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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:いい男 ( 女 ) の絵になるシーン)

絵になるシーン

kamejrouの回答

  • kamejrou
  • ベストアンサー率17% (191/1107)
回答No.12

こんにちはisokenさん アメ横の件、本当にありがとうございました 私は乗り気ではないのですが、 西太后状態ですから私の話しなど聞くものでない❗ 大トロ二冊入り一パック5000円と中トロ3000円が二パック、 この三パックで3000円と言う、本来合計なら11000円なのです そんな馬鹿な話しはない❗ 安いには安いなりの訳がある❗いくら言っても聞かない💧💧 これは冷凍技術の進歩とは別のことですからね 漁に出れば燃料費もかかるだろうし、人件費もかかるわけで 家内は思い込んだらもうテコでも動かない Isokenさんのお礼文をもうこれ以上拡大出来ないと言うほどにして 見せてやった❗ 内弁慶だから他人様の言うことなら納得するみたいで 私は毎日こんなのと暮らしてる💧💧 私がたまに家内を絞め殺して自分も死のうかと思うのも 分かっていただけると思います とりあえず、アメ横行きは回避できましたので感謝しております 26日くらいを予定していたようなのです これだけでは運営の方に叱られる 先日の信長、秀吉、家康のことを少し 私は別にisoken さんを持ち上げるつもりもありませんが 私の、時に命をどこかに置いてくるようなところがある あの文章だけで 実に明確に私の言外に意味するところを理解していただいた 私は改めて感心しているのです 秀吉で言えば 金ヶ崎の退き口と言うことになります 当時、殿の兵と言えば九分九厘死ぬものと 相場は決まっておりましたからね 家康においての三方原、仰るとうりです ただ、敗れるべくして敗れた戦いではありましたが 得たものはまことに大きなものであったでしょう 街道一の弓取りの尊称など そんじょそこらに転がっているものではない 私は小牧長久手の戦いなども全てとも思いませんが 秀吉、おびえたとすれば 三方原が脳裏になかった訳がない、そう思います それと信義の人である、これでしょうか? それを思えば実に価値ある負け戦と言えますね アメ横のお礼だけのつもりでしたが長くなりました まずはお礼まで

isoken
質問者

お礼

kamejrou さん、おはようございます。 浅草で40年寿司を握ってる人から聞いた話ですから、それなりの信憑性はあるのだろうと思います。 それにしても西太后は言い過ぎでしょう、北条政子辺りじゃないですか。 >秀吉、おびえたとすれば >三方原が脳裏になかった訳がない、そう思います 信玄としても軍勢の損傷を避けたかったのでしょう、この時3万余の武田軍は、浜松城の存在を無視するかの如く遥か北方を進んでおりました、信長も止めましたから、城に引っ込んでさえいれば通り過ぎるはずの嵐でした。 ところが無敵の騎馬軍団の前に立ち塞がり決戦を挑んだ、結果は見るも無惨な敗北でしたが、これが後に大きな財産となります。 天下取りまでの秀吉の嗅覚は並外れておりますから、家康に他の有象無象の大名にはない何かを感じた、・・とすれば先ず第一に三方ヶ原、御指摘のその点は恐らく間違いないでしょう、それが秀吉をして家康懐柔に向かわせたのでしょう。 周囲にまだ敵を抱えていた彼としては、徹底抗戦に依る全線膠着状態は絶対に避けたかったはずですから。 次いで秀吉が恐れたとすれば、投機的な戦国の世にあって、如何にも異質な徳川家臣団の存在ではなかったでしょうか。 特に織田家などは戦国気風の典型ですから、目の前に巨大な人参がぶら下がれば実力以上の物を出しますが、一旦戦に敗れればいとも容易く四散する。 ところが徳川の諸将はそうではない、辛酸を舐め尽くした彼等とすれば功名よりも先ずはお家第一、そして何より三河気質とでもいう排他的で泥臭い粘り強さがあったという事でしょう。 家康は確かに吝嗇であったのでしょう、他家であれば10万石は取ったであろう本多忠勝・榊原康政他の名立たる諸将に僅か2~3万石しか与えていない、それでも不平を言わず戦場にあっては奮戦する異質な家臣団、驚嘆に値しますね。 いつぞや kamejrou さんから回答頂いた石川数正などは、少しばかり山っ気があったばかりに、筆頭重臣の身でありながら、異質な家臣団から弾き出されたという事なのかも知れません。 >それと信義の人である、これでしょうか? 信長・秀吉に比べると後世の評価が芳しくない家康ですが、彼としては律義者の仮面を被っていた訳ではなく、秀吉の逝去以降豊臣家滅亡に至るあの時期だけが異質であった・・、私としてはそう解釈します。 これはもうしょうがないでしょう、以前にも述べたと思いますが、50万石精々100万石程度の大名であれば、時の政権に擦り寄る第3の道もあったのでしょうが、天下様豊臣家さえ凌ぐ260万石の大大名では、先に行って潰しに掛かられるのは自明の理、伸るか反るかの大博奕に打って出るより他なかったのは自明の理でしょう。 信長・秀吉に比べ、新時代を切り開く能力は遥かに劣ります、但し家康は実に安定感がある、信長は貴人情を知らず・・といった趣がありますし、秀吉は気紛れですから・・。 回答ありがとうございました。

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