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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:定冠詞は「全体」を指し示すか)

定冠詞の機能とは?全体を指し示すか

Nakay702の回答

  • Nakay702
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回答No.1

以下のとおりお答えします。 @定冠詞の指示範囲についての議論はもともとRussellが始めたものです。彼は、定冠詞は唯一のものを指し示すと主張しましたが、その主張が有効なのは単数普通名詞においてのみでした。単数普通名詞のみならず物質名詞・抽象名詞・複数可算名詞に対しても成り立つ包括的な考えを提唱したのがHawkinsです。彼は、それらに付与された定冠詞の指示対象は、それらの語の総体であると主張しました。the waterやthe booksはその場で話題になったwaterのすべて(総量)を、及びbooksの総数を表すとするわけです。 ⇒Hawkinsですか。古いH. SweetやO. Jespersenくらいしか触れたことがないのに定冠詞の総体指示機能を知っていたのは、日本の文法書のおかげだったことに気づきました。 @A: Would you come to New York with me? No thank you. The people are unfriendly, and talk too fast for me. B: In autumn the leaves turn yellow and red. Aにおいて、the peopleがその国の人たち全員を表すとは思えません。また、Bにおいてもthe leavesが全部の葉々を意味することはありません。でも、the+複数名詞が実際に全体を表す場合があることも確かです。C: The water dried up. D: I gave back the CDs I borrowed from my friend. これらの文中ではthe+複数名詞が確かに全体を指しています。A, Bと違って、Cにおいてはupによって全体が含意されています。Dにおいては、借りたものを返す時は普通は全部返すものだという一般常識が働いていると思います。 ⇒そうですね。聞き手の立場から見る限り、「the peopleがその国の人たち全員を表すことも、the leavesが全部の葉々を意味することもない」のは実に確かですね。 @The book is on the table.においてthe bookは全体という意味を持ちません。I read the book, but it wasn't interesting.はその本を全部読み終えていなくても成り立ちますが、 E: I read the book through.は全部読み終えた時の発言です。この時、全体の意味が出ます。finish readingやhave readを使っても完了の意味が出て本全体を表します。このように、あることが完了する、といった文脈が全体性と関わっているように思います。状況・文脈と無関係に、もともと分離不可能なものとして作られている名詞句もあります。F: The United States was against the proposal.において、The United States はアメリカの各州の結束力の強さを前提とした表現です。空間的な認知において分離不可能あるいは結束性ということが全体性と関わっているように思います。結局、C, D, E, Fの例から推定できることですが、the+名詞が何かの全体を表すのは、文脈の要請によってそのものの部分を全体から空間的・時間的に切り離して扱うことが困難な場合だと言えそうです。だとすれば全体を表すことをもって定冠詞の働きであるとするのは無理があるように思います。 ⇒定冠詞は「全体を表す」というより、「全体を表すこともある」というべきですかね。 @Aのthe peopleは話者がNew Yorkで出会った人たちです。状況による限定があります。Bのthe leavesは秋の風物としての葉々です。ここでも状況による限定があります。Cのthe waterはすでに話題に出ているはずです。Dのthe CDs の場合は、既に話題に出ているか、そうでないとすれば関係詞節によって限定されているからです。後者の可能性の方が大きいと思います。Eのthe bookはすでに話題に出ているはずです。Fは固有名詞だからそうした存在が言語共同体によって承認されているという説明が可能ですが、別の説明も可能です。The United Statesはアメリカ国籍所持者という特定の属性を共有する集団です。このことが定冠詞の使用を要請するものと考えます。 ⇒お説は、大いに納得できますが、少し別の観点を加えることもできそうですね。「聞き手の文法(解釈)」と「発話者の文法(発話手順)」に違いがあって、我々は当然ながら前者に沿って考えてきたわけですが、ここで、例えばAとBについて後者の立場から考えてみましょう。まず、theなどによってある種の限定をつける:「ニューヨークの人たち、秋の葉」。次に名詞の種類(普通名詞かそれ以外か)および数(単数か複数か)などを表示することによってsyntacticな意味が確定される:「ニューヨークの人で複数(全体とは限らない)」、「秋の葉・複数(同じく全体ではない)」。ということで、発話者はある種の限定や数を示した、すなわち、1人・1枚ではなくそれぞれが数人・数枚と指定しただけで、「全てのニューヨーカー」とか「すべての葉」のように全体を指す意図など、最初からなかった、ということが分かりますね。 @theがつく理由が定冠詞の本来の機能から説明されるのでなく、全体を表すからだという言い方が成立するのであれば、全体を表すものには必ずtheがつきますよ、という約束事が言語共同体によって共有されていなければなりません。そのような約束事は存在しません。全体だからtheがつくとは言えないことになります。ここで、全体を表す名詞句には必ず定冠詞がつくのかという問題をさらに考えてみます。G: Yesterday one / 5 of teachers of the school came here. He' s Mr. Nakamura. 文中のone of teachers は教員全体のうちの1/5人を表していますが、teachersにtheはついていません。ある大きな集団のうちの部分を表す時は、大きな集団の方は全体を含意しているのにtheがついていません。このことからもわかるように、全体を表す名詞句に必ずしも定冠詞がつくとは言えません。 ⇒一部既述のとおり、定冠詞は全体を表す「こともある」、または、全体を暗示する語句や形式と「共起し、同期することもある」というのが実態ですね。 @H: The dinosaurs died out long ago.においては、確かに全体を表していますが、died out という語句から全体の意味が出たと思われます。先ほどのThe United Statesと同じく、文脈から集合的な意味合いが出ているように思います。I: Hey, the dinosaurs are rushing towards us. Let's run away. においては眼や耳で確認できる特定の恐竜集団を指しています。集合的な意味合いが出ていないと思います。J: The dinosaur is a large reptile that lived in prehistoric times. においては、恐竜という種族全体に及ぶ属性が示されていますが、これは定義を表す一般的な文だからです。総称表現においても、定冠詞は文脈次第で全体を表すとしか言えないと思います。そもそも、定冠詞が使われる原理は<聞き手がこれだと同定できるはずだと話し手が考える時にtheを使う>です。Jにおいて、聞き手はこの文が恐竜という種族を表していると考え、種族は一つしかいないから、あるいはThe dinosaur が種族の代表を表すから定冠詞がつくと判断するのではないでしょうか。聞き手がJの文を聞いた時、思い浮かべるのは種族の代表であって種族の全体ではないと思います。is a large reptile と単数形が使われているわけだから単数のものを想起するのが自然だと思います。定冠詞の指示範囲についてのHawkins説は成立しないと思います。だとすれば、Russellの唯一説をそれら3つの名詞に適用するやり方を考えつけばよいことになります。すなわち、物質名詞又は抽象名詞にtheがつくとき、指し示されるものは話し手と聞き手の共有知識内の唯一の物質又は抽象観念である、あるいは共有知識内で話題になった物質又は抽象観念の特定の唯一的な部分だと言えばよいはずです。以上、定冠詞が全体をも示すという考えに反証めいたものをあげました。 ⇒原初的構造原理を考えれば、あるいは、定冠詞と不定冠詞が出現してその機能分担が明確に定義付けられ、定着する以前の語法を分析すれば、そのような解釈に収斂させることはできるかも知れません。しかし、今は状況が違います。現代語法は、これまでの歴史の後追いをしつつ、「現在の共時態」の解析をすることになりますね。つまり、指示範囲について定冠詞が全体、不定冠詞が部分を表し、指示方法に関しては定冠詞が限定を、不定冠詞が任意を表すという構図です。このような役割分担があって一体系を成しており、他の語との共起関係によってそれぞれの働きが強められたり弱められたりする、というところが実態でしょう。総括として言えることは、聞き手の文法と発話者の文法、定冠詞と不定冠詞の機能分担、構文上の環境による相互影響関係などを考慮するという複眼的な見方が求められる、と集

feeders
質問者

お礼

続きです。 それがなぜなのかを考えてみましたが、その前に指摘しておくべきことをまとめておきます。 <指示範囲について定冠詞が全体、不定冠詞が部分を表し、指示方法に関しては定冠詞が限定を、不定冠詞が任意を表す>に関して言えば、全体+ではなく全体±だということです。また、限定+ではなく限定±です。なぜなら、I bought a book at the store. The book was uninteresting. におけるthe bookと、The Browns go to the sea for vacation in the summer. におけるthe seaは限定と言うより間接的な指示と言った方がふさわしいものだからです。 限定という言い方が成り立つのは、話題に出ていない名詞に形容詞(句・節)や同格句(節)が付与される時くらいなものだと思いますが、指示方法全体のうちのどのくらいの割合を占めるのかは不明です。 だとすると、<指示方法に関しては定冠詞が限定を、不定冠詞が任意を表す>において、限定ではなく、限定又は間接指示とすべきだと思います。Chestermanは意味素性としてlocatabilityを追加しています。同定可能ということです。これなら不定冠詞の場合の任意という言い方と対照的に使えそうな気がします。 ●実は、私が議論の対象としたかったのは、そもそもこのような意味素性分析に意味があるのかということです。Nakayさんのおっしゃる「現在の共時態」の解析も同じものだと思いますが。ここで語が持つと考えられている意味がどのようなあり方をしているのか考えてみます。古くからある考えでは、語の意味は言語使用者から客観的な実体として独立しているとするものです。でも、その場合、語の意味を言語使用者から切り離して客体化してとらえることになるので、意味を正しくとらえることができません。意味をとらえようとすると、あるいは定義を行おうとすると、その正しさが問題にされる時に説明不可能です。説明しようとすると論理循環または無限遡及が起きます。 この問題を解消しようとすれば、言語使用者が語に対して主体的な関わりを持ち、意味づけを行っていると考えるしかありません。これまで何度も紹介した現象学の考え方です。この考え方を引き継いだのが認知文法・認知言語学です。認知文法によれば語の意味は概念ではなく概念化です。すなわち言語主体による意味づけという面がクローズアップされてくるわけです。  こうなると、もはや意味素性分析は何の意味も持たない飾りでしかありません。実際、認知文法・認知言語学には意味素性といった発想はありません。主体から独立した意味などあり得ないからです。現在の言語学研究者は多かれ少なかれ認知文法・認知言語学の影響を受けていますから、素性分析が関心の対象から外れてきているのではないかと思います。定冠詞の特性についての議論(指示範囲が全体か唯一か)にしても無視されているのかなという気がします。 実際、大学などで定冠詞の説明を行う時、<話し手がある物・事・人についての情報を聞き手に伝える時、それを聞き手が了解しているはずだと話し手が判断した時、これから提示する情報がそのようなものであることを聞き手に伝えなければならない。それがコミュニケーションにおける原則だから。そして、そのことを聞き手に伝えるためのしるし・合図として定冠詞を使う> と言ってしまえば十分いこと足りているように思います。というわけで、実践的な観点からも意味素性という考え方は、こと冠詞に関しては大して意味のないものになっているように思います。 上の説明においては、指示方法と指示範囲についての個別の説明がありません。この2つはそもそも分離不可能なものだと思います。それを無理矢理分離して分析手段として使おうとすると、かえって実相が見えなくなるのではないかと思います。限定したり、間接的に指示したりすることによって指示範囲が確定されるわけですから、両者は不可分のものです。 では、意味素性という観点が全く意味のないものかということですが、この問題は先ほども言ったように意味が言語主体から独立したものであるとする考えにどう対処するかという問題でもあります。例えば、学校現場で、ある言葉の意味を問われた時、私なら主体による意味づけとか概念化などどという言葉を使いません。そんなものは生徒にはちんぷんかんぷんでしょうし、基本からわからせようとすれば、別個に哲学の授業を数時間分用意しなければなりません。その授業についてくる高校生はいないでしょう。よって、私ならその言葉の意味は辞書で調べろと指示することになります。これが現実です。ニュートン物理学が原理的に問題を抱えているからと言っても、所詮、この地上ではニュートン物理学に頼らなければ生死に関わることにさえなります。  だったら、実際的な指導という観点からは意味素性分析もありかなと思います。そもそも意味素性という発想は、個別の性質を多く集めるとそのももの本質に近づくという古めかしい発想をもとにしたものですが、本質に近づくかどうかの保証はありませんし。性質要素に分断することによってかえって本質を見えにくくする可能性もあるわけですが、有効に使える局面もあると思います。例えば、語の識別に際しては威力を発揮するのではないかと思います。また、知識を概念化しやすいといったメリットもあると思います。 学校(大学)現場での指導という実際的な局面を想定すると、意味素性を活用は方法的な問題があっても学習者にとって有意義なものかも知れません。意味素性のメニューが多いほど豊かな理解につながるかも知れません。ただし、それが正しいやり方であるとか真理に近づく方法であるといった放言は慎むべきだと思うし、使用する素性の選択にも注意を払わなければならないことは言うまでもないことです。 今後、認知文法・言語学を含む多くの研究者が意味素性分析にますます関心を示さなくなると思われますが、実践的な指導に当たる人たちの中にはその方法を続ける人もいると思います。それと、生成文法のように、他に主たる分析手段を持たない研究者は素性分析を放棄するわけにはいかないと思われます。ちなみにChestermanは比較言語が専門でしたから素性分析は必携の道具だったはずです。 ●さて、滔々と持論を展開してきましたが、結論として言えることですが、Nakayさんの御説が実践的配慮に基づくものであるなら、私としては否定することも修正することも行いません。その場合に問われるのはそのやり方が実際的な観点から有効であるかであって、論理的な厳密さではないはずです。もちろん、そうしたやり方が有効であるかは実践の結果わかることです。その上で、調整してゆけばよいのではないかと思います。  というわけで、Nakayさんのお考えは尊重したいということです。いくつか疑問点を提示しましたが、学習者に対する実際的な観点からすれば、そのような疑問点も取り立てて提起するようなことではなさそうに思えてきました。よって、特に回答が必要だとも思えません。後はお任せします。 もし、わたしが意味素性分析を重視する立場にあって、しかも実践的な指導を志す者であれば、Nakayさんと論争を続けることになるでしょうが、そうではありません。よって、これ以上の論争は必要なさそうに思います。 一方、私の考えも取り立てて間違っているとも思えませんし、(もし、誤りだと思える点があれば遠慮なくご指摘下さい)これまで通り、素性分析には関心を持たず、次のように言うだけで十分だと思います。<話し手がある物・事・人についての情報を聞き手に伝える時、それを聞き手が了解しているはずだと話し手が判断した時、これから提示する情報がそのようなものであることを聞き手に伝えなければならない。それがコミュニケーションにおける原則だから。そして、そのことを聞き手に伝えるためのしるし・合図として定冠詞を使う>---高校生にはこれで十分でした。 長くなりました。Nakayさんの返信を待ってスレッドを閉じたいと思います。今回もありがとうございました。

feeders
質問者

補足

回答ありがとうございました。 回答文の最後が切れていました。 <相互影響関係などを考慮するという複眼的な見方が求められる、と集>となっていましたが、恐らく、<と集訳される>と続くものと解釈させて頂きます。 ●<お説は、大いに納得できますが、少し別の観点を加えることもできそうですね。「聞き手の文法(解釈)」と「発話者の文法(発話手順)」に違いがあって、我々は当然ながら前者に沿って考えてきたわけですが、ここで、例えばAとBについて後者の立場から考えてみましょう。>  -「聞き手の文法(解釈)」と「発話者の文法(発話手順)」とを区別することにどのような意味があるのでしょうか。両者は一体化したものだと思います。  話し手がある物・事・人についての情報を聞き手に伝える時、それを聞き手が了解しているはずだと話し手が判断した時、これから提示する情報がそのようなものであることを聞き手に伝えなければなりません。それがコミュニケーションにおける原則だからです。そして、そのことを聞き手に伝えるためのしるし・合図として定冠詞を使うのだと思います。-これが、指示詞から分化・独立してコミュニケーションのための道具として歩みを始めた定冠詞の有り様だったと考えます。ですから、「聞き手の文法(解釈)」と「発話者の文法(発話手順)」は表裏一体のものだと思います。定冠詞使用に際しての主導権はもちろん話者にありますが、コミュニケーションの原理に立てば、定冠詞の使用は発話者と聞き手の共同作業によるものだと思います。 ●<しかし、今は状況が違います。現代語法は、これまでの歴史の後追いをしつつ、「現在の共時態」の解析をすることになりますね。つまり、指示範囲について定冠詞が全体、不定冠詞が部分を表し、指示方法に関しては定冠詞が限定を、不定冠詞が任意を表すという構図です。このような役割分担があって一体系を成しており、他の語との共起関係によってそれぞれの働きが強められたり弱められたりする、というところが実態でしょう。>  -<指示方法に関しては定冠詞が限定を、不定冠詞が任意を表す>ということは、定冠詞と不定冠詞の成り立ちの経緯から論理的に導くことのできるので問題はないと考えます。ところが、<指示範囲について定冠詞が全体、不定冠詞が部分を表し>についてですが、<指示範囲について不定冠詞が部分を表す>ことは不定冠詞の成り立ちから論理的に導くことができます。でも、<指示範囲について定冠詞が全体を表す>ことは定冠詞の成り立ちから論理的に導くことはできません。 もし、I bought a book at the store, but the book was uninteresting. におけるthe bookの有り様を全体というのであれば、確かにお説が成り立ちます(おそらく要素が一つしかない集合のすべてということだと思います)が、ただ一つのものを全体という言い方でもって表現することに、日本語の使い方として若干の違和感を覚えます。これが一つ目の疑問点です。<指示範囲については定冠詞が唯一のものを表す>というのであれば納得できます。または、<指示範囲については定冠詞が全体を表すこともある>でも納得です。  ところで、<指示範囲について定冠詞が全体を表す>ことは論理的に導かれたのではないとしたら、このことをどう考えればいいのでしょうか。定冠詞が全体を表すそうした事例を集めてそこから帰納的に仮説を立てたとしか考えられません。(もし、そうでなければ、いきなり<指示範囲について定冠詞が全体を表す>と宣言することは形而上学的な手法です。必ず、存在論的な裏付けが必要です) この仮説が正式な理論として提示されるためには、あらかじめ正しいものとして実証されていなければなりません。 この仮説は言うまでもないことですが、論理的に検証されることはありません。そのような企ては必ず無限遡及に陥ります。だとすると、仮説が実際の言語的状況において実証されるしかありません。もちろん、すべての事例において実証することは不可能ですが、できるだけ多くの実証例を獲得しなければなりません。  仮説が成立しないことを示す事例があっても、その仮説を放棄する必要はありません。なぜなら、言語的な事象は(パロールにおいては特に)すべてが論理的に整合するとは限らないし、その必要もありません。要は、大体において仮説が成り立てばよいのであって、その点で科学と同じ意味合いを持ちます(科学理論をすべて放棄するわけにはいきませんから)。もちろん、補助仮説の設定も(度を過ぎたものにならなければ)有効です。  ただ、仮説が成立しないことを示す事例より仮説が成立することを示す事例の方が圧倒的に多数でなければならないはずです。要するに、「~という事象が起こりやすい」という確率・統計的判断が行われればいいわけですから。不確実であっても実際的な指針になるのであれば妥当とすべきだと思います。  今、言ったようなことはNakayさんも当然ご存じのはずと思いますが、僭越ながら、私自身の思考の整理がてらに以上のようなことを書き連ねました。 <指示範囲について定冠詞が全体を表す>ことが論理的に導かれたのではないのであれば、意味論的に仮説を満たす事例は見つからないと思われます。有効な事例として発見されるのは、語用論的に仮説を満たす事例だけだと思われます。実際、私の分析が正しければそういう結果が出るはずです。仮説を満たす事例が語用論的なものだけであっても仮説の妥当性は保証されるのかというのが新たな疑問点ですが問題ないような気もします。  さらに言うと、the noun(s)の全集合のうち、「全体」を表す事例の割合がどの程度かという問題があります。大体において仮説が成り立てばよいのだとすれば、その割合は相当多くなければならないと思います。定冠詞名詞句が全体を表す事例は常識的に考えてみても、その割合がそれほど高いとは思えません。それでも統計学的にみて仮説として有効なのかというのがさらなる疑問点です。 先ほど、<指示範囲について定冠詞が唯一のものを表す>という仮説を提示しましたが、この仮説はすべてのthe noun(s)について言えることです。そのことは、投稿文で示しました。ということは、<指示範囲について定冠詞が全体を表す>という仮説より整合性があることになります。 元はと言えば、ラッセルの説(指示範囲については定冠詞が唯一のものを表す)から始まった議論です。HawkinsはRussellの説が有効なのは単数普通名詞においてのみだと判断しました。 そして、単数普通名詞のみならず物質名詞・抽象名詞・複数可算名詞に対しても成り立つ包括的な考えを提唱しました。その後、彼の考えをさらに発展させた学者(Chesterman)も現れましたが、基本的な考えはほとんど変わりません。 恐らく日本の冠詞の研究書に<指示範囲について定冠詞が全体を表す>という記述が出るようになったのはこの頃だったと思います。その後、<指示範囲について定冠詞が全体を表す>という説に疑義が提出されました。その説が当てはまらない事例が多かったためと思われます。最近発見した論文(2001年発表)に、私と同じような考えを述べている研究者の考えが記載されていました。彼によれば、例えば、複数形の定名詞句の場合は、複数の対象からなる唯一のグループを指すことを意味する、とのことです。 この場合、<指示範囲については定冠詞が唯一性を示す>ということになります。これで一応整合します。この考えが正しいとすれば、ここからHawkins説(定冠詞全体指示説)を再検証すべきだということになります。Russellの唯一説においては単数可算名詞だけが該当することをHawkinsが指摘しました。たしかに、Russellは存命中に他に不可解な見解を披瀝することもありましたが、定冠詞の特性を単数可算名詞だけにあてはめて、物質名詞・抽象名詞・複数可算名詞の場合を放念したとはまさか考えにくいことです。もしかしたら、彼は唯一性ということを定冠詞を使った定名詞句全体に当てはまるものとして説を唱えたのではないかという気がします。だとしたら、Russellの欠陥をついたと思ったのはHawkinsの勇み足ということになります。ちなみに、Russellの死去はHawkins説発表より以前のことです。 the+名詞が指し示す範囲は全体であるとするHawkins説は、何らかの前提から導かれたものではなく、論理上の要請(Russell説の欠陥を補うため)によるものでしかありません。その場合、その仮定がthe+名詞のすべてのありようにおいて成り立つのであれば問題ありませんが、語用論的にしか成り立たないし、成り立つケースも多くないとすれば、その説の信憑性に疑問符がつくのではないかと思います。  ところが、ややこしいことに、上述の論文(2001)の発表者の弟子にあたる研究者は最近の著書(2012年刊行)の中で、複数形の定名詞句the Nsはその文脈においてNsにあてはまるすべてのものを表すと言っています。こうしたことから考えるに、この問題に関して研究者間で明確なコンセンサスが形成されていないようです。コンセンサスが形成されない理由として考えられるのは、この問題が定冠詞にまつわる主たる問題ではなく、周縁的な問題にすぎなくなっているのではないかと思われます。 これ以降をお礼に回します。

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    いつもお世話になっております。以前も同様の質問をさせていただきましたが、冠詞に関して依然naturalには決められない事があります。日本文を書くときはさほど迷う文法事項は無い為、まだnativeの感覚にはなっていないと思います。実際一番の問題点は文法書をできる限り細かく勉強して法則を覚えても、nativeの書いた文章を見ると法則と異なることが多々ある事だと思います。最近、自分が最終校閲した英語原著論文がそのまま出版(nativeによる査読のあと)されていますので、大勢には影響しないと思うのですが、もし迷ったときに規範となる良いtipをご教示いただけますと幸いです。 私自身は 1.単数の可算名詞の場合は必ず冠詞をつける。複数形でも文意が変わらない場合は冠詞を考える手間を省くため複数形で表記することがある。 2.不可算名詞を一般の意味で使う場合は無冠詞。可算名詞でも不可算名詞の用法がある場合は状況によって無冠詞。 3.唯一のもの、聞き手も知っているか、少なくとも聞いて想像できる名詞の場合はtheをつける(その前の文で既に使用されている場合など)。また、only/same/following/preceding/next/first/secondの形容詞などが名詞を修飾する場合はtheをつける。また、最大の場合/関係詞で限定される場合もtheをつける。 4.the+単数普通名詞で、典型・本質・抽象的性質を現す場合(the gentlemanなど) 5.その他自分の記憶に残っている文法事項には従う。例えば自分の専門である医学の場合は身体部位、臓器名、生体組織名を表す場合には定冠詞をつける。その他諸島・山脈・国名などにも。 以上の事を基本に下記の文について考えてみます。 Histone methylatyion influences mammalian development and cell differentiation by regulating transcription, chromatin structure, and epigenetic inheritance. For example, temporal changes in the methylation status of the histone are important for switching from neurogenesis to gliogenesis in late embryonic stage. Nativeが書いた文章ですが、methylation statusの前に付くtheは後の文で限定される為theは私でも付けますがhistoneの前のtheは何が規定しているか一般の読者には分からない気がします(histoneは数種類あり、そのmethylationパターンも数多くあるため)。というわけで、私だったらhistonesで複数形にするか、一般的な意味でhistoneと無冠詞にすると思います。勿論この論文を読む読者は知っていて当然だろうという意味で筆者はtheを付けたのかも知れませんが。 もし冠詞で迷ったときに良い秘訣など御座いましたらご教示いただけますと幸いです。

  • 【冠詞】 a / an / the をつけるとき

    冠詞 a / an / the をつけるとき 中学1~3年生に説明する程度で結構です。 できるだけ簡単に説明してあげたいのですが、 a: 数えられる名詞(普通名詞・集合名詞)の単数形に付いて、それが単数であることを示すとき。 an: つける名詞が母音で始まる場合は an をつける。 母音衝突を避けるため,冠詞が母音の前でanになる。 the: 前に一度出た名詞を再びくりかえすとき はじめて出たものでも、文脈・状況から特定性が明らかなとき 唯一のもの(またはそのように認められているもの)を指すとき ただ冠詞をつけない例外が多くありますよね? 例えば、 ・人間一般や男女一般について述べる場合はman、womanだけでtheもaもつけません。 ・家族の成員やそれに準ずる親しい間柄を表す場合 ・官職や身分・地位・資格などを表す場合 ・場所・建物・乗り物がそこで行われる本来の目的や用途、機能などを表す場合 など ほかにも例外があれば教えていただきたいのです。 参考にしたURLです。 http://www.eibunpou.net/02/chapter6/6_1.html http://homepage3.nifty.com/yuu-san/eng_grammar/article.htm よろしくお願いします。

  • 名詞の単数・複数・冠詞はどうするの?

    わたしは米国の大学に通っていていまライティングで非常に困ってます。 基本的な文法に。特に名詞がらみで。 1、名詞の単数・複数をどう考えるのか?the 付けたときに複数にしてよいのか?theirとか複数形の所有格をつけたらSをつけるのか? 2、冠詞をつけない名詞。物質名詞、概念的な名詞だけじゃない場合で複数になると、冠詞がなくなる場合があったり、形容詞がついたりすると冠詞なしの場合があるような気がします。ここ件は特に混乱しています。 3、many,a lot of とかがつくと、動詞が複数扱いですけど、ときどき単数扱いの場合があります。 お尋ねしたいことはいっぱいあるのですが、(何か良いグラマーのサイトがありましたらご紹介ください)グラマー詳しい方よろしくお教えください。 宿題のエッセイがいつもDで返ってきて(「おまえは子供か?」って言われてます)、このままだと大変なことになります、チューターにも教えてもらってるんですけど。ひとによって言うことが違ってしまって。ちょっとブチ切れそうです。ごめんなさい。

  • 集合名詞、可算名詞と不可算名詞 そして冠詞

    まず、可算名詞は複数形にも単数形にもできて 不可算名詞は単数形のみ(例外があるのかはわかりませんが)、 というのはわかります。 そして冠詞については、例えば可算名詞はa carとは言えますが、 不可算名詞はa informationとは言えません。 この場合a lttile information とでもなるのでしょうね。 こういう基本的なことはわかるのですが、 集合名詞の場合がよくわからなくなります。 というか集合名詞自体よくわかりません。 集合名詞には複数形はないというのはわかります。 でも集合名詞にaとかtheとかが付くことがありますよね。 で、集合名詞に冠詞が付かないときはあるのでしょうか? 集合名詞とはどういうもので、その場合冠詞はどう使われるのかを回答して欲しいと思います。

  • カテゴリーと外延と冠詞の関係について

    外延とは辞書の定義によれば、概念が適用される事物の集合のことです。外延はカテゴリーの成員(タイプの実例)のことです。又、外延は漠然としたものではなく具体的なものです。それを実体(実物)と呼んでおきます。今回の議論においては、抽象的なものに見えても、言語使用者に具体的な影響を及ぼすものであれば実体であると見なします。それは空想の産物であっても構いません。結局、実体でないのはカテゴリーのみという考え方で議論を行います。  今回の質問は外延と冠詞の関係がどのようなものかということですが、これからこの件について説明を始めます。おかしいと思われることがあればご指摘をお願いします。今回の投稿における例文は辞書の記述を利用したもの以外は自作のものです。ネイティブチェックも受けていません。  外延と冠詞の関係について、物質名詞(water)、抽象名詞(love)、固有名詞(John Smith)、普通名詞(lion)について見ていきます。今回の議論においては形容詞1語が付加された形は扱いません。どうしても限定語句が必要な場合は前置詞句又は関係詞節を使います。 waterという概念に対応する外延はたくさんありますが、そのうちの冠詞と関係するケースを挙げてみます(無冠詞も含みます)。--- water (実体としての不定量の水), some water (実体としての一定量の水), the water (実体としての特定の量の水), a water (空間的にひとまとまりと見なされる水の集まり-すなわち湖-可算名詞用法) ---ここで使われたsomeは具体的な量を示さず、単に一定量を表すしるし(不可算名詞につく冠詞)のようなものです。フランス語の部分冠詞に相当するものです。 カテゴリー用法の例文を挙げておきます。Water is a clear pure liquid. 同じようにloveの外延を挙げてみます。--- love (実体としての不定量の愛) 、I felt love for her.と言う時、なにがしかの愛を現実に感じているので実体と言えます(目に見えなかったり触れることができなかったりするものは実体ではないとする見方は、ここでは採用しません)。他の外延としてはa love (可算名詞用法)がありますが限定語を伴います。例えばa love of artとか。他にthe love she lostなど。some loveという言い方もあります(一定量の愛情ですが、もちろん実体です)。カテゴリー用法の例文です。Love is strong affection for another arising out of kinship or personal ties. (Merriam-Webster) John Smithの場合外延は2通り考えられます。John Smith をある文化環境における唯一の人物ととらえると、固有名詞用法です。外延はJohn Smith一人だけです。一方、文化環境による属性の違いを考慮しない場合は、外延にJohn Smithが多数いることになりますが、属性として「John Smithという名の人」だけを持ちます。これが普通名詞用法です。その場合、外延は{a John Smith, a John Smith, a John Smith ----}という集合です。 カテゴリー用法は両用法において共通のものになります。例えばJohn Smith is (a commonly-used noun demonstrating) a male person in English speaking countries. とか、My uncle's name is John Smith, not Joe Biden. を挙げておきます。カテゴリー用法は両用法において共通のものであるとする私の説が正しいかどうかと、上に挙げたカテゴリー用法の例文が適切なものかご意見を伺いたいと思います。  なお、some John smithは使えません。waterやloveと違って、カテゴリー全体のうちの部分を言い表せないからです。 限定語のつかないthe John Smithも使えません。John Smithは唯一の実物を指し示す名詞であると言語共同体によって承認されているので、これ以上そのような性質を持つもの(定冠詞)を付与することはできません。よって、"You said you saw John Smith at the station a few minutes ago, but he / John Smith is here now". において、he / John Smithの代わりにthe John Smithを使うことはできません。 The John Smith I talked with today was not the John Smith I met 10 years ago. においては、John Smith は普通名詞として表現されています。2人のJohn Smithが同一人物である場合と、別人である場合とが考えられますが、いずれにしても、文中のtheには指し示す働きはありません。単に、特定のものであることを示しているだけです。 普通名詞(lion)について見ていきます。 野生動物であるライオンの概念は無冠詞のlionです。その外延で、冠詞がつき、かつ限定語がつかないものはa lion, the lion, the lionsです。冠詞がつかないものとしてlionsがあります。 ところが、ライオンのカテゴリーを表すものは無冠詞のlionではなく、a lion, the lion, lions, the lionsです。ということは、概念であるlionに対応する外延としてのa lion, the lion, lions, the lionsが拡張用法的にカテゴリーを表していることになります。おそらく、定冠詞と不定冠詞が登場して以降、数えられるものには(たとえカテゴリーであっても)冠詞をつけるべきだと考えられたのだろうと思います。そうなると、外延のa lion, the lion, lions, the lionsを使ってカテゴリーを表すしかなかったのだろうと推測されます。 もちろん、もともと外延として使われるものなので、よほどの文脈的な支えがなければカテゴリーを表すことはないはずです。 a lionは一頭一頭の個別のライオンを表すので、カテゴリーを表現する際には、どのライオンにも共通する基本的・本質的性質を表すことにしたものと思われます。A lion is a large wild animal of the cat family with yellowish-brown fur. (Cambridge Dic.) また、the lionは唯一のものを指すので、(ライオン族の持つ典型的な属性を備えた)ライオン族の代表を表すことにしたのではないかと思います。a lionと違って抽象的な表現です。 冠詞の解説書には、ライオン族の代表つまり唯一のものを指すからtheがつくという言い方がなされていますが、実際はその逆だったのではないかと思います。つまり、もともとthe lionをカテゴリーを表すために使おうという意図があって、定冠詞を使うからには唯一のもの、すなわちライオン族という一つの種族-を指すしかないという考えだったのではないかと思います。この考えはいかがでしょうか。The lion is a wild animal that preys on the zebra. というふうに上位カテゴリー(ここではwild animal)が明示されている方が、分類学上の種族を表しやすいと思います。   lionsも無冠詞lionの外延でありながらカテゴリーを表します。カテゴリー表現として一番よく使われるものはこれです。lionsはsome lionsと違って数量的には不定のものですが、カテゴリー表現として使われる時は不定であってもかなりの多数集団を表します。実物のイメージを残しています。基本的・本質的性質に留まらず、ライオン族の属性や状況を一般的に表すには、単数より複数の方が安心感が得られたのではないかと思います。Today lions are found in Africa and northwestern India. the lionsは外延ですが、「そのライオンたち」という集団を種族全体にまで広げた時に使われます。種族全体を表すので一応カテゴリー表現であると言えますが、実物のイメージも残しています。Some zoologists say the lions will die out by the beginning of the next century. 以上ですが、記述におかしな点はありませんでしたでしょうか。議論の前半は、物質名詞、抽象名詞、固有名詞、普通名詞について外延と冠詞の関係を俯瞰しました。後半では、普通名詞のカテゴリー用法について考察しました。

  • 不可視の冠詞について

    以前<無冠詞とゼロ冠詞について>という質問投稿をしました。その時に検討課題として残しておいた問題を再度取り上げたいと思います。これから、無冠詞についての説明を行いますがおかしいと思われる点があればご指摘下さい。テーマは働きや性質が異なる無冠詞を区別する際に、どのようなやり方があるかということです。この議論を進めるからには、このような区別にたしかに意味があるとする前提で話を進めなければなりません。ご了承をお願いします。  説明の際には、最初に登場する無冠詞を無冠詞Aとし、ついで無冠詞Aと明らかに働きや性質が異なると思われる無冠詞を無冠詞B, C, ---とする、という体勢で臨みたいと思います。  まず、無冠詞(冠詞がつかないこと)がどのような事態なのかを説明します。そのためには、冠詞(不定冠詞)がつくことがどういう事態なのかという議論から始めなければなりません。(なお、今回の議論においては定冠詞は関係のない話題なので、これ以降、不定冠詞は単に冠詞という言い方で話を進めます) 冠詞が使用されるようになったのは、数えられるものに対して、数えられるものであることを示すための目印をつけるようになったことに始まります。例えば、ライオンであれば、それまでLion is running toward us. (現代英語で使用される語彙を使っています)だったのが、A lion is running toward us. となったわけです。何のためにそのようなルールを作ったかということですが、数えられるものと数えられないものの識別が文中において目に見える形でなされてほしいという要請によるものだったと推測されます。 その場合に、あるものが数えられることを示す要件は、そのものが空間的に一つのまとまりを持つと認められることでした。a lionは空間的にひとまとまりのものとしてとらえられるライオンの姿を表すわけです。  逆に、数えられないものは空間的なまとまりを持たないものです。それにはどのようなものがあるのでしょうか。  一般に<もの>は必ずカテゴリーと実体を表します。カテゴリーは概念によって表されるものなので(概念は心の中にあるものなので)数えることはできません。よって、カテゴリーを表すwater(物質名詞), love(抽象名詞), John Smith(固有名詞)を数えることはできません。 ただし、数えられるものの場合は、例えばライオンの場合、カテゴリーを表すのはa lion とthe lionとlionsです。--- A lion is a wild animal. / The lion is a wild animal. / Lions are wild animals. ここでのa lion, the lion, lionsは概念ではありません。lionという概念の外延でしかないものなのに(上のような特殊な文中において)内包的な働きを行い、カテゴリー(ライオンの種族)を表します。 この時、カテゴリーを表す普通名詞lionには冠詞がつくのに、カテゴリーを表すwater(物質名詞), love(抽象名詞), John Smith(固有名詞)にはつきません。統語的に偏りが存在すると言えます。この偏りを改善しようとすれば、water, love, John Smithに不可視の冠詞がついているのだと考える必要があります。この場合の無冠詞を無冠詞Aとしておきます。無冠詞Aはカテゴリーを表す不可算名詞につけられるものということになります。  では、実体の方はどうなのでしょうか。a lionは空間的なまとまりを持つ実体(実物)としてのライオンを表しますが、普通名詞ではなく数えられないもの-water, love, John Smith-の場合はどうなるのでしょうか。実体であっても空間的に一つのまとまりを持たないもの-数えられないものには冠詞がつかないはずですが、実際、waterには冠詞がつきません。loveも同様です。(なお、不可算名詞の可算名詞用法(a water 湖 / a love (of art) / a John Smithは可算名詞の用法に準じます) ところが、固有名詞のJohn Smithは実物として一つのまとまりを持つものです。現実に身長や体積を測定することができます。ところが、実物のJohn Smithはこの世に一つしかないものと想定されるので数えることができません。よって、不定冠詞をつけることができません。 物質名詞(waterなど)や抽象名詞(loveなど)は実体であるにもかかわらず空間的なまとまりを持たないので冠詞つかないわけですが、それらには実は不可視の冠詞がついているのだと考えることができます。その場合の無冠詞を無冠詞Bとしておきます。 John Smith(固有名詞)は実体であって空間的なまとまりを持つものですが、冠詞がつきません。その場合の無冠詞を無冠詞Cとしておきます。 冠詞のつかない状況を3種類紹介したことになりますが、もう一つ抑えなければならないものがあります。先ほど紹介したカテゴリーを表すlionsです。(Lions are wild animals.) 無冠詞Aはカテゴリーを表す不可算名詞につけられるものでしたが、lionsはカテゴリーを表す可算名詞です。それなのに冠詞がついていません。 形態素の- s -は名詞が数えられるものであることを示すために登場しました。ところが、それは同時に複数のものであることを示すものだったので、単数でありかつ数えられるものであることを示す働きを持つものとして不定冠詞が登場しました。そうすると、- s - が複数を表すものであるだけに、oneの意味(一つという意味)が残っている不定冠詞を- s - と共起させることはまずいということになります。その場合、lionsは1ではない自然数のライオンたちということになります(1<X <∞)。ということは、一定の数量的な(空間的な)まとまりを持たない集団だということになります。この場合に使われる冠詞を無冠詞Dとしておきます。 ところで、When the hunters got out of the jeep, they saw lions running in the prairie. という文も書けます。実物を表すlionsですが、一定の数量的な(空間的な)まとまりを持たない表現です。この場合に使われる冠詞を無冠詞Eとしておきます。 結局、無冠詞が5種類取り出されました。これは面倒だということで、区別することを放棄して一括して「無冠詞」として扱うことも可能です、実際、冠詞の解説書の多くがそうしています。  5種類のすべてを認めることは非効率的です。可視の冠詞でさえ2つしかないわけですから、実際的な面、例えば冠詞の指導といった面を考えると、せいぜい2つに絞るべきだと思います。実際、ゼロ冠詞とナル冠詞という呼び名が流布されていることだし、その線で考察を進めたいと思います。では、5つの無冠詞をどう調整するかということですが、ここで整理しておきます。  無冠詞A-カテゴリーを表す不可算名詞につけられるもの (water, love, John Smith) 無冠詞B-実体であるにもかかわらず空間的なまとまりを持たない不可算名詞につけられる もの (water, love) 無冠詞C-実体であって空間的なまとまりを持つにもかかわらず数えられないもの (John Smith) 無冠詞D-カテゴリーを表す可算名詞で、空間的な(数量的な)まとまりを持たないものにつ      けられるもの (lions) 無冠詞E-実体を表す可算名詞で、空間的な(数量的な)まとまりを持たないものにつけられ     るもの (lions) 絞り込みのやり方として、もっとも適当と思われるやり方を考えてみたいと思います。絞り込む前に、不定冠詞がいかなる目的のために作られたものであるかを再確認しておきます。要は、数えられるものと数えられないものを区別するためのものだったわけですが、それは空間的なまとまりをとらえることができるかどうかという問題と関わっていました。そうであるなら、絞り込みのポイントはそうした観点から考察するのが適当だと考えます。 5つの無冠詞のうち空間的なまとまりをとらえることができる(限定詞と同じ発想の)ものは無冠詞Cだけです。そうすると、無冠詞Cとそれ以外の無冠詞(無冠詞A,B,D,E)を区別するのが本義に沿うやり方ではないかと思います。 ところで、付け足しになりますが、固有名詞John Smithの実体(外延)であるJohn Smithは言語共同体において唯一のものと承認されているものなので、定冠詞がついているのと同じ効果を持ちます。そのことも考慮に入れると、やはり、無冠詞Cは別格の存在ではないかと思います。 これ以外の区別の仕方として、カテゴリーか実体かというのもありますが、あまり本質的な着目ではないという気がします。ご意見をお待ちします。

  • 不定冠詞の付け方。

    『サッカーは、面白い(わくわくする)スポーツです。』を英訳すると 『Soccer is an exciting sport.』と、なると思うのですが・・・。  でも疑問が残ります。 上の英文の場合、Soccerには冠詞がありません。『サッカーというもの』と捉えて、サッカーを抽象名詞と見ているからです。ところが、an exciting sport は、数えられるもの(単数形)と捉えています。これでは、不可算名詞=可算名詞 となって矛盾をきたします。 『Soccer is exciting sport.』 と表現するのが正解なんでしょうか?どうも納得いきません。文法的な説明を是非いただきたいですし、実際アメリカ人はどう表現しているのかも知りたいです。よろしくお願いいたします。

  • 無冠詞とゼロ冠詞について

    はじめにゼロ冠詞について私独自の見解を述べます。おかしいところやわかりにくいところがあればご指摘をお願いします。特に、説明のための論理的な整合性が保たれているかどうかをチェックしてください(歴史的な事実であるかどうかは当方は気にかけていません)。 例えばここに、無色・無臭の透明な液体(水)があったとして、それを概念化してwaterと名づけたとします。概念のwaterは心の中に存在するものなのに、どういうわけか文中(談話中)で使われます。ということは、名づけられた時点で概念は文中で語彙として使われる資格を与えられたのだとしか考えようがありません。  ところが、その後、数えられるものと数えられないものとの区別が行われるようになり、数えられるものを文中で言い表す際には、それが一個の個物である時は不定冠詞がつけられるようになりました。例えばa lionです。複数の個体である時は- s - がつけられるようになりました。これらがいわゆる限定詞です。あるものを数えられるものとして表すためには時間または空間的に限定(一定のまとまり)が必要ですが、その限定を与えるのが限定詞です。 ところで、概念のwaterはWater is a clear pure liquid. という文においては、カテゴリーを表すものであって実体ではありません。でも、カテゴリーではなく実際に水を飲む時は、コップ1杯、あるいは手のひら一杯の水を飲むので時空の制約を受けます。 数えられるものには時空の制約を受けることを示すために限定詞(- a - と - s - )がつけられましたが、数えられないものに限定詞がつかないのでは一貫性がないと言えます。一貫性を保つために数えられないものに限定詞のsomeをつけることになりました。他に量を表すものなら何でも構いません。量を表すということは時空の制約を与えることですから。I drank some / a lot of / a pint of water there. というふうに言い表されるわけです。 この段階では、概念は文中でカテゴリーを表す場合に限って、(限定詞なしで)そのまま語彙として使われる資格を与えられていると考えるしかありません。 抽象概念(観念)も、例えばFear is the feeling that you have when you are frightened. という時のfearはカテゴリーを表しますが、現実にひしひしと感じるfearの場合はI feal some fear. という言い方が可能になります。ということは、some fearは実体として扱われていることになります。物質名詞と抽象名詞を合わせてmass nounと呼ばれているようです。 文法書や冠詞の解説書などでは抽象観念は心の中にあるものなので実体ではないと書かれています。ここで言う実体とはどうやらtangibleなもの、すなわち見たり、手で触ったり、要するに五感でとらえられるものを指しているようです。ネイティブにもそのような考えの人がいます。でも、<実体>というものをもっと別の考え方でとらえた方が有意義だと思います。つまり、時間・空間という制約を持つものととらえるべきだと思うのです。そうしたとらえ方が可能であれば、数えられるものはもちろんのこと、数えられなくても五感でとらえられるもの(物質名詞)だけでなく、気分や情感としてとらえられるもの(抽象名詞)も実体として扱うことが可能になります。 そもそも、何かを認知することは五感で(知覚器官によって)とらえられるだけでなく気分や情感によってとらえることでもあると思うのです。というわけで、I feal some fear. においてはfearは実体を表すということで論を進めます。 ここまでの話をまとめます。数えられるものも数えられないものも文中で言い表わされる場合は原則として限定詞が必要とされますが、数えられないものがカテゴリーを表す場合のみ例外的に限定詞が必要とされません。きちんと紹介しませんでしたが、可算名詞でも無冠詞で概念的な表現を行う場合には限定詞が必要とされません。(go to school / work as interpreter ---)  この考え方だと、ある原則があってそれに対する例外が存在することになります。例外規定を設けずに統一的に見ることを可能にしようと思えば、カテゴリーを表すwaterに実は可視化されない限定詞がついているのだと言いくるめることも可能です。それをゼロ冠詞と呼んでいる人がいます。英語のzero articleが日本語訳された時に無冠詞という呼び名になったものと思われます。この場合の<無冠詞>は語彙化を可能にするという働きを持っていることになります。 私には、ゼロ冠詞は実体ではないのに実体と同じ扱いを受けるための免罪符あるいはおまじないのようなものに思えますが、それはそれであっても構わないと思います。 私が問題にするのは、zero articleまたは<無冠詞>という考え方を導入して、冠詞を統一的に指導すべきなのか、それとも、カテゴリーを表す場合の不可算名詞は限定詞なしでフリーパスで文中で使うことができるとすべきなのか、どちらの考え方がよいのかということです。自分はこういうふうに説明することにしていると決めておられる方がいらしゃればご意見を聞かせて頂ければありがたいです。 もう一つ問題点があります。固有名詞(の本来の用法)の取り扱いについてです。(a Mr. Smithというふうな普通名詞的用法は今回の議論から省きます)。固有名詞は実体そのものなので、問題なく文中で使えます。限定詞を必要としません。もちろんゼロ冠詞も必要としません。だから冠詞なしで使うわけですが、カテゴリーを表すwaterに冠詞がつかないのとはわけが違います。ですから、固有名詞を無冠詞で使うという言い方は誤解を招く可能性があります。冠詞がつかないという事態を2種類に分けて考える(説明する)必要があります。  ここで冠詞および限定詞というものの働きを統一的にとらえて、いかなるもの(名詞)にも限定詞がつくのだと主張したいのであれば、固有名詞につく冠詞---眼に見えない冠詞でゼロ冠詞にかわるもの---を呼び名として作らなければならないことになります。調べてみると、null冠詞というものを提唱している人がいることがわかりました。たしかにこうしたものまで導入すれば冠詞の統一的な説明は可能ですが、不可視な冠詞が2つもあることになるし、冠詞が全部で4種類も存在することになってかえって煩瑣なような気がします。といって、冠詞がつかないという事態を2種類に分けて考えるのもうっとおしいような気がします。ゼロ冠詞という呼び名だけでも使ってみようかと考えたりもします。  私としては大学入試レベルの英作文で冠詞の選択(a名詞 / the名詞 / 冠詞がつかない名詞)が生徒によって確実に行われるかどうかが問題なので、ゼロ冠詞とかnull冠詞とかを導入する必要はないのですが、そのこととは別に自分なりのスタンスを持っていたいと思うのです。ご意見を伺いたいと思います。 ---ところで、There is frost in the garden. におけるfrostは<霜>というカテゴリー全体のうちの部分を表しています。つまり、someがなくても実体を表しているわけですが、話がややこしくなるといけないので、この件は今回の質問では扱いません。I feel fear now. についても同様です。いずれ、この問題に関しても質問する予定です。