• 締切済み

多くのキリスト教会はなぜ什一献金を勧めるのですか?

お解りの方がおられ、答えて下さる方がおられれば幸いです。 AからGの7つほど質問があります。 A. 多くのキリスト教会はなぜ什一献金を勧めるのですか? 1. それは創14:20をはじめ、レビ27:31からマラキ3:8まで、 旧約の中でいくつもの書に記されているから。 2. それは神さまの言葉だから。 3. 天に宝を積むことになるから。 4. 結果的に祝福となって返ってくるから。 などという答えをよく聞きますが、 そのような答えも理解出来ますが、しかしそれだと、 B. 例えばやっぱり豚は食べてはいけないことになりませんか? C. イエスは何を食べようか飲もうが悩まなくてよい、 と仰せになっていないでしょうか? したがって、現代のクリスチャンの多くは豚も食べていると思うのですが。 また、旧約の、 1. 什一献金の記述や豚を食べてはいけないこと。 2. 頭を剃ってはいけないこと。 ※エゼ44:20。   祭司に対しての記述のようだが、   プロテスタントは万人祭司なので私たちにもあてはまる。 3. 刺青を入れてはいけないこと。 ※レビ19:28。 4. その他、5分の1という数字や七日とか八日とかの日にち、月など。 D. これらは「行ない」による祝福・恵みであって、 「行ないによるのではなく信じるだけで救われる」 というパウロの信仰義認解釈、プロテスタントの多くのその解釈と矛盾しませんか? E. また、それとも「救い」と「祝福」「恵み」は、違うものということでしょうか? そして最後に、ルカ11:42の文脈、 その前後の流れを読むと極端な解釈かもしれませんが、 F. パリサイ派の行ないなど不幸である、とイエスは糾弾していませんか? G. つまり什一献金や食物規定などの行ないは不幸であって、 不幸とまでは言えなくとも、そのようなことは二義的・形式的であって、 信仰の本質は、神さまへの絶対的信頼は大前提ですが、 愛と正義の心を持つことが最も大切だ、と仰せになっていないでしょうか? お金が惜しいから質問しているのではありません。 何かにつけ、規定より気持ち・心が大切ではないかと単に疑問に思うからです。 ユダヤ民族にはそのような気持ちの基準が無いから、 敢えて神さまは目安を教えているのでは?と解釈しているのですが、 何卒、どうぞよろしくお願いいたします。

みんなの回答

回答No.1

キリスト者でないのでかなりいい加減だが、旧約(ユダヤ教はこれだけ)と新約の何処かに「はっきり書いてあったはず」 会派はどこでも良いからキリスト教の日本支部に聞いて下さい。 絶対答えてくれるのが「末日聖徒イエスキリスト教会」(普通の人はモルモン教と呼ぶ)さん。 ユタ州はここの本山だから、はっきり私は違います、と言わないと所得税とは別に10%教会へ行く。 なお「教会税」は西欧ではかなり普通で、ドイツ連邦でも、私は神を信じておりません、と申告しないと天引きで取られ、信仰する会派の人口構成に従い会派に分配される。 ユダヤ教徒はどんな扱いかは忘れた。

関連するQ&A

  • フランス語翻訳をお願いします。

    フランス語翻訳をお願い致します。 聖書は信仰の書物と言われていますが、その聖書のなかで、最も信仰について、模範となる人物の一人として取り上げられているのが、旧約聖書に出てくるアブラハムです。 神はアブラハムに3つの祝福の約束をされたといわれます。まず1、人の祝福、アブラ ハムの子孫は海辺の砂のように与える、2、土地の祝福、カナンの土地、今のパレスチナ を与える、3、恵みの祝福、救いを与える、の3つです。このとき、アブラムは75歳で した。 です。どうぞよろしくお願いします(>_<)

  • キリスト教は肉を食べても良いのか

    こんにちは、僕はプロテスタント教派のクリスチャンです。聖書の解釈について質問させてください。 レビ記3:17(新共同訳) 脂肪と血は決して食べてはならない。これはあなたたちがどこに住もうとも、代々にわたって守るべき不変の定めである。 とあります。クリスチャンでも脂肪の類は毎日摂取しているでしょうけど、主の命令に反する事にはなりませんか? キリスト教には一般的に脂肪摂取の禁止がないように思いますが、旧約聖書を軽視しているという事ですか?

  • フロテスタントの教会の献金について

    私は母のお腹の中にいる頃から教会へ行っていました。 毎週教会に行っていましたが、授かり婚をしました。ご存知の方も多いとは思いますが、婚姻前の男女間で関係を持つ事は禁止されています。ちなみに私の旦那さんはノンクリスチャンです。 関係を持たず結婚というのはあり得ない感覚の持ち主。 教会関係の仕事に就いていたので当然牧師先生をはじめ非難を受けました。もちろん罪悪感いっぱいでした。 私は出産前、教会の議会にかけられ、教会員全員の前で裁判にかけられました。 もちろん辞職。母や祖母も仕えていた奉仕を辞退しました。 誰からも背を向けられ、とても悲しい気持ちに、なりました。私がクリスチャンでなけれは祝福してもらえたはずなのに。同僚も同じことをしていたのに、バレなければ許されるの? 神の目から見たら同じことでしょう。私は神ではなく教会の組織自体に疑問を抱いてしまい、教会から遠ざかってしまっていました。 新しい仕事も見つけ、旦那さまと生まれてきた子供と幸せに暮らしています。l ただやはり私は根っからのクリスチャン。lやはり仕事が落ち着いてきて時間にゆとりを持ち始めると教会へ足を運ぶようになりました。l その間、月定献金も3年間くらい支払っていませんでした。何で教会組織のために私が汗水かいて稼いだお金を支払わなければ? 教会に払うくらいならユニセフにでも寄付した方がよっぽどいい。lと思っていたので、、、 しかし、やはりちゃんと今年から払おうと思っていた矢先、牧師先生に呼び出され「献金が支払われていません」と言われてしまいました。 「そうなんです すみません 今年からは頑張ります」と伝えましたが正直びっくりしてしましました。 洗礼を受けていたら献金は義務だと思いますが、あくまで個人の意思であり、強制ではありません。lと毎回献金の際にはアナウンスを流していたのに。 帰りに牧師夫人から「良い車乗ってるのね」と嫌味も言われました。十分生活にゆとりはあるでしょうと言わんがばかりです。 何年もかけてやっと教会に足を運べるまでになったのに、また嫌になってしまいました。l どうしたらいいでしょうか? 信仰が足りないといわれればそれまでなんですが、お金を払いたくないという訳でもありません。l ただ私をリストラさせておいて、私の仕事が軌道に乗ったところでまた催促してくる牧師に嫌気を感じてしまうんです。l とても苦しくて悩んでいます。lどうするのがベストでしょうか。 力を貸して下さい。よろしくお願いします。

  • クリスチャンの方に質問です(什一献金)

    最近教会に集うようになり、正式に教会に所属しようと思っています(ペンテコステ派です)。 教会員になると什一献金というものがあるそうですが、「お金を取るかどうかが怪しい宗教かどうかを見極めるバロメーターだ」という刷り込みのようなものがあり、怖くなってネットで色々調べてみました。 それで、  ・現在は什一献金という制度を導入している宗派の方が少ない  ・十分の一の捧げものは旧約のときの律法であり、現代においては無効  ・そもそもユダヤ人に対して神が定めたので関係ない という考えの方が警鐘を鳴らしておられますが、まだ知識というか聖書そのものがよくわかっていないので、どのように解釈していいか混乱しています。 クリスチャンの方、どうすることが神に従うことなのか教えていただけませんか?

  • わたしのキリスト教史の理解は正しい?

     キリスト教にとても興味があります。でも、キリスト教にはいろいろな種類があるようで、どうもそれぞれの関係や歴史的経緯がよくわかりません。  わたしが聞いたところでは以下のような歴史的な変遷があったとのことです。 (1)紀元前は「神」の教えを旧約聖書で定め、これを人々は守ることに努力した。 (2)その中でも、より厳格な規律に身をおく者たちがいた(十戒の厳守)。 (3)そこで、その者たちはユダヤ教という教徒を名乗りキリスト教から独立した。 (4)その後、キリストの誕生により新約聖書が作られた。 (5)ところが、キリストとその弟子たちによって作られた新約聖書の解釈について、のちの人々の間でズレが生じ始めた。 (6)そこで、本来の教えを信じ、それに従うべく独立する者たちがさまざまな宗派を作った。 (7)それが、カトリック、プロテスタント、セブンスデイ、などである。 (8)そしてそれらに追随して独立しないで留まったのがバプテストである。 (9)その後、エホバの商人、ものみの塔などが本来の教えを貫徹すべく独立し派生していった。  とまあ、こんな感じで理解してますが、これで正しいのでしょうか? いや、わたしが聞きたいのはあくまでも歴史的流れであり、どの宗派の教えが正しいか否かとは関係ありませんので、それぞれに信仰をお持ちのお方には、どうぞ質問の意図をご理解戴きたく思います。  キリスト教を理解しようとすると、どうしても多くの宗派の存在や多少の教えのズレを無視できません。もともとひとつしかなかったはずの「神」や聖書の教えがどうして分裂していったのかが知りたいのです。できましたら、それぞれの宗派の違いや派生原因なども簡単に教えて戴けると幸いです。  どうか宜しくお願いいたします。

  • 聖書で一つの内容を角度を変えて記述しているのは?

    素晴らしい教えてgoo回答者の皆様にお伺いします。 聖書が、一つの内容を角度を変えて書いているのはなぜでしょうか。 例) ★収入の十分の一を倉に納めよ-----献金は心のままにせよ------貧しいやもめのレプタ銅貨二つの献金が金持ちの献金を上回る ★親をうやまいなさい(旧約;十戒) ------親よりも、兄弟よりも、神を第一とせよ 他にも、自分は剣をもたらすためにきたと言ってみたり、一貫した態度で記述されていないと感じるのですが、これはどのようにも解釈できることによって、宗教指導層が言い逃れや神の絶対性を構築しやすくするためでしょうか? 現に教会では、複数の解釈箇所を使い分けて、キリスト教徒を指導者の都合で動かしています。

  • 聖書のヨハネ11:49~53で質問があります。

    ヨハネ 11 「49 しかし,彼らのうちの一人で,その年に大祭司であったカヤファが言った,「あなた方は何も分かっていない。 50 そして,一人の人が民のために死んで国民全体の滅ぼされないほうがあなた方の益になる,ということをよく考えていないのだ」。 51 だが,彼はこれを独自の考えから言ったのではない。その年に大祭司であったので,イエスが国民のために死ぬように定められていること, 52 しかもそれがただ国民のためだけではなく,各地に散る神の子たちを彼が一つに集めるためでもあることを預言したのである。 53 こうして,彼らはその日以来,[イエス]を殺そうとして相談した。」 この部分で、大祭司カヤファはなぜイエスが国民のために死ぬように定められいて、各地に散る神の子たちを集める為にイエスを殺さなければいけないと思ったのかなんですが、 ヨハネ 12 「38 預言者イザヤの言ったこの言葉が成就した。「エホバよ,わたしたちの聞いたことにだれが信仰を置いたでしょうか。そして,エホバのみ腕は,だれに表わし示されたでしょうか」。」 で、預言者イザヤの言ったこの言葉が成就と書いてあるので、この言葉をイザヤ書から探すと、 イザヤ 53 「1 わたしたちの聞いたことにだれが信仰を置いたか。そしてエホバの腕,それは一体だれに表わし示されたか。」 と書かれていて、つまりこのイザヤの聖句の近くはイエスの事を言っているのは解ってきたんですが、問題はこの後で、もう少し読み進めると、 イザヤ53 「10 しかし,エホバご自身が彼を打ち砕くことを喜び,彼を病める者とされた。もしあなたが彼の魂を罪科の捧げ物として置くならば,彼は自分の子孫を見,[その]日を長くするであろう。その手にあって,エホバの喜ばれることは成功を収める。」 と、神はイエスを打ち砕く事を喜び、彼の魂を罪科の捧げ物とすることを喜ぶと書いてあり、旧約聖書の律法と預言者達の言葉にあるイエスの到来を信じていた人達は、同時にイエスは死ななければいけないと思っていて、他の箇所の預言通り蘇る返ることも信じていたはずなんですが、 ここからが質問の本題で、大祭司カヤファと、一緒にいた祭司長とパリサイ人達とは、「あなた方は何も分かっていない。」と書かれている事から考えると、同じイエスを殺すにしても一方は律法と預言の言葉を忠実に守る為に殺したいと思い、もう一方は律法と預言者の言葉を知らずにイエスを邪魔に感じ殺したいと思っていると感じました。また、これとは別に、 ルカ  22 「36 すると[イエス]はこう言われた。「しかし今,財布のある者はそれを持ち,食物袋も同じようにしなさい。そして,剣を持っていない者は,自分の外衣を売ってそれを買いなさい。 37 あなた方に言いますが,書かれているこのこと,すなわち,『そして彼は不法な者たちと共に数えられた』ということは,わたしに成し遂げられねばならないからです。わたしに関することは成し遂げられてゆくのです」。 38 すると彼らは言った,「主よ,ご覧ください,ここに剣が二振りあります」。[イエス]は彼らに言われた,「それで十分です」。」 で、イエスが言った不法な者たちとは、律法と預言者の言葉にあるイエスの死を邪魔しようとして、イエスを殺そうとして連行しに来た人に剣で斬りかかった使徒達のことでいいんでしょうか? そうすると、ニコデモの福音書に、 ~略~ ピラト「太陽にかけて、余はこの男にいかなるとがも見いださぬ」 ~略~ ピラト「お前達は、お前達の神は殺すことをしない、という。それで、余には殺すことが許されているというのか」 ~略~ ピラト「余はお前をどう取り扱ったらよかろう」 イエス「貴下に与えられた役割を演ずるがよい」 ピラト 「それはどういうことか」 イエス「モーセと預言者達は余の死と復活とについて予告している」 と書かれている部分ですが、これを読んでニコデモの福音書のこの部分は正確な可能性があると思ってしまったんですが、偽物なんでしょうか? 聖書をくれた人に聞いたんですが、読めば聖書じゃないことはわかると言って、サタンに惑わされそうだからと言い、質問も最後まで聞かないので、何が質問なのかも解ってもらえず困っています。 たとえば、「終わりまで堪え忍んだものが救われる」の聖句は、自分がサタンだと言っている人達の聖書にも同じように書いてあり、聖句を部分的に自分の都合のいいように利用している事を自ら証明してしまうようなやり方ではなく、聖句だけを使って、さらにその聖句の解釈を証明する聖句をもってニコデモの福音書が偽物である証拠と、不法な者たちが誰であるのかを教えてください。 お願いします。 回答が全く付かなかったの再度質問させてください。 上記の補足で、イエスを罪科の捧げものとすることをエホバは喜ぶとイザヤ書に書かれていますが、罪科の捧げものをレビ記から調べると、傷のない雄羊、子羊を罪科の捧げものとして置くならば彼らの犯した罪は許されるのである((例)レビ5:4~10)とあります。旧約聖書を読んで、もし当時自分がその場にいたら、イエスに、本当に殺したほうがいいのでしょうか、と聞いたと思います。そしてもし殺せと言われたら神の命令は絶対なわけですから殺していたと思います。 しかし、ペテロが聖書中、同じ事をイエスに質問してくれている部分が参考になったのですが、 マタイ16 「21 その時以後,イエス・キリストは,ご自分がエルサレムに行って年長者・祭司長・書士たちから多くの苦しみを受け,かつ殺され,三日目によみがえらされねばならないことを弟子たちに示し始められた。 22 すると,ペテロは彼をわきに連れて行き,「主よ,ご自分を大切になさってください。あなたは決してそのような[運命]にはならないでしょう」と言って叱り始めた。 23 しかし,[イエス]はペテロに背を向けて言われた,「わたしの後ろに下がれ,サタンよ!あなたはわたしをつまずかせるものです。あなたは,神の考えではなく,人間の考えを抱いているからです」。」 で、言っていることは逆ですが、イエスに死なないで欲しいと言うのは神の御意志ではないとわかりました。 が、問題は、ニコデモの福音書が偽物で、不法な者が使徒の事ではない理由がどうしてもわかりません。 11人は他の兄弟の1人について騙していた場合、まずこの一人が最初に助かり、12人全員が助かるという創世記を考えると、この一人が最初に助かるまで嘘を教えていなければ成就しないことになります。 もしそうなると、11人は足を洗ってもらう必要がある他は全身清い者であるとイエスが言っているわけですから、兄弟ということになり、旧約聖書の律法以外では、唯一の新しい掟である、兄弟が愛し合うことが守れなくなってしまいます。なぜこの疑問を解決したいのかと言うと、嘘を教えていてもヤコブの家の兄弟だった場合、正確でなくても、イエスを見ると神に見え、神を見るとイエスに見え、神とイエスが同じ者に見えてしまう者と敵対しても本当に大丈夫なのかという問題が出てきます。また、イザヤ48で真実によらず義によらず語り告げ、神も憎むが助けることに決めた再び島々から集められる、神の名以外はすべて間違っている者と敵対しているとイエスの命令を守れなくなってしまう可能性が出てくるので、どうしてもこの宗派は絶対で、他は滅びるという納得がいく証拠が欲しいんです。ニコデモの福音書がなぜ偽物とされたのか、イエスが仲介に入って助ける不法な者達が誰であるのかの納得がいく証拠をください。 やっと聖書を一回読み終わったのですが、覚えていない所もあり、もう一度読む必要を感じているのですが、とりあえず、この部分に関してまず納得したいのでここを読めばわかるという証拠とその証拠を証明する聖句を教えてください。お願いします。

  • 聖書 ヨハネII9~11の解釈

    日本聖書刊行会の新改訳聖書 ヨハネII9~11の解釈について教えて下さい。できれば純粋なプロテスタントを信仰している方にアドバイス頂きたいです。 この御言葉は、一度背信した者を決して受け入れてはいけないという意味なのでしょうか?それは家族であってもそうなのでしょうか?この世でいう家族よりも神の家族が優先するのでしょうか?

  • キリスト教信者の夫と結婚し洗礼予定です。

    プロテスタント(改革派)信徒の夫と結婚して2年になります。昨年娘を授かりました。 このたび、娘が幼児洗礼を受けることになりました。その時に同時に私の洗礼もすることになりそれについて悩んでいます。 主人の実家は義父に彼の母方の祖父、叔父がプロテスタントの牧師家系です。主人自身は大学生の時に信仰告白をしました。私のほうは父方が浄土真宗の仏教ですが、実家が自営業で家に神だながありえびす信仰ではないですが、商売繁盛などのお札があって神棚を拝むような家でした。しかし、幼稚園はカトリックの幼稚園で七五三などは教会で子ども祝福式としてやったり・・・といろいろ混合した典型的日本人です。住んでいた場所も神社仏閣が多く、遊び場はお寺だったり神社だったり教会だったり・・・ そんな環境ですごしたため、八百万の神様だったり阿弥陀様だったりイエス様だったり見えないけどすべてに神様がいるという気持ちがあります。そういう感性を大切にしたいとおもっていました。 主人の実家は敬虔なクリスチャンホームではあるのですが、かなり柔軟な義母でクリスチャンホームの方々があまり行わないと言われる日本古来の行事(お食い初め、お雛祭り、七五三など)を行うことに否定的なことは言わないし、主人もライフイベントとして行うことに抵抗はないようです。(神社仏閣に行っても拝みはしないですが) 娘の幼児洗礼に合わせて私も洗礼を受ける予定だと先に述べましたが、主人は「娘のためにするものではないから、しなくても大丈夫だよ。」と言ってくれます。義実家にしても私の信仰に関してはなにも言いません。ただ、通っている教会からは無言のプレッシャーといいますか、遠まわしに言われまして、主人とずっと生きていくなら私もいつかは改宗しようと思っていたのでそれが少し早まったのだと思い、娘と一緒にしようと思い立ったのですが、勉強会の話になり思いが揺らいでいます。 結婚が決まってから今まで毎週日曜日(休むこともありましたが)礼拝にでています。子どものころはイエス様にお祈りをしてからご飯を食べるような幼稚園だったのでキリスト教に抵抗があるわけではないのです。 でも、上記に記載したとおり、私にとって八百万の神様もイエス様も同じなので、一神教であるキリスト教徒になるのはどうなのだろうか・・・・そういう思いが抜けません。 主人みたく神社仏閣に神様はいない!とは宣言できないのです。この気持ちがなくなってから洗礼をうけるのが筋なのではないか・・・・でないと、他の方々に失礼にあたるのではないか・・・・など色々と考え混んでしまっています。 やはり、まだ私は受けるべきではないでしょうか・・・・。これから物ごころがついていく娘にクリスチャンホームを守り教えていく母としてこのままでよいのでしょうか・・・・。(ちなみに主人と話、娘の宗教に関しては成人するときに自分で選ばせる予定ではあります。) プロテスタント教徒の方、結婚を機にキリスト教徒になられた方などアドバイスを頂ければ幸いです。 頭の中がうまくまとまらず、読み難い文面や不快に感じる文面がございましたら申し訳ございません。 よろしくお願いいたします。

  • ユダヤ教は新約聖書を否定しますか?

    ユダヤ教の信仰は旧約聖書を基本とするという私の認識はまず合っていますか(間違っていたらご指摘ください) ユダヤ教は新約聖書をどう解釈しているのでしょう?ユダヤ人迫害があったのはイスカリオテのユダの件以外に「新約聖書を否定するから」なのでしょうか?キリストが神の子であるというのは新約聖書ですが、ユダヤ教にとってそれは受け入れられないことなのでしょうか?