学、認識論における経験論と観念論、語法論におけるラング・標準語の考察とパロール・個人語の調査など…のように、互に競い合い、批評し合い、対立し合いながらも、補い合い、協力し合う「相棒」のような関係ではないかと考える次第です。 @Nakayさんの御説が実践的配慮に基づくものであるなら、私としては否定することも修正することも行いません。/いくつか疑問点を提示しましたが、学習者に対する実際的な観点からすれば、そのような疑問点も取り立てて提起するようなことではなさそうに思えてきました。よって、特に回答が必要だとも思えません。後はお任せします。 ⇒巨視的に見ればお互いの主張が大きく対立することはないと思います。ただ、関心・重点の置き方が若干異なると言えるかも知れません。feedersさんは新しい語用論に、私は言語の体系論(的把握)などに関心の的があるように感じました。ですから、feedersさんのお尋ねに十分答えられないくせにしゃしゃり出たことを申し訳なく思います。とはいえ、いつものように情報交換そのものは大いに楽しませていただきました。お礼申しあげます。

feeders
質問者

お礼

ありがとうございました

feeders
質問者

補足

再度の回答ありがとうございました。 ●<突然反発して恐縮ですが、共同作業が即一体とはならないでしょう。現実問題、発話者の文法はパロール・個人語寄りで、syntagmを重視し、斬新的表現に富む傾向がある一方、聞き手の文法はラング・標準語寄りで、paradigmを重視し、変化や逸脱表現を忌避する傾向があって、しばしば行き違いが起こり得ます。かつて、些細な表現の解釈をめぐって国際的な対立騒動が起こったこともありました。-コミュニケーションの原理に立てばこそ、入力側と出力側で文法や解釈上の規則に関して齟齬や軋轢の類が生じる可能性のあり得ることは、念頭に留めて置くに如くはないと思います>  -<共同作業が即一体とはならない>と言える場面があることはもちろん承知しています。私としては原則論的なことを言おうとしたにすぎません。現実の言語使用場面においては共同作業などしたくない人もいるでしょうし、自分のやってることを共同作業だと思わない人もいることでしょう。<しばしば行き違いが起こり得ます>ということですが当然だと思います。 例えば、(聞き手が当然了解しているはずだと思って)話し手がthe bookを使ったのに、たまたま聞き手が了解していなかったということもありえます。その場合、聞き手がWhich one?と聞き返すことでしょう。聞き手が知ってるはずだと、話し手が勝手に思いこんでtheを使うこともあり得ます。それどころか、聞き手が知らないとわかっていながら、話し手がtheを使うこともあり得ます。 例えば、どこかの国で、冤罪を仕立て上げようとする警察が被疑者に対して、身に覚えのない殺人事件のことでこう言うかもしれません。Admit you're guilty of the murder. ここでは共同作業が行われていないかに見えます。被疑者にしてみればthe murderではなく、an unknown murder caseですから。でも、やはり共同作業は行われます。この後、例えば拷問などによって、被疑者はthe murder case he might have committedについて自白させられるかもしれません。自発的な意志によらなくても強制によっても共同作業は成立します。行き違いも共同作業の結果です。  私が言う共同作業はコミュニケーションを成立させる基盤という意味で使っています。でも、舌足らずだったようにも思います。共同行為の方がよかったかも知れません。 というわけで、Nakayさんの見解と私の見解は矛盾し合うものではないと考えます。 <現実問題、発話者の文法はパロール・個人語寄りで、syntagmを重視し、斬新的表現に富む傾向がある一方、聞き手の文法はラング・標準語寄りで、paradigmを重視し、変化や逸脱表現を忌避する傾向があって>とのことですが、その通りだと思います。 「聞き手の文法」と「発話者の文法」を一体のものだとしたのはコミュニケーションの成立のための基盤について考えたためです。内包的な部分について言おうとしたわけです。現実の外延的な事象で一体化が見えにくくなるのは当然のことだと思います。 <些細な表現の解釈をめぐって国際的な対立騒動>というのは、6日間戦争の後、占領地域からのイスラエルの撤退を決議した時の文面のことだろうと思います。英語ではterritoriesなのにフランス語では定冠詞がついていたのでしたね。有名な話ですから存じております。 ● <例えばThey are teachers of our school. が先生の一部を表すのに対し、They are the teachers of our school. が先生全員を表すという場合も含めてのことです> -とのことですがコメントさせて頂きます。 P: Yesterday one of teachers of the school came here. He' s Mr. Nakamura. Q: Yesterday one of the teachers of the school came here. He' s Mr. Nakamura.  Pにおいてone of teachers は教員全体のうちの一人を表していますが、teachersにtheはついていません。ある大きな集団のうちの部分を表す時は、大きな集団の方は全体を含意しているはずです。ところがtheがついていません。  Qにおいてはthe teachers はその学校の教員全体を表しているわけではありません。もしそうならPと同じ文でよいはずです。ということは、特定の教員集団のうちの一人を表していると考えるしかありません。the teachersはその学校の教員の全体かも知れないし、部分かも知れません。  一般に、より大きなもののうちのより小さなものを表す時、その小さなものが明確なもの(具体的な数字)である場合は、より大きなものは必ずしも数量的に確定したものである必要はありません。ですから、Pにおいてteachersにtheは不要です。 oneでなくてmostやsomeだとthe teachers になります。より大きなものの中の不明確なより小さな部分を明確に表すには、より大きなものがあらかじめ(数量的に)確定したものでなければならないからです。 ●<ただ単純に、定冠詞は、ひとことで言えば限定を表すが、その特異点として「そのものの全体を限定する」ことがあるので、それを称して「定冠詞は全体を表すことがある」と言える、と考えています>    -文脈次第でという但し書きつきであればもちろん了解できます。 ●<語の最終的な意味は発話にかかって初めて確定されるものですね。一方、意味素性分析は、当事者(主体)が語とその意味を選択して発話表現に織り込む際の母体となるもの、つまり語彙的パラダイムの可能態の研究であると同時に、それと、主体による意味確定との関係の研究でもありますよね。「何の意味も持たない」とは考え難いです>  -「何の意味も持たない」という発言がなされた前後の文脈はこうです。 <すなわち言語主体による意味づけという面がクローズアップされてくるわけです。こうなると、もはや意味素性分析は何の意味も持たない飾りでしかありません。> <意味づけという面がクローズアップされてくると意味素性分析は何の意味も持たない>と発言しました。逆に言えば、もっと後で行われる議論におけるように、実際的な指導、あるいは学習活動においては意味を認めています。 <意味素性分析は、当事者(主体)が、語とその意味を選択して発話表現に織り込む際の母体となるもの、つまり語彙的パラダイムの可能態の研究であると同時に、それと主体による意味確定との関係の研究でもあります>とのことですが全くその通りだと考えます。 私が指摘したのは、主体による意味確定という出来事において、意味と主体の分離が前提とされているために正しい判定が原理的には不可能だということです。ですから、この事態を現象学的な観点から改善した方がよいのではないかと言ってるわけです。もちろん実際的な観点からはそれほど正確な判定が行われる必要がないので、特に問題にならないだろうと言いました。そういう手法が必要だと思う人はやればよいと思います。  なお、無限後退という言い方ですが、昔はその言葉を使っていました。そのうち無限背進に変え、今は無限遡及にしています。後退や背進だと論理が自立的に働くみたいなイメージがあるので遡及に変えました。要するに、演繹的な推論に根拠はない、ある命題と別の命題間に限った推論は有効でも、推論の最終的な正しさをうんぬんすることはできないというふうに理解しています。でも、現実の学問的状況において、厳密な正確さが要求される場面はそれほどないと思われるので問題はないと考えます。 ●<私は素性分析の手法も認知文法・認知言語学の方法論も必要だと考えています。それはくだんの研究対象に肉薄するための、異なる切り口だと考えるからです。あたかも心理学における行動分析学と脳神経学、認識論における経験論と観念論、語法論におけるラング・標準語の考察とパロール・個人語の調査などのように、互に競い合い批評し合い対立し合いながらも、補い合い協力し合う「相棒」のような関係ではないかと考える次第です>    -全く同感です。現実の学問的状況を見るとそうとしか言えないと思います。認知文法の方法にしたって、このようなものが方法なのかと思うことがあります。実は、メタファーの研究くらいしか私には評価できるものはありません。その哲学的(存在論的)基盤についても疑問を持っています(この件はこれまでにもお話ししました)。 実際的な観点から言うと、今必要とされることは現場指導のための方法論だと思います。素性分析の手法も認知文法の方法も、それらが現場指導を改善したという話を聞いたことがありません。両者共に、こうした面での努力が必要だと思います。 ●<巨視的に見ればお互いの主張が大きく対立することはないと思います。ただ関心・重点の置き方が若干異なると言えるかも知れません。feedersさんは新しい語用論に、私は言語の体系論(的把握)などに関心の的があるように感じました> -確かにそうですね。でも私としては一番重視したいのは存在論的観点です。 今回もありがとうございました。Nakayさんの返信を待ってスレッドを締めたいと思います。

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    まず、可算名詞は複数形にも単数形にもできて 不可算名詞は単数形のみ(例外があるのかはわかりませんが)、 というのはわかります。 そして冠詞については、例えば可算名詞はa carとは言えますが、 不可算名詞はa informationとは言えません。 この場合a lttile information とでもなるのでしょうね。 こういう基本的なことはわかるのですが、 集合名詞の場合がよくわからなくなります。 というか集合名詞自体よくわかりません。 集合名詞には複数形はないというのはわかります。 でも集合名詞にaとかtheとかが付くことがありますよね。 で、集合名詞に冠詞が付かないときはあるのでしょうか? 集合名詞とはどういうもので、その場合冠詞はどう使われるのかを回答して欲しいと思います。

  • カテゴリーと外延と冠詞の関係について

    外延とは辞書の定義によれば、概念が適用される事物の集合のことです。外延はカテゴリーの成員(タイプの実例)のことです。又、外延は漠然としたものではなく具体的なものです。それを実体(実物)と呼んでおきます。今回の議論においては、抽象的なものに見えても、言語使用者に具体的な影響を及ぼすものであれば実体であると見なします。それは空想の産物であっても構いません。結局、実体でないのはカテゴリーのみという考え方で議論を行います。  今回の質問は外延と冠詞の関係がどのようなものかということですが、これからこの件について説明を始めます。おかしいと思われることがあればご指摘をお願いします。今回の投稿における例文は辞書の記述を利用したもの以外は自作のものです。ネイティブチェックも受けていません。  外延と冠詞の関係について、物質名詞(water)、抽象名詞(love)、固有名詞(John Smith)、普通名詞(lion)について見ていきます。今回の議論においては形容詞1語が付加された形は扱いません。どうしても限定語句が必要な場合は前置詞句又は関係詞節を使います。 waterという概念に対応する外延はたくさんありますが、そのうちの冠詞と関係するケースを挙げてみます(無冠詞も含みます)。--- water (実体としての不定量の水), some water (実体としての一定量の水), the water (実体としての特定の量の水), a water (空間的にひとまとまりと見なされる水の集まり-すなわち湖-可算名詞用法) ---ここで使われたsomeは具体的な量を示さず、単に一定量を表すしるし(不可算名詞につく冠詞)のようなものです。フランス語の部分冠詞に相当するものです。 カテゴリー用法の例文を挙げておきます。Water is a clear pure liquid. 同じようにloveの外延を挙げてみます。--- love (実体としての不定量の愛) 、I felt love for her.と言う時、なにがしかの愛を現実に感じているので実体と言えます(目に見えなかったり触れることができなかったりするものは実体ではないとする見方は、ここでは採用しません)。他の外延としてはa love (可算名詞用法)がありますが限定語を伴います。例えばa love of artとか。他にthe love she lostなど。some loveという言い方もあります(一定量の愛情ですが、もちろん実体です)。カテゴリー用法の例文です。Love is strong affection for another arising out of kinship or personal ties. (Merriam-Webster) John Smithの場合外延は2通り考えられます。John Smith をある文化環境における唯一の人物ととらえると、固有名詞用法です。外延はJohn Smith一人だけです。一方、文化環境による属性の違いを考慮しない場合は、外延にJohn Smithが多数いることになりますが、属性として「John Smithという名の人」だけを持ちます。これが普通名詞用法です。その場合、外延は{a John Smith, a John Smith, a John Smith ----}という集合です。 カテゴリー用法は両用法において共通のものになります。例えばJohn Smith is (a commonly-used noun demonstrating) a male person in English speaking countries. とか、My uncle's name is John Smith, not Joe Biden. を挙げておきます。カテゴリー用法は両用法において共通のものであるとする私の説が正しいかどうかと、上に挙げたカテゴリー用法の例文が適切なものかご意見を伺いたいと思います。  なお、some John smithは使えません。waterやloveと違って、カテゴリー全体のうちの部分を言い表せないからです。 限定語のつかないthe John Smithも使えません。John Smithは唯一の実物を指し示す名詞であると言語共同体によって承認されているので、これ以上そのような性質を持つもの(定冠詞)を付与することはできません。よって、"You said you saw John Smith at the station a few minutes ago, but he / John Smith is here now". において、he / John Smithの代わりにthe John Smithを使うことはできません。 The John Smith I talked with today was not the John Smith I met 10 years ago. においては、John Smith は普通名詞として表現されています。2人のJohn Smithが同一人物である場合と、別人である場合とが考えられますが、いずれにしても、文中のtheには指し示す働きはありません。単に、特定のものであることを示しているだけです。 普通名詞(lion)について見ていきます。 野生動物であるライオンの概念は無冠詞のlionです。その外延で、冠詞がつき、かつ限定語がつかないものはa lion, the lion, the lionsです。冠詞がつかないものとしてlionsがあります。 ところが、ライオンのカテゴリーを表すものは無冠詞のlionではなく、a lion, the lion, lions, the lionsです。ということは、概念であるlionに対応する外延としてのa lion, the lion, lions, the lionsが拡張用法的にカテゴリーを表していることになります。おそらく、定冠詞と不定冠詞が登場して以降、数えられるものには(たとえカテゴリーであっても)冠詞をつけるべきだと考えられたのだろうと思います。そうなると、外延のa lion, the lion, lions, the lionsを使ってカテゴリーを表すしかなかったのだろうと推測されます。 もちろん、もともと外延として使われるものなので、よほどの文脈的な支えがなければカテゴリーを表すことはないはずです。 a lionは一頭一頭の個別のライオンを表すので、カテゴリーを表現する際には、どのライオンにも共通する基本的・本質的性質を表すことにしたものと思われます。A lion is a large wild animal of the cat family with yellowish-brown fur. (Cambridge Dic.) また、the lionは唯一のものを指すので、(ライオン族の持つ典型的な属性を備えた)ライオン族の代表を表すことにしたのではないかと思います。a lionと違って抽象的な表現です。 冠詞の解説書には、ライオン族の代表つまり唯一のものを指すからtheがつくという言い方がなされていますが、実際はその逆だったのではないかと思います。つまり、もともとthe lionをカテゴリーを表すために使おうという意図があって、定冠詞を使うからには唯一のもの、すなわちライオン族という一つの種族-を指すしかないという考えだったのではないかと思います。この考えはいかがでしょうか。The lion is a wild animal that preys on the zebra. というふうに上位カテゴリー(ここではwild animal)が明示されている方が、分類学上の種族を表しやすいと思います。   lionsも無冠詞lionの外延でありながらカテゴリーを表します。カテゴリー表現として一番よく使われるものはこれです。lionsはsome lionsと違って数量的には不定のものですが、カテゴリー表現として使われる時は不定であってもかなりの多数集団を表します。実物のイメージを残しています。基本的・本質的性質に留まらず、ライオン族の属性や状況を一般的に表すには、単数より複数の方が安心感が得られたのではないかと思います。Today lions are found in Africa and northwestern India. the lionsは外延ですが、「そのライオンたち」という集団を種族全体にまで広げた時に使われます。種族全体を表すので一応カテゴリー表現であると言えますが、実物のイメージも残しています。Some zoologists say the lions will die out by the beginning of the next century. 以上ですが、記述におかしな点はありませんでしたでしょうか。議論の前半は、物質名詞、抽象名詞、固有名詞、普通名詞について外延と冠詞の関係を俯瞰しました。後半では、普通名詞のカテゴリー用法について考察しました。

  • 不可視の冠詞について

    以前<無冠詞とゼロ冠詞について>という質問投稿をしました。その時に検討課題として残しておいた問題を再度取り上げたいと思います。これから、無冠詞についての説明を行いますがおかしいと思われる点があればご指摘下さい。テーマは働きや性質が異なる無冠詞を区別する際に、どのようなやり方があるかということです。この議論を進めるからには、このような区別にたしかに意味があるとする前提で話を進めなければなりません。ご了承をお願いします。  説明の際には、最初に登場する無冠詞を無冠詞Aとし、ついで無冠詞Aと明らかに働きや性質が異なると思われる無冠詞を無冠詞B, C, ---とする、という体勢で臨みたいと思います。  まず、無冠詞(冠詞がつかないこと)がどのような事態なのかを説明します。そのためには、冠詞(不定冠詞)がつくことがどういう事態なのかという議論から始めなければなりません。(なお、今回の議論においては定冠詞は関係のない話題なので、これ以降、不定冠詞は単に冠詞という言い方で話を進めます) 冠詞が使用されるようになったのは、数えられるものに対して、数えられるものであることを示すための目印をつけるようになったことに始まります。例えば、ライオンであれば、それまでLion is running toward us. (現代英語で使用される語彙を使っています)だったのが、A lion is running toward us. となったわけです。何のためにそのようなルールを作ったかということですが、数えられるものと数えられないものの識別が文中において目に見える形でなされてほしいという要請によるものだったと推測されます。 その場合に、あるものが数えられることを示す要件は、そのものが空間的に一つのまとまりを持つと認められることでした。a lionは空間的にひとまとまりのものとしてとらえられるライオンの姿を表すわけです。  逆に、数えられないものは空間的なまとまりを持たないものです。それにはどのようなものがあるのでしょうか。  一般に<もの>は必ずカテゴリーと実体を表します。カテゴリーは概念によって表されるものなので(概念は心の中にあるものなので)数えることはできません。よって、カテゴリーを表すwater(物質名詞), love(抽象名詞), John Smith(固有名詞)を数えることはできません。 ただし、数えられるものの場合は、例えばライオンの場合、カテゴリーを表すのはa lion とthe lionとlionsです。--- A lion is a wild animal. / The lion is a wild animal. / Lions are wild animals. ここでのa lion, the lion, lionsは概念ではありません。lionという概念の外延でしかないものなのに(上のような特殊な文中において)内包的な働きを行い、カテゴリー(ライオンの種族)を表します。 この時、カテゴリーを表す普通名詞lionには冠詞がつくのに、カテゴリーを表すwater(物質名詞), love(抽象名詞), John Smith(固有名詞)にはつきません。統語的に偏りが存在すると言えます。この偏りを改善しようとすれば、water, love, John Smithに不可視の冠詞がついているのだと考える必要があります。この場合の無冠詞を無冠詞Aとしておきます。無冠詞Aはカテゴリーを表す不可算名詞につけられるものということになります。  では、実体の方はどうなのでしょうか。a lionは空間的なまとまりを持つ実体(実物)としてのライオンを表しますが、普通名詞ではなく数えられないもの-water, love, John Smith-の場合はどうなるのでしょうか。実体であっても空間的に一つのまとまりを持たないもの-数えられないものには冠詞がつかないはずですが、実際、waterには冠詞がつきません。loveも同様です。(なお、不可算名詞の可算名詞用法(a water 湖 / a love (of art) / a John Smithは可算名詞の用法に準じます) ところが、固有名詞のJohn Smithは実物として一つのまとまりを持つものです。現実に身長や体積を測定することができます。ところが、実物のJohn Smithはこの世に一つしかないものと想定されるので数えることができません。よって、不定冠詞をつけることができません。 物質名詞(waterなど)や抽象名詞(loveなど)は実体であるにもかかわらず空間的なまとまりを持たないので冠詞つかないわけですが、それらには実は不可視の冠詞がついているのだと考えることができます。その場合の無冠詞を無冠詞Bとしておきます。 John Smith(固有名詞)は実体であって空間的なまとまりを持つものですが、冠詞がつきません。その場合の無冠詞を無冠詞Cとしておきます。 冠詞のつかない状況を3種類紹介したことになりますが、もう一つ抑えなければならないものがあります。先ほど紹介したカテゴリーを表すlionsです。(Lions are wild animals.) 無冠詞Aはカテゴリーを表す不可算名詞につけられるものでしたが、lionsはカテゴリーを表す可算名詞です。それなのに冠詞がついていません。 形態素の- s -は名詞が数えられるものであることを示すために登場しました。ところが、それは同時に複数のものであることを示すものだったので、単数でありかつ数えられるものであることを示す働きを持つものとして不定冠詞が登場しました。そうすると、- s - が複数を表すものであるだけに、oneの意味(一つという意味)が残っている不定冠詞を- s - と共起させることはまずいということになります。その場合、lionsは1ではない自然数のライオンたちということになります(1<X <∞)。ということは、一定の数量的な(空間的な)まとまりを持たない集団だということになります。この場合に使われる冠詞を無冠詞Dとしておきます。 ところで、When the hunters got out of the jeep, they saw lions running in the prairie. という文も書けます。実物を表すlionsですが、一定の数量的な(空間的な)まとまりを持たない表現です。この場合に使われる冠詞を無冠詞Eとしておきます。 結局、無冠詞が5種類取り出されました。これは面倒だということで、区別することを放棄して一括して「無冠詞」として扱うことも可能です、実際、冠詞の解説書の多くがそうしています。  5種類のすべてを認めることは非効率的です。可視の冠詞でさえ2つしかないわけですから、実際的な面、例えば冠詞の指導といった面を考えると、せいぜい2つに絞るべきだと思います。実際、ゼロ冠詞とナル冠詞という呼び名が流布されていることだし、その線で考察を進めたいと思います。では、5つの無冠詞をどう調整するかということですが、ここで整理しておきます。  無冠詞A-カテゴリーを表す不可算名詞につけられるもの (water, love, John Smith) 無冠詞B-実体であるにもかかわらず空間的なまとまりを持たない不可算名詞につけられる もの (water, love) 無冠詞C-実体であって空間的なまとまりを持つにもかかわらず数えられないもの (John Smith) 無冠詞D-カテゴリーを表す可算名詞で、空間的な(数量的な)まとまりを持たないものにつ      けられるもの (lions) 無冠詞E-実体を表す可算名詞で、空間的な(数量的な)まとまりを持たないものにつけられ     るもの (lions) 絞り込みのやり方として、もっとも適当と思われるやり方を考えてみたいと思います。絞り込む前に、不定冠詞がいかなる目的のために作られたものであるかを再確認しておきます。要は、数えられるものと数えられないものを区別するためのものだったわけですが、それは空間的なまとまりをとらえることができるかどうかという問題と関わっていました。そうであるなら、絞り込みのポイントはそうした観点から考察するのが適当だと考えます。 5つの無冠詞のうち空間的なまとまりをとらえることができる(限定詞と同じ発想の)ものは無冠詞Cだけです。そうすると、無冠詞Cとそれ以外の無冠詞(無冠詞A,B,D,E)を区別するのが本義に沿うやり方ではないかと思います。 ところで、付け足しになりますが、固有名詞John Smithの実体(外延)であるJohn Smithは言語共同体において唯一のものと承認されているものなので、定冠詞がついているのと同じ効果を持ちます。そのことも考慮に入れると、やはり、無冠詞Cは別格の存在ではないかと思います。 これ以外の区別の仕方として、カテゴリーか実体かというのもありますが、あまり本質的な着目ではないという気がします。ご意見をお待ちします。

  • 不定冠詞の付け方。

    『サッカーは、面白い(わくわくする)スポーツです。』を英訳すると 『Soccer is an exciting sport.』と、なると思うのですが・・・。  でも疑問が残ります。 上の英文の場合、Soccerには冠詞がありません。『サッカーというもの』と捉えて、サッカーを抽象名詞と見ているからです。ところが、an exciting sport は、数えられるもの(単数形)と捉えています。これでは、不可算名詞=可算名詞 となって矛盾をきたします。 『Soccer is exciting sport.』 と表現するのが正解なんでしょうか?どうも納得いきません。文法的な説明を是非いただきたいですし、実際アメリカ人はどう表現しているのかも知りたいです。よろしくお願いいたします。

  • 無冠詞とゼロ冠詞について

    はじめにゼロ冠詞について私独自の見解を述べます。おかしいところやわかりにくいところがあればご指摘をお願いします。特に、説明のための論理的な整合性が保たれているかどうかをチェックしてください(歴史的な事実であるかどうかは当方は気にかけていません)。 例えばここに、無色・無臭の透明な液体(水)があったとして、それを概念化してwaterと名づけたとします。概念のwaterは心の中に存在するものなのに、どういうわけか文中(談話中)で使われます。ということは、名づけられた時点で概念は文中で語彙として使われる資格を与えられたのだとしか考えようがありません。  ところが、その後、数えられるものと数えられないものとの区別が行われるようになり、数えられるものを文中で言い表す際には、それが一個の個物である時は不定冠詞がつけられるようになりました。例えばa lionです。複数の個体である時は- s - がつけられるようになりました。これらがいわゆる限定詞です。あるものを数えられるものとして表すためには時間または空間的に限定(一定のまとまり)が必要ですが、その限定を与えるのが限定詞です。 ところで、概念のwaterはWater is a clear pure liquid. という文においては、カテゴリーを表すものであって実体ではありません。でも、カテゴリーではなく実際に水を飲む時は、コップ1杯、あるいは手のひら一杯の水を飲むので時空の制約を受けます。 数えられるものには時空の制約を受けることを示すために限定詞(- a - と - s - )がつけられましたが、数えられないものに限定詞がつかないのでは一貫性がないと言えます。一貫性を保つために数えられないものに限定詞のsomeをつけることになりました。他に量を表すものなら何でも構いません。量を表すということは時空の制約を与えることですから。I drank some / a lot of / a pint of water there. というふうに言い表されるわけです。 この段階では、概念は文中でカテゴリーを表す場合に限って、(限定詞なしで)そのまま語彙として使われる資格を与えられていると考えるしかありません。 抽象概念(観念)も、例えばFear is the feeling that you have when you are frightened. という時のfearはカテゴリーを表しますが、現実にひしひしと感じるfearの場合はI feal some fear. という言い方が可能になります。ということは、some fearは実体として扱われていることになります。物質名詞と抽象名詞を合わせてmass nounと呼ばれているようです。 文法書や冠詞の解説書などでは抽象観念は心の中にあるものなので実体ではないと書かれています。ここで言う実体とはどうやらtangibleなもの、すなわち見たり、手で触ったり、要するに五感でとらえられるものを指しているようです。ネイティブにもそのような考えの人がいます。でも、<実体>というものをもっと別の考え方でとらえた方が有意義だと思います。つまり、時間・空間という制約を持つものととらえるべきだと思うのです。そうしたとらえ方が可能であれば、数えられるものはもちろんのこと、数えられなくても五感でとらえられるもの(物質名詞)だけでなく、気分や情感としてとらえられるもの(抽象名詞)も実体として扱うことが可能になります。 そもそも、何かを認知することは五感で(知覚器官によって)とらえられるだけでなく気分や情感によってとらえることでもあると思うのです。というわけで、I feal some fear. においてはfearは実体を表すということで論を進めます。 ここまでの話をまとめます。数えられるものも数えられないものも文中で言い表わされる場合は原則として限定詞が必要とされますが、数えられないものがカテゴリーを表す場合のみ例外的に限定詞が必要とされません。きちんと紹介しませんでしたが、可算名詞でも無冠詞で概念的な表現を行う場合には限定詞が必要とされません。(go to school / work as interpreter ---)  この考え方だと、ある原則があってそれに対する例外が存在することになります。例外規定を設けずに統一的に見ることを可能にしようと思えば、カテゴリーを表すwaterに実は可視化されない限定詞がついているのだと言いくるめることも可能です。それをゼロ冠詞と呼んでいる人がいます。英語のzero articleが日本語訳された時に無冠詞という呼び名になったものと思われます。この場合の<無冠詞>は語彙化を可能にするという働きを持っていることになります。 私には、ゼロ冠詞は実体ではないのに実体と同じ扱いを受けるための免罪符あるいはおまじないのようなものに思えますが、それはそれであっても構わないと思います。 私が問題にするのは、zero articleまたは<無冠詞>という考え方を導入して、冠詞を統一的に指導すべきなのか、それとも、カテゴリーを表す場合の不可算名詞は限定詞なしでフリーパスで文中で使うことができるとすべきなのか、どちらの考え方がよいのかということです。自分はこういうふうに説明することにしていると決めておられる方がいらしゃればご意見を聞かせて頂ければありがたいです。 もう一つ問題点があります。固有名詞(の本来の用法)の取り扱いについてです。(a Mr. Smithというふうな普通名詞的用法は今回の議論から省きます)。固有名詞は実体そのものなので、問題なく文中で使えます。限定詞を必要としません。もちろんゼロ冠詞も必要としません。だから冠詞なしで使うわけですが、カテゴリーを表すwaterに冠詞がつかないのとはわけが違います。ですから、固有名詞を無冠詞で使うという言い方は誤解を招く可能性があります。冠詞がつかないという事態を2種類に分けて考える(説明する)必要があります。  ここで冠詞および限定詞というものの働きを統一的にとらえて、いかなるもの(名詞)にも限定詞がつくのだと主張したいのであれば、固有名詞につく冠詞---眼に見えない冠詞でゼロ冠詞にかわるもの---を呼び名として作らなければならないことになります。調べてみると、null冠詞というものを提唱している人がいることがわかりました。たしかにこうしたものまで導入すれば冠詞の統一的な説明は可能ですが、不可視な冠詞が2つもあることになるし、冠詞が全部で4種類も存在することになってかえって煩瑣なような気がします。といって、冠詞がつかないという事態を2種類に分けて考えるのもうっとおしいような気がします。ゼロ冠詞という呼び名だけでも使ってみようかと考えたりもします。  私としては大学入試レベルの英作文で冠詞の選択(a名詞 / the名詞 / 冠詞がつかない名詞)が生徒によって確実に行われるかどうかが問題なので、ゼロ冠詞とかnull冠詞とかを導入する必要はないのですが、そのこととは別に自分なりのスタンスを持っていたいと思うのです。ご意見を伺いたいと思います。 ---ところで、There is frost in the garden. におけるfrostは<霜>というカテゴリー全体のうちの部分を表しています。つまり、someがなくても実体を表しているわけですが、話がややこしくなるといけないので、この件は今回の質問では扱いません。I feel fear now. についても同様です。いずれ、この問題に関しても質問する予定です。