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千と千尋の神隠しの最後について質問です

映画の最後辺りにハクが千尋に「決して振り向いちゃいけないよトンネルを出るまではね」と言うシーンがありますがどうしてハクは千尋にこのようなことを言ったのでしょうか? この言葉にはどのような意味が込められていると思いますか? そしてハクも元の世界に戻ると言っていますが、神様のハクはどのような形で元の世界=人間界?に戻るのでしょうか? 皆様はどのように思われますか?(^^;;

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  • maiko0318
  • ベストアンサー率21% (1483/6970)
回答No.1

参詣したあと、橋をわたるとき振り向いてはいけない。というのがあります。 ご利益がなくなるそうです。 そう、元の世界に戻れなくなる。でしょうかね。 ハクは川だったんでしょ?千尋が川を再建しないといけないかもね。

Kamp77Hika
質問者

お礼

そうなんですか!知りませんでした! そのような意味があったんですね(゜o゜;; 確かに、埋め立てられてしまいましたから千尋がどうにかするしかないんでしょうね…。 ご回答ありがとうございました(^^)

その他の回答 (2)

  • Nannette
  • ベストアンサー率26% (1499/5698)
回答No.3

 黄泉(よみ=冥途=あの世)だとか、呪詛や魔術などによって汚され、あるいは妖しく危険にされた場所から逃げ出す際に、振り向いてはならないと念を押される…、こうした記述や伝承は世界的に広く見られます。  ただ、正しい記述となるとこの場ですぐに書き加えるだけの正しい記憶と時間がありませんが、たとえばギリシャ神話だったかな、その中に書かれたオルフェオとユーリディスのエピソードなどもその典型的なひとつの例でしょう。  愛する美しい妻ユーリディスに先立たれたオルフェオ(オルフェ)は、諦めきれず、ユーリディスを連れ戻しに黄泉の国に下がると神々たちに伝えます。オルフェオの嘆きに心を動かされたゼウス神たち神々は彼の気持ちを憐れみ、彼が黄泉の国に行って妻を連れてくることを許すのです。  ただし愛の女神は彼に言います。妻ユーリディスを連れてこの世に戻る際に、何があってもけっして彼女を振り返って見てはならないと。オルフェオは難しい試練に挑みながら、黄泉の国へと向かい、愛する妻に再開します、しかし、あと少しというところで、ついオルフェオは…  このオルフェオの話に似た伝承はまだほかにもあります。キリスト教の旧約聖書の中にも、人間たちが慢心と退廃に満ちてしまい腐敗してしまったソドムとゴモラとう2つの都市を神々が破壊してしまうシーンがあります。ところがこんな街にも、敬虔に神を敬う正直者が家族とともに住んでいたのです。  その男の名前はロト、神はロトに伝えます。今すぐ家族とともに山に逃れよ、ただし、いかなることがあっても振り向いてははならぬ…と。彼は神の言いつけを守ってすぐさま家族を引き連れて山に向かいます。その時、閃光があたりを激しく照らします。馬は毛の色が変わり、多くの人々は焼け死に、生き残った者たちは身体に降りかかる白い灰を振り払いながら競って川に飛び込みます(原爆?)。  ではロトは、神の言いつけ通り、彼は振り向きませんでした。しかし、かれの妻は思わず振り返ってしまったのです、そしてそのまま塩の塊りになってしまったと…。  わが国にもこうした伝承にかなり近い神話があります。黄泉の国に落ちて行った愛する妻イザナミをこの世に連れ戻そうと黄泉の国に降りて行ったイザナギ、しかしイザナミは死後の腐敗した自分の姿を恥じて…。  「振り返る」という行為には現実に於いてもいくつものリスクが伴うものです。たとえば激しく燃える火災現場から逃れる際などには、逃げ遅れた誰かを気づかって振り返る、あるいは後戻りをする…ということは、その本人にとっても大変危険なことです。  つまり、これっきりのチャンスで脱出するに際して何かしらの未練を残すと、その後の結果が良くならない…と、誰もがなんとなく気づいたのではないでしょうか。  そうした感覚からでしょうか、世界各地で、お祈りをしたあと…とか、願いごとをしたあと…は聖域を出るまで振り向いてはならない…とか、口をきいてはならない…などといった習慣やタブーが見られます。  といったことから、「千と千尋の神隠し」の最後の辺りで、ハクが千尋に「決して振り向いちゃいけないよトンネルを出るまではね」と言うシーンも、やはり、現実の世界に戻ろうとする千尋に、あの不思議な世界としっかり縁が切れるように…といった願いを監督の宮崎駿さんが込めて描いたのではないかと思います。  ハクのその後については、ほかの回答者様のご回答がわたしにも参考になりました。  

Kamp77Hika
質問者

お礼

なるぼど! ありがとうございます!(^O^)

  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2725/5435)
回答No.2

ソドムが神によって滅ぼされるとき、後ろを振り向いたロトの妻は塩の柱に変わった。 後ろを振り向くというのは、そこに気を留めることを意味します。 もし千尋が神々の世界に気を留める様なことがあれば戻れなくなってしまうのです。 ハクは神です。ニギハヤミコハクヌシといいます。 コハク川は埋め立てられているといいますが、完全に埋め立てても支障が無いほど小さな川だという事が判ります。或いは都内の多くの川のように暗渠になっているだけかもしれません。 べつにコハク川にいたからコハクヌシではなく、コハクヌシがいたからコハク川なんです。 だから何処かの名も無い綺麗な川にコハクヌシが住めば、そこがコハク川になるのです。 千尋がこれから移り住む土地、或いは大人になって住む土地に名もない清流があるかもしれません。 そして千尋がその川を愛し、「コハク川」と名づければ、そこがハクの新しい住まいになるのかもしれません。

Kamp77Hika
質問者

お礼

そのような意味があのシーンではあったのですね! やはり深く考えてさせられる映画です…。 ありがとうございました!!

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