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善徳寺の三国同盟について

missshitsumon44の回答

回答No.9

 えーと、同盟なんてものはそもそも利害関係が一致しているから有効なのであって、逆を返せば利害関係が一致している間だけ機能するものです。  三国同盟に付いては互いに消耗を避けるためのものであり、それぞれに相手を凌駕するだけの実力があると確信した時点で消え去る運命のものだと思います。ですから、その同盟自体は決して失敗ではなく、「一定の成果こそあったけれどもはや存在意義がなくなって」消えたんだと思います。  よく、織田と徳川の関係をして長く続いた稀な同盟として取り上げる人がいますが、あれは同盟などではなく、徳川の織田への従属です。徳川が独立して直ぐに三河全土を領有したなんてとんだ勘違いで、当初は岡崎周辺を維持するだけの、それこそ今川の反乱勢力でしかありません。  同盟が長く続いたのは、単に徳川の目の前に勢力を広げ得るだけの原野がなかっただけの事。主が討たれたとはいえ未だ強大な今川があり、それが滅びた後に武田がある以上、徳川が生き残れるかどうかは織田と言う後ろ盾の有無次第ですから、破棄なんて出来る訳がないのです。  徳川・北条・伊達の三国同盟ですが、あれは徳川・北条の不戦同盟と北条・伊達の対佐竹共闘同盟がたまたま同時期に在ったという程度のものだと思います。家康は秀吉に対抗する為には、それこそ自国の総てを投入して戦うしかありませんでした。実際、徳川は局地戦でこそ勝利を得たものの、その国力は疲弊しつくし、領地のあちこちで多くの餓死者を出したと言います。そんな状況ですから、背後に北条なんて敵を置く余裕はありません。それだけです。第一、対秀吉の同盟として此の三国が結んだところで、矢面に立たされるのは徳川だけです。機能しません。  秀吉に下った後の家康はあっさりと掌を返し、北条を攻めています。此の時の徳川には三国同盟などもはや無用の長物になっていたのではないでしょうか。

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