• 締切済み

西南戦争と征韓論と薩摩士族

19738226の回答

  • 19738226
  • ベストアンサー率33% (2/6)
回答No.2

西郷さんの「俺が殺されれば…」は無血開城を成し遂げ、相手の説得に自信のあった西郷さんが自分が交渉役に選ばれたいがための「誘い」だというのが定説だったはず。 朝鮮半島がしっかり独立国として強くなってくれないと日本はロシアの餌食だったから西郷さんも必死だったんでしょうね。 失礼しました。

関連するQ&A

  • 西南戦争の西南って?

    戦争の名称(?)は土地名や人名が多いみたいですが この西南ってどこをさすのでしょうか?西郷隆盛が関わってるから 西郷南州からとった、なんてことありますか? 明治維新のことがよくわかっておもしろい小説もご存知でしたら 教えてください。

  • 西南戦争後、鹿児島県の処遇はどうだったのでしょう?

     明治維新成功の原動力は薩摩藩と長州藩でした。  しかし、薩摩藩の中心人物である西郷隆盛は、明治6年、征韓論が認められず下野、同10年には西南戦争を起こして敗北、自決しました。  また、薩摩藩のもう一人の雄、大久保利通は翌11年に暗殺されてしまいました。  このように、明治政府に反旗を翻したうえ、大久保という柱を失った鹿児島県のその後の処遇はどうだったのでしょうか?  鹿児島県は、新政府から冷遇されて大正、昭和に至ったのでしょうか?  歴史に詳しい方、どうぞお教えください。

  • 「征韓論」と「台湾出兵」

    「明治6年の政変」で、「征韓論」を主張した、西郷隆盛をはじめとした留守政府組が破れ、大久保利通をはじめとした洋行組が、「内政優先」を主張し、復権しました。 しかし、「内政優先」を掲げ、「征韓論」に勝利したにもかかわらず、時を経ずして、大久保利通や大隈重信は、多少にいきさつはありましたが、台湾出兵を実行します。 「征韓論」が政争の具に使われたという感じはしますが、征韓論の背景には、不平士族対策があったと聞いています。 (1) 当時の時代背景(不平士族対策)として、海外出兵というのは、避けて通れない道だったのでしょうか? (2) 「何故、朝鮮半島出兵ではなく、台湾出兵」だったのでしょうか?素人考えでも、国防上も、台湾よりも朝鮮半島の方が遙かに重要だったと思うのですが? (3) 政争に敗れたとはいえ、「死に場所を求めていた西郷」だっていたのですから、十分利用できたと思うのですが。同郷の西郷と大久保は、「明治6年の政変」以降、そんなことも、話し合えないほどの冷え切った仲になっていたのでしょうか? 頭の中が少し混乱していて、今は、ベストアンサーを選ぶ気分ではありませんので、適当な時期に、質問を締め切ります。それでもよろしければ、ご自由にご回答をいただければ、うれしいです。

  • 西南戦争前の近衛兵の反乱事件とは?

    先日、NHKの歴史秘話ヒストリアという番組で西郷隆盛と山岡鉄舟のことをやっていて、その中で西郷の西南戦争が起きる前に近衛兵による反乱事件があり、この時山岡が明治天皇をを護衛したということが言われていましたが、この事件というのはどのような事件だったのか教えて下さい。

  • 征韓論? 遣韓論?

     こんにちは。  西郷隆盛の「征韓論と呼ばれているものは、その内容として、本当は遣韓論だったのか?」ということで友人と揉めています。  私は南洲さんの人柄に親しみを持っており、「遣韓論」を支持しているのですが、友人にすると、「侍で当時権力を握っていた薩長閥にある西郷が融和策を採るはずがない。大久保と反駁したのはその他に理由があって、ふたりとも本当は後のいわゆる江華島条約のような形で朝鮮と国交を確立したかったはずだ。でも表面上、大久保とは対立しなければならないからキレイゴトとも取れる案を立言した」と言うわけです。また、岩倉具視も深く関わっており、その関係とも複雑に絡み合っている。とのことです。  実際、この「征韓論・遣韓論」は結局どちらの認識が正しいのでしょう。トリヴィアリステックなことでも結構ですので、よろしくお願いします。

  • 征韓論(明治維新)について

    あえて、(明治維新)と記述しました。そうしないと、とんでもない誤解を生じると困るので。(*^_^*) 幕末・維新の頃の本を読んでいますと、「征韓論」というのが出てきます。私なりに、おおざっぱに理解したところでは、その背景として (1)不平士族対策 (2)ロシアの南下に対応する対策 というのがあったようです。  また、その時期、大久保利通をはじめとした欧米視察団が順次帰国しており、「征韓論」が留守番組と視察団組の対立の火種になったということのようです。 ここで質問なのですが、 質問1=征韓論を理解する上で、上記のおおざっぱな把握に、追加すべき重要な事項はありますか? 質問2=「征韓論」が出てきた背景としては、(1)と(2)のどちらが大きいと思いますか?感覚的なものでかまいません。(1):(2)=7:3などと回答していただければありがたいです。又、他にも要因があるのであれば、教えて下さい。 質問3=「ロシアの南下に対応する対策」というのは、何となく理解できますが、背景に、いくらかでも「不平士族対策」があったとすると、いくら国内事情とは言いながら、客観的に見れば、「日本も帝国主義化(あるいは帝国主義化せざるを得なかったとしても)していた、のではないか?」と見られても、おかしくないですよね。「日本の帝国主義化」というのを否定する説明はありますか? 質問4=参考書により、「留守番組と視察団組の対立」と記述しているものもあり、「西郷隆盛と大久保利通の対立」と記述しているものもあります。極端に言えば、「征韓論」などはどうでも良いのであって、「主導権争い」の道具にされたに過ぎないと。このように考えると、「佐賀の乱」も何となく理解できるような気もするのですが、この「対立」というのは、どのように理解すれば良いのでしょうか?単純に、「留守番組が、視察団組の留守中に勝手に振る舞った」結果の対立なのでしょうか? それとも、もっと根深い対立があったのでしょうか?

  • 江華島事件について

    江華島事件で日朝修好条規を 結ぶことに成功した日本・・・ 江華島事件はわざと日本が起こした事件 なんでしょうか? また、やっぱり条規をむすぶためでしょうか。

  • 不平士族の反乱

     某歴史参考書をボーと眺めていて、ふと、下の図が気にかかりました。「なんで、西日本なのだろうか???」という疑問が湧いてきて、また、ふと、大村益次郎を描いた司馬遼太郎の小説「花神」を、思い出し、小説の下巻を最終から逆に追ってみました。 下記はその一節です。            記  エネルギーというものは結局それが消滅するまで存在しつづける。このエネルギーの方向を倒幕にむかって方向づけたのは西郷であったが、しかしその旋回運動はなおもやまず、つぎの方向をもとめ鬱屈していた。  「つぎは反乱へむかう」  蔵六がそう予測した。  エネルギーに方向をあたえる者がつまり英雄といわれる存在であったが、いったんは倒幕へ方向づけた西郷もあとの始末にこまり、苦慮したあげく征韓論へそれをむけようとした。しかしそのことが空発してしまったあとはついにエネルギーそのものに身をまかせざるをえなくなり、明治十年の西南戦争で暴発し、エネルギーもろとも消滅した。蔵六の予言どおりであった。それが窮理学です、と蔵六はいいたいかもしれないが、しかし西郷の死よりもはるか前に蔵六は死んでしまって、その当時はいない。  しかしながら蔵六は歴史の上では西郷と相打ちであった。  蔵六の死は、いそがしい。  年表ふうにいえば、明治二年五月に五稜郭の榎本軍が降伏して戊辰戦争が終了し、蔵六の歴史における役割はおわった。で、この男は明治二年九月に遭難するのである。  榎本降伏から遭難までわずか四ヵ月しかない。この四ヵ月のあいだに、かれは新政府の軍務官副知事あるいは兵部大輔(軍事大臣)として日本の兵制をととのえ、さらにはかれがひそかに予見する明治十年の西南戦争に対してほとんどの手をうってしまった。  かれは軍事上の重要施設を東京に置かず、大阪に置いた。大阪は大阪湾にのぞむ町で、兵器や物資を瀬戸内海経由で九州へ直送することができる。  かれが大阪に置こうとした軍事施設は、陸海軍練兵所、兵学寮、兵器工場、それに火薬庫であった。火薬庫だけはその性質上宇治に置き、淀川経由で大阪へはこぶようにした。                                 (以上) 「花神」の中で、他にも、西郷隆盛の反乱を予測した前提に立った大村益次郎の行動に関する記述は何か所かあるのですが、「小説」なのだから、と思いながらも気になって、調べるとWIKにも 臨終の際「西国から敵が来るから四斤砲をたくさんにこしらえろ。今その計画はしてあるが、人に知らさぬように」と船越衛に後事を託した とありました。 「大村益次郎」は、質問の本旨ではありませんが、大村益次郎のことも念頭において、私が疑問に思ったのは、次の3点です。 1 参考書などで、「維新期の不平士族の反乱」は、「名字帯刀などの特権を奪われた士族の反乱」と記述されているものもあり、私もそう理解していたのですが、下の図を見て、そうではなくて、単に、薩長土肥で構成される維新政府に乗り遅れた薩長土肥の士族の反乱が主因だったのではないか???と。 2 そして、「担ぎ上げられた」という側面は否定しませんが、西郷隆盛自身にも不満があったのではないか???と。単に「乗り遅れた士族だったのではないか???」と。 3 1と2の疑問とは関係なく、そもそも、士族の反乱の主体が、「なんで九州なのだろうか???」と。「士族は全国にいたのではないか???」と。「東日本の士族にも、不満はあったけど、戊辰戦争で負けて、体力・気力ともに失ってしまったのだろうか???」と。 「正解」をお願いしますというよりは、「ご意見」をお願いします、という感じではないか???と思うのでBAは選びません。それでもよろしければ沢山のご回答をお願いします。

  • 江華島事件?が良く分かりません・・・

    江華島事件の発生理由(原因)と内容・我が国歴史への影響(結果)は? 1875年9月20日に発生した江華島事件(日本軍艦・雲揚号による江華島砲台への砲撃破壊)の発生理由&原因と内容、その後の我が国の歴史(日朝修好条規・日清戦争・日露戦争)に及ぼした影響について、ご存知の方が居られましたらお教え願えませんでしょうか?

  • 幕末・薩摩藩の小説や資料など教えてください

    こんばんは。 わたしはずっと新選組や会津藩が好きで、薩長が嫌いでしたが、最近西南戦争のことを知って、過去、薩摩を嫌っていた自分が信じられない位に薩摩藩のことが好きになりました。 そこで、戊辰戦争の頃の薩摩藩側の小説を読んでみたいと思うのですが、薩摩藩全体のことが書かれている作品ってあるのでしょうか。 特定の人物が主役になっている作品(西郷隆盛や大久保利通など)の物でも、いろんな薩摩藩士が登場して活躍する物ならぜひ読んでみたいです。 戊辰の薩摩のことが書かれていれば資料集の類といったものでもかまいません。知っておられる方、ぜひお教えください。