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意識すること、そして死について

chun851の回答

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  • chun851
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回答No.1

こんばんは。 かなり難しい質問ですね! 私的意見ということでご理解願いたいのですが。 先日、友人のお父上様がお亡くなりになりました。 その亡骸は、数時間前に完全に意識が無くなり、医学的な”死”のはずでしたが、朝剃ったはずの”ひげ”が夕方には伸びていました。このことから <<器官(手足、目、口、耳、内臓等そして脳細胞も)は意識を維持するための単なる道具>> ではなく、意識と器官は別物なのではないでしょうか? 仮にpeikanさんが感覚を失った状態になったとしても、このような、難しい疑問を考えるのに、なんの支障もないのでは? 意識とは、五感がすべてではないでしょうか、頭(脳)で「考え、感じる、魂」これが意識の概念なのではと考えます。魂は意識、身体は、魂を入れる器であり魂の抜けた身体は、ただのたんぱく質のかたまりなのでは? <<逆に固有の個体を維持(子孫を残し永遠の継続を求める)するための 道具として意識があるのでしょうか。 種の保存とは?>> これも意識とは別物では、人や動物は子孫を残そう!なんて考えながらSEXしてませんよね、たぶん。これは本能、DNAに刻まれた意識とは別の何かなのでは? <<熟睡すると時間の観念が無くなりますが、これが永遠にツズクのが 死とも思えます。しかし永遠とは時間の概念ですよね~。いつか その永遠は終わるのでしょうか。時が過ぎ行く」とは人間だけが 持っている意識なのでしょうか?。>> 熟睡すると時間の概念がなくなるのは、まさに意識的なものであって、器官(身体)は、確実に新陳代謝を繰り返し老化の一途をたどっているのでは?死は、一言で言って”無”したがって熟睡して時間の概念が無くなっている状態と死は、多分べつものなのでは? 非常に、有意義な質問で”生”について改めて考えることができました。peikanさんの質問に対する答えには、なっていませんが、これがまさに意識なのでは?

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    最近、寝つき?が悪いのが悩みです。 布団に入ってから意識なくなるまで凄い時間かかるんです。精神的に肉体的疲れていても。 (短くて1時間、長くて3時間はかかります) アルコール摂取すれば少しは眠れると思い、どうしても寝付けない時は焼酎を飲んでいるのですが 皮肉にも、アルコールには強い体質なのでそれでも熟睡出来るというものではありません。 学生時代はこんなことなかったのですが…眠りたい時はすんなり眠れましたのに。 体質が変わったんでしょうか。 そして朝は、目覚まし時計や携帯のアラームを駆使してなんとかダルイ体に鞭打って起きている状態です。 どうしたらスッキリ眠れ、起床できるんでしょうか。 アドバイスお願いします・・

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    餌が多いと生まれた個体が生き残る確立が上がりますが、同時に生き残ったその個体を食べる上層の個体数も増えていくというのは食物連鎖の理、生態学で観察されているところだと思います。 人間が地球上で食糧の獲得に安定性を得(ビニールハウス、養殖、遺伝子組み換え等)、更に医学によって病気がコントロールされ、科学・文明によって衛生が管理されると、子孫の生き残りの確立は俄然高くなりましょう。そのため、少人数の子どもでも遺伝子が継がれていく(種の保存ができる)という動物的にプログラムされた無意識から思考と行動が決められていくというのも、進化論に通じていることだと思います。 個体数を一定に保ち続けようとするホメオスタシスの欲が、種全体として動物的に働くとき、自殺願望あるいは戦いたい欲は避けられない要素になってきますでしょうか?自殺や戦争などの現象からの生き残りは自然淘汰の一種になり得ますか?

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