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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:いい男 ( 女 ) の絵になるシーン)

絵になるシーン

oya_zicoの回答

  • oya_zico
  • ベストアンサー率19% (398/2007)
回答No.4

isokenさん、こんにちは。 おっしゃる通り、確かに、曹操は『負けっぷり』『逃げっぷり』が絵になる男ですね! 董卓を暗殺しようとして失敗したとき。 逃げる董卓を追いかけて逆襲をくらったとき。 身から出た錆とは言え、張繍に攻撃されたとき。 そして、赤壁の戦いのとき。。。 何度も死地に足を踏み入れながらも、この曹操という男は、いつも間一髪で切り抜ける。 冷静な判断?素早い決断力?献身的な部下のお陰?それとも持って生まれた運命? いや~本当に絵になる男です。 それに比べて、呂布はどうして絵にならないのでしょうか? 名馬赤兎馬に跨り、一騎当千?国士無双?の勇猛果敢な武将であり、 劉備と袁術を和解させた弓の絶技を持ち、 策略とはいえ美女貂蝉とのロマンスもあるのに。 やはり、義理とはいえ親殺しだから? 田舎出身で頭が悪そうだから? 戦国では、そんなことくらいどこにでもありそうですが…どうなんでしょう? もしかしたら、プロパガンダ不足?情報戦略が弱かった? それとも、曹操と呂布の一番の違いは『志』の違いでしょうか? 何を目的に生きるのかが、絵になるか、絵にならないかを分けるものなのでしょうか? う~ん、難しいですね。 日本の歴史では、今度の大河ドラマは『真田丸』ですよね。 大坂の陣での、徳川本陣急襲シーン?この真田幸村の大活躍シーンは、通常ならば絵になりそうですが、 ふ~う、脚本があの三谷幸喜(最近スランプ?)ということで、今回は絵にならないかも…と危惧しています(苦笑) 織田信長ですか~。以前見た役所広司の信長は格好良かった。。。 それから、秀吉の一夜城でしょ、城主を諌めるために一人で城を落とした竹中半兵衛も格好良かった。。。 おっと長くなりすぎた。それではこのあたりで。。。

isoken
質問者

お礼

zico さん、おはようございます。 >おっしゃる通り、確かに、曹操は『負けっぷり』『逃げっぷり』が絵になる男ですね! 曹操ほど見事なまでの大勝利と大惨敗を繰り返した大将は稀でしょう、御指摘の通り命からがら逃げ出した例は何度もある、まあ漢の高祖劉邦も負けるのは得意でしたが・・。 >身から出た錆とは言え、張繍に攻撃されたとき。 張繍との戦いは実に面白いサンプリングです。 あの戦を一言でばっさり切りますと、女にかまけて手痛い敗戦を喫した・・とこうなるんでしょうが、無論その点は曹操の完全なるエラーで大将にあるまじき行為。 ところが曹操が有する魅力の一端は、その脇の甘さにこそあるんじゃないかと・・。 それで一度は帰順した張繍が離反し大変な目に遭った、ところが後に再度張繍が投降すると厚遇する大きな腹を見せております。 尚その戦いで股肱の臣典韋を失いました、ところで戦死した我が子の事はさて置き彼の葬儀で号泣したと言います、末永くその遺児の面倒も見ている、信賞必罰を地で行く厳しがあった反面、一度仕えた部下が長らく彼の下を離れない理由の一つがそこにあったのではないでしょうか。 >それに比べて、呂布はどうして絵にならないのでしょうか? >名馬赤兎馬に跨り、一騎当千?国士無双?の勇猛果敢な武将であり、 三国志演技初期の記述では、さる戦いで関羽と張飛が組んで討ち掛かったが、それでも尚呂布には余裕があったと言います、加えて当時大宛国と称されたフェルガナ産 ( 私の勝手な想像 ) のフェラーリ・赤兎馬に跨った呂布は、数多の豪傑を生み出したあの時代に於いてすら恐らく最強の武将、万夫不当とはまさに彼の為にあるような言葉でしょう。 ところが呂布にあったのは並外れた武力だけで、頭脳・人望共にほぼ皆無、董卓殺しもそうですが、その場を凌ぐ為の離反に次ぐ離反でビジョンも無い、仰る通りでそもそも志操が違いますねぇ。 あれでは軍閥程度は別として、離反常無き時代と言えども求心力に欠ける、収まるところに収まったという印象です。 >日本の歴史では、今度の大河ドラマは『真田丸』ですよね。 司馬遼太郎氏の言葉を借りれば、真田丸は東軍に対する吸血ポンプであり続けたとの事・・、あの一角に出城を築いた幸村の戦略眼は並外れております。 加えて局地戦での采配の巧みさ、この点は武田家滅亡後自立し、上杉・徳川・北条といった名立たる大国の狭間で生き延びた、父昌幸譲りでしょう。 >大坂の陣での、徳川本陣急襲シーン?この真田幸村の大活躍シーンは、通常ならば絵になりそうですが、 大阪夏の陣に於ける2大ハイライトは、後藤又兵衛が伊達政宗の大軍に突撃し玉砕した道明寺、そして真田軍団が槍襖を掻い潜り、家康の本陣へと肉迫したくだりなのでしょうが、今以て私は涙なしには読めません。 >ふ~う、脚本があの三谷幸喜(最近スランプ?)ということで、今回は絵にならないかも…と危惧しています(苦笑) 最近の三谷作品ですと 『 清須会議 』 は面白かった、但し三谷さんは時代考証の整合性をさほど重要視しない傾向にある、今回はどうなんでしょうか。 それ以上に最近の NHK 大河ドラマは、コンセプトそのものに疑問符が付く作品が多い、1年間通して見続けるのが正直言って辛い気がします。 尚先ほど『 真田丸 』 キャストをちら見しましたが、ちょっと厳しい気はしますねぇ。 いつもながら興味深い御回答の数々、ありがとうございました。

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