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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:織田信長はなぜ本能寺で滅ぼされてのか)

織田信長が本能寺で滅ぼされる理由と光秀の策略について

Saitasaita390の回答

回答No.2

だいぶ昔に史書や小説読んだ程度のニワカですが 織田軍が加速的に膨張していったことの要因は 主だったものに独立した軍隊を持たせたからだ と思うんですよ 信玄の軍隊は郷士が武田軍に加勢するという形式で 郷士は収穫が忙しかったり財政的にキツけりゃ来ない 敵の領地を刈取る戦には皆積極的で(分配)、しかし 戦略上将来を見据えての戦には人が集まらなかった だから信玄は自前の軍隊を常に揃える必要があった これは毛利もそのほかの大名もシステムは同様かな なので号令一発で独立部隊が即稼動する織田は伸びた と思うんですよ 光秀は織田家中の筆頭で殲滅戦には常に出張ってる 結果的には秀吉に敗れているが単純な戦闘なら光秀 明智軍は規模、軍備において当時日本一かもで 信長が出来ることは全部出来る集団抱えてたと思います 信長は警護部隊程度しか手駒が無く側近も兵抱えてない そんなとこへ最強部隊が帰ってきて奇襲されたら術が無い 切れ者も諜報担当も抱えてただろうがそれは光秀も同じで 突然のクーデターには対応できなかったんじゃ、と思います ゲームと違うからね、それに忍は純粋な家臣とは違うしね 光秀の計算では 「秀吉は毛利方と膠着状態で身動きがとれないはず」 だったと思うんですよ 結果論だが柴田は上杉他の動きが気になって動けなかった だから秀吉軍とまともに当たるしかなかった(雪もあるが) 上杉は柴田や本願寺に気が抜けなかったので動けず 織田全体はほうぼうに戦しかけてたんで信長に余力無く だからそれぞれ滅んだり没落していった、必然があった 「秀吉は毛利に背を向けられない」これは 光秀でなくても辿り着いた「必然」の図式ですから うまくことが運ばなかったのは不運としか言いようがない 秀吉軍は純粋な戦闘能力で成果を挙げていったのではなく 要所に基地こさえて敵の様子を探り 戦闘以外の方法で敵の弱体化を謀って勝利を重ねた これって奇襲とか短期決戦には弱かった、と判断されますよ 「組みやすし」というやつですね、少なくとも明智ほど物騒? ではないです、ならば光秀と秀吉が真っ向から当たるなら 挽回の目が出やすそうな「秀吉」と一旦でも組んどこか、と ロシアと組むよりフランスと組んだほうが将来的に目がある みたいな心理から形勢が秀吉に傾いたんじゃないかな あまりにも光秀が完璧すぎて、そら恐ろしかったんで 光秀は滅んだ、のではないでしょうか そして勝てば官軍、と言いますから 秀吉が後世で褒め称えられるのも致し方ないかと思う

oka123
質問者

補足

そうですね 秀吉は偉い という資料しか残ってないですね 光秀は偉い(こんなことにまで知略をめぐらせた) という論調の資料は全然残ってないですね 有るのは「信長にしかられて そのあげく カーとなって突発的に本能寺へ突入」 というような記録ばかりですね たぶん 秀吉の時代では 「光秀は頭がいい」 というような ことを言うのは ご法度だったと 推測します

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