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武士の教育

武士の教育はどのようなものだったのかを詳しく教えてください。 時代での違いは?平将門の頃と源平合戦の頃と南北朝の時代と信長のいた時代とで違いはありますか? 現代にもまだ武士がいたらどのように教育は変わっていると思いますか?私は馬術と剣術はもう学ばなくなっていると思います。 家来と主君で教育に違いはありますか? 公家や天皇との教育の違いは? 中国やヨーロッパの貴族やマムルークのスルタンの教育との違いは? 武士の教育について様々なことを教えて頂けると嬉しいです。

noname#215730
noname#215730
  • 歴史
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みんなの回答

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10511/33054)
回答No.5

その名の通りに平和だった平安時代には、武士のような武装する集団は不要だったので存在しませんでした。しかし時代が下るにつれ段々社会が乱れて治安が悪化するようになってきます。今までの「村の駐在さん」では対処できなくなってきたので、治安維持のための機動隊が作られるようになりました。これが武士の成立です。 元々武士は普段は農民で、戦争があるときだけ武装して戦うという任務でした。だから、非常に地位は低かった。平将門なんてのは、公家からすると「暴力団の組長」だったのです。しかし結局公家ってのは実の権力は持っていないわけですから、段々と武士はその地位を高めてきます。とはいえ、歴史的大ゴケ大河ドラマ「平清盛」でもあったように、清盛の父である平忠盛は武士として初めて内裏に上がる権利を得るほどの高い地位にありました。しかしドラマの中で忠盛が公家から「踊れ」といわれて踊ると公家からいじめられるという場面があったように(あの場面は創作でしょうが)、公家からは非常にバカにされていたのです。なんていうのかな、今でいうと産廃業者みたいな扱いでしょうね。彼らがいないとビルの解体も建設もできないけど、非常に差別視されるというね。 平清盛を経て鎌倉幕府が成立することで、名実ともに権力の中心は武士の手に移ることになりました。さりとてまだこの頃は公家もデカい顔ができていて、南北朝の湊川の合戦のときに楠木正成が「軍事的に勝てねえから撤退しましょう」と進言されても「はあ?合戦が武士の力で決まるってお前、なに調子に乗ってんの?合戦が勝つかどうかは天子様の御威光のお陰であって、お前らの戦いとか関係ねえし!」とdisる余裕がありました(本当)。 しかしやがて公家たちも「刀は筆よりも強し」ということを思い知らされて権力をどんどん失います。戦国時代となるとサバイバルだけで精一杯で、あの織田信長に対しては「関白でも征夷大将軍でも太政大臣でも好きなのをもってけ」といわせるほどになりました。ただ、流石にそんなことをいわれたのは信長だけで、秀吉に対しては一転して強気、家康に対しても「征夷大将軍しかやれねえよ」という余裕はありました。 さて、武士というのはその名の通り「軍人」です。のはずです。が、江戸時代となると武士にとって戦うことは名目上のことにしか過ぎなくなります。「刀なんか振り回したことがない」という武士が続出するんですね。武士は軍人から官僚に変わっていくのです。 話はまた横道にそれますがね、アジアでは「文官>>(越えられない壁)>>武官」なんです。これは中国なんかもそうです。諸葛孔明と張飛では孔明のほうが断然偉い。武官というのは「文官の命令に従うだけの存在」です。こういう文化は中国のみならず日本もそうで、今でも勉強ができる高学歴のインテリでスポーツマンはまずいません。「スポーツマンはバカ」というイメージがありますよね。 欧米では今は車椅子の天才科学者として知られるホーキング博士も大学時代はボート部の選手で、「スポーツマンのインテリ」なんて山ほどいます。 横道ついでに面白い話をもうひとつ。アメリカやイギリスでは、戦争が始まると大学生たちはこぞって学校をやめて軍隊に志願します。それが自らの責務であると考えるんですね。第一次大戦では、イギリスのエリート校出身者で作られた部隊なんてのもありました。だけど日本では昔から大学に行くようなエリートはみんな軍隊には行きたがらなかったのです。学徒動員が今でも語られるのは、「エリートが戦争に行くのは悲劇」と我々が考えるからです。閑話休題。 ま、そんな文化がありますので、武士も平和な江戸時代となりますと武術を鍛えることより、和歌などの教養を持つことのほうがはるかに重要となります。なお、日本は山がちで馬が活用できる地形ではなかったので、馬に乗れない武士ってのはザラでした。というか、基本的な乗り物は「駕籠」です。松の廊下刃傷事件を本国に伝えた赤穂藩の使者は駕籠に揺られて帰りましたし、参勤交代のお殿様も駕籠、桜田門外の変のときの井伊直弼も駕籠の上からブスッとやられました。よく時代劇で急を告げる使者が馬に乗ってパカランパカランと走りますがあれはウソで、もしそれをリアルにやるなら駕籠に乗った武士がエッホエッホと揺られないといけないのです。あんなものに揺られ続けたら酔いそうですが、前述の赤穂藩の使者はその疲労とストレスで帰国して報を告げると死んじゃったそうです。 主君となると「武士の頭領」なわけですから、模範とならなきゃいけないため武術の訓練は必須となります。徳川将軍も、弓道は必須だったそうですよ。なお武士の本来の武器は弓で、刀はあくまで防御用のピストルのような扱いでした。 お公家さんはそういう危険なものは一切やっちゃいけない立場なので、やりません。今上天皇もテニスはやっても弓道はやらないと思います。武道的なものは「血で穢れる」からやらないんじゃないかな。 ヨーロッパでは貴族とは騎士であり軍人でもありますから、戦うことは彼らの責務でもあります。ナチスドイツの将軍にはやたらと「フォン」がつく人が多いですが、このフォンは貴族を示す称号で、今はどうだか知りませんが、第二次大戦まではドイツではこの「フォン」を持たない軍人は決して主流派にはなれませんでした。名将として知られるロンメル将軍もマンシュタイン将軍もフォンがないので本来は出世できないのですが、独裁者ヒトラーに取り入ったので出世ができるようになりました。 中東では、根っから遊牧民族である彼らにとって頭領というのは強くなければならないので、あっちの指導者はやたらと人前で剣を掲げて俺は強いぞアピールをするのです。 以上、「詳しく」ということでしたので、詳しくご紹介しました。

noname#215730
質問者

お礼

eroero4649さん 回答ありがとうございます。

回答No.4

度々でごめんなさい。 「僧」ついて、もう一つ(よもやま話) ★戦国時代は、戦に出陣する際は、ある程度の軍勢では「医僧」(いそう)という者を3~4名、大部隊であれば5~6名を必ず随行させました。 昔の僧侶は、一人前の僧侶になるために経文を唱えるだけではなく、ある一定の修行をしました。座禅、滝行などもそうですが、「医行」もあったのです。 「薬学」「経絡学」(けいらくがく=ハリ、灸、マッサージなどのツボ)「外科学」などからなっていました。 良くTVなどで、戦になると、刀で切られるとすぐその場で息を引き取ったり、鉄砲で撃たれたりするとすぐにその場で死んでしまったりしますが、大ウソも大ウソ。もってのほか。 刀傷などは、首や手足の動脈でも斬られて大量出血でもすれば、すぐにも死にますが、それ以外の部位を斬られたくらいでは、そうそう簡単には死なない。 鉄砲玉も、頭や心臓にでも命中しない限りは、そうそうすぐに死ぬわけがない。 医僧は、陣構えの後方に控え、民家があれば民家に、洞穴でもあれば洞穴に集結をして、第二次世界大戦の頃の「野戦病院」と同じ役割をしていました。 傷を負った兵は、仲間や家来などの助けをかりて医僧の元へ運ばれます。自力で来る者もいました。 医僧は、刀傷で浅ければ薬草を塗って止血をする。深ければドブロクを大量に呑ませて裁縫道具で傷を縫い合わせる。 鉄砲玉にしても、頭や心臓の急所以外の、例えば、肩や手足ぐらいであれば、同じくドブロクを大量に呑ませて、痛みの感覚を和らげてから、現代のペンチのような道具で玉を取り出す。 矢にしても急所でない限り、兵が少々痛がろうと、泣き叫ぼうと無理ににも矢を引き抜いて傷の手当てをしました。 戦場でバッタ、バッタ倒れていくのは、単なるTVの視聴率を上げるための所業。大ウソ八百。 話は、少しズレてしまいましたが、ゴメンナサイ。

回答No.3

そうそう、言い忘れました。 特に戦国時代あたりでは、師の僧侶は「軍事顧問」でもありました。 これは、当時寺は、一応は宗派がありましたが、遊行僧(勧進や修行のため各地を巡り歩く僧侶)などは、宗派に関係なくどこの寺にも泊めてもらうことができました。 こうして、寺の僧は「本山」(寺の親寺)や遊行僧から諸国の世情を聞き、情報源となって、「孫子の兵法」などを教えると同時に、戦術指南役でもあったのです。 有名なところでは、毛利家の「安国寺恵瓊」(あんこくじ えけい)などが主君に代わって和睦交渉などをしていますよね。 つまりは、僧侶は「学問の師」であり、「軍事顧問」でもあったのです。 結構強い力を持っていたものですねぇ。

回答No.2

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 源平合戦や鎌倉時代の教育の史料は余り存在しませんので、主に、戦国時代頃からのお話しをさせていただきます。 >>家来と主君で教育に違いはありますか? 主君も家臣(特に、重臣の場合)には、さほど違いはありませんでした。 まずは、5~6歳になると、主に父親から「いろは・・・」の読み書きを習います。 父親が、例えば、家老ゃ重臣で城詰めなどで多忙な時は、母親から、あるいは、家来の長老格から「手習い」を習いました。 7歳位になると、「家庭教師」を呼んでの学習になるのですが、家庭教師には、主に檀家寺の住職(または、僧侶)がその任にあたりました。 そして、「中庸」(四書の中の「礼節」の部分)の素読から始めました。しかし、意味は教えてもらえず、8歳位になると今度は「四書五経」の素読が始まりました。これも意味は教えてもらえず、10歳位までは、ただただ師に付いて素読を繰り返すだけでした。しかし、10歳位になると、繰り返し読んでいると、また、聞きかじりも含めて、おおよその意味が解るようになりました。 意味を教えなかったのは、わざとそうすることにより、師が教えなくても、自分で何でも理解するように仕向けたからです。つまりは、通り一遍に聞いた話では、すぐに忘れてしまうが、自分で覚えた知識は永遠に頭に刻まれると考えられたからです。 身分の低い家柄では、子ども自身が寺へ行って学びました。 次に教えられるのが、主君の子であれば、重臣の中から選ばれた「同じ歳前後」の子どもを数人召し抱えて 、また、重臣あたりでは家来から「剣術」を教え込まれました。 また、当然のことながら乗馬、弓矢、槍、薙刀(薙刀は女性が・・・と思われるかもしれませんが、男子も鍛錬をしたのです)、鉄砲が伝来してからは鉄砲術etc。 さらに、「水練」(水泳)も必須だったのです。泳ぎ初めの頃は、ただただ泳ぐだけでしたが、やがて、背中に5~10kgの石を背負って泳ぎました。 これは、「鎧」(よろい)を着たまま川などを渡らなくてはならないことを想定したからです。 その他としては、和歌、生け花、茶の湯、舞なども習いました。 >>公家や天皇との教育の違いは? 天皇や公家も幼少の頃の教育は、武士とほぼ同じでしたが、当然のことながら、「兵法」などはサラリと流して、和歌、生け花、茶の湯、舞、蹴鞠などを中心にして、師は「大学頭」(だいがくのかみ)により教わりました。 「水練」はありませんでした。 >>中国やヨーロッパの貴族やマムルークのスルタンの教育との違いは? さて、海外事情ですが。 中国の場合も当然、読み書きから始まりましたが、庶民の憧れの的は何と言っても「宦官」(かんがん)というお城勤めをする国家公務員になることでした。 この宦官になるためには「科挙」と呼ばれる試験がありました。 これは、「隋」の時代から「清」の時代(598~1905年)まで行われており、試験は「明経科」と「進士科」の二科目でした。しかし、次第に「進士科」が重要視されるようになり、科挙の試験と言えば「進士科」とさえ言われるようになりました。 「明経科」・・・経書の解釈を主として出題される科目。 「進士科」・・・詩文のことで、いかに抒情的に詩文が書けるか、いかに情熱的に詩文が書けるかで合否が決まりました。 ヨーロッパの貴族: これは、もちろん読み書きも重要でしたが、「社交術」が重要でした。 「社交術」・・・言葉遣い。礼儀作法。食事などのマナー。ダンス。ファッション・センスなどです。 スルタンの場合: 読み書きも当然でしたが、かなり幼い頃から身体づくりに力が入れられ、「軍事教育」を中心に教え込まれました。(日本の自衛隊を思い浮かべて下さい)。 武器の使用方法、ゲリラ戦法、諜報活動、暗号解読術など。 この暗号解読術になると、自国語だけでははなく外国語も必須だったのです。 (よもやま話) ★江戸時代の中期頃、天下泰平の世でしたので、学問も盛んで、特に「算学」が流行しました。例えば、〇△〇が一部分だけ重なっており、その広さ(面積)を求めよ。などと言うものでしたが、昔は電卓などはなく、算盤を片手にして、私などはすっかり忘れてしまった「ルート」「サイン」「コサイン」「タンジェント」などを駆使して答を見つけました。そして、そうした人たちは、また自分が考案した新しい問題なども「問題集」として発刊し、錦絵などと同様に一大ブームを引き起こしました。 ★幕末以降になると、アメリカ人やイギリス人、フランス人などが日本へやって来ましたが、皆、一様に日本人の識字率の高さに驚かされました。 当時の識字率を見てみると、日本人約40%。アメリカ人、イギリス人約28%。フランスにいたってはわずか4%だったと言われています。 いかに日本人が勤勉家だったかが分かります。 これは、江戸や京都、大坂はもちろんのこと、片田舎でも「寺子屋」が普及していたからです。 ★ハイヒールの起源をご存知でしょうか?(話はコロッと変わりますが悪しからず) 昔は、どこの国でも、現代のように道路は舗装されておらず、雨が降ればドロンコ。日照りが続けば風で砂埃。 そんな中、中世フランスでは、まだ、トイレという概念がなく、洗面器などへ用を足し、窓から道路に向けて捨てていました。馬車の馬が糞を落とすのと同じだったのです。ところが、フランス人はドレスを着て歩いていたために、裾が泥や糞で汚れてしまう。そこで考え出されたのが「ハイヒール」だったのです。

noname#215730
質問者

お礼

bungetsuさん たくさんの回答ありがとうございました。非常に興味深かったです

  • tzd78886
  • ベストアンサー率15% (2589/17102)
回答No.1

武士と言っても様々です。戦国時代でいえば、「地侍」などと言われた人たちは基本的に農民と変わりがありません。まともな教育を受けていたのはそれなりの血筋の人たちだけで、それ以下の人はろくに字も読めない人も多かったようです。 これらをすべて書いていくとそれだけで何冊もの本ができてしまいますので、時代ごとに調べて見てはいかがでしょうか。

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