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【日本史】昔の日本人は緑茶を飲んでいなかったって本

【日本史】昔の日本人は緑茶を飲んでいなかったって本当ですか? 織田信長も徳川家康も緑茶を飲んでなかったのですか?

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回答No.1

はい、日本に茶が入ってきたのは 805年に唐より帰国した最澄が茶の種子を持ち帰り、比叡山山麓の坂本に植えたことに始まるそうです。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B6#%E6%97%A5%E6%9C%AC でも初めは纏茶 (てんちゃ)、つまり茶葉を粉に挽いて湯で溶いた抹茶として飲んでいて、嗜好品ではなく薬だったようですね。 実際 Caffeine で目が覚めますので、眠気覚ましや興奮剤 (疲れを吹き飛ばす Energy Drink(笑)?) の扱いだったのでしょうね。 千利休って人の名を聞いた事はありませんか? 戦国時代の人で、中国で唐の時代に茶を広めた陸羽という人の名に肖って利休と名乗ったようですが、今日に伝わる茶の作法を作り出し、「侘寂 (わびさび)」の情を説いた人です。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%88%A9%E4%BC%91 茶を粉にして湯に溶くのではなく、茶葉に湯通しした茶湯を飲むようになったのは江戸時代も終わりに近づいた頃になってからで、明治時代になると静岡県の杉山彦三郎という人が自分の茶畑に育てていた茶樹の中から特に美味しい茶葉を生やしたものを選別、それが竹藪の北側に生えていた事から藪北茶と名付けて品種改良を重ねると共に全国に茶苗を広めた事から現在では日本茶の大半 (約 75%) が藪北種になっています。 勿論、奈良時代にもたらされた茶樹種を守り続けてきた在来種も 25% 程ありますので、藪北種以外の在来種も比較的容易に手に入ります。 御質問者さんが「緑茶」と仰るものが「茶葉に湯通しした茶湯」の事であれば「江戸時代後期まで日本人の飲む茶は緑茶ではなかった」ことになります。 織田信長も徳川家康も碾茶 (抹茶) を飲んでいました。 因みに現在、玉露と呼んでいる緑茶は 天保6年 (1835年) に山本山の六代山本嘉兵衛が碾茶 (てんちゃ、但し甜茶ではなく、茶葉を摘む前に筵を被せて育てた被せ茶) を露のように丸く焙って売り出した商品名で、茶の製法上での種類としては碾茶と殆ど同じものです。 玉露は高級茶のように扱われていますが、抹茶の元となる碾茶よりも成分上は格下なのに値段は上という Brand 名で値段が吊り上がっているだけのようですね(^^;)。 伝統的な茶の席では玉露なんか使わず、碾茶を粉にした抹茶を用います。 でも抹茶は菓子や抹茶 Milk Tea に使われるほど普及しており、茶道の練習用や菓子用の抹茶は安価で売られていますので、まるで高級感を感じられないのですが(笑)……まぁ玉露だけが Brand 値段が付けられる異常な商品なんでしょうね。

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その他の回答 (1)

  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.2

 見てきたわけではありませんが、本当のようです。  以前、「土の色なのに『茶色』とはこれいかに?」と思って読んだ本に「今の『永谷園』の祖先が緑茶にする方法を見つけたが、御茶屋からは相手にされず、(江戸で?)今の『山本山』の祖先が売り出して一般化した」という趣旨のことが書かれた本を読んだ記憶があったのです。  (創始が山本山で、販売が永谷園だったかなと思ったので)確認のためインターネットで「永谷園 緑茶」で検索してみたら、  『昔のお茶というと上流階級で飲まれていた抹茶で、庶民が飲んでいたお茶は煎茶といっても茶色のお茶でした。 今の緑色をした煎茶(青製煎茶製法)は、300年近く前江戸時代の中期、宇治の「永谷宗円」が作り出したものです。』  という一文が書かれたサイトを見つけました。  私の記憶とも一致するので、江戸中期以前に没した織田信長や徳川家康が呑んでいたのは、「緑」ではない「茶色」のお茶だったと思われます。

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