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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:豊富秀吉以前の天下は統一されていないのか?)

豊臣秀吉以前の天下統一とは?

tanuki4uの回答

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.1

なんとなく島国で日本という領域をそれぞれの時代で同じように認識していた。 という意味では、世界的に言えば日本の天下統一というのは、非常に特異な定義です。 同じ法律や税制の元で統一的に統治が行われる。 というのを天下統一と定義すると、西洋史では「国民国家の成立」というのが類似の概念になり、ドイツ・イタリアなどは19世紀後半(明治維新の頃)となります。 一度同盟に加わったら離脱禁止!という意味で国民国家を考えれば、南北戦争でアメリカの南部が別の国家になれなかったのも、国民国家の成立とも言えます。 秀吉によって各大名が石高制や武家官位でランキングされ、秤量(税制度)において京枡が統一的に使われたという意味では、秀吉によって天下統一されたとも言えます。 天下統一(≒全国的な統一的な統治)というのは、世界史的に見ても古代や近代において例外的に成立していることであって、古代と近代の間には個人的なつながりを基礎にした中世社会が存在します。 イギリスの国王が同時にフランスにおけるノルマンディー公爵である。 というのが、何ら違和感なく存在したのが中世です。 日本の中世も、暦が日本の東西で違ったり、関東で貫高制(後北条家)がありつつ関西で石高制が生まれているというようなそれぞれでバラバラというのがOKなのです。 鎌倉時代で言えば、将軍の部下である御家人ではない非御家人がたくさんおり、非御家人であるという理由で鎌倉幕府が非御家人を攻撃する・・・というのは無かった。 御家人もいれば、非御家人もいてOKというのが鎌倉時代。

tapa
質問者

お礼

西洋風の考え方に基づくと、明治以降が天下統一になるとは、驚きです。 それに、いろいろなものがバラバラで良いという中世の人の思考も、私ではなかなか理解が及びません。 やっぱり時代が違うと、人の思考も違って理解するのが難しいです。 まあともかく、ご回答ありがとうございました。 >秤量(税制度)において京枡が統一的に使われた とのことで、天下統一の定義について、納得がいきました。

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